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その先の未来

作者: 佐野健次郎

駅のホームで、電車の急ブレーキが響いた。

なにが起きたんだ。

僕は、大学を卒業してからいくつかの会社を転職して渡り歩いた。今の会社は、勤め出してからそろそろ十六年目を迎えることになる。学生時代には、親もとから通学してい、みんながやるようなアルバイト生活はしてこなかった。

いってみれば、卒業したら突然、右も左も分からない大人の社会に放り出された感じだった。当然、社会生活を送るための暗黙知なんて身に着けていないから、会社勤めも長続きしなかった。

思えば十六年、会社は小さな商事会社だが、来月から部門の責任者を任されることになる。今日、3月の末、就業時間が過ぎて、従業員が部長室に集められた。毎年の恒例だが、定年退職する職員が、集まった従業員の前で一言々々別れの挨拶をすることになる。僕は、最前列に並び、今日まで直属の上司だった先輩職員を見ていた。


三年前、西船橋駅のホームである人に逢った。

その頃、僕は精神的にもまいっていた。さすがに転職を繰り返していたときのような、尻の青さは残っていなかったと思うが、何事にも積極性というものがなかった。暑い夏の日の夕方を過ぎる頃、まだまだ空気は体にまとわり付くような不快感があった。僕は、外回りの営業を終えて、帰社するところだった。

通勤時間帯のターミナル駅は、ムッっとするほどの混雑で、改札ホームに上がる階段は上り下りの双方向に通行することは困難で、ホームに電車が着く度に人の波となって、川の流れのような体をしていた。「ふぅ」と一呼吸を入れ、流れに身を任せて上ろうと見上げると、少し先の階段のまん中あたりに、中年の男が進行方向と逆に向かい、ホームの方を眺めて突っ立っている。反射的にムッっとした。

「なんだこいつ。すっとぼけてんじゃねえよ」。肩と肩がぶつかっている。横を過ぎる人があからさまに迷惑そうな顔をしている。僕は、その男の顔をじっと目で追っていた。その時、男は人の波を手で押しのけて、ぐいぐいと逆走してきた。私の脇を通り抜け、階段の下まで来てしまうと、ひと電車分の人並みは越えており、自由を得た魚のような素早い動きをみせて、男はホームの端を駆け出した。その先には白い杖を持った女子学生がよろよろと歩いてい、その先がおぼつかないような様子であった。一瞬、はっとした。いやな

想像もよぎった。目を瞑って、電車が入線する音が聞こえた。急ブレーキの音は聞こえなかった。目を開けると、男が女子学生を抱えていた。僕は、そのまま動かなかった。またしても人並みが押し寄せてき、そして去った。ふらふらと近寄り、側で眺めていると、その男は「よかった。よかった」と声を掛けている。その時、気が付いた。その男が持っている社用封筒が僕の会社のものであることを。

偶然にもその男は、同じ会社の職員だった。立ち去ろうとする男に、僕は声を掛けた。そんな偶然が僕を変えた。それから会社で、その先輩と話をするようになり、部下として部署を異動することにもなった。部署を異動しても、仕事に対する情熱はさして変るものではなかった。毎日がだらだらと過ぎ去った。当然、色々と指導を受けたが、あまり身につまされることもなかった。


その日、僕が外回りから帰社すると、一人だけ課長が残っていた。この部署に呼んでくれたにも係わらず、仕事に対する情熱も今一つなだけに、少し気恥ずかしく思って言葉を探した。そして、

「あの時の女の子どうしてますかね。課長がホームで助けた」

課長は、一瞬「んっ」という顔をしたが、

「そうだな。どうしているかは知らないが、あの時、階段でたまたま振り返った先にあの子がいた。ふらふらと点字ブロックを超えるところだったから、反射的に体が動いたんだ。暑さでまいっていたようだな」

「すごかったですよ。なかなかできないっすよ」。課長はそれには答えず、

「あの時、たまたまがなくて、あの子の将来が絶たれていたらどうなる。お前はそんなことを考えるか」

僕は黙っていた。

「お前が無為に過ごした一日は、その子にとっても同じ一日だけど、全く違う一日だろうな。願っても願っても手に入れることが出来ない一日なんだからな」

僕は一瞬考え込んで、言葉を失ってしまった。

今から思えば、それが転機だった。一日々々に対する考え方が変ってしまった。分からないことは何でも調べた。何でも聞いた。動き出せは、課長は何でも教えてくれた。そして仕事が楽しくなった。


部長室では、退職する職員が部署の順に挨拶を始めた。課長が退職し、僕はその後任を任されることになった。そして、課長の挨拶が始まった。

課長は、特に感情的になる様子もなく、淡々と仕事の話や職員への御礼を話した。そして最後に、

「私が思う、私自身の最大の功績は、一人の職員を育てたことです。その職員は、決してデキが良いわけではなかった。しかし、ある日将来を掴んだのです。未来を掴む方法を理解したのです。私は本当に、安心して会社を去ることができます。それは、既に起きた未来を見ることが出来たからです」


僕は、涙で顔を上げることが出来なかった。

人生はちょっとしたきっかけで変えることができる。

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