承
著者M
☆樏ハル
教室での孤独が和らいだ。
クラスメイトに話しかけられることもなく、クラスメイトに話しかけることもなく、そんな日々がこれからもずっと続いていくのだと思っていた。別に望んでいたわけじゃない。だけどそうする以外に道がわからなかった。
だけど今、りんさんが私の元まで自分の椅子を持ってきて、私に話しかけてくれている。彼女の花のような笑顔に、彼女の心弾むような話のリズムに、私はまだ完璧に応えられていない。周囲から見るまでもなくそれはぎこちないものだったけど、私のちっぽけな心の空白を埋めるには十分なものだった。
嬉しかった。
柊と話している時も孤独を一時忘れられたけど、それでも秘密がバレてしまったらと考えれば気が気ではなかった。私の人付き合いの根幹には常に恐れがあったのだと思う。
だけどりんさんは、私の恐れを受け入れてくれた。
この人にはすべてを曝け出しても受け入れてくれるのだという安心感は、私に一人じゃないと心の底から思わせてくれた。これからの高校生活にはりんさんがいてくれる。それだけで勇気をもらえた。
だけど気になることもあった。
りんさんは、私と一緒にいるために他の友達からの誘いをすべて断っていた。教室の移動や放課後の遊び、そんな何気ない誘いすら断って私と一緒にいてくれた。
それはたぶん、私の秘密がバレるリスクを減らしてくれているんだと思う。誰かと一緒にいるほど、急な鼻血や、急なすり傷などによる血の色の発覚のリスクは高まってしまう。
それがもし、りんさんの負担になっていたら嫌だった。
「ん、そんなこと気にしなくてもいいよ。私はハルちゃんと一緒にいるのが楽しいから一緒にいるんだよ。それに、もうりんさんなんて他人行儀な呼び方も変えてこうよ。りんちゃんとか、りんりんとか。真鈴って呼び捨てにしてくれてもいいしさ」
「えっと、じゃあ、……りんちゃん」
「へへへ。なあに」
「呼んでみただけだよ」
りんちゃんが笑う。そして耳元に唇を近づけてきて、
「今の、カップルみたいだね」
囁くような声に心臓が跳ねた。
「もう」
教室の騒音は耳に入らない。りんちゃんの甘い匂いが鼻を通り過ぎた。私の目にはりんちゃんの笑顔があって、私の鼻にはりんちゃんの匂いがあって、私の耳にはりんちゃんの声があった。私の世界がりんちゃんの色に染め上げられる。
こんな時間がいつまでも続いてくれたらいいのにと思った。
一日の授業がすべて終わり、スマホの電源を入れた。トークアプリにはメッセージの一つもない。そういえば最近、柊からメッセージこないなと少し不思議に思った。
「一緒に帰ろハルちゃん」
りんちゃんが私の机まで来た。画面を見られないようにスマホを鞄に入れて答えた。
「うん」
柊との関係を、まだりんちゃんに話すことができていない。別に隠すようなことでもないはずなのだ。ただりんちゃんより前に柊と知り合っていて、仲良くしていたというだけなのだから。
二人で廊下を歩き、階段を降り、下駄箱で靴を履き替える。この後どこに行こうかとおしゃべりして、校門に向かって歩いた。
校門に柊がいた。壁に背を預け、スマホに目を向けている。こちらに気づき、顔を上げた。
「や。一緒に帰ろお二人さん」
こちらに軽く手のひらを見せ、軽い調子で言ってくる。
私が何かを言う前に、
「もちろんいいよ。ハルちゃんもいいよね」
りんちゃんが私には見せない笑顔をしている。憧れの人を見た時の無邪気な笑顔だ。りんちゃんにとって、柊は憧れのお姉ちゃんなのだろう。
「もちろんいいよ」
三人で帰路につく。どこかに行こうかという話が再開する。柊とりんちゃんがカラオケに行きたいとか、クレープを食べに行きたいとかそれぞれの意見を出す。私は外で遊んだ経験がないに等しいのでそもそも意見を出すことすらできない。私は少し疎外感を感じるが、そのタイミングを計ったかのようにりんちゃんが話を振ってくる。
りんちゃんに話しかけてもらえるだけで嬉しかった。
そして心の奥の奥の、そのまた奥——今まで一緒にいたはずの柊のことを、確かに、私は邪魔だと感じたのだ。柊との他人のふり、それがりんちゃんに嘘をついているようで心苦しかったのかもしれない。私の秘密、それを晒していない柊に対して後ろめたさを感じたのかもしれない。
結局のところ、どこかに寄るのはまた次の機会に後回しにされた。りんちゃんがそういう風に話を持って行ってくれた節がある。
私の最寄り駅につき、二人と別れた。
二人の背中が次第に離れていく。春の風が花粉を運ぶ。どこかの誰かがくしゃみをする。誰にも聞こえない声で、柊がつぶやく。
「面白くないな」
★柊 和花
私は生き物を見るのが好きだ。特に珍しい生き物、可愛ければなおよしだ。生き物は動物に限らず、人間でもいい。
小さい頃からそうだった。
小学校の時には常にクラスメイトを観察し続けた。周囲からはしばらく無口な人間だと思われていて、友達もいなかった。しかし相手のことを理解すれば、自分が起こすアクションにより相手がどう動くのかわかってくる。相手の喜ぶことをすれば友達になれるし、相手の嫌がることをすれば当然嫌われる。
周囲を観察した結果、自分は他の人よりも努力をせずに良い結果を得ることのできる人間だということがわかった。テストはクラスでいつも一番だったし、所属したバスケクラブでは当たり前のようにレギュラーを勝ち取ったし、なにをするにしても私が上位にいるのが当たり前だった。
それが嫌味にならないように立ち回ることも忘れず、周囲からの称賛は日常になった。誰からも好かれ、誰からも期待され、誰からも一目置かれる特別な存在となった。
つまんねえ。
そんな考えが浮かぶのは時間の問題だったのだと思う。順風満帆な人生なんてゴミだ。周囲の人々の期待はレールとなり、その上を走るだけの人生のなにが面白いのだ。
自分の生き方に反吐が出た。
だから、私は別の生き方に夢を見た。
七色に輝く鳥のように自由に飛び、腕の長い猿のように木々を伝い、目のつぶれた深海魚のように誰にも知られずに泳いでみたい。校則に縛られずに髪を染めているあの子の生き方を見た。交通事故で片腕が動かなくなったあの子の生き方を見た。そこらの男の子供を宿して周囲から後ろ指をさされて退学するあの子の生き方を見た。
普通とは外れた生き方を見ることに私は喜びを覚えるようになり、そのためであれば自分からアクションを起こしていくことも多かった。
そしてハルに出会った。
二ヶ月ほど前の卒業式の日のことだった。
一つ上の学年がいなくなるなんてどうでもいいことで、私は卒業式をさぼって適当に校内をぶらついていた。
式の行われている体育館から逃げるように遠ざかる。少し黒味がかった雲のある空を見上げる。学校の中庭に足は差し掛かる。手入れの行き届いているだか行き届いていないんだかよくわからない生垣を横目に歩く。水を噴き上げる機能を失った噴水を中心にした池があった。
その傍にあるベンチに、誰かいた。
顔の半分をすっぽりと覆うマスク、必要以上に見えるほどの徹底した厚着、スカートの下から延びる黒いタイツ。肌色の部分がほとんど見えないそのスタイルは学校の中では目立っていた。
あいつもサボりかと思う。
別に大した考えもなかったが、私は彼女の座っているベンチに近づいていき、先客と人ひとり分の空間を空けて座った。
すぐ後ろの池の水音、生垣が風を受けて擦れる音、体育館から届いてくる生徒たちの重なった声。無言の世界にも、完全な静寂は訪れない。
先客が立ち上がる気配がした。
目も向けなかったが、確かに彼女は立ち上がってどこかに行こうとしていた。足音が遠ざかろうとしていた。
「ねえ」
彼女は私の声を聞いて足を止める。だけどこっちに顔すら向けない。互いに目を合わせるつもりのない不思議な距離感だった。
「一緒に抜けだそっか」
「は?」
彼女がこっちを向いた。今まで話したことがないどころか名前すらも知らない相手に呼び止められ、しかもどこかに行こうと誘いを受けたら誰でも彼女と同じような反応をするだろう。
私は彼女に目を向け、いたずらっぽく笑ってやった。
学校を抜け出してどうでもいい話をした。最初は警戒して口数も少なかった彼女だが、次第に学校の愚痴なんかを話し始めて、私はそれに共感を示してトークをそれなりに盛り上がる。
トークアプリのIDも交換した。彼女はやり方がわからないと申し訳なさそうに言い、電子機器に慣れていないおばあちゃんのような手つきで私の画面から二次元バーコードを読み取った。トークアプリのホーム画面を見て、互いに柊、ハルという名前を知った。
日も暮れはじめたところで話を切り上げ、
「またね」
と再会の約束をした。
ハルもまた、慣れないように手を振ってまたねと言った。
私がこの時、ハルという人間について分析した結果はこうである。
彼女は別に孤独を望んでいるような人間ではないということだ。しかし卒業式をさぼるほどに彼女は孤立している、もしくはそういう立場を演じている。肌の露出を極度に嫌っていることが要因なのだろう。ひどい傷や痣があるのかとも思ったが、それなら傷や痣のある場所だけを隠せばいい。
彼女は全身に秘密を持っている。それは肌の一部からでも露出してしまうほどに淡い秘密だ。それが原因で、彼女は人付き合いに対して恐怖を抱いている。
秘密の内容自体に興味はない。だけど、その秘密から生み出されていく彼女の人生には興味があった。
なのに、真鈴の存在がハルを凡百な存在に塗り替えようとしている。
幼馴染である真鈴は、同じ幼稚園小学校に通っていた。中学校で一度別れ、また高校で同じになった。よく懐いてきて可愛い子だったが、真鈴が下す自分の評価は周囲の評価よりもずっと低いものだった。
私も妹も成績は優秀で運動もできたほうだったから、それを見てきた真鈴の母親が真鈴に今以上を求めていたのかもしれない。そういったところに彼女の自己評価の低さが出ているのだろう。
それなりに面白い子だったので、高校ではまた幼馴染として何度か真鈴と休日に遊びに出かけた。そこでハルに出会ったのはただの偶然だったが、ハルに友達が増えること自体はいいことだと思った。
が、ハルがここまで真鈴に依存するとは思わなかった。
ハルは、真鈴に対して度を超えて忖度し、そこらのゴミたちと同じように他人にへつらうつまらない人間になっていく。真鈴もその状況に決して悪くない感情を抱いている。
あのショッピングモールで、なにかがあった。
考えられる原因は一つしかない。
ハルの秘密が真鈴にばれた。
その秘密を真鈴が受け入れ、ハルは真鈴に対して秘密を隠す必要がなくなって今までの対人関係にはなかった安心感を抱いている。
きっと、ショッピングモールでハルが急にいなくなったあの時だ。真鈴は私に嘘をつき、ハルが消えたほうとは逆のほうを指さした。真鈴はその時にハルの消えた本当の方角へと走り、そこでハルの秘密を知った。
そんなところだろう。
真鈴は今まで私に嘘を吐いたことなど一度もなかった。
真鈴が嘘を吐いてまで得たかったものとはいったいなんだ?
学校が終わり、校門の側で二人が来るのを待った。三人で一緒に帰り、駅でハルを見送った。
ハルの姿を直接見て、やはりこのままではつまらないと感じた。
真鈴と二人での帰り道。
——さて、どうしようか。
◎菜摘真鈴
のんちゃんは私の憧れの人だった。
テストではいつも一位か二位だったと聞いているし、スポーツでは中学のバスケ部で全国大会まで行ったらしい。お母さんからは和花ちゃんを見習いなさいと口を酸っぱくして言われたが、私などという平凡な人間がそもそものんちゃんの真似をすることすらもおこがましいのではないかと考えた。
彼女の近くに住んでいるということが誇りであり、彼女のことを小学校から知っているということが自慢だった。
しかし中学では別々になってしまい、勉強をなんとか頑張ってのんちゃんと同じ高校を目指し、合格した。高校で久々に再開した彼女は、髪を金色に染めて不良になっていた。周囲との人間関係をおざなりにし、学校のイベント事をたまにさぼったりしているらしい。
それでも彼女の成績は優秀だった。
彼女はやっぱり他の人間とは違うのだ。
「——くないな」
隣を歩いているのんちゃんが呟いた。
「ん、なにか言った? なにがないの?」
聞いてみるけど、別になんでもないよおとはぐらかされる。
「そんなことよりもさ、かんじきさんとだいぶ仲良くなったんだね。かんじきさんって、なんだか人付き合いが苦手そうな雰囲気だったのにさ。りんちゃんってば人たらし」
「別にそんなことないよ。ハルちゃんって話してみるとすごくいい子なんだから」
「へえそうなんだ」
「そうだよ。クラスでは二人で話すようになったんだ」
「二人で」
線路沿いを歩く。仕事をしてなさそうな交番の前を通り過ぎる。
「そうそう。ハルちゃんってね、お昼は自分でお弁当を作ってるんだよ。ハンバーグをちょっと分けてもらったんだけどすごく美味しかったの。あれはきっといいお嫁さんになるね。うん。間違いない」
「へえ、それは私も食べてみたいな」
「じゃあのんちゃんも私たちのクラスに来たらいいよ」
「先輩が教室に入ってきたら、他の子たちがかしこまっちゃうんじゃない?」
私は確かにそうかもねと答える。
初めから、のんちゃんが私の教室に来るだなんて思っちゃいない。だけどもしものんちゃんとハルちゃんで、三人一緒にお弁当を食べれたらそれは素晴らしいことだと思う。
のんちゃんは、問題児と優等生の両面を持つ生徒で、学校ではそこそこの有名人だ。
今まで誰とも関わろうとしなかったハルちゃんと、有名人ののんちゃんで、一緒にお弁当を食べる風景は、他の生徒から特別な視線を向けられることだろう。
それを想像するだけで笑顔になった。
あ、
「そうだ。ちょっとだけコンビニに寄っていい?」
「いいけどなに買うの?」
「マスクを買おうかなって」
「風邪?」
「いや、そうじゃないけど。ハルちゃんっていつもマスクしてるでしょ。それだとクラスで目立っちゃうし、人見知りのハルちゃん的にはあまりよくないことかなって」
「だから自分もマスクして、かんじきさんだけを目立たせないようにするんだ」
「そうそれ」
へえ、とのんちゃんがこちらの目を覗き込んでくる。私のハルちゃんを想う行動に感心したのかもしれない。だけどのんちゃんの視線は、私の眼球を貫いたもっと奥を覗き込んでいるようだった。
「かんじきさんはなんでずっとマスクしてるんだろね。厚着にしてもそうだけど、まるでなにかを隠してるみたいじゃない?」
「そうかな」
「ねえ、りんちゃん。秘密ってどこに秘めておくものだと思う?」
質問の意味がわからなかった。
「簡単な話だよ」
のんちゃんが立ち止まったので、私も立ち止まる。互いに向き合う形になる。歩道のど真ん中で対面する女子高生は、周りから見れば奇妙なものに見えるはずだ。のんちゃんがこちらに手を伸ばしてくる。のんちゃんの手が私の鎖骨の間に触れた。
「この胸に、もしかしたら首に、ひょっとしてこの唇に、」
のんちゃんの手が徐々に上に滑り、首を通り、あごをなぞってやがて唇に触れた。
「秘密はどこかに潜んでいるはずなの」
のんちゃんの手は唇から横に逸れる。私の頬に手が添えられる。
そのまま顔を寄せられて、キスでもされるんじゃないかと思ったほどに私の思考はかき乱されていた。
「この肌を貫いて、さらにその奥の血管まで覗きこめば、きっとかんじきさんの秘密もわかるのかもしれないね」
心臓が高鳴った。
血管、という言葉でハルちゃんの血の色を思い出した。なんでそんな言葉がのんちゃんの口から出てくるのか、まさかのんちゃんはハルちゃんの秘密を——
のんちゃんから視線を逸らした。恥ずかしさを誤魔化すように、のんちゃんの手から逃れる。
「やっぱりよくわからない」
努めて平静を装いながらまた歩き出す。のんちゃんもそれに続いた。のんちゃんの視線から逃れたことにより、妙な緊張がほどける。
「そういえば、りんちゃんが髪を染めたのっていつからだっけ? 昔はボンベイみたいに黒かったよね」
脈絡もなく話が変わった。いや、のんちゃんの中では何かが繋がっているのかもしれない。でもなんにしても話題が逸れたことは喜ばしいことだった。
「高校に入ってからだよ」
のんちゃんが髪を染めていると知って、私も控えめに髪を染めてみたのだ。
「それがどうしたの?」
のんちゃんは別に、と笑って答えた。
「それよりほら、コンビニに着いたよ。マスク買ってきなよ。私は待ってるからさ。いってら」
のんちゃんが手を振っている。私はそれに背中を押されるようにコンビニに入る。目当てのマスクと、そしてのんちゃんと自分の分の二人分のアイスを買ってコンビニを出た。
のんちゃんは、地面に埋め込まれたコ型の鉄杭のようなものに腰かけていた。彼女にソーダ味の棒アイスを渡す。彼女は喜んで受け取り、二人で同じアイスを食べながら帰り道を歩く。
のんちゃんは特別機嫌がよさそうだった。
「なんだか嬉しそうだね」
斜陽に照らされたのんちゃんが、見透かしたような瞳で言う。
「やりたいことが決まったんだ」
三日後
なんてことない日になるはずだった。
いつもみたいな晴れの日に、いつもみたいな登校風景に、いつもみたいな教室の騒がしさがあるはずだった。今日もハルちゃんに話しかけよう。今日はマスクをしてみたんだ。ハルちゃんとは違う白色のマスクだけど、これでおそろいだね。
すでに開いている教室のドアをくぐる。
教室に異様なざわめきが響いている。
なんだと思って、教室の様子を眺めてみた。クラスメイトの視線が一点に集中している。
その視線の先には、私が足を赴こうとしていた場所がある。
視線の先にはハルちゃんがいるはずだ。
彼女がこんなにも注目を浴びる理由はなんだ。
一歩を踏み出すたびに嫌な予感に襲われる。壁のようになっているクラスメイトの列に無理やり入り込む。
まず目に入ったのは、ハルちゃんの助けを求めるような視線だった。クラスメイトの中から私を見つけて、わずかな希望に縋るようなその瞳を見た瞬間に、私は彼女のことを助けないといけないと思った。その時は確かにそう思ったのだ。
わずかに視線を下に向けると、ハルちゃんの手に切り傷ができていて私たちの真っ赤な秘密が漏れ出していた。隠すことができないほどの量で、机や椅子に溜まったそれらが地面に落ちて面積を広げている。
私はその時体を動かすことができなかった。
だってそれはハルちゃん本人と、私しか知らない秘密のはずなのだ。クラスメイトの凡人どもがおいそれと目にしていいものでは決してない。
それは私の特別だ。私とハルちゃんの繋がりだ。どうしてこうなった。もっと早く登校すればよかったのか。この事態を防ぐことはできなかったのか。しかしもう遅い。事態はすでに起きてしまっている。なんとかこの秘密を隠さないと。どうやって。いっそのこと目撃者全員を殺してしまおうか。そんなの現実的な解決策じゃない。
思考の濁流にのみ込まれている私を差し置いて、学級委員長の花坂優里亜が、事態を理解できていないクラスメイトを押しのけてハルちゃんに近づいた。彼女は自分のハンカチを彼女の切り傷に巻き、さらにいつの間にか手に持っていた体操服で彼女の手を隠した。
「道あけて。かんじきさんを保健室に連れて行くから」
いつもの高圧的な物言いで、花坂は手を動かしてクラスメイトの壁を分断させた。
「あとそこのあんた。バケツとぞうきんを持ってきなさい。床の血を拭いて。ほらさっさと動く」
なにをしてるんだこいつは。なんでお前がそこにいるんだ。花坂は周囲に指示を出していく。私はそれを見ているしかない。
血が赤いんだぞ。
どうしてお前はそんなに普通にしていられるんだ。突飛な事実を突きつけられてわずかな動揺もないのか。それは私にしかできないことじゃなかったのか。
花坂が教室を出る前に振り返った。
「このことを他の人に言ったらお前ら殺すから」
花坂優里亜は責任感の強い人間だった。授業では真っ先に手を上げて、誰もやりたがらない学級委員長に立候補する変わったやつだ。しかも誰にも忖度しない高圧的な物言いのせいで、彼女をサイボーグだと噂するやつもいる。一部の人間には疎まれているが、自分の信じていることを疑わずにまっすぐに進んでいくその姿はなぜか嫌いになれない愛嬌のようなものがある。
私にとっての彼女はそういった評価だったが、いま変わった。
自分の意に沿わない行動を、まるで自分が正しくて当たり前だと突き進んでいく彼女の姿には不快感を覚える。彼女を疎んでいる連中もきっとこういう気持ちだったのだろう。
花坂の影響で、クラスメイトはせっせとハルちゃんの血を掃除し、他のクラスの人間からなにがあったのかと聞かれてもなにもなかったと誤魔化している。クラスでもなるべくハルちゃんの血の話題について触れないように努め、さらには出しゃばりの武井晴彦がこのことは俺たちだけの秘密にしようと教室の前でのたまい、クラスの空気に同調するしか能のない女子どもが賛成といって無邪気に笑っている。
なんだこれは?
こんなはずじゃなかったのに。
なにかがおかしい。なにかが起こっている。
そうだ。ハルちゃんの元に行かなければならない。彼女のことをわかってあげられるのは私だけなのだから。
私は席を立ちあがる。場の空気などお構いなしに教室を出た。
廊下をしばらく歩くと、のんちゃんがいた。
「ねえなにかあった?」
どうしてのんちゃんが、一つ下の学年の階にいるのかなんて疑問も浮かばなかった。そもそも、のんちゃんの言葉をまともに聞き取れていない。
「もしかしてハルになにかあった?」
彼女は心配そうな声音で言った。でも答えている余裕はない。今すぐにハルちゃんのところに行かないと駄目だ。そうじゃないと彼女の秘密がさらに多くの人に晒されてしまう。
ハル?
おかしい。なにかがおかしい。
私はこの時のんちゃんの顔をちゃんと見た。
「あ、えっと、今のは……まあ、別に隠すことでもないんだけどさ」
彼女の戸惑っているような表情は、どこか芝居じみたものに感じた。
「りんちゃんに紹介されるより前にハルのことは知ってたんだ。たまに一緒に帰ったりしててさ。で、さっき逮捕された人みたいに連れていかれるハルを見かけて、なにがあったのかをりんちゃんに聞こうかなって思ったわけ。知らない仲でもないから心配でさ。それでなにがあったの? ねえ聞いてるりんちゃん?」
のんちゃんは、ハルちゃんのことを私よりも早く知っていた。それはいったいどこまで知っていたんだ。もしかして、秘密のことまで知っていたのではないか。
ハルちゃんの秘密は、自分一人が知っているわけでもなくなった。
しかもその秘密を最初に知っていたのは自分ではなかったのかもしれず、さらにはハルちゃんが心を開いていたのは自分だけではなかった。
ハルちゃんにとっての特別はすでに失われてしまった。
視界がぐらつく。あらゆる音が雑音になる。体が引き裂かれるような錯覚を覚え、膝から崩れ落ちてなにも考えることができなくなった。
私は、特別な存在ではなくなってしまった。
☆樏ハル
一人の女生徒に連れられた私は、まるで突然捕獲された宇宙人みたいだったと思う。現状を理解できずにただ彼女に手を引かれ、多くの好機の視線に晒されながらひたすらに足を動かした。彼女が睨むことで人波が分かれ、その間をVIP待遇みたいに進んでいく様は、自分が他の人間とは違うのだということを思い知らせるには十分だった。
これから実験場にでも連れていかれるのかと思った。
これから栄養をチューブで送り込まれる生活になるのかと思った。
きっとこのまま校舎の外に連れていかれる。女生徒は、UMA担当の政府からのエージェントかなにかなのだ。彼女は校舎の外に待ち構えている黒スーツのサングラスの男に私を引き渡し、ビシッとしたスーツに身を包んだ偉そうなおじさんに任務完遂ご苦労とねぎらいの言葉をかけられる。私は黒塗りで窓にスモーク加工を施した車に無理やり乗せられて、すぐにアイマスクを着けられて視界を奪われ、どこに行くのかを尋ねたら口をガムテープで塞がれて車の振動に身を委ねることになる。
きっとそうなるに違いない。
血の赤い人間なんて、そんなものは存在するはずがないのだから。
それがきっと、私が歩むべき正しい生き方なのだから。
——なんてことを考えてたら保健室に着いていた。
薬品の匂いと、風を孕んだカーテンと、資料の散乱した机とタイヤ付きの椅子がある。女生徒は保健室を見回し、ベッドの周りのカーテンを一つ一つ開けていった。
「誰もいないわね。樏さんはここのベッドに座ってて」
言われるがままにベッドに腰を下ろし、馬鹿みたいになにも考えずに女生徒の動きを目で追っていた。彼女は、薬品の並んでいる棚の下のほうを開けて、四角い箱を取り出した。それを持ってこっちに近づいてくる。なにかの実験道具かと思った。でもよく見てみればそれは救急箱に他ならなかった。
女生徒は私の腕に巻かれた体操服を取った。体操服には、花坂と名前が刺繍され、赤い血がべっとりとついていた。
「思ったよりも浅い傷だね。刃物で切った?」
私の傷を見て、血の赤を見て——花坂さんはまるで世間話のように私に尋ねてきた。その瞳には怯えはなく、純粋な心配があるように感じた。
校舎の外の黒服に連れていかれないことをやっと理解した。私は普通の生徒が怪我をした時と同じ対応を受けている。
状況を理解したと同時に、花坂さんの体操服を汚らわしい赤色で染め上げてしまったことを申し訳なく思った。もうあの体操服は使えないだろう。
花坂さんはガーゼを私の傷に当てる。ガーゼに、じわじわと赤いシミが浮き上がってきていた。
「あまりずけずけと言うのも嫌だけど、血の色が変わる病気なんでしょ。変血病だったかしら?」
そんな病気知らない。
「詳しくは知らないけど、血液中に毒素が混じって、防衛反応で血の色が変わっちゃうのよね。私も生徒会の先輩から聞いて最近知ったの。この病気にかかった人が周りの人からどんな扱いを受けるのか」
花坂さんが消毒液を私の傷に吹きかけ、ティッシュで消毒液を拭った。
「でも大丈夫よ」
血が固まりだした。それを見た花坂さんは絆創膏を取り出し、私の手の平にできた切り傷にぺたりと貼った。
「嫌がらせを受けたり、陰でこそこそ言われたり、嫌な視線を受けたと感じただけでもいいから、ちゃんと私に相談しなさい」
テーピングを巻いてくれた。血が簡単に染み出さないように、丹念に何度も巻いてくれた。
「そいつら全員反省するまでぶん殴ってやるから」
花坂さんは、ちょっと悪そうに笑った。
胸になにかが込み上げてくる。涙腺に水分が溜まっていくのを感じた。
りんちゃん以外にも、私の秘密を受け入れてくれる人がいた。いままで閉じていた世界が広がっていくように感じた。世界は私が思っているよりも冷たくないのかもしれない。ほんの少しの勇気があれば、私にも、普通の人が過ごす当たり前を手に入れることができるのかもしれない。
私は泣いた。
こらえようとしたのだけど、次々と溢れてくるものをどうしても抑えられなかった。
しゃっくり交じりで鼻水まで少し垂れてくる。みっともない姿をこれ以上見られたくない。だけどもう自分の意思ではどうすることもできない。
花坂さんは、なにも言わずに傍にいてくれた。隣に腰かけて、ただひたすらに時間の流れに身を任せている。
自分の泣き声はうるさいくせに、周囲の音が妙にクリアに聞こえる。変な感じだ。悲しくもないくせに泣きじゃくる自分がいて、それをもう一人の冷静な自分が頭上から見下ろしているような感覚がある。
どっちが本当の自分かわからない。
だけどきっと、どっちも自分なのだと思う。なさけなくて弱虫で、それでも冷静なふりをしている馬鹿なやつ。
いつになったら涙は止まるのだろう。
秒針の進む音が間延びして聞こえる。
保健室に入り込む風をいつもより温かく感じた。
授業の始まりのチャイムは、とっくに鳴っていた。
▽▽▽
目を腫らしたまま教室には帰りたくないと言って、花坂さんには先に教室に戻ってもらった。
ちょっとした時間稼ぎのつもりだったが、さすがに一時間もしたら教室に戻らないわけにもいかない。
重い腰を上げ、鉛のような足を引きずって、なんとか教室の前にたどり着く。
教室はまだ授業中だ。そんな中扉を開ける者がいればそれはもちろん注目の的になる。あらゆる視線から目を逸らし、教科書を手に持った先生に軽く頭を下げてから自分の席に戻った。
恐ろしく長い体感時間を経て、授業が終わった。
花坂さんは血の色を受け入れてくれたが、他の生徒もそうだとは限らない。ありえざるものを見るような視線を向けられたら、耐える自信がなかった。だから授業と授業の合間の時間は、顔を上げることもせず、ただひたすらに教科書を読んでいるふりをした。
そこに、女生徒が三人歩み寄ってくる。
「樏さん」
話しかけてきた。声からしてりんちゃんでもないし、花坂さんでもない。
私は恐る恐る顔をあげた。血の色のことを聞かれるのかと思ったら、気が重くてしょうがなかった。奇異の視線を向けられることを思ったら、胸がむかむかして吐きそうになった。
「樏さんの秘密はちゃんと黙っておくから」
「え?」
唇の横に手を添えて、声が周囲に聞こえないように配慮した言い方だった。
「クラスのみんなでちゃんと話し合って決めたんだ」
もう一人の女生徒もそんなことを言ってくる。
「なにかあったら相談して。私たちは樏さんの味方だからね」
さらにもう一人の女生徒もこんなことを言ってきた。
三人の女生徒は、言いたいことを言ったらさっさと自分たちの席に戻っていった。
そのままあっけに取られて、顔を上げたまましばらく呆けていた。
そして気づいた。
私に対して、気味悪がっているような視線が一つもない。
さらに気づいた。
教室って意外と広いんだな。
そういえば、あの三人の女生徒の名前はなんだっただろう。
さっきまで泣いていたくせに、口角が少し上がっている自分に気づいた。マスクを着けているのも忘れて、机に突っ伏して自分の顔を隠した。
なんだろう。今まで秘密を隠していたのが馬鹿みたいに感じるぐらいに、秘密がバレてからいいことが続いている。
自分の周囲に張っていたバリアが薄くなっているような感じがする。
私はきっと浮かれている。
刃の剥きだしのカッターナイフが自分の机に入っていたことも、スマホで「変血病」と調べてもなにも出てこなかったことも、その情報を話したという花坂さんの生徒会の先輩についても、クラスメイトたちの異様な理解力の高さについてもまったく気にならないぐらいにふわふわしている。
恐怖とは、未知である。
知らないからこそ、人は様々なことに思考を巡らせて勝手に嫌な方向に結論を導いていく。幽霊が怖いのは、幽霊そのものが怖いからではなく、どうして幽霊という存在がいるのかわからないから怖いのである。死が恐いのは、死そのものが恐いからではなく、未知の体験で自分がどのような状態に陥るかわからないから恐いのだ。
想像の余地こそが恐怖の正体であり、そこに科学的——それが真っ赤な嘘であろうともその正体に理屈が通れば恐怖は和らぐ。
与えられた知識は、すべからく自分のものであると勘違いするのが人である。
何者かによってハルに都合の良い情報が与えられている。
そんなことにすら、今のハルは気づけない。