平和
昏い森の中、目の前の少女が薄暗い光で照らされている。
その口からは青紫色の血が垂れていて、こちらを虚な目で見ていた。それはまるで死んでいるかのように沈黙し続けている。
しかしある時、それがこちらに向かってゆったりと歩いて来た。その足が踏んだ枝の軋む音がやけに響いて、一歩一歩ミシミシと耳を圧迫する。その異様さに眼球は硬直し、ついには自身の胸の鼓動の音すら聞こえて来た。
そしてまるで金縛りにあったかのような僕の眼前に、その青紫色の血に塗れた口が迫ってくる。……そしてかすかにその口が動いた。その隙間からちらちらと鋭い歯が見えて、やがてこちらを喰らい始めた――
■2日目 8番車両 801号客室 自室
まぶたを思いきり開く。
この天井は……そうだ。ジョーゼットの……客室だ。
……心臓がバクバクといっている。
静けさの中、鳥のさえずる音がわずかに聞こえてくる。
さっきのはいつも見る悪夢だ。はぁっとため息を付いて安堵する。
ベッドの上で目線をぐるりと回し、枕元から部屋の様子をぼんやりと確認する。窓からは光が差し込んでいる。
布団から起き上がり、窓の外を眺める。
窓からは駅が見え、そこに人がたむろしている。
駅から先は雪景色が広がっていて、……よく見れば遠くに軍用車両や兵隊の編隊があった。それらはゆっくりとどこかへ進んでいる。
ありきたりな田舎の風景の中にある違和感に、どこか胸騒ぎがした。
もう一度駅の方へ目をやる。ジョーゼットは停車しているようだ。普段は閑散としていそうな駅に人がぽつぽつといる様子から、外にいる人達は乗客だろうか。
その中に……黒髪の緑色をした服を着ている女の子が見えた。
「……ユリ?」
ベッドにはユリの姿はなかった。
急いで外に出る。
■駅のホーム
周囲の雰囲気は特に緊迫感がある様子でもない。
見れば作業員達がせっせと色々なものを列車に積み込んでいる。乗客にとっては体のいい気分転換の時間なのだろう。
しかしそんなことよりも、ユリの行方が気になった。
周りの様子を見ながら歩いていると、ほのかに花の甘酸っぱい匂いが香りはじめた。それにつられて視線をやると、そこにはタバコを吸っている女が車両にもたれかかっていた。
彼女は緑色の服を着た女の子と何か喋っている。
「アン、それにユリ……。おはよう。」
「おっはよー、ルキくーん。気持ちいい朝だねぇー。」
アンも元気よく挨拶を返す。相変わらず腑抜けた声。そんな彼女に近づくと香水とタバコのにおいがまざり、あまりかぐわしい香りとはいえなくなった。
「おはようございます。お兄ちゃん。」
ユリもこちらに挨拶してくる。単独行動には特に悪びれる様子もないようだ。しかしそれを咎めても仕方がない。
「アン、昨日はお水ありがとう。ユリも元気になったみたいだね。」
「ユリちゃん、元気一杯よー。私を見つけたら小走りで駆け寄ってきたんだからー。実はお酒強いのかなー?」
「お水、アンがくれたんですね!ありがとうございます。もう大丈夫です!」
ユリは元気よくアンに感謝する。二日酔いは今日ずっと続くかと思ったが、随分と回復が早かったようだ。
アンはぷはぁーっとタバコの煙を吐き出す。
「うわ、ふかすなよ。……たく。アンってタバコ吸うんだな。意外だよ。」
「ああ、うん。最近吸い始めてみたのー。でもまっじいねぇ。むせるし。」
そう言ってケホケホと咳をする。
そのタバコはフィルターの部分が緑色をしていて、物珍しかった。
「ふぅん。香水の匂いが台無しだな。……言っちゃあ悪いけど、タバコ臭いぞ?」
「ええ、そうなのー!?……じゃあやめようかなー。この香水、貴重なモスリンのお花を使ってるのよー。とっても可愛らしい匂いがするんだからー。」
「モ、モスリンの花を使っているんですか!?どうりで懐かしい香りがするんですね。……私もつけてみて良いでしょうか?」
ユリが嬉しそうに言う。
「あは、いいよー。あとでラウンジにおいでー。いろいろな種類があるからユリちゃんに合う匂いを探そっかー!」
アンはニコッと笑う。この二人のやりとりは何だか微笑ましかった。ユリも彼女に懐いているようだ。
「あとユリちゃん。実はねー、このタバコもモスリンの葉っぱを使っているのよー。モスリンビークっていう名前なのー。」
「そうなんですか?モスリンビークって、あの自然いっぱい……だった森の名前ですよね。……それ、いただいても良いですか?」
「もーちろん。もういらないから全部あげるねー。一本一本噛みしめながら吸うのよー?」
そう言ってユリにタバコを箱ごと手渡す。ユリはそれを受け取り、嬉しそうにまじまじと見つめていた。
「おいアン!そんなもの子供にあげるなよ。」
ユリからタバコを取り上げる。ユリはすねた顔をするが、さすがに許容できなかった。アンは苦笑いしている。
――ふと後ろから人の気配がする。
「よう、おはよう。」
それは派手なスーツを着た男……。アレクだった。
「へぇ、ルキってタバコ吸うのか?意外だなぁ。……しかもそれモスリンビークじゃないか。随分とレアもんを吸ってるんだな。」
手に持ったタバコの箱を見てアレクが言った。
「いえ、これはアンがユリにあげたものですよ。さすがにまずいので取り上げた所です。……それはそうと、コレってレアもんなんですか?」
「ああ、モスリンってちょっと前まで人の往来ができなくなってたんだよ。物流もインフラも止まって、なかなか大変だったらしいぞ?……最近は開通したらしいけどな。」
「ふーん、アレクくんってしょーもない事に詳しいよねー。武器とか物流とかー。そんなもん興味なーい!」
アンの突然の癇癪にアレクは苦笑いを浮かべた。
「あ……あの人……。」
ユリが急に不安そうな声を漏らし、どこかを指差す。
その先には、ジョーゼットにおいても目立つくらい身なりの良い男がいた。彼は2人の取り巻きを連れて一緒にタバコを吸っている。鮮やかな金髪に、赤いタキシード。それに整った顔立ち。見るからに気品の高さを感じる。
取り巻きの方は地味な服だが体格が良く、明らかにその気品の高い男を護衛している者達に見えた。
「はぁー……すごい豪華な格好をした貴族だなぁ。アレじゃね、シフォンヌ家っていう貴族。」
アレクが興味深そうに言う。
「シフォンヌ家?聞いたことがありませんが、それは一体何者でしょうか?」
「赤獅子軍って知ってるか?それを率いて暗躍してる貴族だよ。シフォンの超大物らしいけど、表立ってその姿を見た人はいないんだ。」
「アレクくんそんな奴に興味あるのー?うさんくさーい。」
「いやだって興味湧かないか?影の大物だぞ?そりゃあ会ってみたいって!」
アレクは珍しく目を耀かせていた。アンは興味なさそうにそっぽを向く。
「でもさー、そんな影の大物とやらがあんな派手な格好してるのかなー?そういう人って身分を隠してたりするんじゃないのー?」
アンがそう言うとアレクも、それもそうかと、しぶしぶ納得した。
「それでユリ、あの貴族に何かあるのか?」
ユリに問いかけると、彼女は首をぶんぶんと横に振る。そして護衛の男の一人を指差した。
「昨日あの怖いおじさんにお兄ちゃんのお財布を取られちゃったんです……!」
そう言ってユリはこちらの手をぎゅっと握る。
「……なんだって。ユリ、間違いないのか?」
そう問いただすと、ユリは何度も頷く。
「なんだルキ、……もしかしてあんな身体のデカい護衛から財布を取り返しに行くつもりか?」
「当たり前ですよ。こんな小さい子から財布を盗むような卑怯者に逡巡してるようじゃ、男が廃ります。あの貴族と話をつけて護衛から財布を取り返してきます。」
「おおー、ルキくん怖いもの知らずぅー。んじゃ、行ってらっしゃーい。」
アンは陽気に手を振る。
「おいおい、ちょっとは心配してやれよ……。でもそうだな、俺も一緒に行くよ。ルキの心意気に惚れた。」
「ありがとうございます、アレクさん。……ユリはアンと一緒にいるんだよ?お兄ちゃんが財布取り返してくるから。」
そうユリに言うと、彼女はまた頷いてアンの元へと駆け寄る。
「じゃあユリちゃん、私達はラウンジへ行こー?香水いっぱい見せてあげるねー。お歌も一緒に歌いましょー!」
アンはユリにニコッと笑いかけ、列車の中へと踵を返した。
彼女達を見送った後、この場に残った自分とアレクの二人は、貴族たちのいる方へと歩き始める。
「……アレクさんは赤獅子軍とやらを知ってるんでしょうか?良かったら教えてくださいよ。」
歩きながらアレクに話しかける。
「え?ルキは意外とそういうのに興味あるんだな。……ほら見ろ、あそこにいる奴らだよ。遠くにいる奴ら。」
アレクの指差す方を見ると、先ほど自室から小さく見えた軍隊の姿があった。
「あいつらは特にシフォンの人間に拘らない多国籍な軍隊で、内実はシフォン本軍より力があるらしい。そんなやつらが今、続々とシフォンへ凱旋してるんだ。何年もかけた軍事作戦が数ヶ月前にようやく終わったらしい。」
「へぇ、あんなにぞろぞろと……。まるで火によってくる羽虫のようですね。節操がない。」
と言うと、アレクは苦笑いした。
貴族の男達の前に近づいてきた。
それを察したのか、護衛の男の一人がこちらにドシドシと近寄ってくる。その男はまさにユリが指差していた男だった。かなり大柄で、威圧感のある強面をしている。
「何だてめえら?それ以上近づくな。」
護衛の男は見た目通り威圧的な声を出して牽制してくる。
「昨日8番車両の通路で女の子から財布を盗っただろ?返してくれないか?」
「知らねぇな。そんなもの。」
そう言って男は緑色のタバコを吸う。さっきのモスリンビークと言う銘柄だ。
そして男は口からその煙をこちらの顔にふかしてきた。
それにむせてしまい、顔を伏せる。
「さっさとどっか行け!」
そのまま男はこちらの顔面を殴りつけてきた。その拳をまともに受けてしまい、ふらつく。
「お、おい何やってるんだ!やめろ!」
アレクは続け様に拳を振り下ろそうとする護衛の男を抑える。
こちらも男に掴みかかり、そしてそのまま三人で取っ組み合いになった。
男は激昂し、アレクが蹴飛ばされる。それにこちらも巻き込まれて一緒に倒れ込んだ。
アレクが上にのしかかった形になり、身動きが取れなくなっい。彼はまともに腹を蹴られたからか咳き込んでいた。
――誰かが駆け寄ってくる。
「お客様、おやめ下さい!」
昨日の訛り声をした東方の警備員だ。粗暴な護衛の男の大きい身体よりも更に、この警備員の体躯は大きい。
粗暴な護衛は彼の細い目に付いた鋭い傷を見てか たじろいだ。
「なにをやっている。」
また別の方から声がする。……そこに立っているのは、鮮やかな金髪に赤い派手な服。さっきの貴族の男だった。彼はもう一人の冷静そうな護衛を引き連れている。
周囲が静まり返る。
アレクは呼吸を回復させ、よろけながらもなんとか立ち上がった。こちらもおもむろに半身を起こす。
「護衛の者が先走ってしまったようだ。……彼は少し血の気が多すぎる。」
貴族の男はこちらに向き直り、手を差し伸べてくる。
「危険でございます。」
もう一人の冷静そうな護衛の男が貴族の前に出て制止する。
「いや、彼に非礼を詫びさせてくれ。」
貴族の男がそういうと、その男は渋々離れる。
そして再び彼は手を差し伸べてくる。そのままこちらの身体を引き起こしてくれた。
「ありがとうございます。こちらこそ非礼を謝罪させてください。」
「なぜこのような事が起きたか説明してれないか?」
貴族の男が訊ねてくる。
「はい。……こちらの護衛の方に僕の妹……が財布を盗まれたと言ってまして、それを返していただきたいんです。」
そう言うと、貴族の男は粗暴な護衛の男の方へ向き直り、彼をキッと睨みつける。その鋭い眼光が男を縛り付ける。
「おい、彼の言葉……まさか昨日の娘か?ヤーコフ。嘘をついたら許さぬぞ。」
「……はい。彼の言う通りです……。つい出来心で……。」
ヤーコフと呼ばれた護衛の男は恐る恐る告げる。
「愚か者。その財布とやらをさっさと彼に返却しろ。」
そう言うとヤーコフはポケットからあたふたと財布を取り出し、こちらに手渡してくれた。それは確かに自分のものだった。
「全く……不出来な護衛を持って恥ずかしい限りだ。彼は力こそ強いが……道理に暗い。すまない、こちらで強く言っておく。余はソル・ジョーゼットだ。この列車のオーナーをしている。もし良ければ君の名前を教えてくれないか?」
「僕はルキです。」
ソルという男に名乗ると彼は微笑む。彼がこの列車のオーナーという事は車内の状況に明るそうだ。
「……不躾なのですがこの列車に、シフォンヌというファミリーネームを持つ貴族の方がいらっしゃると聞きました。僕は是非ともその人物とお会いしたいと思っております。ソルさんは何かご存知でしょうか?」
彼にだけ聞こえるように、小さい声で告げる。
「シフォンヌ……?よくその名を知っているな。おおやけには聞いた事がなかった気がするが。」
彼もこちらに合わせて小声で話した。彼は顎に手を添えながら続ける。
「この列車にいるかどうかは知らない。しかし謎が多い一家だ……。確かその当主は、銀の髪をした女性だと聞いた事がある。……いやすまない、ただの噂だ。間に受けないでくれ。」
「――銀の髪の女性。……分かりました。ありがとうございます。」
胸がざわめいた。
「……それよりルキ、鼻血が出ているぞ。警備員の方に医務室へ連れていってもらうといい。」
彼は周りに聞こえるように声を大きくして、警備員の方へ誘導する。
ちょうどそのタイミングで、ジョーゼットという列車からけたたましい汽笛が鳴り響いた。
「列車が出発します。お急ぎください。」
警備員は小走りで列車内へと誘導した。
■2番車両
鉄道ジョーゼットは駅を出発した。汽笛を唸らせながら、シフォンへ向かってまた乗客を運び始める。その車両の一つに自分とアレク、そして警備員の男がいた。
「すみません、助かりました。」
「……ルキだったな。医務室はこっちだ。」
警備員の男がこちらを呼び、親指で、自身の後方にある扉を指す。
するとアレクはそれとは逆の方向を一瞥した。
「じゃあ俺は先にラウンジに行ってるよ。警備員さん、ありがとうございます。」
彼は警備員に会釈して、足早に4番車両の方へ向かった。
それを見送ったあと、警備員はゆっくりと歩き始める。
「……昨日は悪かったな。」
警備員の男は歩きながら話しかけてくる。昨日彼と会った場所はラウンジだ。
「僕がユリを追いかけていた時ですか。確かにあなたに捕まえられてしまいましたね。」
そう言って笑う。
「……そうだ。ややこしくしてしまったな。」
男はそう言って頭を掻く。
「いえそんな。あのあとちゃんとユリを見つけてくれたんですから。良かったらその時の様子を教えてくれませんか?」
「……あの娘は昨日、すぐ向こうの1番車両の中まで、慌てて逃げていった。今はオーナーのジョーゼットが、貸切にしている車両だ。……全く、血の気が引いた。護衛の男達が騒然として、その娘は財布を返してと叫んで……急いで連れ帰って来た。」
「あはは……。それは大変でしたね。」
彼と話をしていると医務室の前に着いた。
男が扉をノックすると、向こうからどうぞ。と声が聞こえて来る。その返事を聞いて彼はノブに手をかける。
「良かったら、あなたのお名前を聞いてもいいですか?」
こちらから警備員に訊ねる。
「……いや、断る。」
そう言って彼は頭を掻いた。
「それは……残念です。でもあなたは僕の名前をご存知じゃないですか。」
「ああ……うーん。」
彼は悩み始めた。東方風の顔立ちをしているから、変わった名前をしていそうだ。
すると向こうから扉が開かれた。開けたのは昨日の救命医、イエヴァだ。その小柄な身体が、警備員の大きい体躯と比較するとより強調されていた。
そのまま彼女は警備員の方を見る。
「あら、コジロウさん。どうされました?」
彼女は男の名前を呼ぶ。すると彼はガクッとうなだれた。
その様子に彼女は首をかしげる。
「怪我をした奴がいたから、連れてきた。コイツだ。」
コジロウと呼ばれた男がこちらを指差す。彼女はこちらを見るや否や複雑そうな表情を浮かべた。
「……昨日のあなたですか。どうぞ入ってください。」
そう言って女は部屋の中へ踵を返した。
「ありがとうございます。コジロウさん。」
コジロウと呼ばれた男に感謝の言葉を述べる。多少の皮肉をこめて。
「うるさい!」
コジロウは怒りながら去っていった。
■2番車両 医務室
イエヴァは椅子に座り、テーブルの上の資料を整理していた。その泣きぼくろが相変わらず憂さを感じさせる。
こちらが入ってきた気配を感じたのか、彼女は手の動きで席に座るよう誘導した。
「お名前と生年月日と、部屋番号を教えていただけますか?」
彼女はこちらを見ずに淡々と聞いてくる。
「ルキ、1885年11月16日、801号室です。」
そう言いながら着席する。
「ルキさんですね。生年月日は……昨日でちょうど26歳ですか。ファミリーネームはありますか?」
女は紙に何か書き込んでいる。
「ありません。」
そう答えると、彼女は足で床を蹴ってキャスターを転がしながらこちらへと向きなおった。
「今日はどうされたんですか?……ああ、そのお顔。」
鼻血の跡を見たのだろう。
「……ええと、ちょっと転んでしまいまして。」
そう言うと女は吹き出す。その様子に眉をひそめる。
「ふふ。さっき窓からケンカしているのを見ていましたよ。」
「はぁ……じゃあ聞かないでくださいよ。」
「あはは、ごめんなさい。……ちょっと滲みますよ。」
女はアルコールに浸したガーゼを取り出して、こちらの鼻や眉間あたりにあてがう。なんとなく昨日より態度が柔らかくなっているような気がした。
「……ところで、ルキさんはコジロウさんのお知り合いなのですか?」
女は雑談がてら聞いてくる。
「ああはい。彼とは知り合ったばかりですが。」
「あら珍しい。あの人は普段コミュニケーションを取りたがらないんですよ。」
「ああ……確かに名前は頑なに教えてくれませんでしたよ。東方の人間ってみんなあんな感じなんでしょうか。」
「まぁ、珍しい名前だからと知られたくはなさそうですね。私達には発音も難しいし。でも彼はあんな感じですけれど、信頼できる人ですよ。」
そう言うと彼女はこちらの顔をひと通り拭き終わったのか、ガーゼをすぐそこのトレーに捨てる。ガーゼが血で少し赤くなっていた。
「じゃあ今からお顔触りますね。痛かったら言ってください。」
今度は顔を指で触り始めた。むずがゆい。
「そうそう、もうケンカなんてしないでくださいよ?こんな事繰り返して欲しくありませんから。」
イエヴァがまた口火を切る。
「あの男に財布を盗まれたんです。でもケンカしたおかげで取り返すことができたんですよ。この鼻血は勲章です。」
「ううん……そうなのでしょうが、あまりやり返さないほうがいいですよ。ジョーゼットでこんな鼻血出すようなお客様なんていませんから。」
「鼻血なんて慣れっこです。」
そう言うとイエヴァは苦い顔をする。
「顔面打撲ですね。骨折も特にしていません。鼻の出血ももう止まっておりますので、ほっといたら治りますよ。一応、腫れを抑えるお薬出しておきますね。」
そう言って彼女は椅子から立ち上がり、薬の入った棚の物色を始めた。
その間手持ち無沙汰になり、ポケットに手をつっこむ。するとそこにはタバコの箱があった。……そういえばユリから没収していた。なんとなくそれを手に持ち、眺めてみる。
モスリンビークという名前。生まれ故郷の広大な森の名だ。のどかな場所もあり、その深奥に近づくにつれ鬱蒼な土地へと変化もする。赤獅子の軍隊が彼の地を焼き、今はただの焼け野原と成り果てた。そしてその赤獅子を率いるシフォンヌという貴族。その当主は銀の髪をした女だとさっき聞いたが……。
「ここは禁煙ですよ。」
イエヴァの言葉にハッとする。
「ああいえ……少し考え事をしていました。吸うつもりはないです。……苦手ですし。」
「身体に悪いだけですから。オススメしませんよ。」
医者なら誰でもそう言うだろうなと思いながら、タバコをしまった。
「ところで……銀の髪をした女性、カチューシャという方について何かご存知でしょうか?昨日僕の部屋でお会いしていたと思いますが。」
「はぁ。存じ上げてはおりますが、何でしょうか?」
「あの人、見た目が珍しいですよね。銀の髪に、薄赤い瞳。……どういった生まれの人なのかなと少し気になりました。」
「……それは本人に聞いてくださいますか?」
彼女は急に冷たい目をする。
「コジロウさんの事は少し教えてくれたじゃないですか。」
そう言うと彼女はため息をついた。
「はぁ……何やら胸騒ぎがしますね。」
「なぜですか?」
「あなたは正直言って不思議というか、奇妙です。……このジョーゼットで何かが起ころうとしているのでしょうか。それを今咎めるべきか悩んでおります。」
「一体なにを疑っているんですか――」
そう言いかけた時、部屋の外からドタバタと音が聞こえてくる。
――突如、医務室の扉が勢いよくバンッと開かれた。
二人とも驚いて身体をビクッと震わせる。
そしてすぐにその開かれた扉の方を見る。
「あの、ユリちゃんが!……ええと、女の子が!ラウンジで急に何かを吐いて倒れたんです!」
アレクが焦燥した顔で告げる。
■4番車両 ラウンジ
ラウンジ内は騒然としていた。
昼は客層が違い家族連れが多く、酒も出していないのかバーテンダーの姿もない。
アンが床に座り込み、膝の上にユリの頭を乗せて心配そうに様子を見ていた。
「あーん、ルキくーん!助けてー!」
アンは涙目で懇願する。ユリは口から青紫色の液体を吐き出していて、それが顔や服に、更にはアンの方にも飛び散っていた。
イエヴァはすぐさまユリに駆け寄り、その様子を伺う。
「また青紫色の液体を吐いていますね。ただ、昨日のとも違う……臭いは……まさか血液?」
イエヴァの言葉に周りがざわつく。
「おい……青紫色の血なんて聞いたことがないぞ。」
誰かが言う。
「いや……俺は聞いたことあるぞ。ブルーっていう病気だろ。」
場がどよめく。ピンと来ていない者もいれば、その言葉に動揺している者もいた。
「そ、それって……モスリンで蔓延した流行り病じゃないの!?モスリンは、その病気で滅んだのよ!」
「は、流行り病だって!?それって俺たちにも伝染するのか!?」
「あ……あ、あの血に触れたらまずいんじゃないかしら!?」
観衆のどよめきが、徐々に混乱へと変化し始めた。
「静かにして下さい!まだそうと決まった訳ではありません!」
その声を発したのは……銀の髪の乗務員、カチューシャだった。ラウンジの隅から一喝している。その一声で場が少しだけ静まり返った。
カチューシャがイエヴァに駆け寄り、彼女の隣にしゃがみ込む。
「……本当にブルーという流行り病なの?」
カチューシャはイエヴァに小声で話しかける。
「分からない……。血が青紫色になった状態でまだ息があるのは初めて見たわ。……正直言ってお手上げだけど、混乱を避けるためには違う事にした方がいいのかも。……とにかく、ここよりは医務室で様子を見た方がいいわ。」
イエヴァも小声でカチューシャに説明する。
「それで、ブルーってどうやって伝染するの?」
カチューシャは質問を重ねる。
「ごめんなさい……私には分からない。頑張って調べてはみるけど、少なくともこのラウンジでは何もできないわ……。」
「……分かった。」
カチューシャは立ち上がる。
「まだブルーと決まったわけではありません。一旦、彼女は医務室へ移送します。念のため医務室には近寄らないようにして下さい。」
カチューシャは落ち着いて聴衆へ呼びかける。
「なんだって……医務室って2番車両だろ……私の部屋は3番車両にあるんだが……。」
「私の部屋なんて2番車両よ!うちの子が感染したらどうするのよ!あの子、昨日列車内を走り回ってたみすぼらしい子でしょ!病気をばら撒いてるんじゃないの!?」
「とにかく、ここにいたら危険だろ!他の車両へ逃げよう!」
誰かがそう叫ぶと、また騒然とした。
ラウンジ内は恐怖で逃げ出す人もいれば、興味本位でユリの吐いた青紫色の血を遠巻きに覗き込む人もいた。子供がユリへ駆け寄ろうとして、それを必死に抑える親もいる。
その渦中、紺色の制服と帽子を纏った警備員の男が歩いてきた。
「コジロウさん。」
イエヴァが彼の方を見る。コジロウは黙ってユリを抱え上げた。
「医務室へ行くぞ、ついてこい。」
イエヴァはありがとう。と告げて、コジロウへついて行く。
「おい……あの東方の人間、感染して死ぬんじゃないか?」
また誰かの声がする。
「別にいいでしょ、東方の人間なんか。」
沸き立つ侮蔑の声を背にしながら、コジロウは黙ってラウンジを出ていった。
すると場はざわざわとしつつも、徐々に静まり返っていった。
「大丈夫か?アン?」
アレクが話しかける。彼女はユリの吐いた青紫色の血で顔も身体も汚れていた。
「えーん。身体洗って着替えてくるー!」
そう言って泣きべそをかきながらアンはラウンジを出て行く。
目の前にはアレクと、カチューシャが残った。
「カチューシャさん、少しお時間をもらってもいいですか?」
彼女には別件で聞きたいことがあった。シフォンヌの家名を持つ銀髪の女についてだ。それが彼女の事なのかどうかを確かめたかった。
「申し訳ありませんが、後にして下さい……今は床に飛び散った血を拭かないと……。」
しかしカチューシャもまた早々にラウンジを出て行ってしまった。
……その銀の三つ編み髪がただただ目に残る。
「……どうしたもんかねぇ。今ユリちゃんの様子を見に行っても邪魔なだけだよな。」
アレクはこちらに話しかけてくる。
「ううん、僕はあの人に用があったんですが……。」
「ふぅん、カチューシャって名前の人だっけ?……でも今は忙しいだろ。ルキ、昼飯でも食いながら話さねぇか?」
「そうですね……分かりました。」
■13番車両 レストラン
レストランは昼時だと言うのに閑散としていた。明らかにラウンジでの騒動のせいだ。しかし従業員にとってはあまり関係ないのか、料理の良い香りが車内全体を包んでいる。
豪華な事に厨房も備え付けられており、料理人がちゃんと調理した食品を提供しているようだ。
適当な席に腰をかける。
「とりあえず奢るよ。」
アレクはメニューを広げる。
「ありがとうございます。……何がオススメですかね?」
メニューを見てもお洒落な名前ばかりが列記されていて、貧しい頭では何の料理か分からない。
「ステーキにするよ。」
アレクは店員を呼びジョーゼットステーキという料理を二人分注文した。
店員を見送った後、アレクは重いため息をつく。
「はぁ……ブルーって病、実在したのか。てっきり噂程度のものだと思っていたよ。」
「まだ決まったわけじゃありませんよ。僕はそんな病信じてません。」
過去のモスリンで暮らした記憶をいくら辿っても、ブルーなどと言う流行病は聞いたことがなかった。だからユリの症状は違う病気だと思っている。……しかし青紫色の血というものはあまりにも奇特だった。
ふと、車両の上部から声が聞こえてきた。
『――皆さま、私は『モスリンビーク』のサーシャ・シフォンヌです。』
天井から吊り下げられていたテレビからその声がしているようだ。……そのシフォンヌという家名を聞いて耳を疑った。
「……おいルキ、あの女性……。」
こちらもテレビを注視する。
その白黒のテレビには、見覚えのある女性が映っていた。明らかに白い肌。そして薄色をした瞳……。おそらく銀色をした腰までかかる長い髪。……カチューシャという女性によく似たその顔立ち。その胸には徽章が点々と付いており、その中には……赤獅子の紋章も含まれていた。そのサーシャ・シフォンヌと名乗る女は続ける。
『皆様は『モスリンビーク』という組織をご存知でしょうか?私達は長年、ブルーと呼ばれた忌まわしき死の病と戦ってきました。モスリンへ軍隊や医者を派遣し、物資の供給、および病の研究・治療を行ってきたのです。そしてついにその病の治療法が確立され、ブルーによる惨禍は終息しました。モスリンは危機を乗り越えることが出来たのです。
冬の時代は終わりました。これからのモスリンは希望に満ちております。モスリンビークとは、自然が生い茂る のどかなモスリンを意味します。そしてその名を冠する広大な森は、この組織の徽章とする程に優美で象徴的です。これから私たちは復興に向けて活動していきます。モスリンの方々を少しずつ受け入れる体制が出来上がってきているのです。まずは帰郷を望む方々、ご家族と再会したいと希う方々をお迎えします。駅などで緑の制服に徽章を付けたスタッフがいます。彼らへご相談いただければ帰郷のお手伝いをさせていただきます。』
近くで、他の乗客の会話が聞こえてくる。
「なにがモスリンは危機を乗り越えた。だ……。この列車にまさにブルーの感染者がいるらしいじゃないか。」
「……この前『モスリンビーク』に預けた女の子を覚えてる?」
「急に何の話だ?」
「小間使いに二週間休暇をあげたじゃない。ブルーが終息したから、モスリンへ帰郷させるために彼女をそこに預けたのよ。……まだ帰ってこなくて心配なんだけど。」
「馬鹿か、そんな小間使い今のうちにクビにしろ。病気を持ち帰ってこられたらたまったもんじゃない。」
貴族なのであろうその夫婦の会話を聞いていると、従業員達があたふたとレストランの中を横断し始めた。おそらくさっきの騒動に起因するものなのだろう。その中には銀髪の女……カチューシャも混じっていた。
乗客達はそれに気付くと、彼女に奇異の目を向ける。
「おいあの銀髪の従業員、今テレビに映ってる女そっくりじゃないか……『モスリンビーク』のリーダーらしいぞ。」
誰かの言葉が聞こえたのか、カチューシャは立ち止まり、ふとテレビの方を見上げる。すると彼女は口をあんぐりと開け、ただでさえ白い肌を蒼白とさせる。そしてガタガタと震え始めた。
「サーシャ・シフォンヌ!お前がモスリンを救っただって!?ブルーはまだ終息してないじゃないか!この列車の事は無かったことにしたいのか!」
またガヤガヤとし始めるレストランの中、彼女は憔悴した顔で慌てふためき、逃げるようにその場を走り去った。
サーシャ・シフォンヌという女は、テレビの中で赤獅子の紋章を胸につけていた。モスリンの救済を謳うあの女は、モスリンを焼き払った諸悪の根源だというのか。そしてこの列車の客室乗務員になりすまして一体何をしようとしている。
「……なんだか訳がわからん事になってるな。……おいルキ、どうした?なんか怖い顔をしてるけど。」
アレクの言葉が耳に入らなくなっていた。
そんな折、どこからか花の甘い匂いが漂ってくる。
「ルキくんにアレクくーん!こんなところにいたのー!?」
アンだった。場にそぐわず能天気な声を出して席に座る。
ちょうどそのタイミングでジョーゼットステーキが二つ運ばれてきた。
「アンは何か食うか?」
アレクの提案にアンは首を横に振る。
「いやー、お腹空いてなーい。」
「そっか、ステーキ一口いるか?こんな時こそ食わないと。」
「いらなーい。お肉好きじゃないしー。……ねぇ、それよりさぁー、ユリちゃんは大丈夫かなぁ?ルキくんは見てなかったけどさぁー、さっきユリちゃんと一緒にお歌を歌ってたら、あの子、急に体調が悪くなってきたのー。」
アンの言葉にアレクも続ける。
「俺もアンとユリちゃんのその様子を見てたよ。そしたら急にあの血を吐いて、それがアンの身体にかかったんだよ……。」
「あああ……私ー、ブルーに感染して死んじゃうのかなぁー。ユリちゃんも心配だけどー、それより自分が心配だよー。」
アンは泣きべそをかき始めた。
「そう言えばアンって瞳が青色をしてるよな。普通明るくても褐色くらいだぜ。」
アレクがアンの目をじっと見る。
「ちょっとお!そう言うのやめてー!生まれつきよぉ!……そう言えばユリちゃん昨日ラウンジで、ルキくんの持ってた青紫色のお酒飲んじゃったよねー。実はあれが原因なんじゃないのー!?」
「いや……さすがにそれはないだろ。ルキも昨日、マスターからもらったモスリンブルーを飲んでたよな?」
アレクがこちらを見る。
「いや、僕は飲んでません。ユリがモスリンブルーを一気飲みしてしまいました。」
「ええ、あのお酒モスリンブルーっていうのー!?名前おかしすぎでしょー!怪しいなぁあのマスター。」
「いや、そんなわけないだろ……。」
アレクが苦笑いしながら顎をポリポリと掻く。
「何でアレクくんはあのマスターの味方をするのよー!怪しいでしょーが。」
アンがそう言うとアレクは急に歯切れが悪くなった。
「まぁいいやー。そう言えばさー、ルキくんは結局あの怖そうなおっさんからお財布取り返せたのー?」
アンの言葉で財布のことを思い出す。ポケットからスッと財布を出して、中に入っている乗車券を確認した。
「ああ、乗車券が中に入ってたのか。そりゃ無くなったら困るよな。」
アレクがそう言うと、アンがこちらの乗車券を覗き込む。そして何か物珍しかったのか乗車券をこちらから取り上げてまじまじと見始めた。
「ねぇルキくんの乗車券、変な印がついてるよー!なにこれー?私のにはついてなかったけどなー。」
そう言ってアンはアレクに乗車券を見せる。するとアレクは目の色を変えた。
「こ、これは……赤獅子の紋章じゃないか。」
「ふーん、それがあると何かアタリだったりするのー?赤獅子だか青虫だか知らないけどさー。」
アンはまた興味なさそうにそっぽを向く。するとその隙を見てかアレクはこちらへ耳打ちしてきた。
「――今夜、702の俺の部屋に来てくれないか?……この紋章の事で大事な話がある。」
そう言ってアレクは自身の乗車券を取り出しこっそりと見せてくる。……彼の物にもその紋章が刻まれていた。この赤獅子の紋章が入った乗車券。この紋章は後から刻まれたものであり、アンの言う通り普通の乗車券にはない。つまり彼は……こちらと関与する人間の可能性があった。彼の言葉にゆっくりと頷く。
「なぁにー、二人ともひそひそと。やな感じー。」
アンは怪訝そうな目でこちらを見てきた。
その後は取り止めのない話を続け、ステーキを完食した。アレクは会計を済ませ、全員席を立つ。
「僕はユリの様子を見に医務室へ行ってみようと思うんですが、どうします?」
「あー、私も行くー!」
アンは元気よく賛成した。アレクもその元気さに苦笑いしながら同調する。
◾️7番車両 通路
車両扉付近の少し広いスペースに、ただ一人銀髪の女が壁にもたれかかっていた。まるでその髪を隠すかのように帽子を深々を被り、ただうつむいて震えている。
しかし彼女、カチューシャはこちらに気付くとゆっくりと歩いてきた。
「アレク様、少々お話ししたいことがございますので、空いているお時間を教えていただいてもよろしいでしょうか?」
彼女は早口で、その顔はなおも憔悴していた。
「えっ……ああ。別に今からでもいいけど。……ごめんルキ、後でユリちゃんの容体聞かせてくれよ。」
そう言ってアレクとカチューシャの二人は702号室へと入っていった。
◾️2番車両 通路
「アレクくんとあの乗務員さん、知り合いだったんだー。まさか恋人同士だったりしてぇー?」
アンはウキウキしだした。頭のネジが確実に何本か飛んでいる。
医務室の前に着き、扉をノックする。どうぞ。と聞こえてからその扉を開けた。
◾️2番車両 医務室
中ではイエヴァが、ベッドに寝かされているユリの様子を見ていた。
ユリは点滴を受けながらも意識があり、二人は何か喋っているようだった。
「ユリの様子を見にきたんですけど……思ったより元気そうですね。」
イエヴァに話しかける。
「……不思議なものです。急に元気になったかと思えばまた青紫色の血を吐いて意識を失う。……それを繰り返しています。今は元気ですが、熱の高さも脈拍の速度も異常です。常人では死ぬような状態なのに。……とてもじゃないですが安心は出来ません。」
イエヴァはユリに聞こえないように小さな声で言う。
「えええ……私、この子の血を浴びちゃったんですけどぉー。大丈夫ですかねぇー?感染とか……。」
アンは恐る恐るイエヴァに訊ねる。
「私はそのブルーという病が人づてに感染するケースを見たことがありません。感染するというのは噂の類だと思っておりますが……。」
「感染しない?本当なら良いんですけどー。」
アンはホッとしている。
「……少しユリと話をしても良いでしょうか?」
イエヴァに話しかける。
「ああ、確かルキさんの妹でしたっけ?この子から聞きましたが。……まぁ今は会話できそうなので、一応大丈夫です。また容体が悪化したら呼んでください。」
そう言ってイエヴァは医務室を出ていった。
「私お邪魔かなー?」
アンはこちらに気を遣ってくる。
「ああごめん。二人で話させてくれると嬉しいかな。」
「分かったー。んじゃ、またねー。」
そう言ってアンは医務室を出ていった。
「ユリ。」
椅子に腰掛けて語りかける。その小さな腕に点滴が繋がれた様子が、哀れだった。
彼女の髪をそっと撫でる。……やけどしそうなくらい高温に発熱していて、よく見ればその顔が汗まみれだった。
「心配かけてごめんなさい……。またあの悪夢を見てしまいました。教会の地下で怪物に襲われて――」
「ユリ、シフォンへ帰りたいんだろ?気を強く持たなきゃ駄目だよ。」
「……私、もう長くないような気がしています。この青紫色の血が侵食して、私を無理やり元気にしているような感覚があるんです。胸の音がとても大きく、速く聞こえてくるんです。すごく熱があるのに、身体は元気なのっておかしくないですか?」
「……わからないけど。長くないとか、そんな事言うなよ。」
「見てください、さっきアンから香水を貰ったんです。とっても良い匂いがするんですよ。焼ける前のモスリンの花の素敵な匂い。それに一緒にお歌を歌ったんです。……楽しかった。昨日警備員の方に列車内で追いかけられた時は怖かったんですが、最後は優しく諭してくれました。正直に言えばきっとあなたは許してくれるはずだと。昨日お兄ちゃんと会えて良かったです。悲しいことばかりでしたが、ラウンジで過ごした時間はとても楽しかったです。最後は悪夢を見た私に優しく寄り添って一緒に寝てくれて……ジョーゼットであなたと過ごした短い時間は全て、良い思い出でした……。」
「ユリ、そんなこと言うのはやめてくれよ……。」
しかしこちらの懇願に反して、ユリは咳をし始めた。
「ゴホッゴホッ……ゴボッ……ゴボボ……。」
そして……青紫の血を吐き出した。
「ユ、ユリ!まずい……。」
急いで部屋を出る。
◾️2番車両 通路
すぐそこにイエヴァが立っていた。タバコを吸っている。
その隣には警備員のコジロウもいた。
「あの、ユリがまた体調を崩しました!」
「はぁ……分かりました。」
イエヴァは吸いかけのタバコをコジロウに手渡して、医務室へ入っていった。
目の前にはタバコをもたされたコジロウが残った。
「大丈夫か?」
コジロウはスッとそのタバコを吸い始める。しかしすぐにむせかえった。
「……そっちこそ大丈夫ですか。」
「すまん。……相変わらずキツいタバコだな。」
そう言って頭を掻く。
「はぁ、意外ですね。……こっちは気が気でないのに、医者ってのは悠長なもんですね。」
「仕事柄、たくさん死体を見てきたからな。……いや失敬。あの子はユリといったか?」
彼の言葉に頷く。
「そうか。良い名だな。純真無垢な……花の名だ。」
コジロウはほくそ笑む。
「はぁ?」
ユリという花は知らない。
「ああ、すまん。こちらの言葉では、リリーと呼ぶか。」
東方の国ではリリーの花をユリと呼ぶということだろうか。しかしそんな言葉遊びに浸る気分にはなれない。
「ん?」
コジロウはふと一番車両側の扉を見る。
するとそこから大柄な男が出てきた。ヤーコフだ。今朝出会ったソル・ジョーゼットという貴族の護衛。その男は何かブツブツ言いながら歩いている。
ヤーコフはこちらを一瞥すると、舌打ちをした。今朝の出来事でこちらに腹が立っているのだろう。
そして医務室の前に立ち、ノックもせずに入っていった。
あんな男が医務室になんの用だろうか。中の様子が気になる。
同じように気になったのか、コジロウが医務室の壁にもたれかかり、聞き耳を立て始めた。
それを見てこちらも同様に聞き耳を立ててみる。
すると、うっすらと医務室の中の会話が聞こえ始めた。
――
「風の噂でな、青紫色の血を吐いた女の子がいるって聞いたんだよ。」
「さようですか。ここにはいませんよ。」
「いない?その娘じゃないのか?」
「……はぁ、彼女に何の用ですか?」
「ああ……これは酷い。ジョーゼットさんはこの事を心配されているんだ。」
「余計な事をしないでください。こちらで様子を見れます。」
「こんな環境じゃあお手上げだろう……。こっちには治療する薬もある。俺はな……『モスリンビーク』って組織の一員なんだ。モスリンでも100人以上の患者を治療してきた。安心して預けてくれないか?」
「治療……?無辜の人々を火炎放射器で燃やしただけでしょう。」
「……なんだ?……お前一体なにもんだ?」
「ちょっと!ここは禁煙ですよ!」
「人のタバコに触るんじゃねぇ!」
「きゃあっ!」
「……とにかく、この狼は連れて行く。」
「っ!ただの人間を、狼呼ばわりしないでください!」
「ただの人間?この口から流してる血の色はなんだ?……いずれ罪深き狼と化すぞ?」
「……まだ分かりませんから。違う病かもしれない。こんな状態で生きてるのは見たことがありません。」
「とにかく、怪我する前にそこをどいた方がいいぞ。場合によっちゃ力づくで連れていく。それとも痛い目にあいてえのか?」
「この子を焼く気でしょう。そんなことはさせません。」
「はっ。ならまずてめぇを焼いてやろうか!?……そうだな、まずはその可愛らしい泣きぼくろをもっと目立つようにしてやる!」
「えっちょっと!……まって!やめて!あぁあああ!」
部屋からガタガタと物音がなり始める。とっさにコジロウは扉を強めにノックした。すると部屋の中でしていた物音がピタリと止む。
「入りますよ。」
そう言ってコジロウは扉を開ける。
「ああ、警備員さん。今丁度出るところだったんだ、へへへ……。」
男はそう言って部屋を飛び出し、1号車両へ帰っていく。彼が手に持ったタバコの煙が、尾を引いて漂っていた。
■2番車両 医務室
中は少しだけ散らかっていた。タバコの残り香がする。
女は手に持ったタオルを目の下に添えている。
ちょうど、泣きぼくろの位置だった。
「大丈夫か、イエヴァ?」
コジロウが心配する。イエヴァはこちらを一瞥したあと、彼の方を見る。
「ええ、……大丈夫です。すこし火傷しただけ。」
その目には涙を溜めている。
「あいつのことは、見張っておく。」
コジロウはそう言って女の小さい肩に右手を添える。
彼女はその右手を持って、そっと手を離した。
「すみませんが、そうして頂けると助かります。もう大丈夫ですから……部屋を片付けるので皆さん出ていってもらえますか?」
■2番車両 通路
なんとなく1番車両の方へ目をやる。
護衛の男、ヤーコフはあそこへ帰っていった。あの男は『モスリンビーク』の一員だと言っていた。ブルーからの救済を謳っているくせに、ユリを燃やそうとしていたようだが……。
「1番車両は、立ち入り禁止だぞ。」
コジロウが釘を刺してくる。
「なぜです?」
「あそこは貸切車両だ。専属の乗務員と、要人以外の往来は禁じられている。……拙者もダメだ。昨日はユリが迷い込んだがな……。」
彼は頭を掻く。
「へぇ。……ちなみに専属の乗務員って誰ですか?」
「デミトリとかいう、夜はバーテンダーをやってる男だ。」
バーテンダー……昨日モスリンブルーをくれた中年の男だろうか。
「まぁあの男も、なかなか信用できないな。……とにかく拙者は、医務室を見張るしかない。」
そう言ってコジロウはあくびをする。
「ところでイエヴァさんとは長いんですか?あなたの事を信頼できる人とおっしゃっていましたよ。」
「そ、そうか。……まぁ、数年前に知り合ったな。いや……とにかく、ずっとここにいると迷惑だから帰れ。ユリの事も、彼女に任せておけ。」
「……分かりました。」
一旦自室へ戻ることにした。
■4番車両 ラウンジ
夕暮れの中、ラウンジから美しい歌声が聞こえてくる。
あの編み込んだ髪に肩から肌を見せた服。……アンだ。
誰も人が近寄らないラウンジの中で、ただ一人その物憂げな歌声を響かせていた。
彼女は昨日、歌は空間を一心に支配すると言っていた。
なにかの讃美歌のように聴こえるその歌は、高く儚げな音色を奏で、こちらの鼓膜を激しく震わせた。
その歌はどこか神々しさをまとい、そこへ近寄ることすら畏れ多いと感じるほどに、ただこの空間を支配していた。
その場を去る。
――
やがて死の吐息が、この列車の影からぼんやりと姿を見せる事になった。




