転
著者S
「玉三郎や。私のお気に入りのリップをどこへやった。言わぬと酷いぞ」
愛護団体の板看板など恐るるに足らずと、我が家のお猫様を仰向けにひっくり返し、覆い被さるようにして前足を抑えつけた。四足歩行の生物にとってこのストレスは耐えがたいものであろうとほくそ笑んだがしかし、その眉間に寄せられた皺から象られる面差し中々にふてぶてしく、化け猫もかくやという長寿を伊達に生きてはいない。
「主様に傲岸不遜なるぞ、この愚猫ぉ。吐けぇ。吐くのだ。故郷のおっかさんもきっと……」
「……何やってんの?」
頭上から影が差し、玉三郎を抑えこんだまま背を反らし、見上げた。
「ねえね。おかえり」
「うん。ただいま燐花」
いつの間に帰ってきていたのか、既に部屋着に着替えたねえねは、後ろから私たちの静かなる闘争を見下ろしていた。
「可哀想だから離してあげなよ」
ねえねは言い聞かせるように私の頭をぽんぽんと叩いた。
「ねえねは玉三郎めの悪行を知らぬから、そのようなぬるいことが言えるのだ」
「知らないけど、別に猫のやることじゃん。それと玉三郎じゃなくてアレキサンドライトだっての。ね~、ドラちゃ~ん」
ねえねに名前を呼ばれた瞬間手の内のデブ猫は突然身をよじり暴れ始めた。なんぞやと拘束を解いた瞬間、そのままねえねの足にすり寄り、にゃんにゃん甘え始めた。
「いいこ、いいこ。……あっ、そういえば燐花、これ、借りてたやつ返すね」
ねえねがポケットから取り出したのは、まさしくアレキ某に窃盗の嫌疑がかけられていた、私のここ一番勝負リップだった。
「……次からは、一声かけてくれるとありがたいのだが」
「ごめんごめん。でももう借りないと思うから大丈夫。アタシの趣味じゃないし。今回ちょっと頭の悪そうな色のリップが欲しくてさ」
「言うに事欠いて……!」
抗議の意を示すべく、ねえねのお腹に突撃したが、えいやと軽くソファーの上に転ばされた。
「……無念なり」
「ごめんってば、泣かないで。そもそもあんな色、背伸びしすぎだって。今度お姉ちゃんと一緒に、似合う色、探しに行こ」
「急に優しくするなあ、泣いてしまう」
「いやもう泣いてんじゃん」
私が顔を腕で隠していると、ねえねは愉快そうにわしゃわしゃとムツゴロウよろしく髪をぐしゃぐしゃにしてくる。
そこでようやくおやと引っかかり、上半身を起こす。
「……ねえね、なんか良いことあった?」
「んん?なんで?」
聞き返されたが、瞳の喜色からして、ばれたならそれでもいい類いの感情だったらしい。
ならばと意趣返しにもならない細やかな反抗をする。
「和花姉さんは機嫌がいいといつもの三割増しで意地悪になる」
それを聞くとねえねは、愉快そうにけらけらと笑った。
「さすが妹。……ちょっとね、やりたいことができて、それに向けて色々頑張ってる途中なのさ」
なされるがままのドラ三郎の前足でシャドーボクシングをしながら、ねえねの視線はどこか遠を見ているようだった。
えんねえねは基本なんでもできるし、だからこそ飽きっぽい。そんなねえねが楽しそうにしているのは久方ぶりな気がして、素直に嬉しい。本人には言わないけど。
「誰かに迷惑かけてないだろうな」
何とはなしに軽口を叩いた。ただの照れ隠しだ。
「優里亜ちゃんには悪いことしたかも。多分、写真撮られたし」
「んん?」
ぼそりと呟かれた声に聞き返す意味を込めて、ねえねを見遣った。
「アタシはさ、ドミノ並べてるときも、愉しめるタイプなのさ」
♢
震える指でチャイムを鳴らし、門扉から少し離れカメラに全身を映すよう立つ。見られているかもしれない居心地の悪さに目を泳がすと、『菜摘』という表札が目につく。庭は手入れがいき届いている。所作からなんとなく想像していたが、結構いいところのお家だなと、ぼんやり考えた。
『……はい』
そうこうしているとインターホン越しに落ち着いた女性の声が響いた。
「あっ、あの、私、真鈴さんと同じクラスの樏と言います。学校からプリントを預かってきました」
『……少々お待ちください』
私がクラス全員に秘密を知られた次の日、りんちゃんが学校を休んだ。私は先生に、プリントを彼女の家まで持って行きたいと頼んだ。最初先生は驚いていたが、嬉しそうに任せてくれた。
そうしてかれこれ二週間、りんちゃんはまだ学校を休んでいる。
今までは家族の人に会うのが怖く、ポストに入れて逃げるように帰っていた。しかしスマホは連絡がつかず、先生も詳しい容態は知らないという。
そうしてようやく決心をつけ、私はインターホンのボタンを押した。
気を落ち着けるように、短く息を吐きだす。直ぐにドアが開かれ、背筋の伸びた女性が現われた。恐らくりんちゃんのお母さんだろう。目許の涼しい美人で、全体の雰囲気はどこかりんちゃんに似ていた。
「どうも、真鈴の母です。すみません、娘のせいでご足労をおかけしました」
「い、いえ、全然大丈夫です。私が先生に持って行くって言ったんで」
門扉のところまで来られて、改めて背の高さに気づき、少し気後れする。
「あ、あの、これ今日のプリントです。それであの、真鈴さんの体調は、どうですか?」
へどもどしながらプリントを鞄から取り出し、一番気になっていたことを尋ねた。
「ありがとうございます。……心配をおかけするほどのことではありません。本人も大事ないと申してますので」
なのに二週間も?と喉まででかかったが、すんでで飲み込む。
りんちゃんのお母さんは言い終わるや会釈した。話を切り上げられそうになったのを察して、ほんの少しだけ語気を強める。
「あの……!」
踵を返そうとしていたりんちゃんのお母さんは、まだなにかと視線だけで問うてくる。
「わ、私、本当に、真鈴さんには感謝してて、学校いってても良いことなんてないと思ってたんですけど、最近意外とそうじゃないって知って、それも全部、きっかけをくれたのは真鈴さんで、だから、その……」
まとまりのない言葉を並べている間、りんちゃんのお母さんは眉根一つ動かさず聞いていた。
「だから……ありがとうございます」
結局言いたいことが言えたのかも分からないままに、大きく頭をさげた。
冷静になってくると、私は友人のお母さんに何を言っているのかと、いたたまれなくなる。
「そ、それじゃあ、お大事に!」
がばりと体を起こし、慌てて立ち去ろうとする。
「待って」
今度は私が引き留められる番だった。目を合わせるのも恥ずかしくて、俯いたまま向き直る。
「あの子と、仲良くしてくれてるのね」
随分と声音が優しくなっていて、つい顔を上げ窺うと、その柔和な表情で先程よりもはっきりと、この人はりんちゃんのお母さんなんだなと実感した。
いえあのこちらこそとか、またふにゃふにゃ言っていたときだった。不意に背中からよく知った声がかけられた。
「あれ、ハルじゃん」
振り返るとひらひらと、手を振りながら柊が笑っていた。
♢
「いやー、びっくりした。まさか家の近所でハルに会うなんて」
ファミレスに制服でいることに気が引けたが、夕方ともなると他にも学生が多くいて、寧ろおかげで目立たなかった。
柊と偶然遭遇したあと、りんちゃんのお母さんは柊と軽く挨拶をし、そのまま私を送っていくように頼んだ。私は柊と一つしか違うのに、なんだか子ども扱いされているみたいで恥ずかしかったが、柊はノリノリで快諾した。
「りんちゃん、風邪引いちゃったみたいで最近学校休んでる」
「……らしいね。……それにしても、りんちゃんね」
別に今更取り繕う気も無いが、ニヤニヤしながら復唱されたのが憎たらしく、柊のパフェから猫の形をしたビスケットを引っこ抜き、一口に頬張る。
「あー!アレキサンドライトー!」
「?そんな種類の猫がいるの?」
柊は悲愴な目で私の咀嚼と嚥下を見届けると、いじけたように自分のパフェをつっつく。
「違うよう。うちの猫の名前。アレキサンドライトでドラちゃん。種類はノルウェージャンフォレストキャット」
「食べようとしてるものに飼い猫の名前つけないでしょ、普通。ていうか飼ってるの犬じゃなかったっけ?」
「犬も飼ってる。アンバーでバーちゃん。ゴールデンレトリバー」
ペットたちのことを思い出しているのか、柊は柔い笑みを零した。そのとき私は柊のリップがいつもより色の濃い事に気付いた。指摘するのも憚られ、手元のコップから氷をあおり、かみ砕く。
相変わらず私たちは、お互いのことを殆ど知らない。無論私の体のことも柊は知らない。
私は、果たしてクラスの人たちにも秘密を知られた。しかし今、私は普通だ。こうしてお気楽に柊と話している。
件の日の翌日、私はびくびくしながら学校に行ったが、本当にクラスの人たちは誰にも言ってないようだった。おまけにりんちゃんがいなくて一人だった私を、花坂さんのグループが誘ってくれて、一緒にお昼を食べたりなんてこともした。緊張して味はあまりしなかったが、多人数が私の血の色を見た上で、普通に接してくれた。
それはとんでもない多幸感だった。自分の最も嫌いな部分が受け容れられる喜び。最早私は知られる恐怖よりも、知ってもらいたいという欲求の方が高まっていた。
何よりも、私は期待していた。話したことのないクラスメイトですら私を受け容れてくれた。ならば、目の前の柊も、きっと、受け容れてくれるのではないか。
「柊」
声が震えないようにしながら、呼びかける。
「なに?」
柊が首を傾げ、髪が揺れる。彼女の肩越しの景色に金色の垂簾がかかり、それが夕日をすかして目をしばたかせる。
「……私は、どう見える?」
「根暗」
「そういうんじゃなくて」
少し苛立ち、どう言い直そうかと考えていると、柊が手を合わせた。
「ごちそうさまでした。行こ」
鞄を引っかけ、立ち上がる。
「あっ、ちょっと」
柊はさっさと会計を済ませ、店を出て行く。
慌てて店を出ると、ドアのすぐ前で彼女は待っていた。
ぼんやりと、殆ど線になった夕日を眺めている。
「柊?」
「行こっか」
私に気付くと、そのまますたすたと歩いて行く。
もしかしてさっき、勝手にビスケットを食べたことに怒っているのか。いやまさかと思いつつも、そういえば柊相手だと遠慮とかをすっかり忘れてしまう。
「ハルはさ」
「うん」
柊は正面を向いたままで、目が合わないことに、なんだか居心地の悪さを感じる。
「特別に見える」
そこでようやくこちらを向いて、わたしの目を見た。しかしそれは正しい認識だろうか。
なんだかその視線は瞳よりももっと、奥の方を覗いているようでもあった。
「特別?私が?」
一瞬血のことを思い浮かべたが、そもそも柊はそのことを知らない。となると格好の話になる。確かにそろそろ厚着は、目立ってはいると思う。ただ特別という言葉はなんだか不思議だ。
「……だとしたら私は、普通になりたい」
そう思っていた。今も変わらないはずだ。ただなんだか口から出たそれはどこか空虚で、寧ろ今柊に言われた特別という言葉に忌避感を覚えなかった自分がいた。
「はっ?」
それが最初、柊の発した声だと気付かなかった。普段のどこか抜けた声ではなく、確かな鋭利さを孕んでいた。
「それ、本気で言ってんの?」
彼女の顔を見ると、怒りとも落胆ともつかない表情をしていた。
訳が分からず私が黙っていると、何度か彼女は口を開きかけては止めを繰り返し、終いに溜息を吐いた。
「……まあいいや、そろそろだと思うし」
気付けば駅にはもう着いていて、帰宅ラッシュとかち合い人でごった返していた。
「柊、さっきのって……」
「じゃあねハル。また」
気付けば表情も雰囲気も普段の柊で、なんだか余計に聞きづらかった。
「……うん、じゃあね、柊」
いつも通りに手を振って、いつも通りに私たちは別れた。
改札をくぐり、振り返ると、人混みでもう柊は見つけられなかった。
♢
柊の言ったとおり、「それ」は翌日に起こった。
その日もりんちゃんは欠席し、私は花坂さんたちとお昼を食べていた。
「優里亜氏、この前のテストどうでした?」
「別に、普通だったわよ」
「うわ、てことは良かったんだ。嫌みだな」
「というか扇と簪が不真面目すぎるのよ。少しは樏さんを見習いなさい」
花坂さんは私の方を見て軽く微笑んだ。私もぎこちなく返す。最近教室内ではマスクを外すようになった。
四人で机をひっつけて、正面に花坂さん、右隣には簪陽羽里さん、斜向かいに扇市東さんが座っていた。まだまだ簪さん扇さんとは友だちの友だちという空気で、四人で話していても、いつも中継係のように花坂さんを介していた。なんだかそれは率先して私を輪に加えてくれた花坂さんに申し訳がなく、何より私が他の二人とも仲良くなりたいと感じていた。
簪さんはよく冗談を言う人で、それを花坂さんが窘め、扇さんはけらけらと笑う。それがこのグループの在り方だった。
「そういえば樏氏も成績が良いんですな。なにかコツなどあるんですか?」
扇さんがこちらに話をふってくれる。
「いやいや扇。樏さんはそもそもあたしらと違うんだって。不平等だよなあ、こんな美人で勉強までできるなんて」
私が口を開く前に、簪さんが応答する。二週間もいると簪さんのこれがいつもの軽口だと分かってくる。そこで私は少しだけ勇気を出すことにした。
「そんなことないって」
軽く笑いながら、なるたけ大袈裟にならないように、ぽんと簪さんの肩を叩いた。
「悪い悪い」
簪さんが驚いた顔をして、一瞬焦ったが、直ぐに笑ってくれた。
なんだかそれが一つ自分を認めてもらえたような気がして、肩の力が抜ける。
「……あ~、悪いちょっとトイレ」
そんなとき、簪さんが突然立ち上がった。
「食事中だっての。あんたはもう少し女性らしい言動をね……」
花坂さんが指摘するも、簪さんは応えず、口元に手をやり足早に教室を出て行った。
「……あたしちょっと見てきますね」
おかしいと感じたのは私だけではなかったようで、扇さんが立ち上がり、教室を出て行く。
「簪のやつ、変な物でも食べたのかしら」
花坂さんは言葉に反し、心配そうに扉を見つめていた。
最後にちらと見た簪さんの顔は、笑顔をつくっていたが、脂汗が目に見えて浮いていた。
「私もちょっと見てくる」
なんだか居ても立ってもいられず、席を立つ。
「そんな大勢で行っても仕方ないでしょ」
言いながら花坂さんも立ち上がっていたのが少し可笑しかった。知り合ったばかりだけれど、彼女の面倒見が良いことは、直ぐに分かった。
教室を出ると、一番近いトイレへ二人で向かう。昼休みの廊下は他の生徒で騒がしく、私は反射的にポケットからマスクを取り出した。
トイレの中に入ると、一つだけ開けっぱなしにしている扉があり、そこから二人の人間の会話が聞こえてきた。
「……大丈夫ですか?陽羽里氏」
「……悪いな、扇」
簪さんの声は弱々しく、嘔吐いたのかひゅうひゅうと空気の抜けた呼吸音がした。近付くと扇さんの足が見えて、恐らく簪さんの背中をさすっているのだろう。
私は二人に声をかけようとしたが、簪さんの声から泣いていることに気づき、足を止めた。
「……やっぱあたし、樏、怖えよ」
「それでもよく咄嗟に我慢したものです」
「……だってさ、話して分かったけど、あいつ良いやつじゃん。だから余計にさ、気持ち悪いって思っちゃう自分が情けないんだよ。でもさ、触られた瞬間、この前見た血の色思いだしちゃって、そしたら一気に寒気がして。それで……」
言葉の一つ一つが妙に間延びして耳から入り、ゆっくりと脳に溶けていく。視界が回り歪み、点描のように解像度が荒くなる。
気付けば足は後ずさりをしていて、勝手に私を教室に戻していた。何かを考える余裕は無かったが、体は勝手に帰り支度を整えていた。
「……樏さん」
呼ばれ顔を上げると、花坂さんが傍にいた。気付かなかったが、一緒に教室へ戻ってきていたらしい。
「……私、花坂さんが友だち殴るところ見たくない」
「……殴らないわよ。でも、あなただって友だちよ」
「花坂さんは、すごいね」
心が妙に静かだった。それとも騒がしすぎて何も認知できなくなっているのか。
「おーい、委員長」
そんなとき不意に声がかけられた。別のクラスの花坂さんの友だちだろうか。女子二人組がニヤニヤしながら、教室に入ってきた。
「……なによ」
花坂さんは苛立たしげに、向き直った。態度から見て親しい間柄ではないのかもしれない。
そんな態度を知ってか知らずか、ますます二人組は喜色を浮かべ、顔を見合わせた。
「これな~んだ」
一人がにやけたまま、スマホの画面を見せてきた。つい私も目がいく。
「……これ、なんで」
それは写真だった。男女二人が道を歩いていて、女性の方が男性の腕にしなだれかかっている。特に変わった写真ではなかったが、私はその女性に見覚えがあった。
「なんで、柊先輩が……」
更に驚いたのは花坂さんの口から柊の名前が出たことだった。
「これって、生徒会長と柊先輩だよね。有名人同士だしつい撮っちゃった」
悪意に満ちた表情で、私はようやくこの二人が何故花坂さんに写真をみせたのか気付いた。
「だって、でも、なんで」
花坂さんはそれどころではないらしく、ただうわごとのように、どうしてと呟いていた。
写真の中で、柊は笑っていた。気にするものは何も無いかのように、ただ笑い、その口元は艶やかに艶めいていた。
そろそろだと思うし昨日柊が言っていた言葉が谺する。何かがおかしい。花坂さんは柊と知り合いだった。
変血病のことは生徒会の先輩から聞いたと彼女は言っていた。
「花坂さんって、生徒会長と仲いいんじゃなかったっけ?知らなかったの?」
花坂さんの顔を覗きこむようにして、女たちは隠そうともせずに嬉しさを顔に滲ませていた。
私は、花坂さんの手を掴んだ。彼女が驚いてこちらを向くより先に、その手を引いていく。
「おい、どこいくんだよ!」
女ががなったが、私は無視してさっさと教室を出た。
♢
人気の無い場所は経験上沢山知っていた。私は花坂さんの手を引き、一人で昼ご飯を食べていた階段の陰まで来て、彼女を座らせた。
花坂さんの視線は定まらず、ただぼんやりと遠くを見ていた。正直こんな状態の彼女に尋問まがいのことをするのに気が引けたが、私には、どうしても知らなければならないことがある。
「……花坂さんも、柊と知り合いだったんだ」
おずおずと話すと、柊の名前に反応したのか、ようやくこちらへ目が向けられた。
「……知り合ったのは偶然だけど、良くしてくれる先輩だった。私は……」
彼女は言葉を探すように口ごもったが、かぶりを振って溜息を吐いた。
「柊先輩に相談してたの。さっき、写真に映ってた男の人いるでしょ。生徒会長の団田先輩。あの人のことが、気になってるって。柊先輩はすごく真摯に聞いてくれて、学年も彼と一緒だから取り持ってくれるって。だけど……」
さっきの写真を思い出しているのか、また彼女は溜息を吐き、背を反らして、空へ目をやった。
「いい人だと思ってたんだけどな」
そうとだけ言うと、花坂さんはこちらを見て、笑った。それは寧ろ不安そうな顔をしている私を気遣ってのものだった。
花坂さんは優しい。だからこそ私には、柊のことが全然分からなくなっていた。あいつは何を考えて、何をしているのか。
「花坂さん、変血病のことだけど、それを聞いた生徒会の先輩って……」
「?うん、団田先輩」
不意に柊が昼下がりに友人たちと一緒にいる情景を思い出していた。あの柊の顔。あのとき柊は何を考えていたのだろうか。
「これから花坂さんは、どうする?」
私が言うや、彼女は勢いよく立ち上がった。
「教室に戻って、お昼を食べて、授業を受ける。学生だもの」
驚いて動けずにいると、彼女はさっさと歩いて日向に立った。ぱんぱんと自分の頬を叩き、こちらへ振り返る。
「私笑えてる?」
目は充血していて眉根も歪み、頬も赤くなっている。口元も強張っていた。
「最高に可愛い」
しかし私は素直にそう思った。そうしてこんなにもかっこいい。
世の中は常に動き変化し続け、それに私は流されまいと耐えるばかりだった。
そうこうする中で微かに澱に触れた。すると案外それは柔く温いものだった。
いつも私は待っていた。
自分でなにかするでもなく、できるとも思っていなかった。しかしこのまま自分を守ろうとするのなら、きっとまた、私は失う。
「ありがと。行きましょうか」
「……ごめん、私は帰る」
「……気にしないでなんて言えないけど、でも本当に簪も、扇だって」
「分かってる。でもごめん。私、やらなきゃいけないことができたから」
私の言葉をどうとったのか、花坂さんは暫く考えた後、困ったように頷いた。
「ありがとう、その、扇さんと簪さんには、聞いちゃったことさ……」
「もちろん。黙っておくわ。それは樏さんと彼女たちの問題だもの」
私は、すっかりいつもの背筋の伸びた彼女を見て、目を細める。
その姿に、私は最後の踏ん切りをつけた。
「花坂さん、カッター持ってる?」
♢
『玄関に来て』
そうとだけ打つと、直ぐに既読の文字がメッセージにつく。
昼休みももう終わる。メッセージが放課後の話ではないと伝わる事を、どこか私は確信していた。
下駄箱で待っていると、予鈴が鳴った。外にいた生徒たちがどやどやと校舎の中へ戻ってくる。鞄を持って立っている私を何人かが一瞥するが、特に気にもとめず走って行く。
その流れに逆らうように、一人の生徒が同じように鞄を持ってやってきた。
「急にどうしたのさ、ハル」
それは声音も表情もいつもの柊だった。
それがなんだか私をまた一つ鼓舞させた。
「一緒に抜け出そう、柊」
私がそう言うと、柊は愉しそうに笑った。
「いいね、最高」
♢
昇る雲は高く積まれ日を隠し、暑さが和らぐ。平日の昼を過ぎた道は人の気配がしなかった。
自然と私たちの足は、いつも二人で話していた公園に向いた。
いつものベンチに腰掛ける。年季が入ったそれは、少しぎしりと音を立てた。
「それでうちの妹が言うのさ。ねえねは恋人ができても長続きしなさそう、って」
「それは私もそう思う」
「いやいや、私は案外一途だよ?」
「あ、あはは」
「いや別に笑わせようと思って言ってないから」
「妹さん可愛い?」
「可愛いよ。頑固なとこもあるけど。そこが可愛いし」
「顔は柊と似てる?」
「あんまり。変だよね。おんなじ血が流れてるのに」
兄弟姉妹のいない私には、そんな話が少し羨ましく、ありもしないことを夢想する。私に頼れる姉や、可愛い弟がいたら何か変わっていただろうか。もう少し社交的になれていただろうか。あるいは比較されることに怯えていたかもしれない。
だとしてもきっと私は臆病に生きただろう。血のことがばれないよう世の中にびくつき、人間のふりをしていたに違いない。
結局のところ、どれほど近しい人間にも私は救えない。しかしそれは私に限った話では多分ないのだろう。
春風が髪を巻き上げる。遠耳にチャイムが聴こえる。寒くもないのに唇が震えた。
「柊」
私は彼女の目を見据えた。彼女もこちらに目を向ける。どれだけ眺めても願っても念じていても、柊が今何を考えているのかなんて分からない。勿論逆に私が考えていることも、思っていることも知ってはもらえない。
「私は、どう見える?」
唯一できることは、何度も間違えながら不格好に言葉を尽くすだけ。
緩く上げられていた口角は下がり、柊は目を細めて暫く黙って私の顔を眺めた。そうしてそのうちに、短く息を吐いた。
「普通になんかなってどうすんのさ。ハル」
それは昨日の別れ際に聴いた柊の声だった。呆れているような、怒っているような、そうして少し淋しそうな声。
「その願いは柊にとって困ること?」
私はついぽつりとそう零した。
「だって、つまんないじゃん。有象無象の一部になって、明るい所をてくてく歩いて、おてて繋いで、はいゴール?そんなものに価値がある?」
「価値……」
どこか投げやりなその語勢は普段の彼女とは違うものだった。常にどこか飄々としていて、お気楽に笑っている。少なくとも今まで私が見てきた柊はそうだった。大して長い付き合いでもなく、私の方から踏み入ることもしてこなかった。それなのにどうして、この人はこうだと決めつけていたのか。
「それでも私は普通に拘って、憧れてた。そうすれば私も一人の人間として認めてもらえると思ってた」
赤い朱い血を見て、りんちゃんは抱きしめてくれた。花坂さんは傷を治してくれた。簪さんと扇さんは私のことを気遣ってくれた。
「でも、違った」
それまで俯いて私の話を聞いていた柊が顔を上げ、怪訝そうにこちらを見遣る。
私はポケットからカッターを取り出し、刃を出した。
「ハル?」
突然のことに柊が固まっているのを尻目に、私はベンチから腰を上げ、座っている柊の正面に立った。
震える手で刃をもう一方の己の手の平に立てる。自傷に恐怖があるというよりも、自らの手で朱を晒すことに、ここまできて私はまだ怯えがあった。
ずっと私は人間になりたかった。
桜の木の下であの子に血を晒して以来、生涯この秘密を隠そうと決めた。
今会ったら私は彼女になんと言うだろう。
謝るのも変だ。
そう、ただ伝えたい。私にもまた友だちができたことを。
つぷりと軽い感触があり、直ぐ肉に届く。思ったよりも痛みは無かった。そのまま軽く引くと、簡単に血は滲み、一本線からみるみる血は溢れ、私の手から滴っていく。
「ちょ……!?なにやってんのハル!しかも自分から、なんで……」
半信半疑だった気持ちは柊の反応で確信に変わった。やはり彼女にはもう知られていたらしい。
しかし、私にとって大事なのは、もうそのことではなかった。
「私のクラスの人たちは皆知ってる。勿論りんちゃんも」
手を前に出し、手の平を下に向ける。地面にぽつりぽつりと血が落ちていく。
「でも、自分から打ち明けたのは初めて」
赤い血を挟み、柊は黙ってこちらを見ている。
「ねえ柊、生まれつき特別な人なんていないよ」
雲から晴れ間が覗き、木洩れ日が周囲を揺らめかせる。私の血は光を反射し、十字に煌めきながらまた一滴が落ちていく。
「……ハルは生まれつき特別じゃん」
柊は空気の抜けたように笑い、足下の雫に言った。
「違う。最初から特別な人間なんて一人もいない。人と出会って、知って、その人の中で初めて特別になるの。柊、人は他の人の中でしか、特別にはなれないんだよ」
息がしづらく、私はマスクを外し、足下に落した。
「私は樏ハル。生まれつき血が赤い、ただそれだけの、変で普通な、人間」
言葉を交わさず、何も晒けださずして人と理解しあうことができたなら、それはどんなにか。
だとしても、それは結局もしもの話。
だから私たちはこうやって、正解も分からないままに泣いて血を流しながら、傷つけあって生きている。