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オールグリーン   作者: S&M
4/4

著者M


☆樏ハル



—————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————————ピ———————————————————————————————————————————————————————————————————————————ピ———————————————————————————————————————————————————————————————————————————ピ—————————————————————————————————————ピ————————————————ピ———————ピ——————ピ———ピ——

 なんの音だろう。

 目覚まし時計かと思った。すぐに違うと思い直した。

 意識がはっきりしていくにつれて耳が調子を取り戻していく。

 音のリズムは、一定だ。

 次第にリズムが早くなったように聞こえたのは、本調子でない私の耳がいくつかの音をすっ飛ばしていたからで、耳の調子を完全に取り戻した今はすべての音を拾うことができている。

 不快ではない。

 むしろ心地よさを感じるほどだ。

 なんだっけ。記憶の片隅に引っかかる、妙に収まりの悪い気分だった。だけどよくよく考えてみれば、音の発生源を、目を開けて確認すればよいだけではないか。目を開けよう。まぶたが妙に重い。ゆっくりと、飛び込んでくる朱い光に備えるようにゆっくりと、私は目を開ける。

 天井があった。

 当たり前のことだが、眠りから覚めて見覚えのない天井があればそれは当たり前のことではない。

 どこだ、という疑問よりも先に音の発生源の方が気になった。

 音のする方へ首を傾けようとする。首が思うように動かない。まずは上半身を起こそう。そう思ったけど、体はやっぱり上手く動かない。

 違和感。

 目を下に動かして、自分の腕を確認した。

 管が繋がれている。動きを阻害しているのはこいつのせいかと思ったけど、腕だけじゃなくて体全体が上手く動かないのだから動けないのは管のせいだけではないのだろう。

 着ている服もわからない。

 こんな薄緑色の服は持っていなかったように思う。

 意識は完全に覚醒していない。

 だけどわかったことがある。

 聞こえる音のリズムは、私の心臓の鼓動に重なっている。

 そうだ。

 ドラマとかで聞いたことがあったんだ。

 重病患者が、ベッドに横たわり、その横に心電図モニターが設置されて一本線が波打つ度に「ピ」という音が鳴る。

 音の正体がわかった。

 それと同時に場所の正体もわかった。

 ここは病院だ。

 だけど自分のいる場所がわかったところで、自分がどうしてここにいるのかがわからない。

 知らないことは怖い。

 私は、少しでも多くの情報を得るために頑張って上半身を起こそうとした。腕に精いっぱい力を込めて、体をくの字に近づけるように腹筋を動かし、全身に力を込めるようにぎりぎりと歯を食いしばった。

 上半身が上がってくるにつれ、腕の管に繋がれている点滴スタンドが引っ張られ、やがて倒れた。点滴スタンドの倒れる音に体が反応し、体は力を失い、後頭部が勢いよく枕に収まった。

 わけがわからない。

 どうして体がこんなにも動かない。

 足音がした。

 誰かが病室に入ってきた。

 さっきよりも動くようになった首を傾けて、病室に入ってきた者の姿を見る。

 誰だろう。少なくともナースではない。だってデニムのショートパンツに、ブランド名のデザインされた白シャツを着ているナースなんて見たことない。

 ならば一般の人か。だけど一般の人が私の病室になんの用だ。知らない人のはずだ。顔に見覚えがない。

 でも、

 いや、

 なんで、

 彼女を見て、私の胸はこんなにも苦しくなるんだ。

「私のこと、憶えてます?」

 私は答えない。

 答えられない。

「そうですか。憶えてないですか。事故のショックで記憶に混乱があるかもってお医者さんが言ってましたよ。ショックっていうのは、体と、そして心の話です。痛いかもしれないし、辛いかもしれない。だけどね、あなたにはちゃんと思い出してもらわないと困るんです。今は忘れてるかもしれないけど、順番はバラバラかもしれないけど、それでも全部を思い出して欲しいんです」

 なんだ。

 なんのことだ。

「少しずつでもいいんです。まずは、私のことを思い出して見てください。私はあなたと会ったことがあるんです。ほら、今みたいな夕暮れのことですよ。この部屋を満たしている真っ赤な光が、私たちを包み込んでいたあの時を、ゆっくりと、だけど着実に、あなたのペースで思い出してください」

 夕暮れ。

 真っ赤な光。


 アスファルトに滴る緑色。

 

 なんだこれ。


「ちゃんと思い出してください」


「記憶のないあなたでは駄目なんです」


「それでは意味がなくなる」


「だって」


「私はあなたの、復讐者なんですから」





 記憶の断片3



 夕陽に満ちた世界で、私は走っていた。

 肺が張り裂けそうだった。だけど足を止めることはできなかった。

 なんでだっけ。

 とにかく恐ろしいものが背後にある気がしてならない。少しでも足を動かしておかないと、背中にくっついた何かから逃げられないと本気で信じていた。振り向いたらすぐそこにいる。そうに決まっている。疲労が溜まっていく。呼吸は過呼吸に近い。なにもかもが嫌になる。

 額の汗が止まらない。

 視界がぼやけて前が見えない。

 自分がどこを走っているのかもわからない状態で、それを認識する頭すらなくて、ただ恐怖から足を遠ざけている。

 物理的な衝撃を覚えた。

 何かと正面衝突した。

 たぶん人だ。

 しかし、謝るという選択肢も頭に浮かばない。まず振り返った。反射的な行動は恐怖を伴わず、正気を失いかけていた頭にわずかな安堵が滑り込んだ。自らの呼吸を意識した。苦しいことを自覚した。その場でうずくまるような姿勢になって、肺の痛みを軽減しようと胸を無理やり押さえつけた。激しい呼吸を繰り返す。

「だ、大丈夫ですか?」

 女性と呼ぶには幼く感じる声が聞こえた。

 声の位置から、彼女が私の顔を覗き込もうとしているのがわかった。私はわずかに顔を上げ、彼女の顔を見た。

 彼女の心配そうな顔がある。彼女の顔が遠のいていくように感じた。それは、自分の意識が手放されていく際の錯覚のようなものだった。



 目を覚ます。

 後頭部に柔らかい感触がある。さっきの彼女の顔が見下ろされる角度で見える。

「あ、よかったあ。救急車呼んだんですけどいらなかったかも。いや、いるかな。倒れちゃったんだもんね」

 空間はまだ朱に染まっている。意識を失ってから、そう時間は経っていないはずだ。

 私がまず行ったのは周囲の確認だった。風で揺れているブランコ、バケツが置きっぱなしの砂場、タコの形をしたすべり台、あらゆる木の陰、なにを探しているのかもよくわかっていなかったがそれでも目を配らずにはいられなかった。

「なにか急ぎの用事ですか? でもね、急がば回れって言葉があるんですよ。焦って、走って、それで気を失ってたら時間が余計にかかっちゃいますもん。今まで急いでるなら回り道なんて馬鹿らしいって思ってたけど、やっとこの言葉を理解できた気がします。あなたのおかげですね」

 眩暈を起こしながらも、私は後頭部を彼女の太ももから離そうとする。彼女がもうちょっとゆっくりしたほうがいいですよと言って弱い力で額を押さえつけてくる。今の私はそんな弱い力にも逆らえない。後頭部に、柔らかい感触が戻ってくる。

「ねえ、変なこと聞いてもいいですか」

 駄目だ。

 このままでは追いつかれてしまう。

「あなた、ハルさんじゃないですか?」

「え?」

 私の表情は、答えなくても彼女の言葉に正解と言ったようなものだった。

「なんでって顔をしましたね。ふっふっふ、教えて進ぜよう。私は神様なのじゃよ。何でもかんでもお見通し、知らぬことなどないのじゃあ。だからあなたの名前も知ってるぞい…………なあんてね」

 いたずらっぽい笑顔。

 私はこの笑顔を知っている。

「もしかして、」

 私の言葉が届く前に彼女は異変を察した。公園の入り口に、一つの影がのっそりと動いていた。その正体は夕陽に照らされてすぐに判別できない。

 嫌な予感がする。

 変な汗が出る。

 目を凝らす。私がその正体を知るよりも早く、彼女はその正体を理解し、目を見開く。影を見、私を見、

「ご、ごめんなさい」

 彼女は私の頭をそっとベンチの座面に下ろし、影の元に歩み寄った。

 彼女の歩み寄った影の正体は、柊だった。

 柊は手で下腹部を押さえている。血が指の隙間から溢れている。アスファルトの地面に緑色が広がっていく。

「和花姉さん大丈夫⁉」

 やっぱり彼女は柊の妹だった。顔は柊に比べて幼さを感じるし、柊の言っていたように姉妹なのにあまり似ていない。

「これ刺し傷? なんでこんなこと、血がいっぱい出て、わけわかんない。ねえ、誰にやられたのさ。ねえ、ねえね」

 柊は立つこともできない有様で、腹を抱えたまま顔を上げるだけでも精いっぱいの様子だった。ここにたどり着くまでに、相当死力を尽くしたのだろう。柊は腕を振るわせながら徐々に上げ、人差し指を突き出した。

 震える人差し指。

 それが向いた先には、私がいた。



☆樏ハル



 そうだ。病室にいる彼女は柊の妹だ。名前は確か、

「燐花、ちゃん?」

「私のこと思い出してくれたみたいですね」

 彼女は自らを復讐者だと言った。——私が柊を刺したから?

 そんなわけがないと思う。だけど記憶がそれを否定する。それでも柊に傷を負わせたことが信じられない。

 だって私は、柊と向き合うって決めたんだ。

 すべてを晒して、ありのままの彼女に、裸の心に触れようと柊の前に立った。記憶に映っている公園で、柊の前で私は自分の秘密を打ち明けた。彼女の驚くような反応も、自らの価値観をぶつけた問答も、ちゃんと憶えている。

 しかしどうだろう。その後はどうなった。私の頭の中にはその先が詰まっていない。少なくともすぐに取り出せるような浅い場所にはないようだ。だからもっと深く、自分の頭の中を探ってみるしかないみたいだ。





 記憶の断片1



 私の決意の行動は、彼女の目には一体どのように映っているのだろう。ただでさえ自傷行為なんて、普通の人間からしてみれば考えられない行動に違いない。

 だけど私は隠さない。どんなに突飛な行動だって、どんなに人と違うことがあったって、いずれ柊に理解してもらうんだ。理解してもらう過程で私も柊を理解していけたらと思う。いや、願っている。

 柊と、ちゃんと友達になりたい。

「私に柊を教えて」

 柊が、地面にしみ込んだ赤い血から目を離してこちらを見た。いつものお気楽な笑顔はない。睨んでいるにも等しい目つきだった。

 不機嫌を隠そうともしないその姿に、今までの柊が嘘で塗り固めたものに思えた。

 柊が不機嫌な表情のまま、こっちに近づいてくる。

 殴られるんじゃないかと思った。

 わずかに警戒しながらも、殴られるなら殴られるで、ちゃんと受け入れようと思った。柊のあらゆる行動を受け止めたい。そうしないと、柊の心が離れて行ってしまうようで怖かった。

 柊がさらに近づいてくる。ポケットに手を入れてなにかを探っている。

 メリケンサックでも持ってたらどうしようと思ったけど、彼女がスカートのポケットから取り出したのはハンカチだった。

 柊が腕を上げた。

 私の体が思わずぴくりと身構えた。

「別に殴りやしないって。ほら、手。出しなよ」

 私は柊に言われるがまま左手を差し出した。

「そっちじゃなくて、怪我してる方の手」

 右手を差し出したら、怪我のしている部分に柊がハンカチを巻いてくれた。花坂さんの行動が頭に甦る。

「馬鹿だね。手は大した怪我じゃなくても血がいっぱい出てくるんだよ」

「……それを知ってたから、私の机にカッターナイフを仕込んだの?」

「そうだよ」

 隠すことなく、柊は言った。

「ハルが、何かを見られたくないのはわかってた。ってかわかりやす過ぎ。秘密の正体が体のどこにあるのかを知れたらよかった。それが血だってわかれば、赤色とまではわからなくても何か緑とは違う色をしているってことがわかるしね。だって、見られたらすぐにバレちゃうんだからさ。緑色ではないでしょ」

「なんでそんなことしたの?」

「なんでって、面白そうだったから。だってハルってばさ、りんちゃんの顔色ばっか窺ってつまんない人間になってたし。このままじゃ駄目だなって」

 表情から、特に感情を覗かせずに柊は続ける。

「全て私のためだよ。私が楽しむために、ハルの環境を変える必要があったわけ。ただ壊れちゃっても面白くないから調整はしたけどね。優里亜ちゃん、優しい子だったでしょ? でもあの子だって、何の情報もなくハルの血の色を見たら確実に引いてたよ。変血病なんて便利な言葉があってよかったね。まあ私が適当に考えたんだけど」

「花坂さん、傷ついてたよ」

「あんな男を好きなのが悪いんでしょ。ちょっと気があるように振る舞ったらすぐに勘違いする馬鹿。だから簡単に操られるんだよ。この世界は馬鹿ばっかだ。まあその馬鹿たちを介して、ハルのクラスメイトに変血病の話もしてあげられたんだけどね。なんにでも使い道はあるってこと。そいつらが使われて、少し傷がつくぐらいどうでもいいでしょ」

 こんなに近い距離にいるのに、柊の心が次第に離れていくように感じた。

「私のことを教えてって言ったよね。これが私だよ。イメージと違ったって顔してる。そうやって、私に勝手に期待して、勝手に裏切られたと思えばいい。自分勝手で、都合のいい妄想を私に押し付けるなって言ってやりたいけど、もうそんなことはどうでもいい。ただ、見せてよ、ハル。私はあなたにどう思われてもいい。嫌えばいい。だけど、私はあなたを見届けるから。普通になったって勘違いしたあんたが、いったいどんな風に終わるのかをさ。それが私のやりたいこと」

 柊がくるっと背を向ける。

「じゃあね、ハル」

 次第に離れていくその背中に、私が感じたのは柊への幻滅なんかじゃなかった。確かに彼女は私が思っていたような人間ではなかった。善人と悪人で人を分けるのであれば彼女は明らかに悪人だと思う。今までのように接することはできないのかもしれないけど、それでも私は彼女のことを知ることができた。

「ま、待って」

 その声は、決意とは裏腹に小さすぎて柊の耳には届いていなかった。



「ねえ、いったい何のつもりなのさ。ストーカーになっちゃったの? それとも嫌がらせ?」

 嫌気がさしたような声がする。

 それもしょうがないと思う。

 別れたつもりの相手が、ずっと後ろをつけてきてたら私でも嫌になると思う。

「いや、その、りんちゃんの家に行こうと思ってて。たまたま道が一緒なだけ」

「あっそ、じゃあ私はこっちの行くから。りんちゃんの家はあっちだからね」

「いや、そっちの店にも用があるから、そっちに行くかも」

「じゃああっち行く」

「あ、私も」

 柊は明らかにイライラしていた。

 言いたい言葉が決まっているわけじゃないけど、何かを言わなければならないと、柊を逃すわけにはいかないと思っている内にただひたすらに柊の後ろを歩いていた。

 今まではこんなことなかった。

 柊に対しては自然と言葉が浮かんで思ったことをそのまま話していた。今にして思えば、柊の相づちや話題の振り方が上手かったから私は自然体に近い形で話ができていたんだろう。私は彼女の自然な気遣いに甘えていた。そんなことにも気づけていなかった。

 それが、例え邪な想いがあったが故の行動でも、私が楽しいと過ごしていた時間は本物だ。

 彼女は、私の孤独を最初に救ってくれた人だ。

 彼女に秘密を隠していたのは私の問題だ。それを勝手に負い目に感じて、生まれた絆をどこか偽物のように感じてた。

 そんなわけないのに。

 私は馬鹿だ。

 そんなことで、一時は柊のことを疎ましく感じていただなんて本当にどうしようもない。

 気づいたら、りんちゃんの家に近づいてきている。

 柊の家も近くにあるはずだ。時間は有限だ。伝えなくちゃいけない。

「柊!」

 彼女は立ち止まったけど、振り向かない。

 言葉は決まっていない。一瞬の沈黙は、柊と繋がった見えない糸を断ち切ろうとしていた。解れかけている糸を手繰り寄せるには、何か言葉を発さないといけない。

「ありがとう!」

 なんだそれ、と自分でも思った。だけど言葉が口から出てしまえば、堰を切ったように次の言葉が溢れてくる。

「あの時、話しかけてくれてありがとう。すごく戸惑ったけど、すごく不安だったけど、すごく嬉しかった」

 ——一緒に抜けだそっか。

 言葉が、あの笑顔が脳裏に浮かんでくる。

「私みたいなやつにも話しかけてくれる人がいるんだって思ったの。もしかしたらこの人も私みたいに何か事情があるんじゃないかって、ちょっと仲間意識みたいなのも感じてた」

 トークアプリの使い方を教えてくれた。

 学校の愚痴なんて初めて他人に話した。

 誰かと初めて再会の約束をして、勇気を出して手を振った。

「一人じゃないんだって思えたの」

 柊は振り向かないから、その表情から感情を窺えない。機嫌はまだ悪いだろうか。イライラはまだ治まっていないだろうか。

 わからないなら、知らないといけない。

「自分のことばっかりでごめん。私は、確かに柊のことを知らないのかもしれない。期待していた人とは違うのかもしれない。それを押しつけてた部分もあるから、あなたはそれを演じていてくれたのかもしれない。だけど事実は変わらないよ。私に一人じゃないと教えてくれた。りんちゃんと出会えて、クラスメイトと距離が縮まった。意図がどうであれ全部柊のおかげだよ。感謝してる。だからね、また一から始めたい」

 深呼吸一つ。

「もう一回、私と友達になってください」

 さらなる沈黙。一分ぐらいは経ったかもしれない。だけどもしかしたら十秒ぐらいかもしれない。

 聞こえたのは、尾を引くようなでっかいため息だった。柊は自分の前髪をくしゃくしゃにしながら、やっぱり振り向かずに声を出す。

「だからそれも期待でしょ。さっきまで私の何を聞いてたんだよまったく。まだ足りないのかなあ。だったらさ、教えてあげるよ」

 柊は振り向いた。

「りんちゃんがなんで学校休んでるか知ってる?」

 ドキリと心臓が跳ねた。まさか、りんちゃんが二週間も休んでいる原因は、柊が彼女に何かをしたからなのか。

「ハルは普通にこだわってるみたいだけど、りんちゃんは人一倍特別にこだわってた。その特別をぐちゃぐちゃに壊してあげたの。特別って何のことかわかる? あんただよ、ハル。ハルの特別な人になりたくて、彼女は今までの関係を疎かにしてまでハルに近づいてた。思い当たる節あるんじゃない?」

 りんちゃんは確かに、私と一緒にいるために友達からの誘いを全部断っていた。

「ほらあった。まあわかるよ。血が赤い特別な人、その人の秘密を独り占めしたら、自分まで特別になった気がするよね。だけど、その秘密を複数にバラして、その秘密を受け入れる人まで出てきたら、自分が特別だなんてそんなのは勘違いだって猿でもわかるでしょ。私はそれを教えてあげただけ。そうしたらりんちゃんってばさ、その場で崩れ落ちて抜け殻みたいになったんだよ。人が壊れる瞬間ってやっぱ最高だよね。その場で笑いをこらえるのが大変だったもん」

 柊が笑った。

 なぜだかわからない。

 だけどこの時、私はカッターナイフを持っていることを思い出したんだ。



 ☆樏ハル



 柊の行動は、りんちゃんを深く傷つけていた。

 私はそのことを知って怒りを覚えた。花坂さんが傷つけられた時よりも強い衝動を感じ、その衝動は役目を終えたはずのカッターナイフに手を伸ばさせた。それから先のことはまだ思い出せていないが、私は怒りに身を任せて柊を刺したに違いない。

 そして事に至ってから恐怖を感じ、走り出し、柊の妹である燐花に出会った。

 気を失った私に追いついた柊は、妹に指をさすことで自分を刺した犯人を伝えた。

 これですべての辻褄が合う。

 私は燐花ちゃんの姉である柊を傷つけたんだ。彼女の復讐は当然だ。

「ごめんなさい」 

 燐花ちゃんの顔を見ることもできず、私は呟いた。

 彼女は何も言わない。

「ねえ、柊は、あなたのお姉さんはどうなったの?」

 その質問は、彼女が無事であってほしいという一縷の希望に縋る行為だった。だけどあれだけの血が出ていたんだ。最悪の可能性は常に頭を離れないけど、それでももしかしたらと思わずにはいられない。

「お姉ちゃんは死にましたよ。あなたに殺されたんです」

 だが、燐花ちゃんの言葉はあっけなく私の希望を砕いた。

 私は柊を殺した。

 私は殺人者なんだ。

 自分のことを普通なんだと言い聞かせたあげく、人から外れた犯罪者になってしまった。未来を思えば、牢獄の中で冷えた飯を食っている自分がいる。友達ができて、当たり前を過ごして、今までとは違う明るい毎日が待っていると思ったのに、私は結局どこまでいっても普通を手に入れることができない

 心電図モニターの山の起伏が激しくなっている。

 こんな時に、私は自分のことを考えている。柊を失っている燐花ちゃんを目の前にしてなんて醜い心をしているんだ。

 燐花ちゃんは、私を柊と同じ目に合わせなければ気が済まないだろう。

 私は周囲を探った。

 探さなければいけない。私は、彼女を私と同じ殺人者にするわけにはいかない。だから、自分で自分を殺せる物を探さなければならない。

 ナースコールに繋がっているコードを見つけた。コードで自分の首を絞めよう。

 まだ体を満足に動かせない。震える体で、ベッドから身を乗り出してコードに手を伸ばす。

 あともう少しだ。もう少しで手が届く。コードに指先が触れる。ベッドからもっと身を乗り出す。

 私の手を、燐花ちゃんが掴んだ。

 彼女は私の手を優しく戻した。そのまま、彼女は私をベッドの正しい位置に寝かせた。

「病人はちゃんとベッドで寝ててください」

 なんで、私を慮るような行動を彼女がしたのかわからない。

 思い出さなければならないのか。もう嫌なんだ。

 すべてを知ることが怖いんだ。これ以上は、もっと大事なものを失ってしまいそうで。





 記憶の断片4



 私は一体、何を失おうとしているんだろう。

 背中と腹を刺されたことによる流血、明滅するように黒くなっていく視界、神経が麻痺していくように消えていく体の感覚。

 生が、次第に失われていくのを感じる。

 だけど、私はそれ以上の何かを失おうとしている。

 重くなった足を引きずって、流血を少しでも抑えようと腹を腕で抱え込み、私はハルの後ろ姿を追いかけた。いつもは必要以上に考えてしまう頭も今はまったく働いていない。何のためにこんなに辛い目に合いながら動いているんだろう。わからない。何でこんなところに燐花がいるのかもわからない。

 信じられないものを見た。

 人は変わるものだが、しかしここまで人は変わってしまうものだろか。

 すべては自分の責任だ。この責任を帳消しにするにはどうしたらいい。

「これ刺し傷? なんでこんなこと、血がいっぱい出て、わけわかんない。ねえ、誰にやられたのさ。ねえ、ねえね」

 誰にやられたのかなんてわかりきっている。

 私は指をさした。

 ハルのすぐ後ろにまで迫ってきていた、私の知るものから変わり果ててしまった菜摘真鈴の姿だ。見た目は何も違わない。しかし彼女の意思は普通の人から外れてしまった。私は彼女を理解することができない。

 人は、笑顔になる時にあんなにもおぞましい感情を抱けるものなのだろうか。

 真鈴はその手に持った包丁を、ベンチに寝そべっているハルに向けている。その瞳には慈愛が宿り、その手にはこれから人を刺すのだというためらいが見えない。

 私は叫んだ。叫びは声にならないけど、それは私の体を鼓舞して気力を漲らせた。でもたぶん、そんな気がしているだけだ。

 私の体はすでに限界を迎えている。

 私はハルの元に走った。

 真鈴の凶刃を今さら止められるとは思えない。実際、真鈴の包丁はハルの脇腹に突き刺さった。真っ赤な夕陽にも負けない紅の鮮血が弾けている。それに飽き足らず、真鈴はさらに包丁を振りかぶった。

 ハルの精神はここに辿り着くまでにすでに限界を迎えていた。真鈴の変わり果てた姿、そして私の本当の姿を知ったから、彼女にはもう真鈴に抵抗する力が残っていない。

 私は何のためにハルの元に行くのだろう。

 燐花の制止の声が聞こえる。遠くで救急車のサイレンが聞こえる。近づいてきているはずのそれらが遠く聞こえるのは、私の意識がこの世から遠のいているということに他ならない。

 脚の関節に力が入らず何度もこける。気道に入り込んだ血液を口から吐き出す。顔を地面に打ちつけ、砂を噛み、体を引きずりながら前に進んだ。

 私は一体、何を失おうとしているんだろう。

 ずっとわからなかったことがある。どうして私は面白くないと感じたのか。私は、他の人よりも人の思考や感情に敏感だ。ハルが真鈴に秘密を晒し、真鈴と一緒に楽しそうにし、ハルがそんな風に過ごしていく未来を想像した。

 三人での帰り道、ハルが私を邪魔だと感じたことを察した。

 周囲から等しく愛されていたわけではない。嫌われることだってかなり少ない例だけど存在した。それに、特別なにかを感じたことはない。

 それはきっと、他人に感心がなかったからだと思う。誰かと話していても、誰かと笑い合っていても、心のどこかで他人との一線を引いていた。自分を俯瞰しているもう一人の自分がいる感覚があった。

 ハルと話していると、彼女にも同じような感覚があるのではないかと感じた。

 私とハル、もう一人の私ともう一人のハルがいる。ハルと過ごす時間、私はもう一人の自分が満たされていくのを感じた。

 私は一時、孤独を忘れられたんだ。

 本心で向き合っていたわけじゃないのに、他の誰と過ごすよりもずっと心地の良い時間だった。

 馬鹿みたいだ。

 ハルを最終的に壊すのなら彼女の秘密を曝して、クラスメイトにあからさまに嫌われないように介入する必要はないし、さらに言えば心の支えになる新しい友達を作らせるなんてことも必要ないし、ましてや真鈴に自尊心を砕くほどに傷をつけることなんてまったくもって必要のないことだった。

 三人での帰り道に私は感づいてしまった。私のことをハルが疎ましく思っていることに。ハルが、私のことを無視して真鈴だけを見ている。

 私は真鈴に嫉妬した。

 言葉にしてみればなんて薄っぺらく、俗っぽい考え方だろう。

 何が本当の自分だ。ハルに晒したのは本当の自分なんかじゃない。自分はこういう人間なんだと自分に言い聞かせている姿だった。

 私は自分を偽るために妹のリップを利用した。いつもと違う化粧をすることで、自分の本心を隠そうとしていた。怖かったんだと思う。本当の自分を受け入れてくれないんじゃないかと思えば、心が裂かれるような気持ちになる。

 ハルはそれを乗り越えて、私に向き合ってくれていたのに、私は本心を晒して向き合うことから逃げてしまった。

 今、私がハルの元に向かうのは後悔が背中を押しているからだ。

 すべてをわかった気になってすべてを思い通りにできると信じる傲慢な私を、人を傷つけるくせに人に傷つけられることを恐れている醜い私を、簡単な言葉を誤魔化すために偽りの化粧で仮面をつけている弱虫な私を、あなたは受け入れてくれた?

「今さら何しに来たの? のんちゃんはもう必要ないんだよ。だって、私にはハルちゃんがいるもん。私はハルちゃんの特別になるんだもん」

 真鈴が空に響くような笑い声を出した。

 そして彼女は、自分の喉を包丁で貫いた。笑い声は呼吸の掠れるような音に変わり、笛のように鳴っている。彼女はベンチの背もたれから覗き込むように、出血多量で気を失っているハルを見つめている。喉から漏れ出す緑色の血がハルの体を汚していく。真鈴の唇がハルの頬に近づいて、触れる。

 真鈴はさらに自分の左胸を刺し、瞳の光を失った。

 私もいずれ何もかもを失う。命を、光を、何よりも欲しかった繋がりを——だったら何も怖がる必要なんてない。誰に聞かれても、それがたとえ自分であっても、恥ずかしがる必要も怖がる必要もない。

 届かないことは知っている。

 自分勝手なこともわかっている。

「もう一回、……なんて、…………寂しい……こと………………言わない……で……よ」

 芋虫のように這いずり回って、ようやくハルのいるベンチに辿り着く。腕を伸ばしてもハルには触れられない。ハルを遠ざけたのは私のはずなのに、自分から近づくなんて普段の私からは想像もつかない行動だ。

「わた、し……たち」

 声が本当に出ているのかもわからない。無駄だってわかっているけど、もし奇跡があるのだとしたら、この声をハルに伝えたい。

「……ずっと、……ともだ、ち……じゃん」

 いつもみたいに笑えているだろうか。今までみたいに、一緒に笑える未来はあったのだろうか。



 ☆樏ハル



 感情が溢れ出して止まらない。

 胸が苦しくてたまらない。

 さっきの記憶は私のものじゃなくて、柊の記憶だ。

 柊の感情が彼女の記憶を通してとめどなく流れ込んでくる。安っぽい感情に自分自身が振り回され、自分を晒すことを恐れて素直になれず、最後の最後で自らの後悔に圧し潰されそうになっているありのままの柊の姿があった。人を馬鹿だと言っておきながら、柊こそが一番の大馬鹿野郎だと思う。

 言葉は言わないと伝わらない。

 みんなが柊みたいに何でもわかるわけではない。

 だから最後の言葉を言ってくれていたなら、私はどんな柊だって受け入れることができた。

 私が柊を邪魔だと感じたのは、私の心がりんちゃんに依存してしまうほど弱かったからだ。柊ならそんなこともわかっていたはずで、だけど最後にはそんな私と友達になりたいと思ってくれた。

 柊に会いたい。

 だけどもう会えない。

 私と柊の感情がごちゃ混ぜになって、涙が頬を伝ってベッドを濡らしている。

 大きく膨れ上がった感情の正体の中にはりんちゃんのことも含まれている。柊を刺した犯人はりんちゃんだった。そして、彼女は私のこともその手の包丁で刺した。私は燐花ちゃんの復讐の対象ではなかったのか、私が柊をこの手にかけたのではないのか。

 私は本当に、樏ハルなのか?

 ぐちゃまぜの感情に不安まで流れ込んでくる。

 記憶の欠片は着実に嵌め込まれているはずなのに、一番大事なことが欠けている気がしてならない。

「お姉ちゃんのこと、思い出してくれましたか? お姉ちゃんは家であなたのことを話してくれました。普段は学校の友達のことなんて何にも話さなかったのに、ハルさんの話だけはしてくれたんです。あなたの見た目やあなたの行動、私は変な人がいるなあと思って聞いていましたが、それと同時にお姉ちゃんのどこか楽しそうな顔を見て良かったなあって思ったんです」

 やめてほしい。

 これ以上柊のことを思い出すのは辛すぎる。

 だけど、本当に辛いのは柊の妹である燐花ちゃんに決まっている。そしてりんちゃんのことだって、ご近所付き合いのあった彼女のほうが辛いに決まっている。

 きっと彼女は真実を求めている。柊が一体何を想っていたのか、りんちゃんの行動の真意は何だったのか、私はすべてを知り、彼女にそれを話さなくてはならない。





 記憶の断片2



 今日もまた、ハルちゃんが家に来てくれている。それは、彼女が私のことを考えている証であり、決して悪い気分ではなかったが、私のいない時のハルちゃんが笑顔でいることを考えるとものすごく気分が悪くなった。気分を晴らすために自分の枕をカッターナイフで何度も切り裂いた。部屋中に羽毛が散らばる様は、一時私の心を落ち着かせてくれた。

 少し冷静になると、私は枕に羽毛を入れ直した。

 散らばった羽毛を拾っては詰め、針と糸で枕を縫い直す。

 私はそれを何度も繰り返した。

 羽毛をすべて拾うのにも飽きて、枕の中には適当な布や綿が詰められるようになった。中身の変わってしまったこの枕は、以前の枕と同じものなのだろうか。だけど私にとっては変わらず私の枕であり、今日もまた私はこの枕で眠るのだ。私にとっての枕はこの枕だけなのだ。

 今日もまた、ハルちゃんが家に来てくれた。

 彼女の中には赤い血が詰まっている。彼女を彼女たらしめているものは、間違いなくその赤い血で、彼女の中にそれが流れていることで生まれた彼女の生き方だろう。彼女にとって一番大切なものであり、彼女にとって一番憎んでいるものだろう。

 ずっと考えていた。

 ハルちゃんの特別になるためには、彼女の一番にならなければならない。彼女の秘密を知っているだけでは、もはや彼女にとって特別な存在とは言えない。

 私は彼女の血がついた服をクローゼットから取り出して見つめた。彼女の秘密を初めて見つけた時、私は服に付着した彼女の赤い血を一度も洗い流していない。少し黒くなってしまっている彼女の血液に鼻を近づけ、彼女を感じるために匂いを嗅いだ。鼻を通して脳に流れ込んでくるハルちゃんを感じ、私はたまらず舌を伸ばして彼女の血に触れる。

 ハルちゃんが欲しい。ハルちゃんに触れたい。ハルちゃんの一番になりたい。

 今日もまた、ハルちゃんが家に来てくれた。

 部屋のカーテンをめくって彼女の姿を眺める。こちらの視線に気づかれないようにカーテンはほんの少ししかめくらない。彼女が来てくれることは嬉しいが、この訪問が一体どれだけ続くというのだろう。いつかは彼女も来なくなり、私のことを忘れてしまうかもしれない。

 ハルちゃんが私のお母さんと喋り、その後、ハルちゃんの後ろにのんちゃんが現れる。ハルちゃんがのんちゃんに連れられてどこかに行く姿を眺めて、私はまた気分が悪くなった。

 どうにかしなければならない。

 早くしないと、のんちゃんにも他の有象無象にもハルちゃんが奪われてしまう。

 羽の舞う部屋の中で、私は枕を見つめて考えた。

 それは唐突に降りてきた天啓のようだった。

 私が、彼女の一番になるために必要なことは、彼女にとっての一番を私が新しく与えるということだった。

 

 

 今日もまた、ハルちゃんが家に来てくれると思った。私はこの日を待ち望み、家の玄関で息を潜めて待ち構えている。早く来てくれないかと期待に胸を弾ませ、手に持った包丁の刃を何度も指でなぞった。

 ちゃんと準備も調査も行った。今日の私に隙はない。

 ハルちゃんはまだ学校にいるだろうか。学校での彼女の生活を思えば、私の腕に包丁を突き立ててしまいそうな欲求に駆られる。だけどそんなもったいないことはできない。ちゃんとハルちゃんを待って、ちゃんとハルちゃんのためにこの包丁を有効活用しなければならない。

「もう一回、私と友達になってください」

 声が聞こえた。

 この声は、ハルちゃんの声だ。その声を聞くと思わず頬が緩むが、その言葉の内容は見過ごせない。相手は誰だ。

「だからそれも期待でしょ。さっきまで私の何を聞いてたんだよまったく。まだ足りないのかなあ。だったらさ、教えてあげるよ」

 のんちゃんの声だ。

「りんちゃんがなんで学校休んでるか知ってる?」

 どうやら私の話をしているみたいだ。つらつらと私のことを語っているようだが、話の内容なんてどうでもいい。それに、今さらハルちゃんが友達を作ることもどうでもいい。私がハルちゃんの一番であればそれでいいんだ。

 だが、のんちゃんは駄目だ。

 彼女は私よりも早くハルちゃんの友達だった。つまり、ハルちゃんの優先順位が私よりも上にあがる可能性がある。

 私はなんて運がいいんだろう。

 目的達成のための一番の障害がまさか自分から近づいてくれるなんて、天は私に味方をしてくれている。

「——その場で笑いをこらえるのが大変だったもん」

 のんちゃんが笑っている。

 どこか無理をしているような笑い方だった。自分を偽るほどに追い詰められている彼女を初めて見る。

 それが隙になる。

 私は身を潜めていた塀の裏から姿を現し、手に持っていた包丁をのんちゃんの背中に突き刺した。思っていたよりも深く突き刺さらない。肉は思ったよりも硬く、刃先は骨に当たって前に進ませない。

 なるほど。

 もっと勢いをつけないと刃は深く突き刺さらない。どれぐらいの力で突き刺せばいいのかある程度把握した。

 のんちゃんが地面に膝をついた。信じられないようなものを見るような顔をしてこちらを向いている。だけど彼女は、すぐに何かを理解したように頬を緩めた。

「なるほど、そうなったんだ」

「そうなったって、何?」

 私は尋ねた。

「ハルの親しい人を消そうっていうんでしょ? でもそんなこと現実的じゃない。それはりんちゃんだってわかってたはずなのに、馬鹿な選択をしたね」

 のんちゃんは急激な出血で額から汗が噴き出している。体の体温調整機能がおかしくなっているのだろう。そんな状態で自分を刺した人間に挑発めいた発言をするだなんて、彼女には破滅願望でもあるのかもしれない。

「そうかな。現実的じゃないっていうのは人を刺したから警察に捕まるとか、ハルちゃんの親しい人を全員殺すなんてできないって意味だよね。そんなのわかってるよ。ねえハルちゃん」

 ハルちゃんに顔を向けるが、ハルちゃんは事態を把握できていないのか呆然と立ち尽くしている。

「私は警察に捕まらないし、ハルちゃんの親しい人をみんな殺したいなんて思ってないもん」

 見下ろすようにノンちゃんに視線を戻す。

 のんちゃんの緩んだ頬が元に戻る。いつの間にか日も落ち始めている。のんちゃんから流れる緑色の血が真っ赤な夕陽に照らされて赤く見える。だけど、その色の血を持つのはハルちゃんだけだ。

「わからないんだのんちゃん。私はハルちゃんの一番になれればいいんだよ。まあ別に、のんちゃんにわかってもらおうとは思わないけどね」

 私はのんちゃんを抱きしめるように腕を回し、のんちゃんの下腹部の辺りを刺した。

「その出血量だと、あとどれぐらい生きられるんだろうね。そう長くないのはまあ見たらわかるけどさ」

 私はそのままのんちゃんから離れる。そしてハルちゃんに向かって、距離を縮めていく。

「ハルちゃんならわかってくれるかな」

 一歩。

「これはハルちゃんのためでもあるんだよ」

 三歩。

「今から私とハルちゃんは一つになるんだよ」

 五歩。

「どういう……こと?」

 ハルちゃんの言葉にはなんでも答えてあげる。

「ハルちゃんの中に、私の血を入れるんだよ。そのためにはハルちゃんの血をなるべく多く出してあげないと駄目なんだ。痛いかもしれないけど我慢してね。私も、我慢するからさ」

 七歩。

 ハルちゃんとの距離は腕の長さと同じくらいになった。私は包丁を持った腕を振りかぶる。

 私はこれからハルちゃんの血になる。彼女の血は赤色じゃなくて他の人と同じ緑色になるんだ。

 彼女は特別ではなくなってしまうのかもしれないけど、彼女の中で私は生き続ける。彼女の特別になることができる。

「逃げて、ハル‼」

 今まで呆け続けてきたハルちゃんがのんちゃんの言葉に我を取り戻し、その場から走って逃げだした。私の振り下ろした包丁は空振りに終わる。

 まあいい。

 別に焦らなくてもいい。

 待っててね。

 あなたに普通をあげる。その普通を与えたのは、私だということをあなたは生涯忘れることができないよね。



 ☆樏ハル



 私は恐ろしい想像を頭に浮かべ、自らの手首に爪を立ててかきむしった。皮膚がめくれて薄くなっていくごとに、その箇所に緑色が浮かび上がってくる。皮膚の内側から血が滲みだす。

 腕に伝うのは緑色の血液だ。

 私はりんちゃんに刺された。その際に失われた血は、傍ですでに手遅れとなっていたりんちゃんの血で補われたということだろう。

「あなたの想像通りですよ。あなたの中には菜摘真鈴の血が流れています。私はね、あなたの中に流れる血に対しての復讐者なんです」

 いつの間にか日が落ちている。病室には白すぎてむしろ緑色にすら思える月光に満たされていた。

「あなたが生きている限り、彼女の痕跡は消えない。私の姉を殺した彼女の血が生き続けていることが私には我慢ならないんです」

 私には、柊を殺したのは私じゃないからと燐花ちゃんの主張を否定することができない。りんちゃんを変えてしまったのは私だ。私が必要以上に彼女を求めてしまったことが、彼女のあのような行動に繋がってしまったのだ。

 柊の死には、間違いなく私が関わっている。

 あの時、私が柊の後をつけるような真似をしなければよかったんだ。

 あの時、私が柊に秘密を晒すような真似をしなければよかったんだ。

 初めて出会ったあの時、彼女の誘いを断っていればよかったんだ。

「だけどあなたの中に生き続けている人がもう一人います」

 血に記憶は流れていない。それでも、私の記憶の中には確かに二人の記憶が存在した。

 燐花ちゃんに言われるまでもなくわかっている。

「柊が——和花が私の中にいるんだね」

 燐花ちゃんは複雑そうな表情をした。

 私の傍で手遅れになっていたのはりんちゃんだけじゃなく、柊もすでに手遅れの状態だった。私への輸血の際には柊の血も使用されたんだ。りんちゃんの誤算は、柊の血液型が私への輸血に対応したものだったことだろう。

 私の中には、彼女にとっての憎むべき対象と、彼女にとっての愛すべき対象がいるのだ。

 私は自分の状況を受け入れ切れていない。

 それでもやらなければいけないことはわかっている。

 ベッドから起き上がり、私は燐花ちゃんの元におぼつかない足取りで近づいていく。彼女に伝えなくてはいけないことがある。彼女はいま愛憎の葛藤で苦しんでいるんだ。

 私の足は、意思とは裏腹に頼りなくふらついてそのまま体が前向きに倒れていく。

「なにをしてるんですか!」

 燐花ちゃんは私の体を受け止めてくれた。彼女の細い腕が背中に回されて、彼女の確かな体温を感じることができた。

 彼女はいま、どのような気持ちで私を抱きしめているのだろう。

 復讐者のくせに、私のことを助けてしまう優しい彼女は私を目の前にしてどれほど苦しんでいるのだろう。

「今はまだ私のことをどうしようとか決めなくてもいいよ」

「え?」

 彼女を強く抱きしめ返した。

「あなたが決めるまで、私はあなたの傍で待ち続けるから。あなたが決めたなら、私はどんな決断でも受け入れるから。じっくりと悩んで、ゆっくりと決めればいいよ」

 数秒の間が空いて、燐花ちゃんが口を開いた。

「……逃げたりしないですか?」

「しないよ」

「……どっかいけって言ったら、私の視界から消えてくれますか?」

「消えるよ」

「……お姉ちゃんの代わりになってって言ったら、なってくれますか?」

「もちろん」

「…………死ねって言ったら死んでくれるんですか?」

「燐花ちゃんがそう決めたなら、死んであげる」

 二人で抱きしめ合って、いったいどれだけの時間が経ったのだろう。この言葉で、彼女の苦しみを少しでも和らげることができたならそれはどれほど素晴らしいことなのだろう。

「じゃあ、今は復讐を保留にしてあげます。とりあえずあなたの体がちゃんと治るまでの執行猶予ってやつです。だから今はベッドで大人しくしていてください」

 彼女が私の体を支えたままベッドに向かって前に歩き、私はそれに合わせて後ろ向きに歩いた。その様は下手くそなダンスのようにも見える。私は腰を落としてベッドに座り、そのまま体を横にした。

 燐花ちゃんがそのままくるっと後ろを振り向いた。

「じゃあ私は帰ります。だけど明日も来てあげます。勝手に死んだら許しませんよ」

「燐花ちゃんがそう言うなら死なないよ」

 彼女は病室を出ようと歩いた。そしてしばらくしてから立ち止まり、

「燐花ちゃんってどさくさに紛れて言わないでください。馴れ馴れしいですよ」

「じゃあ、なんて呼んだらいいの?」

 彼女は立ち止まったまま沈黙し、しばらくしてから小さな声で言った。

「……今はとりあえず、燐花でいいです」

 燐花ちゃんの背中が病室から消えていく。

 私はこれから、今までとは違う人生を歩んでいく。

 無駄な厚着をする必要もなく、周りの目に怯える必要もなく、恐怖を抱いて他人と接する必要がなくなる。大切な人が二人いなくなったけど、彼女たちが私の中で生き続けていることを信じ、私はこれから胸を張って生きていかなければならない。

 人は変われる。

 きっかけがあれば、必要なのは自分の意思だけだ。今までの自分を塗り替えることができる。そのことを、私にきっかけを与えてくれた二人に証明するんだ。

 私は柊のこともりんちゃんのことも恨まない。

 後悔は星の数ほどあるけれど、彼女たちに出会えたことに私は感謝する。新たな生き方を選ばせてくれた彼女たちと、私は共に生きていく。

 月の光を浴びながら、心が踊り出しそうなほど弾んでいる。

 心の壁が取り払われていく。景色がいつもよりきれいに見える。私の進んでいく道に障害はない。

 視界は良好。

 オールグリーン。


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