起
著者S
夕焼けを背負い話しかけていたため、こちらに相槌を打つ彼女は目を細めていた。
春を知らせる風は頬に柔く、彼女の肩まである金髪が東風に靡き、良い香りがした。
「なんだよう、その顔」
よく見ようと手で庇をつくり、彼女は顔を覗き込んできた。
「高いシャンプーでも使ってるの?」
女同士で髪の匂いを褒めるのもなんなので、興味も無い銘柄を尋ねた。
「おっ、よく気付いたね。珍しい。ちょっとだけ良いのをね、買ったの」
言いながら後ろ髪をバサつかせる様が、香りに反し男らしい。
「なるほど。匂い嗅いでたから、あんな、ミーアキャットみたいな顔してたんだ」
「そんな顔してない」
「してたよう」
公園に人影はもうなく、彼女はベンチから立ち上がり、スカートを二、三度払った。私も立ち上がり軽く伸びをすると、ポケットからいつもの、黒いマスクを取り出した。
お互い門限は特になかったが、日が暮れたらどちらからともなく帰り支度をするのが恒例になっていた。
「テストやだなぁ」
帰路につき、彼女は今日何度目か分からない溜息をつく。
商店街では街灯に灯りがつき、橙色が人々の営みを染めていた。
「私は好きだな。直ぐ帰れるし」
精肉店のコロッケの匂いに鼻をひくつかせ、気もそぞろに私は返す。
「でた。学校嫌いすぎ」
「だから学校っていうか、外が嫌いなんだって」
「そりゃあ、年中長袖だったら外出るの嫌になるでしょ」
少し驚いて私は彼女の方へ顔を向けた。彼女は一瞬しまったという顔をした後、ばつが悪そうに頭をかいた。
「ごめん」
「全然」
気にしていないとまで言うのも大袈裟なので、なるたけお気楽に聞こえるよう努めた。
なんだか少し気まずくなって、お互い特に話すことのないまま駅に着き、改札をくぐる。
しかしそのとき、私たちが乗る方面の電車が発車するアナウンスが聞こえた。
「走ろう!ハル」
まあ、次のに乗ればいいかと私が考えていた矢先には、もう手を引かれていた。
「ちょっと、別に急いでないんだから……」
階段を駆け上がる背中に声をかけるも届かない。私は万が一にも階段を転ばないようにと、必死で足を動かした。
しかし最後の段に彼女が足をかける瞬間、思いっきり蹴躓くのが後ろからよく見えた。
咄嗟に彼女は手を離し、幸い私は転ばなかったが、本人はそのままつんのめった。
電車は既に動き始めており、どのみち間に合うことはなかったようだ。
「大丈夫?」
周囲から視線を感じながら声をかける。彼女はのっそりと立ち上がり、砂を払った。
「ハルは?」
「私は大丈夫。でも急に走ったら危ない」
「……うん」
恥ずかしいのか、ぶっきらぼうに返事をした。なんだかそれが叱られている小さい男の子みたいで可笑しかった。
結局五分後には次の電車が到着した。
「別に終電でもなかったのに」
気まずくなっていたのも忘れて、私はさっきのことをまた掘り返し、少し意地悪に笑って言った。
「走って間に合うんなら、走りたいんだよう」
自宅の最寄りで降りると、彼女も降りて改札まで見送りにきてくれた。
それじゃあといって別れようと振り返ったとき、私は彼女の膝から血が出ていることに気がついた。
「怪我してるじゃん!」
私は膝を指差し、慌てて鞄から絆創膏を探す。
「あれ、本当だ」
当の本人は暢気な物だ。
私はしゃがみ込み、ティッシュで傷口周りの血を拭った。白い繊維にエメラルドのような緑が拡がっていく。
「……柊の血は綺麗な緑だね」
「変なの。色なんてみんな一緒でしょ」
私はその色から無理矢理視線をはがし、絆創膏を貼り終え立ち上がる。
「ありがと」
「これに懲りたら、駅では走らないこと」
「はいはい」
私たちは少しだけ笑って、手を振りあった。
「バイバイ、ハル」
「じゃあね、柊」
♢
学校は午前で終わったが、お母さんにテストだと伝え忘れていたため、お弁当を持ってきていた。どうせだし食べてから帰ろうと、普段使っている、屋外にある階段の陰へ向かった。
しかし近付いていくと、どうやら先客がいたらしく、姦しい声が聞こえてきた。
溜息を一つ吐いて別の場所を探しに向かおうとしたとき、先客たちからよく知る声が聞こえ足を止めた。
物陰からこっそり覗くと、柊がいた。
手元のスマホから顔を上げないまま、騒いでいる他の人たちに相槌を打っている。
「学校ではあんな感じなんだ……」
学年が違うため殆ど学校で見かけることもないし、そもそも学校では柊と口をきくこともない。別に相談した訳ではないが、暗黙の内にそうなっている。多分、私が気を遣わせているから。
学校の直ぐ外にある田んぼにはもう蛙がいるようで、彼女たちの喧噪と競うようにして鳴き声が響いている。
なんだかスカートの短いあの人たちに囲まれている柊を見ていると、あそこで一つ、世界が完結しているような錯覚を覚える。
暫くそこで呆けていたが、あまり余所様の集まりを覗き続けるのも具合が悪く、踵を返した。
それにしても、人とご飯を食べているのにずっとスマホをいじっているのはいかがなものかと、勝手に柊の交友関係を慮った。思えば特にいじるでもなく、ただ画面を見つめていた。もしかして、あまり仲が良くない人たちなのかなと少し悪い想像をしてしまう。
しかしそこではたと思い至った。
テスト中に音がしたらまずいと思い電源を落していた自分のスマホを取り出し、起動した。暗い液晶にロゴが浮かぶ初期画面をしばし眺める。なんだか平時よりも随分長い気がしたそれが終わると、メッセージ系のアプリを開く。
『もう帰った?』
簡素なメッセージが一つ、十分程前にきていた。内容もさることながら、柊がアイコンにしている首を傾げたシマエナガが喋っているみたいで、つい頬が緩んだ。
『今から帰るところ』
そうとだけ返しスマホをしまおうとすると、一瞬でメッセージに既読の文字がつき、返信が飛んできた。
『アタシも帰るところだから校門で待ってて!』
私は軽い足取りでそのまま教室に鞄を取りに戻った。
教室の窓からちらと校門を見遣ると、西日を受けて光っている金色の髪が、キョロキョロと何かを、あるいは誰かを探しているようだった。
私は早足になりながら、お弁当が冷めてしまうことを心の中でお母さんに謝った。
♢
「随分プリンになってきた」
私は柊の頭を眺めて言った。
「あー、染めなきゃとは思ってるんだけどね」
前髪を一房つまみ、手で弄ぶ、そんな仕草も柊がやると、なんだか様になっている。
私たちはいつもと同じように、他の生徒と会わないよう、わざと遠回りの道を並んで歩いていた。四月の終わりとはいえ昼過ぎはそろそろ暑く、マスクが張り付くのが少し不快だった。
暫く他愛もないことを話していたが、旅行代理店の前を通り過ぎたとき、ちらと柊がそれを見咎めたなり急に押し黙った。前髪をいじりこちらをちらちらと見ながらも、何かを逡巡しているようだった。
「なに?」
我慢できなくなって私が尋ねると、柊はわかりやすく狼狽えた。何かを言おうとしては口を噤み、それをしばし繰り返していたが、ようやく口を開く。
「あのさ、そろそろゴールデンウィークだなって」
「うん」
勿論生来の外出嫌いである私がこの長期休暇というイベントを忘れてはいない。なので柊の口からその言葉を聞いたとき、良くないなと、直感で思ってしまった。
「なんか、予定とかってある?」
柊は、学校で私に話しかけてこない。私が年中マスクをつけて厚着している理由を、一度も聞いてきたことはない。その距離感が心地よく、だからこそ、きっと私はまだ彼女の隣にいる。それは殆ど偶然に近いもので、同時にとても脆いものだ。
なので私は少なからず驚いた。
この行いは、お互いが認識していたはずのぼやけながらも確かに存在するその線に、爪先を触れさせたことに他ならない。
ならば私は、どうするか。今までの私は、どうしてきたのだろうか。
ここまで考えて、そもそも今まで私にこんなに構う人間がいなかったことに気付いた。
彼女の方を見ると、視線を前に固定したまま歩いている。何でも無いように振る舞おうとして、かえって不自然だった。らしくなく緊張しているのだと気付いて、微笑ましく思った。
私は先程見たあの光景を思い出していた。制服を着た女学生たちが春の陽光の中、絵画よろしく笑い合っていた。過去も、未来も立ち入れないあの空間に柊はいた。私が知らない場所で、知らない表情を今までもしていたのだろう。
「ないよ、なにも」
私も柊に倣い、彼女の方を見ず答えた。
「あれ、ホントに?」
柊は驚いて振り返り、取り繕うのもさっさと忘れて破顔した。
「引きこもりに予定があるわけない」
そこまで露骨に喜ばれるとこっちが恥ずかしい。今度は私が彼女の顔を見られなくなる番だった。
「アズマモグラみたいなハルに予定はどうせないと思ってたけど、なんかテキトーに嘘吐かれると思ってた」
笑いながら中々に失礼なことを言う。
しかし普段の態度から、自業自得である自覚はあるので何も言わない。
「じゃあさ、どっか遊びに行こうよう」
彼女はすっかりいつもの調子に戻り、腕を組んでくる。
「人がいないところなら」
私は逃れるように身をよじったが、思いの外しっかりとつかまれていた。
「それだと殆ど駄目じゃん」
言いながら、柊は楽しそうに、スマホで何やら調べ始めた。
日はまだ高く、雲も千切れ千切れで、青い空がよく見えた。夏と違い、風が吹けば幾分か涼しくなり目尻が下がる。
隣では、ああでもないこうでもないと、色々な場所の候補を柊が挙げている。その笑顔を見ていると、あの光景にいた柊の涼しげな顔を不意に思い出し、どうしようもなく罪深い感情に囚われる。
あの生徒たちと柊がどれくらい仲が良いかなんて、私が知る由もない。
しかしきっと、柊がこんなに屈託なく笑うことを彼女たちは知らない。
それともこれは、私がそう思いたいだけなのだろうか。
「取りあえずさ、最初は服買いに行こうよ。そんでその服着て遊びに行こう」
まだ想像のことであるのに、心は既に当日へいるらしく、柊は目を輝かせている。
「いいね」
考えても人の心など分かるはずもなく、そも私には、自分の心さえ分からない。
ならこの一方的な在り方は、随分と歪なものに思えてしまう。
とにもかくにも、私たちは一つの線を超えた。不格好に、おっかなびっくりではあったけれど、間違ったものだとは思わない。なにせ柊が今、こんなにも楽しそうなのだから。
取りあえず今、私が第一に考えなければいけないことは。
服屋に着ていく服が無い。
♢
想像以上だった。服はいつもお母さんが買ってきてくれていたので、今まで服屋というものに縁が無く、言ってしまえば油断していた。
何故あんなにも店員さんが話しかけてくるのか。呼んでもいないのに、隣に立ち、聞いてもいないのに延々と、今季のトレンドだったりを捲し立ててくる。
柊と約束をしていた日が明日に迫り、予行演習もかねて服を買いに来たが、既に三店舗を逃げるようにして出てきてしまった。当然、肌着一枚とて買えていない。
休日のショッピングモールは人が多く酔ってしまい、服屋での心労もたたり、広場の木陰にあるベンチに座り込んだ。天気は快晴だったが、そのおかげで気温は初夏のそれに近く、少し目が回る。明日は念のためもう一枚持ってこようと考えながら、予備のマスクに付け替えた。
息を大きく吐き、背を仰け反らせる。木洩れ日がちらつき目を細めるが、不愉快ではなかった。
そのまま目を閉じる。音だけが頼りになり、遠くで泣いている子どもの声や、名前も分からない虫の声が俄に明瞭になる。
柊と出会ってからこちら、遅くまで外にいることも増え、季節の変化を匂いで捉えるようになった。流れ星は意外と普段から飛んでいることを知った。雲は日によって速度がまるで違い、窓を差し挟んで眺める夕焼けよりもまだまして燃え上がることを知った。
それが自分にとってどう作用したかは分からない。しかし、以前の自分には見えていなかったものが身近にあると知った。それは、恐らく意味のあることだ。ならばこうして人波に揉まれ、服屋で失敗することも
「無意味では、ないのかも」
瞼をあげ、空に独りごちる。外に出ることも、人に関わることも、十七年間避けて生きてきた。しかし今になって、考えを改めることになるとは思ってもみなかった。本人には決して言わないだろうが、これに敢えて名前をつけるなら、殆ど、感謝というものなのかもしれないなと、思った。
「あれ?樏、さん?」
取留めの無いことを考えながらうとうとと船を漕いでいたら、突然前から声をかけられた。瞬間眠気は吹き飛び、嫌な汗がうなじに滲むのを感じた。
数秒前の考えを翻す。やはり外にでると碌なことにならない。
「やっぱり。樏さん」
正面に直ると、小柄な身体に幼い顔立ちの女の子が立っていた。明るい色の髪を後ろで一つに結い、ポニーテールにしていて、ふんわりとした薄桃色のワンピースを着ている。
中学生と言っても通用するだろう。しかし中学生に知り合いはいないし、なんなら高校生にも知り合いと呼べる相手は一人しかいないけれど、相手は自分のことを知っているし、苗字で呼んできたことから、恐らく同級生だろう。記憶を総動員し、果ては中学、小学校まで思い返すが、そもそもクラスの半分も人を覚えたことがない。
「あっ、ごめんね、急に声かけて。一緒に来た人とはぐれちゃって、不安で。そしたら樏さんがいて、知り合いに会えたから嬉しくてつい……」
私が黙っているのをどうとったのか、向こうはわたわたと話している。身振り手振りが大きい子だな、と益体もないことを考えた。
「……ていうかあってる、よね?樏さん、だよね?……ですよね?」
うんともすんとも言わない私に遂に人違いを起こしたのではないかと、女の子は不安そうな顔になる。さすがにこのままでは不憫だと思い、白状することにした。
「うん、あってるよ」
知らない人と話す緊張で裏返りそうになる声を、無理矢理抑える。
「よかった~」
女の子は不安そうな顔を途端に綻ばせた。感情がころころと顔に出て分かりやすい。なんだか柊を思い出して、少しだけ緊張が解れる。
「ただ、ごめん。私あなたのこと……」
「りんちゃ~ん」
さっきから柊のことを考えていたために、聞き間違えたのかと最初は思った。しかし女の子が声のした方へ振り返りつられて見遣ると、柊その人が手を振りながら、駆け足にこちらへ向かってきていた。スポーツブランドのキャップをかぶり、紺色のシャツに細身のパンツをはいていて、スタイルが良いためか、ちっとも嫌みではなかった。思えば、柊の私服を初めて見た。
「のんちゃん!」
女の子は嬉しそうに、手を振りかえしていた。
のんちゃん。私はそれが柊のことを指していることに、一瞬気がつかなかった。
駆け寄ってくる柊はちらと私を見て、一瞬だけ眉を飛び上がらせた。表情が出やすい彼女にしては、よく抑えたと思う。
「りんちゃん探したよ~。トイレ行ったきり戻ってこないんだもん」
私たちの元へ来ると、柊は肩で息をしながら女の子に話しかける。
「ごめんね。来た道が分かんなくなっちゃって……」
女の子は、しゅんとうなだれた。なんだか所作がいちいち小動物を思わせる。
「それで……」
柊は視線だけをこちらによこし、彼女に私のことを尋ねた。
「あっ、この人は樏ハルさん。おんなじクラスなの」
同じクラスだったんですね。ごめんなさい。
私は改まって柊に挨拶することに気恥ずかしく思いながらも、どうも、とだけ言って会釈した。
「かんじき……さん。うん、よろしくね」
柊は小声で私の苗字をなぞり、キャップをとった。
「それで樏さん、この人は柊和花ちゃ……さん。私たちの一個上で、おんなじ学校だよ」
のどか。声には出さなかったが、私も柊と同じように頭でその名前を反芻した。
私たちは、このときお互いのフルネームを初めて知った。別に不便はなかったし、特に知る必要もないと、少なくとも私は思っていた。
そうして妙な経緯で初対面の人に知人を紹介されるというイベントが終わり、私は既に困っていた。いつ、それじゃあこれで、と切り出せばいいのか分からない。そうしたしばしの沈黙は女の子によって破られた。
「あの、樏さんさえ良かったら、一緒にみて回らない?私、樏さんと話してみたかったし……」
さすがにこれは予想外で、私は面食らった。私からしたらこの子は初対面だし、そもそも柊と二人で遊びに来ているところに、入って良いものなのか。というか帰りたい。
私は助けを求めるように、柊を一瞥した。
すると柊は任せろと言わんばかりにサムズアップをつくり、口を開いた。
「全然遠慮しなくて良いよ、かんじきさん!一緒にいこう!」
違う、そうじゃない。
♢
「びっくりしたよう。アタシ、ハルとの約束の日、間違えちゃったのかと思った」
ひそひそと話しながら、柊はくすりと笑った
聞けば柊には私と同い年の妹がいるらしく、その子の誕生日プレゼントを一緒に買いにきたらしかった。あの女の子と柊姉妹は小学校からの付き合いで家もご近所らしい。
「びっくりしたのはこっちなんだけど。なんで私を誘っちゃうの」
女の子が服屋で色々と物色しているところから少し離れたところで、聞こえないよう小声で話す。
「りんちゃんが話したそうにしてたし。それに、ハルに同い年の友だちできたらいいなあって思って」
なにを余計なことをと腹が立ったが、聞きそびれていたことを思いだし、そちらを尋ねる。
「そういえばあの子ってなんて名前なの?」
「あれ?おんなじクラスって言ってなかったっけ」
「だからなに?」
「うわあ……」
私が睨むと、柊はあさっての方向に視線をそらした。
「……菜摘真鈴ちゃん。まりんちゃんだから、りんちゃん。覚えてあげてね、かんじきさん」
ふふと笑いながら、呼び慣れなさそうに知ったばかりの名前を口にする。
「気持ち悪いからやめて、のどかさん」
私も声にして言ってみたが、目の前の人物とのどかという名前は一致せず、なんだか居心地が悪かった。のんちゃんとはさすがに言えなかった。
菜摘さん。教室で話しかけられたらたまったものではないので、顔と名前を今のうちに脳にたたき込む。
「良い子だよ。可愛いし。ピグミーマーモセットみたいで」
「ぴぐ……なに?」
柊が口を開きかけたところで、菜摘さんがとてとてとやってきて、自然と二人とも距離を戻す。
「二人とも、これどっちがいいかな」
菜摘さんはカーディガンを二着手にし、首を傾げてくる。確かに可愛い。あざといはずの動作がごく自然に見えて、ちっとも鼻につかない。というか同い年に見えない。
そんなとき、「やつ」が現われた。
いつの間にいたのか、音も無く、気付けばそこに立っていた。
「何かお困りでしょうか~」
突然現われた店員さんに、私は先程の敗戦がフラッシュバックし、半ばパニックになりながら、あっ、あっ、と言葉にならないものをただ繰り返すばかりだった。
「あっ、今は結構です」
菜摘さんは片手を胸の前でふりふりしながら、笑顔でそう言った。
「ではまたなにかあればどうぞ~」
「ありがとうございます」
言いながら菜摘さんはぺこりと頭をさげた。
一瞬のできごとだった。モンスターはそのまま巣に引き返し、何事もなかったかのように、イラッシャイマセ~、と妙なハイトーンボイスで縄張りを主張している。
菜摘さんは頭を上げると、私たちに向き直った。
「……それでこのカーディガンどっちの色が良いかな~。う~、迷う~」
……りんちゃんさんかっけえ!
♢
結局りんちゃんさんは二着とも購入した。選ばれなかった方を自分が着ればお揃いになるからと、はにかんでいた。可愛い。
時刻は夕方と言って差し支えなく、柊もいつの間にかプレゼントを買ってきていた。
どうせ居合わせたのだからと、私も入浴剤のセットを買って、妹さん宛にと柊に渡した。
最初は悪いと言っていたが、断り続けるほど柊も無粋ではない。
「疲れたし、どっかで休もっか」
大型連休の煽りもあり、客の数は増すばかりだった。そんな中でグロッキーになっている私をみかねて柊が提案してくれた。
店はどこもぎゅうぎゅうで、私たちは最初のベンチに戻ってきていた。
「はい、樏さん、水買ってきたよ」
りんちゃんさんは自販機で水を買ってきてくれた。柊は、ドラッグストアに薬を買いに行ってくれている。さすがに忍びなく、密かに身体を鍛えることを決意した。そのうち。
「……ありがと、りんちゃんさ……」
あっ、と思った時にはもう殆ど言ってしまっていた。疲れで頭が回らず、脳内で勝手に言っていた呼び方が出てしまった。彼女の顔をうかがうと、驚いた顔をしており、どうやらしっかりと聞こえたらしい。
「あっ、その、つい柊の………、柊さんの言い方が移っちゃって」
あたふたと言い訳をするが、余計にぼろがでそうになる。
「ううん違うの、びっくりしちゃっただけ。むしろこれからもそう呼んでくれたら、私嬉しい」
りんちゃんさんは照れたように笑って言った。気分を害してはいないらしく安堵する。
しかし、その後よく分からない沈黙が流れた。
呼べと?
隣に座った彼女を見遣ると、黙ってこちらを見つめている。
「あっ、じゃあその」
「うん!」
「……りん、さん」
「あはは、はい!」
日和ってしまいちゃんづけは無理だったが、一応及第点はもらえたようで、元気よく手を挙げて返事をしてくれた。可愛い。
「それじゃあ、あのね?」
私が彼女から出ているマイナスイオン的な何かを感じていると、りんさんが居住まいを正した。
「私も、ハルちゃんって、呼んでいい?」
さらりと、何かが唇を伝った。
言い訳をすると、この日は日がな一日人波に揉まれていた。普段ろくに外にでない人間からすれば肉体的、精神的ストレスは甚だしく、身体が悲鳴を上げるのは自明の理だった。
つまりそのタイミングで鼻血が流れたのは、肉体が偶然限界を迎えただけであり、決してりんさんに耳元で名前を蠱惑的に囁かれたからではない。
鼻血が垂れた瞬間、全身が粟立った。鼻水でないことは、確認しなくとも感覚で分かる。
何故なら私は、生涯これに怯え続けて生きてきた。怪我なんかは気を付ければ案外しないものだ。しかしこればかりは、予想も予防も難しい。
「ご、ごめん。ちょっと私、トイレ」
マスク越しに鼻を押さえ、一滴たりとも垂らさないようにして私は駆けだした。
「あっ、トイレは逆方向だよ~!」
後ろからりんさんの声が聞こえたが、もう私はこの場から離れ、一人になることしか考えていなかった。取りあえず人目のつかない所を探し、一日歩き回って棒になった足を無理矢理動かす。終いに駐車場の端にポツンと立った封鎖された喫煙室を見つけ、中に身を滑り込ませた。
誰もいないことを確認するとマスクを外した。黒いおかげでぱっと見では血がついてることに気付かない。心拍数が上がったせいで血の勢いは止まらず、震える手でポケットティッシュを取り出し、鼻に宛がう。そこでようやく自分が泣いていることに気付いた。
泣いていたことが惨めに感じられ、余計に涙が零れた。
とまれ、とまれ、とまれ。
うなだれ、念じ、体を揺する。こうなると祈るほか無いことを私は経験から知っていた。
点点と血がひとしずく、またひとしずくと落ちていく。
それらをぼんやり眺めながら、今日一日のことを思い出す。
りんさん、店員さんへの対応が毅然としててかっこよかったなあ。服のセンスも良くて、どうせなら私の服も見繕ってもらったらよかった。後でちゃんと謝らないと。そういえば学校で出会ったときどうしよう。もしかして柊の言ってたように、友だちに……まあ無理だけど。血だまりに映った自分が自嘲気味に笑う。
そういえば柊って、妹がいたんだ。お互い家族のことなんて話さないから、知らなかった。けど全然姉って感じはしないな。あっ、でもりんさんと話しているときの柊はちょっとお姉ちゃんしてたかもしれない。薬買いに行ってくれてるのに、私がいなくなっててびっくりするかな。悪いな。ていうか柊の名前ってのどかだったんだ。なんだかすこし可愛すぎる気はするけれど。でも似合わないとも思わない。笑ったときの顔なんて本当に日溜りの……。
「……柊」
一人喉を震わせ、まじないのように唱える。それは空中に溶け消えて、直ぐにしじまが戸をたてた。
柊になら、言ってしまってもいいかもしれない。
血だまりの自分と目が合った。鉄の臭いが鼻につく。何を馬鹿なと目が語る。
しかしどこまでいっても一人遊びのその問答は、答えを先延ばしにする効能しか持っていない。
日は既に落ち、もはや血が何色かも分からなくなった。
さすがにそろそろ戻らなければと思った矢先、喫煙室の灯りが点いた。どうやら電気はまだ繋がっていたらしく、自動で定時に点く設定がそのままらしい。
暫くはジイジイと音を立てる電球を眺めていたが、この灯りの及ぼす意味に気付いた瞬間、背筋が凍った。
外から見たら、駐車場の中でポツンと光るこの小屋は目立つことだろう。
私が思い至るのとほぼ同時に、外からがらりと引き戸が開け放された。
鼻に詰めたティッシュには依然染みが緩やかに拡がっており、憎くて憎いその色が、私もあんただと笑っている気がした。
♢
「ハル、ちゃん?」
ドアの向こうに立っていたのは、りんさんだった。私のことを探してくれていたのか、息を切らしている。
「それ、何なの?」
ドアが開く瞬間ティッシュをかき集めようとしたが、全てを隠せるはずもなく、そもそも床や私の顔面には乾きかけの血がこびりついている。恐らくそれらすべてを「それ」と指しているのだろう。
「もしかして、血、なの?」
彼女は自分でそう言いつつも、信じられないという顔をしていた。
私の思考はもう停止してしまっていた。見られてしまったと、ただその事実だけがぐるぐると脳を巡る。
「でも、だってそんな……」
りんさんの声は少し震えていて、口元を手で押さえている。
「なんで、血が赤いの?」
♢
人間の血は緑色だ。小さい子でもそんなこと知っている。理由は科学者や宗教家が適当な答えをくれるだろうが、そんなもの聞かずとも、人は皆、己の流れているものの色を知っていて、人類には同じ色のものが流れていることを知っている。
あなたの血は貴重なんだから、怪我をしないようにね。
お母さんは幼い私にそう言った。そのとき私はなんと言ったのだろう。きっと意味も分からないままに頷いたのだと思う。
しかし年端もいかない女の子は、そんなこと直ぐに忘れるし、覚えていたとしても、母が込めた意味なんてものを理解できるはずもない。
きっかけは小学校にもまだ行ってない頃、近所の子と遊んでいるときだった。家がお金持ちの子で、外国のお菓子をこっそり持ってきてくれたり、優しい子だった。蒸し暑かった気がするが、桜が咲いていた記憶もあるので、季節は定かでない。
おいかけっこをしていた。逃げていた私は盛大に転び、膝を擦りむいた。泣くことはなかったが、血はでた。
その子が私の血を見たときのあの目。小さい子どもだ。常識や知識なんてものは無いに等しい。だからこそあの、芯の凍えた、気持ち悪いものを見てしまった時の瞳の歪みに、本能的な忌避感を私は見た。そのとき初めて、母が本当に伝えたかったことを理解した。
その子の名前はもう覚えていない。
ただあの子のおかげで私は、自分を客観視することができた。私の赤いこの血が世に晒されたら、人はどう思うのか。どう思ってしまうのか。
怪我をしないようにしよう。肌をできるだけ晒さないようにしよう。口を切ったり鼻血がでても大丈夫なようにマスクをつけておこう。黒色ならきっと血も目立たない。人と距離をおこう。もし仲良くなってしまったら、また好きな人に嫌われる。
あとは何をしたらいいだろう。何を我慢したらいいだろう。何を諦めたらいいだろう。
どうしたら、どうしたら。
どうしたら人間でいられるだろう。
外見は殆ど一緒で、言葉だって同じものを使っている。それなのに、流れているものは違う生き物。果たしてそれは人間なのか。
♢
静かに息を吸った。悲愴な覚悟を腹におく。
立ち上がる気力もなく、座ったままりんさんの方へ向き直る。
「……生まれつき、私の血はこうなの」
りんさんの顔が見られなくて、彼女の爪先に視線を落し、訥々と話す。
「私以外に症例は、確認されてないらしいけど、色が違うってこと以外は、その、他の人と変わらない」
どんな顔をしているのだろう。どんな顔をして彼女は今聞いているのだろう。おいかけっこをしてくれたあの子の、あの瞳を思い出す。
もしかしたら、来てくれたのがりんさんで良かったのかもしれない。もし柊がこの場にいたら、私はもっと怯えて話すことになっていた。柊の瞳の色が変わることを、想像するのも嫌だった。
「だからその、毒とかじゃないから、心配しないで。それであの」
何を言えばいいのか。怖がらないでほしい?嫌いにならないでほしい?
我ながらその、都合の良い願いに自嘲する。口の端を歪めると、乾いた血が剥がれて落ちた。
「……ごめん」
もはや出てくる言葉は謝罪のみだった。
沈黙が訪れ、私は彼女の爪先を眺め続けるほかなく、どうせであるならこのまま何も言わず、顔も合わせず立ち去ってくれないだろうか。
「……どうして、謝るの?」
「えっ」
つい顔を上げてしまった。彼女と目が合い心臓が跳ねる。侮蔑や誹りを覚悟していたのに、まさか泣かれるとは思ってもみなかった。
「そんなのハルちゃんは一つも悪くないでしょ」
彼女は一歩一歩ゆっくりと近付いてきて、傍に膝をついた。
血がつくよと私が言うより先に、彼女は私を抱きしめた。
「ハルちゃんは、悪くない」
私を包む彼女は温かく、心臓の鼓動が伝わってくる。まだ泣いているのか、肩が震えている。鼻の奥がつんと熱くなるのを感じた。
私は悪くない。そんなことは、知っている。自分に何度も言い聞かせてきた。
それなのに、人に言われただけで、こんなにも救われるのは何故だろう。
枯れたと思っていた涙はまた溢れ、震える手を彼女の背中に回した。
埃と血の臭いのする小さな小屋で、私は初めて声を出して泣いた。
♢
私は、生まれたときから平凡だった。平凡な両親から生まれ、平凡に暮らし、何人かの友だちがいて、恙無くこの世を生きてきた。そのことに不満など感じたことは無かった。
ただぼんやりと、非日常に憧れていた。そんな感情でさえ、私の凡庸さを際立たせた。
高校に入って二年目に入り、クラスも変わった。そこに、彼女はいた。
綺麗な黒髪の人だった。彼女は何故かずっと長袖で、黒いマスクをしていた。マスクの上からでも美人に見えたが、誰かと話しているところをみたことがなく、名前も彼女のロッカーを見て知った。
樏ハルさん。なんだか目立つ格好をしているのに、人を避けているきらいがあり、クラスではやはり浮いていた。
なんとなく気になって、たまに目で追っていた。私とは違う、平凡から一番遠そうなあの子。
だからショッピングモールのベンチで見かけたとき、私はつい声をかけた。学校では、彼女にも私にも演じるものがある。しかし外で二人っきりなら、話してくれるかなという
淡い算段もあった。
のんちゃんのおかげもあって、一緒に買い物もした。話しかけたら意外と会話をしてくれた。他のクラスメイトは知らないであろう綺麗な声。それを聞いている自分が一気に特別な物になった気がした。
「あっ、トイレは逆方向だよ~!」
声をかけたが彼女はそのまま行ってしまい、追いかけようしたとき、のんちゃんが薬局から戻ってきた。
「あれ?ハ……かんじきさんは?」
のんちゃんは幼馴染みで、私の親友のお姉ちゃん。昔から何でもできて、面倒見も良くて、背も高くてかっこいい。きっとハルちゃんとも仲良くなれるし、二人が並んだらきっと絵になる。
「調子が悪いみたいで、トイレに行くって」
「えっ、大丈夫かな。私ちょっと様子見てくるね。どっち行ったの?」
のんちゃんがキョロキョロと辺りを見回す。暗くなってきて、あまり遠くまではもう見えない。
「あっちに走ってっちゃった」
私は、ハルちゃんが向かった逆の方へ指を差した。
「ありがと」
直ぐのんちゃんはそのまま走って行った。
駆けていくのんちゃんの背が見えなくなったとき、私は慌ててハルちゃんの後をおった。
どうしてこんなことをしてしまったんだろう。なんでのんちゃんに嘘吐いちゃったんだろう。罪悪感と高揚感から心臓が早鐘のように肋骨を打つ。
きっとあの距離なら私の声はハルちゃんに届いたと思う。それなのに彼女はそのまま走って行ってしまった。ということはきっとトイレに行くつもりは最初からなかったんだ。
人通りが少ないところや、暗がりになっているところにいくつか行くが、しかしなかなか見つからない。
それは全くの偶然だった。遠目に突然、灯りが点くのを私は見た。近付いてみると使われていない喫煙室らしく、磨りガラスになっていて中を窺うことはできなかった。しかしドアの取っ手に積もっている埃に、人の手の痕がついていた。彼女のものだと、何故だか私には確信めいたものがあった。
取っ手に手をかけ、ドアを開けた。
♢
こんなことがあって良いのだろうか。
ハルちゃんを抱きしめたまま、私は黙って彼女の泣き声を聴いていた。
なにか特別なものを彼女に感じていた。私と違って、目立っているのに堂々としていて、綺麗で、そして今日知ったことだが、意外と可愛い。
そんな彼女の血は赤色だった。
最初にそれを見たとき私は、にやけるのを押さえるのに必死だった。
すごい、すごい!この人は本当に違うんだ。何もかも特別なんだ。そしてそんな特別な人間が今、私の腕で泣いているんだ。
悦に浸り、私は震えた。優しく彼女の頭をなで、背中をさする。少しでも私のこの愛おしいという感情が、この人に伝わればと願った。
どれくらいそうしていたのだろう。ハルちゃんは今まで泣けなかったぶん沢山泣いた。
涙が収まり、しゃくり上げるようにしている彼女の顔を正面から見たいと思い、体を離す。
「あっ……」
名残惜しそうな彼女の目を見て、私はまた抱きしめたくなるのを堪える。
「ねえハルちゃん。このことは他に誰か知ってるの?」
「……先生は多分、みんな知ってると思う。でも他に知ってる人は家族ぐらい。それと今は、りんさんも」
ということはクラスメイトの誰一人としてこのことを知らない。私はにやけるのをそのままにして笑顔をつくった。
「大丈夫。勿論、誰にも言わないから。でもこれからはね?私の前では何も気にしなくていいんだよ」
ハルちゃんは涙ぐみながらこくこくと頷いた。
言うわけがない。誰にもこの場所は譲らない。特別なものとして生まれた人にとっての唯一無二。それにこだわることは、おかしいことだろうか。凡人のささやかな願いではないか。
この感情がどれだけおかしなものであっても、これより大事な物を私は知らない。