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9/11

風邪

 年が明け、割と暖かい日が続いた。年末年始は、会社も長期休暇になり、優吹子はお座敷の仕事が多くなる。相変わらず、忙しいお正月だった。

 今年は雪が降らないと皆が安堵した頃、ドカ雪が降った。通勤の足を奪い、都会はいかに雪に(もろ)いか、毎回ジタバタしている。


「今日、女性社員はなるべく休ませてるな?」

「はい。昨日のうちに、通達は出してあります。一部、通勤に時間が掛かるものは、男性も年休を取らせました」

 安田の元に、総務の課長から、確認の電話が入る。通勤災害が起こる危険性より、一日の休暇を選択するよう、大手企業は動いている。しかし、それも労働組合員だけの話であり、課長である安田には当てはまらない。昨日から近くのビジネスホテルを確保し、今日の出勤に備えた。

 色々なスケジュールを変更せざるを得ない。出勤している者だけで、なんとか不都合がないように気を配るが、ほぼ、設計部門は開店休業状態といっても良いだろう。


 そんな中、アメリカから電話が入った。

「課長、この間ご相談した件ですが、本当にいいんですか?」

「何度も言わせるな。全て君らの手柄にしていい。僕は、一切関わってないってことにして欲しい」

「でも、あれ、技術発表会で『注目賞』取っちゃって、僕も困ってるんです」

「……、分かるが、詳しい説明はできないんだ。日本で以前勉強したことを、応用したとでも説明すればいい。元々、ソフトに備わっていた機能なんだから、何ら問題ないだろう」

「そうですが……。あんな誰も使ってなかった機能、今まで何で隠してたんだって、責められてて……」

「う〜ん、そうだろうが……。講習会で聞いたっきり忘れていた、辺りだと思うが……。こちらでもストーリーは作るが、最終手段にしてほしい。くれぐれも、そこの壁を低くするなよ。あの時はあれが最善だったんだ。まぁ、上手くやれ。堂々と「受賞」しておけ」

「課長〜」

「じゃあな」

 まだ、電話の向こうでゴネていたが、無理やり電話を切った。


 優吹子にモデリングを手伝ってもらった一件である。どうして、あんな短時間で、あれだけの量のデータを作成できたのか、当然、あの場にいなかった設計責任者は知りたがるだろう。最初から、あのリモート画面を見ていた数人の担当社員には口止めしておいたから、自分の名前が出ることは避けられていたが、その後が良くなかった。


 我が社では、年に1回「技術発表会」というものがある。各技術部門において、年に1件以上の新しい技術を発表しなければならない。そんな目新しい技術なんて、そうそう出てくるはずもなく、毎年皆、頭を悩ませているのである。

 そこに今回の新機能情報が、晴天の霹靂のごとく飛び込んできたわけだから、放っておくはずがない。発表することまでは想定内と言わざるを得ず、内密に相談された際には許可を出したが、まさか何某かの「賞」まで取るとは思っていなかった。

「最終的には、僕がアドバイスしたという形に持っていくことになるか……」

 安田は、最悪の事態を想定し、資料作りを始めた。優吹子の顔を思い出し、今晩「Green」に寄ってみるかと考える。年が明けて一度も足を運んでなかったから、クリスマス後から、3週間近く会っていない。LINEで年始の挨拶のやり取りはしたが、声は聞いていなかった。


「今日、Green行きます。会社に出勤してないなら、わざわざ出てこなくていいよ」

 と、送っておく。

 最近、なるべくすれ違いをなくそうと、連絡を取ることが多くなった。

 優吹子をあの店で、極力一人にしない方がいいと、最終判断に至った。以前ナンパの現場を押さえた後にも、優吹子の隣に座った男性を何人か見ている。その度に、自覚を促すよう注意をするのだが、「初対面の人、苦手で……」と、一向に改善が見られない。声を掛けたくなる対象なのだと、当人が全くもって自覚していない。今まで、どうやってかわしてきたのだろうと、不思議でしょうがない。よって、現在の対処法になっている。返信はいずれ来るだろう。

「なんとか、出勤しました。雪で、てんてこ舞いです。

 キャンセルにならなければ、今日お座敷です。

 Green遅くしちゃうので、待たないで下さいね」

 意外と早く返信が来た。

「そうか……」

 結構、落胆していることに気付いて、自嘲する。

 優吹子を想う時間は、なるべく少なくしようと決めていた……。クリスマスのあの時間が、楽しすぎた……。いや、本当は、もっと前からかもしれない……。

 だが、璃帆の事を忘れられない限り、僕にはその資格は、ない。

「マスターに新年の挨拶でもして、帰るかな」

 とひとりごちながら、

「了解」

 と送っておいた。


「今年も、よろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 マスターがウィスキーを作りながら、笑顔を向ける。さすがに今日は、閑古鳥状態だった。雪は、昼から天気が良くなり、意外と早く溶けた。道路の端には、まだ所々ガリガリの状態で残っているが、車や人が歩くところはほとんど溶けていた。


「雪掻きしましたか?」

「ええ。だいぶ溶け出していましたが、そのままでは変に残ってしまうので」

「大変だったでしょ」

「腰がマズイですね。もう、歳ですから」

「マスターも、今日は飲んでください」

「ありがとうございます」

 2人はゆっくりウィスキーを飲む。優吹子がいないことが久し振りで、静かなことに改めて気が付く。

「何だか、静かですね……」

「そうですね」

「一度聞こうと思ってたんですが、優吹ちゃんを助けたことは、何度もあるんですよね。僕がいない時……」

「ええ」

「どうやって助けるんですか? 相手もお客さんなんだから、難しいでしょ?」

「広瀬様から、ジンの注文が入るんです。2人分」

「ほぉ」

「あとは、広瀬様が飲み勝ちます」

 はっ? 飲み勝つ? ……開いた口が塞がらない。

「私は、お2人のグラスが空にならない様にするだけです。相手の方が飲み続けるように、とても上手くお話されます。あれが広瀬様の、戦闘態勢なんだと……」

「今まで、負けはないの……?」

「はい」

「……はっ、はは」

 笑いが止まらなくなった。凄いな。これは到底、僕では敵わない。

「でも……」

「はい?」

「安田様と飲んでいらっしゃるときは、3杯目くらいには酔ってらっしゃいますよ」

「……、そうなの?」

「安心してらっしゃるんだと思います」

「……、そうですか」


 JAZZの音が響いていた。以前は、ずっとこんな空間で飲んでいたんだなと思い出す。

「彼女は、……もう苦しんでないんでしょうか?」

「……、どうでしょう……」

 以前一度だけ、優吹子の元カレと、この場所で会ったことがある。優吹子は心を残していないのだろうか?

「女性は、スッキリと区切りを付けられる方が多いと聞きますが」

「あぁ、よく聞きますね。男の方が、女々しいって……。ご多分に漏れずってとこだな……」

 自虐的に、言葉にする。……してみて、気が付く。随分冷静に自分のことを見ている……。以前は、こうではなかったのではないか。どう違う……。


 痛みが、ない……のか。


「こんばんわ……」

 小さな声と共に、優吹子が入ってきた。

「いたいた。明けまして、おめでとうございます。今年もどうぞ、よろしくお願い致しますす。」

「……」

 一瞬、動けなかった。ふわっと、小さい温もりの塊が、店に入って来たかと思った。

「明けましておめでとうございます」

 マスターの声で、我に返る。

「おめでとう。何持ってるの?」

「マスター、お皿貸して。カウンター濡らしちゃう」

 手に、小さな「雪だるま」を持っていた。

「ここに来る途中、まだ綺麗な雪が残ってるとこがあったから、作ってきちゃった」

「……お座敷は?」

「やっぱり、キャンセルになりました。この雪じゃねぇ」

 手をハァーハァーしながら、小さく笑う。手袋も着けずに雪なんて触るからだ。

「マスター。コーヒーカップに、熱いお湯もくれる」

 マスターから受け取ったカップを、優吹子に渡す。

「これで、手、温めて。三味線弾けなくなるよ」

 優吹子は驚いた顔をして、ゆっくり笑顔になる。

「あいかわらず、心配性ですね。……ありがとう、ございます」

 コップを両手で包んで、ふふっと安田の顔を見て、肩をすくめて嬉しそうに笑う。

「いいお正月でしたか? マリちゃんと、遊べました?」

「幼稚園で変な言葉を覚えたらしく……。ふんだくられた」

「何です?」

「『お年玉は、紙がいい!』 だそうだ」

「えぇー、ぷっ。これから、大変ですね〜。耕おじさん! ……あっ、じゃこんなのダメかなぁ」

「ん?」

「この雪ダルマ。マリちゃんにLINEしてもらおうかと思ったんだけど……」

「では、もう少し盛りましょうか」

 マスターが横から声を掛けてくれる。チョコレートと人参で、目と鼻を作り、串と爪楊枝で手を作ってくれ、ボトルのキャップで帽子まで被せてくれた。

「わー、可愛い。マスター天才」

 安田は早速、スマホで送る。優吹子自身も、自分のスマホで撮っていた。

 その光景を、安田は知られない様に、そっと撮った。嬉しそうな、優吹子の顔が、陽だまりの様に笑っている。


 安田のスマホが鳴る。真理かららしい。他の客もいないから、その場で出た。

「耕おじさん、これ、おじさんが作ったの?」

「そうだよ。マリちゃんのために」

「マリもね〜、今日幼稚園で作ったけど、なんかねー、真っ黒だった」

 雪が少なければ、土まみれになるものだ。

「これ可愛いから、マリに頂戴!」

「それは、できないかな……。雪は、溶けるからね」

「じゃあ、今度また作ってね。耕おじさん、大好き―。バイバ〜イ」

 思わず口角を上げながら、安田は電話を切ろうとして、もう一度スマホを耳に当てていた。

「兄さん、ありがとう。これ、この間のクリスマスに呼ぼうとした人?」

 「雪だるま」だけを撮って送ったのに、何で分かるんだか……。

「お前には、バレるか……」

「優しい人ねぇ。よかったじゃない。そういえば、伯母さん何だか進める気でいるわよ、あの見合い。この人のことちゃんとしたいなら、早めの方がいいと思うわよ」

「……! 何で? 断られる予定だけど……」

「まぁ、分からなくもないけどね……。兄さんは、客観的に自分の価値を分かってないタイプよね」

「……」

「どちらにしても、情報は提供したから。後から、文句いわないでよ。じゃね」


 横で優吹子が、「どうだった?」顔で、ワクワクして待っている。

「喜んでたよ。『これ、頂戴』って」

「よかった〜」

 マスターと嬉しそうに話す優吹子を見ながら、伯母さんへの言い訳を考えていた。


 1時間程楽しんで、帰ることになった。ちょうど、次の客が来たところだ。

 安田は席を立とうとして、体が思うように動かないことに気が付く。しまった! 熱が出始めている。よく考えれば、先程から指の関節が強張ってきていた。このままだと、後1〜2時間もすれば、歩けなくなる。

「……、ごめん。一緒に、帰れないや……。マスター、タクシー呼んでくれる」

 優吹子は突然で、ビックリしつつも、安田の様子を観察して、いきなりおでこに手を当てた。

「もしかして、安田さん、扁桃腺持ちですか?」

「……、よく分かるね」

「うちの弟がそうなんです。昨日、夜寒かったから……。最近、睡眠、取れてました?」

 そういえば、昨日はビジネスホテルで、少し寒いのをそのまま寝たっけ。

「自己管理能力の、欠如だな……。大丈夫、ちゃんとまだ動けるから。優吹ちゃん、気をつけて帰って」

「ダメですよ。すぐ、熱が上がるでしょ。病院行きましょう。調べます」

「大丈夫だよ。子供じゃないんだから、対処法は分かってる」

 優吹子は、安田の言い分を聞いているのかいないのか、スマホで夜間診察をしている、近くの病院を探している。何だろう……、このまま世話になろうかという気になる。あぁ、熱のせいか……。この先のシンドさが分かっているだけに、気が弱るんだな……。いやいや、いかんだろう!

「ほんとに、優吹ちゃん。昨日今日のことじゃないから、心配しないで」

「頼る人がいるときは、1人で頑張らなくていいんです!」

 正しい理屈だが、頼る相手がよくない……。

「優吹ちゃん!」

 強めに断る。

「分かってます。家まで、お送りするだけです。襲ったりしませんよ」

 ははっ。そりゃ、普通男が言うセリフだ。それで、ちゃんと襲うんだがな。

「意外と、頑固……」

 そう言ったら、優吹子は口を尖らせて膨れているが、スマホの情報を伝えてくれる。

「こちらのクリニックと、こちらの医院、どちらがいいですか?」

「いつも、クリニック」

「いつも……」


 タクシーに乗り込み、クリニックに向かう。それまでに、30分ほど掛かっているから、足の関節まで来ている。なんとか自力で受付までたどり着くが、受付等の書類は優吹子が代書してくれた。夜間、ここはいつも込んでいて、多分診察までに、小1時間は掛かる。待つ間が、結構辛い。椅子に座っていられないのだ。

「横になってください。ここ、どうぞ」

 といって、膝を示す。彼女の膝を借りて、横になった。途中、看護師が点滴を打ちに来る。最初に頼んでおいたのだ。40度近いはずだから……。

「いつも、1人で頑張ってるんですか……?」

 優吹子が1度だけ聞いてきたが、寝た振りして答えないでいた。今、言葉にすると、弱音を吐きそうだったから。

 顔に掛かった髪を、そっと触れられる。ほんとに、そっと。……璃帆とは、違う感触だった。


 タクシーでマンションの前に着いたときは、もう意識が朦朧としていた。優吹子の肩を借りつつ、部屋まで向かう。後は、寝るだけである。

「ありがとう。鍵、郵便ポストに入れといてくれる……」

 それだけ言うと、ベッドに倒れこんだ。着替えを入れてある場所を聞かれ、着替えだけ手伝ってもらった記憶だが、もう定かではなかった。全身が痛い。眠りたい……。


 誰かが、小さい声で話している。頭がぼぉっとして、良く分からない。

「……、はい」

「優吹ちゃん、明日のお座敷はいいから。ちゃんと、看病してあげなさい」

「姐さん、すいません」

「でも、いいの? 優吹ちゃん、辛くない」

「はい、大丈夫です。一晩くらい、なんともありません」

「そうじゃなくて、そんなに尽くして、大丈夫かって言ってるの……」

「……」

「ちゃんと、それ以上気持ちが動かないようにしなさい」

「はい……」

「もう、遅いかも知れないけど……」

「姐さん……」

「とにかく、今日一晩、頑張ってね……」

「はい……。じゃ」

 優吹子だ。きっと、染吉さんと話している。目が重くて、おっくうで開けられない。なんで、まだいる……!? 今何時だ。ちゃんと、帰れるのか……。聞かないと。

 枕元まで、優吹子が来る。いつもの、優しい香りがする。これ、香水なのかな。いや、そこまで強い香りじゃないから、柔軟剤かもしれないな。などと、どうでもいいことが頭に浮かぶ。

 何時か聞こうとするが……優吹子が、泣いている? 声を殺しているが、明らかに、泣いている……。どうした?


 姐さんの心配は、当たっている。もう、どんなに止めようとしたって、人を好きになることを、そんなに簡単に止められるはずがない。

 会えないときは、会いたいと思うし、会っていれば、ずっと一緒にいたいと思う。たとえその時間が、リホさんへの想いを聞かされている時間だとしても、そばにいるのは、私じゃなきゃ嫌だと思う。

 だからといって、もし、リホさんへの想いに区切りが付けられて、次に違う誰かを愛する姿まで見届けられるかといわれれば、それは、到底無理だ。絶えられない。

 でも、どうして、それが私ではないと断言できる? 私が愛してもらえるかもしれない……。でも、でも、私の顔を見れば、彼はいつまでもリホさんを思い出すのではないか。やっぱり、辛いのではないだろうか。

 考えれば考えるほど、涙が止まらなかった。


「何が、そんなに悲しい……?」

 安田は、そっと声を掛けた。優吹子は、俯いたまま、固まる。泣いているところは、見られたくなかった……。

「なんでも、ありません……」

 安田はゆっくり目を開け、優吹子の方に顔を向ける。優吹子が俯いたまま涙を拭っている。顔を上げた時には、笑顔になっていた。

「目が、覚めましたか……。熱は、どうですか?」

 優吹子は、安田のおでこに手を当てて、熱を確認する。まだ、熱いままだ。

「まだ、苦しいですね。何か、飲みますか?」

「優吹ちゃん……」

 安田は、優吹子の頬にそっと掌で触れる。親指で、拭いきれなかった涙を、そっと拭った。

「僕は、君に話を聞いてもらって、少しずつ楽になったんだ。優吹ちゃんが悲しいときは、僕に話せばいい。ちゃんと、聞くから……」

 はぁと、少し話しただけなのに、息切れしている。

「そんなことしか、してあげられないから……」

 頬に当てていた手が、ストンと力なくベッドに落ちる。

「……。ゆっくり、休んでください。大丈夫、悲しいことなんて、何もありません」

「……」

 またすぐ、安田は眠りに落ちていった。寝たのを確認して、優吹子はもう1度、涙が止められなくなった。この人に、愛してもらいたい。ダメなのだろうか? 無理なのだろうか? リホさんが心にあったままでもいい。この人に、愛してもらいたい。それはやっぱり、望んではいけないことなのだろうか!

 深い眠りの安田の手をそっと握り、安田がしてくれたように、自分の頬に当てた。その上から、自分の手を重ねる。

「少しだけ……。ほんの、少しだけ……」


 それから、1日安田は眠り続けた。

 朝1度、会社に連絡を入れるだろうと、起こした。その時はさすがに、「どうしてまだいるの?」と怒っている様子だったが、後は、また眠ってしまった。

 途中2回、パジャマを変えさせた。さすがに下着までは無理だったが、シャツは変えた。安田は、朦朧としながらも、なんとか優吹子の言う通りに最低限体を動かしてくれて、着替えられた。着替えた直後は「気持ちいい……」と言っていて、そりゃこれだけ汗をかけばそうだろうと思いつつ、重いパジャマを洗濯機に入れて、乾燥まで済ました。

 昼と夜に起こし、食事は無理だが、りんごの擦ったものやおかゆを少しだけ食べさせ、抗生物質を飲ませる。朝、少し下がっていた熱が、午後からもう一度上がってくる。

 多分、もう一日これを繰り返すことになるだろう。その後、まだ熱が下がらなければ、もう一度病院に行って、点滴を受けたほうがいいだろうと考える。予定通り、次の日の朝に、なんとか熱は一旦、38度程に下がった。


 無理を言って、会社は体調不良で2日休ませてもらった。優吹子はめったに体調不良にならないので、皆に心配されたが、しっかり直してと優しく言ってもらった。が、当の安田が真剣に怒っていた。

「優吹ちゃん、助けてもらったのはありがたいけど、仕事は仕事だから。ちゃんとしないと」

「はい、すみません」

「今日の午後からでも出勤すれば、少しは取り戻せるでしょ。いいから、帰って」

「もう、休むと連絡してしまいました」

「……。こんなことしてると、信頼を失う。このマンションから出るところ、誰かに見られたら大変でしょ。どこがどう体調不良なのかと言われる」

「……。ごめんなさい。安田さんにご迷惑掛かること、想定外でした」

「僕は男だからいいけど、君は女性だから、傷つくのは君なんだよ」

「すみません……。ちゃんと帰ります。ちゃんと反省しますから、とにかく今は、休んで下さい」

 午前中は、きっと少し元気になるだろうと思っていたから、叱られることも分かっていた。

 安田は、不承不承ベッドに横になったが、やはり昼前には少し熱が上がり、それっきりまた半日ほど眠り続けた。次起きた時には、きっとかなりよくなっている。だから、本当に今夜は帰ろうと優吹子は思っていた。

 予定通りに進んでいる……。そんな時にこそ、想定外のことは起こる。


 夕食の用意をしていた。次、目を覚ますときは、多少食べられるようになっているはずだ。明日には、無理をしてでも出勤するに違いない。私も出勤しなければ、サラリーマン失格だ。作れるだけ、食事のストックを作ろうと考える。

 安田が寝てから買い物に行って、食材は用意しておいた。なるべく材料が残らないようにしなくてはならないだろう。冷蔵庫の様子を見れば、安田はどうやらほとんど自炊はしていないらしいから。

 ついでに自分の下着もコンビニで買って、軽くシャワーを借りた。ささやかな抵抗ではあるが、せめて安田が目を覚ました時に、薄化粧くらいはしていたい。旅行用の基礎化粧品のセットも購入し、手持ちのメイク道具で、化粧直しも済ませておいた。


 そして、その想定外はやってきた。


 16時頃、インターホンが鳴った。オートロックのマンションなので、来客者をカメラで確認する。女性2人組だった。どうするべきか……。安田を起こしてみるが、「帰ってもらって」と寝言のように言われ、判断に迷った。

 そのまま様子を見ていたら、スマホをいじっている。同時に、安田のスマホにLINEが入った。LINEのポップ表示をそっと見ると、「兄さん」と言う文字から始まっているから、妹さんだと思われる。思い切って、インターホンに出た。

「どちら様でしょうか?」

 2人がギョッとしているのが、カメラの画像から分かる。

「妹の鈴美ですが……」

 やはりそうかと思いつつ、ロック解除をする。

「どうぞ、お入りください」


 最初、鈴美だけが部屋に入ってきた。そして、挨拶する間もなく、いきなり質問された。

「もしかして、雪だるまを作ってくださった方かしら」

 優吹子は驚いて、鈴美を見る。その様子を見て、彼女はニッコリ笑うと、テキパキと指示をし始めた。

「兄は、あの雪の晩から寝込んでるんですね」

「はい……、あの……」

 説明をしようとするが、その隙を与えてくれない。

「これから少し、貴方には失礼なことを言いますが、私は貴方の味方だと思っていただいていいわ。悪いようにはしないから、私の言うことに合わせてね。じゃないと、ちょっとややこしいことになるから」

「はい……」

 そういうと、外に待たせておいた女性を招き入れた。

「白井さん。こちら、兄がよくお願いしている家事の家政婦さんなの。気になさらないでね。今見てきたら、兄は寝てるようなんですけど、ご覧になります?」

「はい。様子だけでも、見させていただいて、いいですか?」

「どうぞ。家政婦さん、お茶をお願いできますか」

 優吹子は、この鈴美を信頼することにした。どちらにしろ、本当の妹さんが、安田の敵であるはずはないと考える。私は、どう扱われても構わない……。

 お茶を出した。優吹子を待っていたかのように、鈴美が話し出す。

「白井さん。あなたにお見舞いに来て頂いて、兄も幸せ者です。起こしましょうか?」

「いえ、よく休んでらっしゃるようですから、お顔を拝見したので、このまま帰ります。わざわざ案内していただいて、ありがとうございました」

「いえいえ、私もちょっと心配だったので、ちょうどよかったわ。家政婦さん、兄はインフルエンザではないんですよね」

「はい。ワクチンは摂取されているとの事でしたので、病院でも陰性だと。風邪だと思いますが……」

「よかったわ。真理に移すと大変なので、私はもう帰りますが、白井さんはどうされますか?」

「私も、帰ります。これ、渡しておいて頂けますか」

 と、優吹子はお見舞いの箱を預かる。

「ところで白井さん、お見合いの件、兄から返事はあったんですか?」

「いえ、正式には」

「なにしてるんでしょうねぇ。まあ、忙しい人ですので、もう少し待ってあげてくださいね」

「鈴美さん、なんとかお力になっていただけませんか? 私、耕二さんと結婚したいんです」

「そうねぇ。ちゃんとするよう、言っておくわね」

 と言って、出したお茶を飲む暇もなく、帰り支度を始める。

 帰り際、鈴美は見送りに出た優吹子にだけ聞こえるように、話す。

「後は、兄のこと、よろしくお願いしますね」

 そう残して、2人は帰っていった。


 どうして、明日にしてくれなかったのだろう……。そしたら、会わずに済んだ。あの、若くて美しいお嬢さんに……。

 優吹子は、玄関で膝を折る。その場で、両手で顔を覆った……。もう、これで終わりにしよう……。声を出さないように、泣いた。


「……マスター、もういいですよね。きっと、もう、安田さんは前を向けたんですよね。お見合いされたんだもの……」

「……」

 優吹子は1人で、「Green」に来ていた。雪の日から、1週間たったこの日、安田から連絡がないので、今日は来ないと分かっていた。

「あの日、急に雨が降ってきて、雨宿りに入って、本当に偶然続きで……。楽しかったなぁ……。ずっと、そばにいられて。ああ言えば、こう返してくれる距離で話ができて。ここではいつも、笑ってた……」

 優吹子は遠くを見つめる目で、思い出にしようと言葉にする。

「私、ちゃんと最後まで、なんとかやり遂げましたよね。安田さんの傷がきちんと癒えるには、まだまだ時間は掛かるかもしれないけれど、きっと、きっかけは見つかったんだと思うんです。我ながら、よくできました……」

 マスターは、グラスを磨く手を止めて、優吹子を見た。

「だから、もう、手を引きます。若くて綺麗な方でした。優しそうで……。安田さんとお似合いだと思います。もし彼女を気に入らなくても、安田さんならすぐ素敵な人を見つけられる。なんせ、高スペック男子ですからね……。私がそばにいては、きっといつまでも過去と結びつけてしまう……」

 優吹子はそっと席を立った。

「マスター、本当に色々手伝っていただいて、ありがとうございました。もう、ここにはこられないけれど、お元気で。ご恩は、一生忘れません」

 優吹子は出口の前で深々と頭を下げ、「Green」を卒業して行った。


「お気をつけて。お元気で」

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