英会話
「マスター、英語得意?」
優吹子は頬杖を突きながら、この間安田が教えてくれた英語のフレーズを書いた、リーフレットの1枚を眺めていた。
「いえ、私はダメです」
マスターは笑いながら、カクテルを出してくれる。
「私も、苦手です〜。こんなネイティブなフレーズで話そうものなら、英語分かってるって思われて、もっとどんどん話されるに決まってますよね〜。その恐怖を、安田さんは分かってない……」
「確かに、そうなりますね。それは、大変ですね」
「でしょ〜。はぁ。『ここは日本なんだから、日本語でいいのよ〜』ていう、染吉姐さんを、私は全面的に支持します!」
マスターにくだを巻きながら、安田を待っていた。といっても、約束しているわけではないから、来るかどうかは分からない。でも、待つ時間というのは、実に何とも甘美な時間で、カクテルの当てには、持ってこいなのである。
「こんなに待たせるなんて、随分なお相手ですね」
突然、後ろから声を掛けられて、優吹子はびっくりした。
スーツ姿の、スポーツ選手の様な短髪の男性が立っていた。随分精悍な顔をしている。
「よかったら、こちらいかがですか」
と、カウンターに新しいカクテルを出してくれる。優吹子のカクテルは、すっかり空で、どうやら御馳走してくれるつもりらしい。知らない間にオーダーしていたようだ。
分かりやすいナンパなのだが、とにかく優吹子は初対面の相手は苦手なのだ。顔をほんのり赤らめて、固まってしまう。やだ、油断してた。どうしよ〜。
「こちら、座ってもよろしいですか?」
そう言いながら、いつもの安田の席に座ってしまう。
「あっ……、そこは……」
と言いかけたところで、安田が来るかどうかは分からないのだから、ダメだともいえないことを思い出す。
「もしかして、染吉さんの、地方の方ではないですか? さっき、染吉姐さんと……」
突然姐さんの名前を出され、背筋が伸びる。くだんの「くだ」を聞かれていたらしい。
「あっ、はい。どちらかのお座敷で、お会いしましたか?」
本来、お客様の顔は一度で覚えてしまわなければならない。しかし、毎回お客様に直にお相手するわけでもない優吹子は、なかなかそれができないでいた。染吉姐さんの顔を潰してはいけない。必死に思い出そうと、頭を回転させる。
「申し訳ありません、思い出せなくて……。どちらの料亭でしたか?」
「今年の6月頃だったかな。神楽坂です。僕は会社の社長に……、親父についていっただけですから、豆奴さんとは、直接お話ししていないので、覚えてらっしゃらないのは当然だと思いますよ」
「豆奴」とは、優吹子の芸名である。お客様の方が覚えていて、こちらが分からないのは、1番マズい。
「親父が、『貝殻節』をリクエストして、染吉さんには何度も一緒に踊っていただきました。親父、あれが好きでねぇ。『サユリスト』なんですよ。『夢千代日記』です」
「貝殻節」は、吉永小百合が芸者役で主演した、昭和に大ヒットしたテレビドラマ「夢千代日記」の中で、テーマ曲の様に流れ続けた、民謡である。
「ヤサホーエー、ホーイヤエー、ヨイヤサーノサッサ」
その時を思い出すかのように、小さい声で隣で歌う。優吹子は、やっと思い出した。一見さんのお客さんで、何度も「貝殻節」を弾いた。
「あぁ、あのお座敷、本当に楽しく弾かせていただきました。ありがとうございました」
「思い出していただけましたか。よかった」
と笑う顔は、本当にスポーツ選手かのように、邪気の無い青年のものだった。
「あなたの声が、とても艶っぽくて、耳から離れなかった」
その人は、じっと優吹子を見つめる。これはマズい。このあと、確実に誘われる。
「ありがとうございます。また、是非お座敷でお会いできれば……」
と、なんとかかわそうとしたが、そっと右手の上に、手を重ねられた。こちらもそっと外そうとしたら、そのまま握られる。う〜ん、困った。
その彼の手首を、誰かが掴んで離してくれた。
「僕の連れに、ご用ですか?」
安田だった。2人の間に立ち、彼を冷淡に見下ろしている。
安田に掴まれた手首をもぎ取るように離し、短髪の彼は席を立つ。その彼に向かって安田が更に声を掛けた。
「君は、何期生だ」
「……、答える義務はないと思いますが……」
「ルールを知らないらしい」
「破ったつもりは、ありませんが」
「連れがいる女性に手を出さないのは、ここ以外の店でも、常識だと思うが」
「そうかな。美しい人を一人にする方が、悪いと思いますが……」
お互いに睨み合っている。優吹子は、取り付く島のない2人を、唖然と見ていた。
「今日は、お先に失礼しますよ。また、声掛けさせてもらいます」
先に折れたのが、安田より若い、短髪の彼だった。そのまま、勘定を済ませ、店を出て行った。
「優吹ちゃん、何やってるの!」
「うっ、すみません……」
「マスター、あれ何期生?」
「今年、こちらのお店に、初めていらっしゃいました」
「30歳ってことか。まったく、油断も隙も無い……」
優吹子は「連れ」と言ってもらった幸せに酔っていて、ちょっと安田に見とれてしまっていた。しかし、そんな優吹子にはお構いなく、安田の説教が始まる。
「優吹ちゃん、自分のことくらい、自分で守らなきゃ」
言われて、我に返る。だから、初対面の人は、苦手なの〜。
「誠に、あいすみません……」
「僕が来なかったら、どうするつもりだったの」
「マスターに助けてもらおうと……」
「また、そうやって他力本願な。ちゃんとしなさい」
「だって、お座敷のお客様だったんですよ。無下にできないでしょ」
と、少し反撃してみた。途端に、安田の片眉が上がる。
「あの年で、お座敷……。どんなボンボンなんだ」
「確か、お父さんが土木関係の社長さんだったと思う。で彼は、その息子さんだったかなぁ。他にも、何人かいらしたし。一見さんだから、覚えてなくて……。姐さんの顔潰してもいけないし……」
「だからといって、手を握られて、そのままはないでしょ」
「……助かりました。ありがとうございました」
やっとお説教が終わりそうだったので、目の前にある「彼の」カクテルを飲もうとした。
「それ、飲まないの! あいつが置いてったんでしょ」
「……」
優吹子は無言で、安田に反抗の目を向ける。
「何?」
「だって、お酒に罪はないですよ。せっかく、マスターが作ってくれたのに、もったいない。タダなんだから、飲んじゃえ」
と言って、嬉しそうにグイッと一口飲んでしまった。
おでこに手を当てながら、安田がこれみよがしに大きく息を吐く。
「こら、呑み助! もう、貸しなさい!」
と優吹子のカクテルを取り上げて、安田は残りを飲み干してしまった。
「あ〜!」
と文句を言うが、安田は取り合わない。そのまま椅子に座り、優吹子用に新しいカクテルを注文してくれた。
「……、ありがとうございます」
「ちゃんと勉強してるのは、大変よろしい」
優吹子の前にあるリーフレットを見て、安田が褒める。
「はい。発音してごらん」
優吹子は、書かれたものを読み上げた。
「いい発音じゃない。やっぱり、耳はいいんだから、上達するよ。教え甲斐がある」
「……、三味線のお稽古が忙しいので、取り合えずこれだけで大丈夫です……」
横目でチラッと優吹子を確認し、安田は冷ややかに言い放つ。
「甘いな。そんなんで、逃げられないよ」
優吹子はガックリと、うな垂れた。この会話が続くのは、得策ではない。話題を変えるぞ!
「今日、少し遅かったですね。会社は定時退社のはずだなって思ってたから、もう帰ろうとしてたところだったんです」
「今日は、姪っ子の誕生日でね。ちょっと、顔出してきた」
「あらっ、おいくつですか?」
「6歳。年長さんだよ。見る?」
といって、スマホの動画を見せてくれる。ひゃ〜。
「可愛い〜。おめかしして、スカート広げてお姫様挨拶してる〜」
そのお姫様が、安田に抱っこされて、ご満悦だ。
「真理ちゃんは、大きくなったら、何になるの?」
と安田が聞けば、
「耕おじさんの、お嫁さん〜」
と首に抱きつかれて、ほっぺにチューされている。
「よしよし。約束だぞ」
「やくそく〜」
と動画は続く。
「こりゃ、たまりませんね〜。耕おじさん」
優吹子がくすくす笑って、呼んでみる。
「まあね」
と、まんざらでもないらしい。子供が好きなんだなと、いつもと違った顔を見て、優吹子も嬉しくなった。
「こんなに早くこっちに来ちゃったら、泣きませんでした」
「いや、あんまり興奮しすぎて、昨日寝てなかったらしくて、途中でぐっすり」
「あらあら。目が覚めたとき、泣きますよ〜」
「モテる男は、つらいな」
「初恋の相手が、こんな薄情者だなんて、マリちゃん可愛そう」
「初恋とは限らない。幼稚園じゃ、ヤスくんとミキオくんがお気に入りらしいから」
「あら。焼きもちですね、ふふ」
「……それに、こっちも大切だからな」
とウィスキーに口をつけつつ、何気ないかのように言う。
「……」
優吹子は、思わず黙ってしまう。今日は、なんだか安田が優しくて、ドギマギしてしまう。あぁ、安田も少し酔っているのか……。
「優吹ちゃん、子供嫌いじゃないんだね」
安田が、もう一度動画を見ている優吹子を眺めながら、言葉にした。
「好きですよ。私も、甥っ子がいるんです。弟ったら、姉をドンドン追い越してて」
「いくつ」
「まだ1歳。弟のお嫁さんが、動画を送ってくれるんです。私小姑なのに、偉いでしょう。やっと最近、私を見て笑ってくれるようになって。たまりませ〜ん。見ます?」
優吹子は、お気に入りの動画を見せる。こちらを見た瞬間に、満面の笑みになる動画だ。もう、これを見るたびに、癒されている動画である。
「ねっ、ねっ。この笑顔になる瞬間、たまらないでしょ〜。はにかんでるのー」
「ほんとだな……」
そういいながら、安田はやさしく優吹子を見ていた。何か言いたそうな顔をしている。
「どうしました?」
「……。いや、彼女がね……。子供苦手だったなって、思い出して……」
今までの幸せだった時間が、一瞬にして閉ざされてしまう。突然だったから、準備ができていなかった。心臓に、直接響いた。でも、ちゃんと話を聞こう。初めて安田から話してくれたのだから。
「リホさんですね……」
「うん……。僕、女性って、みんな子供が好きだと思ってたんだよ」
「そうですよね」
「でも、怖いって言うんだ、小さい子が。訳が分からなくて……」
「たまに、います。女性でも。子供苦手な方」
「そうなの……?」
「はい。色々な場合がありますが、傷つけそうで怖いとか、自分には愛する資格がないとか……、愛されたことがないから愛し方が分からないとか、自分でも分からない理由で、ただ怖いっていう女性もいます」
「……」
「リホさんは、もしかして一人っ子さんでしたか?」
「小さい時に親が離婚して、小2までは父親と暮らしてた」
「じゃ、小さい子供との距離の取り方が、分からない恐怖かも知れませんね……。どちらにしても、憶測ですが……」
「彼女の気持ちに、寄り添ってなかったんだと、思う……」
「別れたのは、子供のことが原因なんですか……。そんな……!」
初めて、「別れた」と直接的な言葉にしてしまった。安田は傷つかないだろうか……。
「分からない……。ただ、それしか思いつかなかった。プロポーズしたときも、僕のことは好きだと言ってくれてたし……」
「……」
プロポーズまで……。優吹子は、ここから今すぐにでも逃げ出したい気持ちで聞いていた。息が苦しかった。
「僕のことを幸せにできないって……」
優吹子は、必死にリホの気持ちを探ってみる。ここが、肝心のような気がしていた。安田の苦しみは、全てここに集約されている。
――なぜ、僕ではだめだったのか
「安田さんは子供好きだから……」
優吹子は、少しだけ想像できた事を、整理して言葉にした。
「自分が愛した人が子供好きで、でも、もし自分のせいで……、子供を怖いと思う自分のせいで、愛した人に子供を授けてあげられなかったら……、って考えたら、死ぬほど辛いと思います……」
ずっと、遠いところを見ていた安田の視線が、ゆっくりと優吹子に戻ってきた。
「……」
「安田さんがリホさんにとってダメだったのではなく、安田さんには自分は相応しくないと考えたのではないでしょうか……」
安田は視線を泳がし、必死に何かを考えている。
「もしそうなら、リホさんも別れた事を、とても苦しまれたと思います……」
――もう、あんなの、二度と……、や……
「……っ!」
日本に戻って、璃帆にうわ言で言われた言葉だ。その後、彼女は泣き出したのだ。
安田は、思わず両手で顔を覆った。思いもよらなかった。璃帆は、僕の幸せのために身を引いたとでもいうのか! 子供なんかどうでもよかったんだ! 君がそばにいてくれるだけでよかったのに……!
「なんで……っ!」
それだけが、言葉になった。
優吹子は、安田の背中に手を置いた。そっとその背中を擦り続ける。できるなら、泣いてしまったほうがいい。今までの想いを、吐き出してしまったほうが、いい……。でもきっと、安田が泣くときは、家でひとりの時なのだと分かっていた。だからこそ、今だけは心の中でいいから、誰かに慰めてもらえる場所で、思いっきり泣いてほしい……。
しばらくして顔を上げた時には、もういつもの顔に戻っていた。優吹子も、背中の手を、そっと元に戻した。
「……ごめん」
「いいえ。飲みましょう……」
そう言って、安田が頼んでくれたカクテルに口を付ける。
「おいしい……」
「そう……、よかった……」
2人で、ゆっくりお酒を飲んだ。
グラス1杯のウィスキーを飲んだところで、安田の携帯が鳴った。
「あれ。少し早いな。アメリカ……。ちょっと、ゴメン」
優吹子は「了解」とうなずきながら、安田が店の外に出るのを見送る。
そうか。今20時前だから、現地は7時前のはずだ。8時始業だから、確かに少し早い。また、何かあったのかな。
「大変ですね」
と、マスターに話せば、マスターも同じように返す。確かに30過ぎれば、働き盛りだ。ましてや、安田は大手企業の課長である。忙しくて、当然だ。いつまでこうして、一緒に飲ませてもらえるのだろう……。
「何でそうなるんだ! 今から、稲垣に連絡してみるが……。こっちは、もうだめだ。明日から連休で、休日出勤はかなり難しい。僕は無理だ。実務から離れてどれだけたったと思ってる。……、そんな技術者、すぐ見つからない」
話しながら、店の中に入っきた。何か資料を取り出したいらしく、鞄の中を探りながら、会話を続けている。中から資料を見つけて、取り出す。それを眺めつつ、ふと安田を見ていた優吹子と目が合った。「大変そうですね」と顔で話せば、軽く手を上げて、もう一度外に出ようとした。
その刹那、安田は何かに気づいたかのように、足を止めた。そのままゆっくり優吹子の顔を見る。会話が止まっていた。電話の向こうの声が、ここまで聞こえる。
「課長、どうしました! もしもし、課長!」
「いるか、ここに……」
安田は、電話に向かって小さく叫んだ。
「すぐ掛け直す。ちょっと、待ってろ」
安田が優吹子の前まで来て、真剣な目をして言った。
「手伝ってもらえないだろうか?」
「……」
「どうしても、CADの技術者の知恵が要るんだ。うちの会社の失態だ。君には何にも関わりがない。それを承知で、どうかお願いできないだろうか」
「……」
「責任は、全てこちらにある。君には迷惑を掛けない。必要ならば、費用を請求してもらっても構わない。お願いだ」
「私の知識は、私のものではありません。すべて、菱機産業に帰属するものです。鳥出会長の許可なく、私が他社の方にお教えすることは、何もありません……」
優吹子は、顔を歪めながら、苦しそうに答えた。
安田は、一瞬衝撃を受けた顔をした。じっと優吹子の顔を見ていたが、ゆっくり視線を落とした。
「……そうだな。すまない。君の言う通りだ。僕が間違ってた。忘れてくれ」
そう言ったかと思うと、またスマホを取り出し、電話を掛け始めた。資料を見て、相手と話し始める。
「広瀬様」
静かにカウンターの中からマスターに呼ばれ、優吹子は自分が立ちっ放しなことに気が付く。マスターが、ゆっくりと囁いた。
「目の前の、溺れた人ですよ」
優吹子は、我に返る。私は、人には要求しておいて、自分だけ矜持を守るつもりでいるのか。なんて、自分勝手な……。しかも、相手は、全ての道理を分かっていて、私に頼んでいるのだ。そして何より、それは安田なのだ……。
しかし、技術者としての優吹子が、それを……、私情を理由にすることを、全身で拒んでいた。
優吹子は内心で自分を笑う。「人間をつくるのが理性であるとすれば、人間を導くのは感情である」ルソーだったか……。
資料を見ながら、打ち合わせている安田の腕を、そっと触った。安田が、こちらを向く。声を掛けた。
「お手伝い、します」
安田が、思わず電話を外す。
「大丈夫だ。気にしないで。こちらで、何とかする」
もう一度、優吹子は繰り返した。
「お手伝い、します」
安田はじっと優吹子の顔を見て、そのまま顔が引き締まった。
「こちらに、当てができた。僕のパソコンに、図面を送ってくれ。移動するから、30分後に、こちらから電話する」
店を急いで出て、タクシーに乗り込む。そこで、色々説明をされる。
「テストピースを作りたいんだ。120種類ぐらい。基本の設計は難しいものじゃない。ただ、それを現地午後2時までに仕上げたい」
「数値の違いだけで大丈夫なんですか。それとも、形状のモデリングも変わってきますか?」
「両方だ」
取り合えず安田のモバイルパソコンで、図面を確認する。
「適切なコマンドが使える人がいれば、3時間あれば」
「……! そうなのか……」
すぐに電話で確認を取る。優吹子の言う「適切なコマンド」を使いこなせる人間が、今現地にいるのか……。現地からの返答を確認し、電話を切って一旦、逡巡する。
「君に、モデリングしてもらうしか、ないらしい……」
「……、分かりました」
「全ての責任は、僕が取る。ミスは、現地で確認するから、必要な指示をくれるか」
「1つだけ、お願いがあります」
安田は「もちろん」と顔で応えた。
「今回の件は、私は一切関わっていないことにしていただけますか?」
「……約束する」
あるマンションの前に、タクシーは止まった。オートロックの入口を入る。優吹子は小走りになりながら、安田の後に続いた。
「ここは?」
「僕の家だ」
「……えっ!」
安田によると、安田の会社は22時で全消灯されてしまい、もう会社のCADは使えないらしい。あとは、安田の家にあるパソコンから、リモートソフトを使い、アメリカのCADを操作するしか手段がないというのだ。セキュリティは大丈夫なのか。
「一部の課長職以上のものにしか許可されていないアカウントを使う。かなりセキュリティも高い。だから、ここに来てもらった」
安田の部屋は、整然としていた。グレーと白を基調にしたインテリアで、無駄なものがほとんどない。優吹子はさすがに部屋に入るべきか、一旦躊躇するが、どんどん自分の部屋に入って照明を点けていく背中に、追いつこうと足を踏み入れた。
「パソコンはそれ。今、図面を印刷するから」
それからの時間は、お互い仕事モードで、一切余分な感傷は取り払われる。猛烈な速さで作業を進めた。
優吹子はどんどんモデリングし、それに対して図面を見ながら、安田が必要な数値を読み上げていく。2人の頭の中では、形状はもうできているから、あとは優吹子がどのコマンドを使い、どうモデリングしていくかを確認しつつ、的確に次の必要な仕様を、安田が伝えるのだ。この共同作業は、強烈に操作時間を短縮していく。あとはそれを、いかに120種類にしていくかだけだ。
そこで優吹子が、安田に指示を出す。
「どの数値を変化させていけばいいか、CSVファイルにして下さい。項目の順番は、これ」
「了解」
アメリカと電話でやり取りしつつ、作業を進める。リモートだから、アメリカ側の画面にも、優吹子の作業は映し出されている。向こうにしてみれば、画面の中で、自動的にモデリングが進んでいくのを、ドキュメンタリー映画のように眺めている感じのはずだ。
「課長、これ、だれが操作してるんですか? すごい……」
「説明は、後だ。必要なものを作成してくれ」
驚嘆の声が安田の耳に届く。それは、そうだろう。安田も目の前で見ていて、まるでこのデータを何年も前から知っているかのように、的確に無駄なく作成していく優吹子に、言葉が出ないほどなのだから。
安田はネクタイを外した。カッターの1番上のボタンも外す。ついでに、コンタクトも外し、メガネになったところで、一瞬、優吹子の手が止まった。
「どうした? 問題か?」
「いえ、何でも……」
ちょ〜カッコいい〜って、ぽぉっとしただけです、とも言えず、手を再開させる。
「老眼鏡ですか……?」
マウスは動かしつつ、横目で見ながら、聞いてみた。安田に人差し指でおでこを押され、体が揺れる。安田とのこの時間は、優吹子にとって、信じがたいほど楽しかった。声を上げて笑ってしまった。
優吹子は、モデリングと同時にどんどん画面もコピーしていった。Excelに貼り付けていく。同時進行で行っていたため、安田にはほとんど分からなかった。
アメリカで作成された条件のCSVデータを、CADに組み込む。その瞬間、条件違いの形状が、データ分だけ自動的に作成されてしまった。
「すごい!」「すごい!」
安田とアメリカで、同時に声が上がった。優吹子は尚も手を緩めない。次のモデルに移る。結局4種類のモデリングで、125種類のデータを作成し終わったのが、22時45分だった。
「ふう……、確認だけお願いできますか?」
そう優吹子が言ったときには、あまりのすごさに、安田の体が固まっていた。画面を凝視していた安田は、優吹子の頭を1度ポンとして、席を立った。
アメリカでの確認に、30分ほど時間を欲しいという。その間、こちらは待機となった。安田が、コーヒーを入れてくれたのだが、まだ優吹子はパソコンをいじっていた。
「何してるの?」
「マニュアルを」
「……」
安田は、画面を覗き込む。いつの間に、こんなに作業途中の画像を保存していたのか。その画像に、どんどん作業方法を書き込んでいく。本当に、何かのソフトの、自動デモ画面を見ているかのようだ。それが、20分ほどで終わってしまった。
「君は、何者なんだ……」
ユーザー会の優吹子を思い出した。安田は、頭を抱える。これを、どうやってごまかして皆に説明しろって言うんだ!
「安田さん。口止め料をいただきたいんですが」
優吹子が、笑いもせず真剣に安田に向き合った。この図面もデータも、安田の会社の機密データである。当然の要求だと、安田が身構える。
「……何でも、言ってくれ」
優吹子が、ゆっくり指を差した。それに釣られて、安田もそちらに顔を向ける。そこには、本棚が置いてあった。
「あの中から一冊、私にお勧めの本、下さいませんか?」
いつの間に、本棚があることを確認していたのか。あれだけのスピードと正確さで作業しながら、周りのことまで目に入っていたのか……。安田はもう、驚くことも止めてしまった。
本棚まで移動し、ゆっくり眺めて、一冊を取り出す。それを優吹子に手渡せば、優吹子は顔一杯の笑顔で、喜んだ。
「ありがとうございます!」
思い出を欲しかった。優吹子は、いずれくる日のために、たった1つでいいから、記念のものが欲しかったのだ。どんな本だろうと、表紙を眺めた。
「安田さん……。これ、イヤ……」
安田が大声で笑う。
「いずれ、きちんとお礼はする。まずは、それを熟読して」
優吹子は涙目で、ガックリ肩を落とした。「初心者向け英会話」の本だった。
アメリカから連絡が入る。無事チェックが終わり、ミスはなかったとのことだ。安田が、さっきできたばかりのマニュアルを送信する。あれがあれば、応用が利く。
「どうなってるんですか!」
と電話の向こうで叫ばれ、安田も返す言葉がない。「とにかく、説明は後で」と電話を切り、2人で大きく息を吐いた。
緊迫した時間が終わり、改めて2人であることに優吹子が気付く。途端に、心臓が跳ね出した。その時、安田のスマホのアラームが鳴る。
「優吹ちゃん、最終出ちゃうから、急ごう」
最終電車の時刻をセットしていたようだ。間に合わなければタクシーで帰すといっていたが、断然電車の方が早く着く。慌てて身支度をして、玄関を飛び出す。
大通りを行こうとした優吹子の手を、安田が握って引っ張った。
「こっちが、早い」
手を引かれる形で、小走りで駅に向かう。腕時計を見ながら安田が声を掛けた。
「やばいな、走るよ」
そう言われて、もう走ってるからドキドキしているのか、手を繋いでいるからドキドキしているのか分からなくなりながら、とにかく走った。
駅について、改札を入ろうとしたら、安田がゼエゼエいいながら優吹子に声を掛けた。
「必ず、駅からタクシー使って! 今日、君に何かあったら、僕は一生後悔する。家に到着したら、連絡くれ」
膝に手を突き、上半身を曲げ、息を整え切れずに言われて、優吹子は可笑しかった。
「耕おじさん、大丈夫ですか? ちゃんと、連絡します。タクシーチケットありがとうございます!」
はぁはぁ言いながら、安田に手を振られ、優吹子も手を振って改札をくぐった。
今夜のことは、もう一生忘れない。最終電車の中で、ほんのり安田の香水の移り香が残った「初心者向け英会話」に顔を埋めて、そっと息を吸い込んだ。