接待
安田は「Green」に来なくなった。優吹子は、2日おきには顔を出しているのだが、一向に会えない。
「安田さん、いらっしゃいませんね……」
自分のグラスを眺めながら、マスターに確認する。
「えぇ、この時間は。お忙しいようです」
「……! この時間はって、もっと遅い時間にいらっしゃってるんですか?」
「はい」
「……そうですか」
優吹子は、自分が避けられていたことに気が付いた。話を聞くことも大事だが、安田が落ち着ける場所を、減らしてはいけない。
「マスター、私、仕事忙しくなりそうで、当分来られそうにないんです。また、落ち着いたら、お邪魔しますね……。そう、お伝えいただけますか?」
「かしこまりました。お待ちしております」
「染吉姐さん、話を聞くどころか、会えなくなっちゃった……」
「そう……。一番よくないのよ。悲しみを誰にも話さずに、抱えたままっていうのが。外に出さないから、悲しみが内側に向かって行って、どんどん心を蝕んでいってしまう」
――それからはもう、一心不乱に仕事に打ち込みました。
「きっと、仕事でごまかしているんだと思う」
「なかなか、いい男じゃない。酒や、女に逃げないんだから」
「あっ……」
――そこに、甘えてしまった……。足らない物を埋めてくれそうな気がしたんだ……
安田の顔が浮かんだ。優吹子は、初めて気づく。アメリカで結婚したのは、「リホ」さんの苦しみから、逃げるためだったのではないか……。じゃあ、もう、4年以上も思い続けている……。
「4年以上って、長いですよね、姐さん……」
「死別じゃないなら、長いわね」
「どうしよう……」
「しっかりしなさい。どんな泥沼の底にいても、救い出す覚悟を持ちなさい」
「……はい」
染吉姉さんは、今は無き深川芸者の気風を、絵に描いたような芸者だ。少しでも、見習わなければ……。
「さあ、着いたわよ。今日も、手抜かりなくよろしくね」
「はい」
料亭の裏木戸を、カラカラと開けた。
角を1つ曲がると、景色が変わる。いや、景色というより、時代が変わる。今でもこんな古き良き時代の日本を残した世界が、しかも東京にあるのかと、安田は驚いた。
狭い路地に、黒塀がずっと続いている。足元は石畳だ。水が撒かれ、しっとりとした空気が辺りを包んでいる。建物の窓は全て格子で覆われ、もちろん入り口も格子戸になっている。門の両側には、屋号を配した提灯が灯され、ほんのりと周りを明るくする。厳かに近い気持ちで、数寄屋門の格子戸をくぐった。
音が、消えていく。何度も言うが、ここは東京の真ん中だ。こんなに静かな場所があるのだと、安田は座椅子に座りながら、雪見障子のガラスを通して、庭を眺める。小さな獅子脅しまであり、チロチロと流れている音が、ここまで聞こえてくる。
今日は、先日のアメリカへの支援へのお礼を兼ねて、アメリカから視察に来た新部長らの接待に出ていた。本来、課長の安田が参加するような気軽な会食ではないのだが、4年いた部署の同僚がいたため、呼ばれることになった。ここにいるメンバーは、皆英語が話せるので、会話は全て英語で交わされている。
まだ、1人到着していないため、待機の時間になっていた。安田は、少し意識がこの場から離れていた。
あれから……、璃帆の婚約の話を聞いてから、何度も同じ夢を見るようになった。決まって「Green」で飲んでいる夢だ。
本当に穏やかな気持ちで、僕は飲んでいる。璃帆の幸せそうな笑い声がして、何がそんなに嬉しいのかと、思わず横を見る。
でもそこに、璃帆はいない……。「璃帆」名前を呼ぶ。
そこで必ず場面が変わる。そして今度は、今にも泣きそうな優吹子の顔が、こちらを向いているのだ……。
いつも、ここで目が覚める。
何故君は、あんなに悲しそうな顔をしていたのか……。僕は、一体どんな顔で、君を見ていたのだろう……。
「また、傷つけたんだな、僕は……」
声にならない声で呟く。彼女のためにも、もうこれ以上近づかないほうが、いい……。安田はもう一度、心に言い聞かせた。
「お連れのお客様を、ご案内いたしました」
仲居さんの声で、安田は顔を上げた。
「染吉さん、ちょっといいですか」
姐さんが女将さんに呼ばれ、座敷に戻った。お客様がなにか呼んでいるらしい。
「優吹ちゃん、ちょっと待ってて」
支度部屋まで戻ろうかと思ったが、きっとすぐ帰って来るだろうと、渡り廊下の途中で待つことにした。今日は、他の部屋にお座敷はついていないらしく、静かだった。今、少しでも時間があると、安田のことを考えてしまう。どうしたら会えるのか。救うとは言ったが、そんなことが私にできるのか。苦しみに満ちた安田の顔が浮かんできて、優吹子も顔を歪めていた……。
安田達の接待終了の時間が近い。元同僚のブライアンにトイレの場所を聞かれ、安田もついでにと連れ立った。用を済まし、自分達の座敷に戻ろうと歩き出すが、ブライアンは料亭のあちこちに興味を示し、真っ直ぐには部屋に戻らない。まぁ仕方が無いかと、安田も付き合っていた。
この料亭には渡り廊下があり、その奥に、離れの座敷もあるようだ。中庭が美しく、ライトアップされた緑が、幻想的な世界を作り出していた。
「まるで、映画だ……」
ブライアンは感嘆している。確かに、日本人の自分ですら見とれるのだから、当然とは思う。しかも、庭も調度品も、全てに手入れが行き届いていて、一分の隙もない。やはり、自分が足を踏み入れる場所ではないと、改めて圧倒され、その場にしばし佇んだ。
気が付くと、ブライアンが渡り廊下の方まで行ってしまう。これは、マズい。急いで、後を追った。そして、そこに着物を着た女性を見つける。ブライアンが思わず彼女に声を掛けていた。
「What a beautiful person!」(なんて美しい!)
ブライアンの声を追いながら、安田は一瞬足が止まる。そして、ブライアンに同調した。
「本当に……」
突然の英語に、優吹子は現実に戻った。見ると、廊下を渡り切ったところに、アフリカ系外国人がいる。とても端正な顔をしている。目に力があり、一瞬優吹子も射抜かれたようになった。スーツを着ているので、観光客ではなくビジネスでの来客だと分かる。
自慢ではないが、優吹子は実は人見知りで、英語が苦手だ。
「私、初めて日本の伝統衣装を、間近で見ました。これが着物なんですね。本当に美しい……。貴方は、芸者ですか? 手に持っているものは、楽器ですね。なんという楽器なのでしょう。聞かせてもらうことは、できないのでしょうか」
優吹子には分からなかったが、一応彼は、こう言っていた。
低く通る声で話しながら、ゆっくり近づいてくる。優吹子が英語が話せないと分かったらしく、スマホを取り出して、目とジェスチャーで、写真を撮ってもいいかと聞かれていた。
「着物」「芸者」という単語は聞き取れる。
お座敷に出るときは、優吹子も着物を着る。但し、かつらは付けない。今日は「淡黄色」といわれる薄いクリーム色の、色無地に近い、裾の方にほんの少し蝶の柄が入った着物を着ていた。その分、帯には唐花の花丸紋の刺繍が、たっぷり施されている。染吉姐さんのチョイスである。
ただ、どうやら三味線にも視線が向いているので、「それは何だ」と聞かれていることも分かった。これまた、ジェスチャーで「弾け」といっている。それは、無理!
う〜ん、困った。スマホをかざしながら、手振りで一周回れとまで言っているし……。こんなところで、撮影会をするわけにはいかない。そもそも優吹子は写真嫌いでもある。
「I’m sorry」
と言ってみるが、興味津々で近づいてきて、更に英語で畳みかけられた。
優吹子の着物姿を、きちんと見たのは初めてである。安田は思い起こす。あの雨の日、「Green」で見たのは一瞬で、しかも驚きの方が心を占めていて、着物姿まで意識が行かなかった。
ブライアンに話し掛けられ、頬を少し赤くしながら、後ずさっている。髪を上げているので、たまに見えるうなじから目が離せない。あんなに細くて華奢な首だったんだと、認識を新たにする。優しい色の着物が、華やかと言うより知的さを感じさせる優吹子の美しさを更に引き立て、廊下に置かれた和紙の行灯型照明の光が彼女にまで届き、ふんわりと浮き上がらせている。本当に一枚の写真を見ているようだ……。綺麗だ……。
もうこれ以上近づかない、という小さな戒めなど、すっかり頭から抜け落ちる。自然に体が動いていた。
「ダメですよ。ブライアン。それは、彼女に失礼です」
彼の後ろから日本人が1人来て、そのお客さんとの間にスッと割って入ってくれた。優吹子を庇う様に、後ろ手に立ってくれる。記憶にある香水がほのかに香る。
安田だった。
純粋に助かったと思う。そして、気持ちが落ち着いたところで、偶然にも会えた喜びと驚きがにわかに沸いてきて、やっと声になった。
「安田さん……」
ブライアンと呼ばれたお客さんに、英語で説明をしている。ブライアンは気安く安田と話し、「写真もダメなのか」的な? 交渉をしている。と思う……。
あれ、これ夢だ。と優吹子は思う。こんな都合のいい現実は、ない。きっと、明け方だな。よく起きる前に、こういう自覚のある夢を見る。
「いい夢だなぁ……」
思わず、口にした。「せめて夢で会いたい」とは、古今東西使い古されたセリフだが、実際にそうなると、本当にうれしい。しかもちゃんと助けてくれるなんて、連隊物のドラマ並みである。香水の香りまで分かるのだ。人間の能力って、すごい。
まだ納得せずに粘っているブライアンに説得中の、安田の背中に掌で触れてみた。
「わぁ、生々しい〜」
安田がゆっくり振り向く。訝しげな顔で、優吹子の顔を見る。「何してるの!?」と、その顔は語っているが、優吹子はニコニコの笑顔だった。
「安田さん、かっこいい……」
パチパチ拍手までしてしまう。「英語を話す」と一言で言うが、実際に目の当たりにすると、街で偶然芸能人に会ったときのような、近寄りがたいオーラすら感じてしまう。
「はぁ?」
と安田の声がした。久し振りに聞いた声に、また萌えてしまう。
「この夢、覚めないで欲しいなぁ。あとちょっとだけでも……」
「優吹子さん、しっかりして。夢じゃないですよ。酔ってるの?」
ブライアンが色々質問している。それに安田は英語で答えながら、こちらには日本語で話す。
「彼を捕まえてますから、行ってもらえませんか」
「姐さんを待ってるんです。ごめんなさい。それに、これ面白い。まだ、起きない!」
「優吹子さん!」
優吹子は、色々疑問が湧いてきた。よく考えると、優吹子は安田のことを良く知らない。
「大体、いくつなんだろ……」
ひとりごちる。安田は「綺麗な」顔をしている。そういう人は、年齢が分かりづらい。
「う〜ん、実は、おじさんなのかな」
何だかブライアンは、すっかり私を撮り終えたようだ。私と安田が知り合いだと分かったらしく、この後お酒でもどうかと言っている。と思う……。
夢なんだから、もうブライアンのことは気にならなくなる。面白いなぁ。心置きなく、自分の想いを突き詰める。声にしていた。
「えっ、もしかして40代? いやいや、Greenに出入りしてるんだから、30代だよねぇ。あっ、でも私が知らない例外があるかも……。え〜、そしたら、50代もありえる〜?」
「What!?」
安田が、思わず振り向く。
「やだ〜、日本語通じますよ〜」
と、カラカラ笑った。
「優吹ちゃん、お待たせ!」
「何だか、リアルな夢〜。姐さんまで戻ってきた。楽し〜」
「何ぶつぶつ言ってるの。さぁ、帰りましょ」
本物の芸者の登場で、ブライアンが、再度喜ぶ。アメリカ人って、本当に「Wow」って言うんだ。などと、やっぱり楽しい。
「あの、写真をお願いできないでしょうか?」
安田が姐さんに聞いている。
「私には聞いてくれなかったのに……」
口を尖らせて、文句を言う。普段なら、決して口に出さないセリフだが、なにせ夢なのだ。何を言っても、許される。
「君は、嫌がっていたから……。だから、止めたんでしょ」
「優吹ちゃん、お客様に失礼ですよ。写真、どうぞ。この渡りの上なら、他のお客様にも迷惑掛かりませんので、こちらで、どうぞ」
と、ブライアンを招く。ん……、なんか、現実っぽくない? 姐さんに怒られた。
「優吹子さん、夢じゃないの! 分かる!? 僕は、今年、36歳!」
「……」
優吹子は、訳が分からない。前見た映画で、夢か現実か知りたい時は、ここにどうやって来たか思い出してみろって、ディカプリオが言ってなかったか……。
ここへは、姐さんと、置屋から、歩いてきた……!
「ええ〜」
安田が、冷ややかに見ていた。
「安田課長、ブライアン課長も、何やってるんだ。行くぞ」
2人の上役らしい男性が、廊下の奥から声を掛ける。
「申し訳ありません。すぐ、参ります」
安田がブライアンを連れて、自分達の座敷に向かう。振り返り、早口で言った。
「この後、Greenで待ってる」
「あれが、安田さん? 奇遇ねぇ。しかし、綺麗な顔だわ。優吹ちゃんって、面食いだっけ?」
「姐さん、どうしよう……。この後、怒られる……」
「……、何やったの」
「で、どうして夢だと思った?」
「Green」で、優吹子はうな垂れる。安田がカウンターをコツコツしながら、問い質していた。
「あの……、すみませんでした」
「すみませんは、散々聞いた。理由を聞いている。お座敷では飲んでないんだよね」
「はい……。今日お客様、お一人で。お相手は姐さんがしたので……」
「一人……。すごいな。そんな粋なお客さん、いるんだね」
「姐さんの踊りを楽しみにしている、お馴染みさんなので……」
「ふ〜ん。……で、理由はどうなった!?」
安田の半眼は変わらない。ダメか……。ごまかされてくれない。
「あんまり、都合が良かったので……」
「都合がいいとは?」
もういいや! 意外としつこい。そして、私は意外と短気なわけで。
「困ってた時に、会いたいなと思ってた人が助けに来てくれるなんて、戦隊もののドラマみたいだなって思って、現実とは思えなかったんです!」
「……、逆切れ?」
安田は、優吹子の方に向けていた体を、カウンターの方に向けた。やっと優吹子も、解放されたらしい……。優吹子も、椅子を回転させて、カウンターの方に向いた。
「忙しくてね……。なかなか、早い時間には、来られなかった」
「……はい」
「この間は、すまなかった。ちゃんと謝らないといけないと思ってたんだけど……」
「いいえ。気にしてません」
安田は、少しホッとした顔をする。それを盗み見て、優吹子も安堵した。
「しかし、50代はないよなぁ」
「だって……」
「だって?」
しっかり睨まれる。
「……、何でもありません」
「他に、聞きたいことは? とんだ勘違い、優吹子さんはしそうだ」
優吹子は、心臓が跳ねた。今しか、ないのではないか。きちんと始めないと。
「私は、似てるんでしょうか? リホさんに」
一瞬、目に見えて安田の体が固まった。手に持っていたグラスが、止まる。
次の言葉が出てこない。優吹子は、余りの沈黙に、取り繕いたくなる。それを、膝の上で手を強く握って必死に我慢した。
「髪が、少しね……」
あぁ、本当に姐さんの言っていた通りだ。やっと答えてくれた安堵感よりも、「その人」への想いを知る辛さの方が、圧倒的に大きい。心が引き攣れる。
安田は前を向いたまま、止まっていたグラスを口に当て、ゆっくりとウィスキーを含む。
「優しい方ですか」
グラスを3本の指で上から持ち、ゆっくり回しながら考えている。
「優しい……か。そうだな。優しい」
「別の言い方の方が、良さそうですね」
グラスを置いて、指を組む。視線はその手を見ているのに、その目は遠くを見ていた。
「……寂しいの上に、優しさが重なってると、言うべきかな」
「寂しい?」
「……ひとりをね、いつも「ひとり」を背負ってる感じだった」
「よく、分かってらっしゃったんですね。リホさんのこと……」
「3年、付き合うまであってね。上司だったから仕事の仕方とか、コミュニケーションの取り方とか、いろんな意味でよく見えるようになる……」
「リホさんは、お幸せでしたね。そこまで分かってくれる人に、愛されて」
「……そうだろうか」
「はい。そうです……」
しかも、まだ愛が終わっていない。そんな人は、めったにいない。
「じゃあ、なぜ……」
カウンターの中を真っ直ぐ見たまま、そこまで言葉にして、安田はまた止まってしまった。
なぜ……か。そうだったのか……。愛して、愛されて、別れた。
どうしてかも分からず……。
それは辛いな。優吹子は、ほんの少しずつ、自分の心を安田から剥がしていく。そうすれば、いちいち心を傷つけずに済む。そうやって、きちんと寄り添っていこうと、思った。
隣で安田がゆっくり息を吐いた。
「少し、疲れたな……。今日は、接待でね」
やっと、安田がこちらを見て、優しい顔になる。
「あっ、ごめんなさい。そうですよね……。あの料亭、よく使われるんですか?」
「僕は、初めてだよ。あんな高級店、そうそう足を踏み込めるもんじゃない」
「じゃあ、芸者さんは?」
「まさか!」
「楽しいのに」
「う〜ん、じゃ部長になったら、呼ぼうかな」
「あら、先が長そうですね。お婆ちゃんになっちゃう」
「そりゃ急がないとな」
「そうそう、早く出世して下さい」
安田の顔にも、笑顔が戻ってくる。もっともっと、リホさんのことちゃんと聞きたい。でも、急いではいけない。それは、優吹子の独りよがりだ。今の安田にとっては、それこそ傷に塩を塗られている様なものだろう。ちゃんと、その苦しみに、寄り添わないといけない。
「……これから忙しくなるって? マスターが言ってた」
「はい……」
「遠慮してるなら、いいよ」
「……」
安田の顔を見た。微笑んで、優吹子を見ていた。「何で分かるの?」と、顔に出ていたらしい。
「ハハッ、分かりやすいな。また、夢だと思われたら、ややこしい。僕も、来れるようなら、これからはちゃんと早い時間に来るから」
「……、私がいても、ゆっくりできますか? 大丈夫ですか?」
少し焦って、聞いていた。
「もう、大丈夫……。そうだ。さっき、染吉さんが「優吹ちゃん」って呼んでたけど」
「はい。小さい時から、可愛がってもらってて」
「僕もそう呼んでいい?」
優吹子は驚いて、顔に血が上ってくるのが分かる。きっと、真っ赤だ。
「『優吹子さん』は、なんかもう面倒くさい」
「はい。どうぞ……」
頭から湯気が出そうとは、このことだ。顔が、上げられない。
「ところで優吹ちゃん」
ドキドキする。「優吹ちゃん」って名前で、良かった。
「少し英語覚えた方がいい。いつも、僕が助けられるわけじゃないでしょ」
喜んだのもつかの間、あっという間に気持ちが萎える。眉間にしわが寄った。
「でも、英語苦手で。初めて会う人も……」
「えっ、それでお座敷出てるの? ユーザー会でも、とってもそんな風には見えなかったけど」
「三味線もないし、CADもないし……」
「武器がないと、ダメなわけか……。なるほどな」
しばし考えていた安田が提案する。
「よし、じゃ僕が教える。断る時と、了解するときの2パターンあれば、まずはいいでしょ」
「ええ〜」
精一杯拒否するが、急に上司顔になる。ふぇ〜。
「ボトルのお酒も飲んでないでしょ。お詫びだな。レッスン料タダでいいからね」
なんか違う。理屈が違う。全部違う〜。優吹子は心の中で叫んだ。