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婚約

「アメリカに、行くことになりました。まずは、2週間の予定です。

 よければ、僕のボトル飲んでください。マスターには言ってありますから」

 安田からのLINEを見て、優吹子はため息を吐く。

「行っちゃった……」

「どこへ? 誰が?」

 すかさずそう聞いたのは、染吉姐さんだった。今日はお座敷に出る日である。

 この姐さんは、この界隈では踊りの名手と言われている。優吹子の小さい時からの付き合いで、祖母亡きあと、同じ三味線の師匠についていた。優吹子を、会社員の仕事をしつつ、お座敷に上がれるよう骨を折ってくれたのも、この姐さんだった。

「優吹ちゃん、オ・ト・コでしょ」

「……、そうだけど、そんなお付き合いの人じゃないよ」

「へぇ、男と女に、そんなもこんなもあるのかねぇ」

 上から目線で、流し目を寄こす。

「優吹ちゃんはさぁ、根暗のパソコンオタクだから、ちょっと手練れの男なら、すぐ落とされちゃうのよねぇ」

「安田さんは、そんな人じゃないってば」

「安田さんって言うんだぁ。どんな人。写真見してみ」

「写真なんて、ないよ。仕事でのお付き合いなんだから」

「ふふん。仕事ねぇ。それで『行っちゃった……』ってな状況、あるのかしらねぇ」

「もう、勘弁して」

「白状したら、勘弁してあげる」

「……」

 姐さんの前で、うっかり呟いた私が迂闊(うかつ)だった……。


「バーで一緒になれば飲んだり、居酒屋に連れて行ってもらったことがあるだけで、ホントにそんなお付き合いじゃないの……」

「ふ〜ん。優吹ちゃんさぁ、まだ前の彼氏のこと、引きずってるの?」

「……っ、それはもう大丈夫」

「じゃあ、なんでそんなに、自分をごまかしてるのかしら?」

「……」

「相手に問題あり、なわけね」

「よく、分からない……。分からないけど、ひどい傷があるように感じるの。ずっと塞がらなくて、ガラスが刺さったまま……」

「それは、手強いわねぇ。よっぽどいい女なのかしらねぇ」

「やっぱり、女、かな……」

「聞いてみれば。まだ、そんなお付き合いじゃないんでしょ。だったら、今しか聞けないわよ。抜き差しならなくなってからでは、遅いからね。ちゃんと、優吹ちゃんが、(とむら)ってあげないと」

「弔う……?」

「そう。心の中の人を、ちゃんと弔わないと、人は先には進めないの」

「……」

「知りたいなら、ちゃんと方法を教えてあげるけど、1つだけ忠告があるわ」

「何?」

「弔っている間、優吹ちゃんはとても辛いわよ。だって、その人への愛の深さを、嫌でも知ることになってしまう。そしてね……」

「1つじゃないじゃない……」

 不安をごまかすために、冗談を言う。

「優吹ちゃんが弔ったからと言って、その後、愛してもらえるとは限らない」

「……」

「さぁ、お座敷行くわよ。今は安田さんは、ここに置いときなさい」

 姐さんと置屋を後にした。


「水の中から、引き上げるしかないな……」

「……、スキューバ使いますか」

「集められるだけ、集めろ」

 矢代部長を囲み、皆が沈黙する。

 今回のハリケーンで、現地下請けの工場が水没した。1週間経っても、水が引かない。大事な「金型」が、その水の中に沈んだままなのだ。このままでは、その「金型」から作られるはずの製品の供給が、全て止まる。「金型」を短期間で製作し直すことは、不可能だ。

 安田や稲垣、その他日本から来たメンバーと共に、現地での手配に奔走した。


 夜、やっとホテルの一室に戻ってきた。ベッドに倒れ込む。アメリカで仕事をすると、どうしてこうも前に進まないのか。日本の企業がいかに規律正しく機能しているのか思い知らされる。

 スマホが点滅しているのに、気が付いた。LINEが来ていた。

「遠慮なく、飲ませていただいてます。

 早く帰ってらっしゃらないと、無くなっちゃいますよ〜。

 お仕事、頑張ってください」

 優吹子がグラスを持って、マスターと写した写真も添付されていた。

 安田は、思わずほっこり笑っていた。

「ホントに3日で無くなりそうだな……」

 居酒屋での夜を思い出して、あの声も甦る。

「いい声だったな……、艶があって……」

 とてもあのユーザー会の優吹子からは想像できない「艶」である。

 昼の忙しさから、ほんのひと時解放されていることを実感する。

「また、君の唄を聞かせて貰うのを条件に、新しいボトル入れていいですよ。

 楽しみにしてます」

 そう返信した。楽しみか……。いいのか、先のことを話して……。今更、後悔に襲われるが、一緒に飲むだけだからと、自分に言い訳し、メッセージの削除は止めた。

 1つくらい、日本に帰る理由があってもいい。

 安田は、シャワーを浴びるため、ベッドを離れた。


 アメリカに来て、予定の2週間が過ぎようとしていた。「金型」の引き上げは無事終わったが、後始末が大変だった。現地は、酷い臭いと暑さもあり、みんなへばっていた。

 こういう時の安田の会社の対応は、ホワイトカラーであろうがブルーカラーであろうが、全員で協力し合うのが当たり前で、安田を含む設計組も、現場での復旧作業を手伝っていた。

 慣れない作業に加え、終わりが見えない不安も重なる。朝、現場へ向かうバスの中は、疲弊した空気が流れていた。

「さて皆さん、そろそろ我々の仕事も収束します。日本からの要請もあり、皆さんには帰国していただくことになりました。本日が最終です。残り一日頑張って、できる限りの現場復旧をお願いします」

 現場を仕切っていた次長が、バスの前で皆のほうに向かい挨拶をした。昨日の帰りには、何も言っていなかったから、あの後、急遽決まったのだろう。皆から、安堵の声が上がる。安田もさすがに大きく溜息を吐いた。隣に座っていた稲垣も、喜びの声を上げる。

「あぁ、これでやっと、風呂に浸かれる〜」

 全くだ。ゆっくり、酒も飲めそうだ。そう思った途端、優吹子の顔が浮かんだ。

 LINEしておくか。

「やっと、帰れることになりました。また、Greenで飲みましょう」

 途端に、返信が来る。

「思ったより長引かなくてよかったです! お疲れ様でした。

 今も、Greenでウィスキー頂いています。

 すっかり、ウィスキー党になっちゃいました。

 お帰り、楽しみにしています。また、飲みましょう」

 ん? 今、日本は何時だ……。おいおい、もう22時だぞ。何やってる。

「もう遅いので、早く帰りなさい」

「きょうは、お座敷だったから、寄っただけですよ〜。

 相変わらず、心配性ですね。

 でも、叱られたから帰ります。お休みなさい」

「よろしい。気をつけて。お休み」


「安田課長、何だか顔が緩んでますよ。LINE、彼女ですか?」

「いや、……違う」

 安田は、顔を引き締め直して、前を向いた。

 そういえば、稲垣に優吹子のことを話していなかったと気が付いた。あんなに会いたがっていたんだから、紹介してやれば喜ぶだろうが……。

「稲垣」

「はい」

「……、いや、いい。何でもない」

「?」

 隣で(いぶか)しげな顔をしていたが、安田が黙ったので、稲垣もその後は仕事の顔に戻った。


「叱られちゃった……」

 嬉しそうに、呟く。マスターが、怪訝そうに眺めているので、教えてあげよう。

「安田さん、もうすぐ戻られるみたいです」

「そうですか、よかったですね。やはり、お2人の方が楽しそうですから……」

「それは……」

 優吹子は思わず顔が赤くなり、俯いてしまう。それを見て、マスターが笑った。

「いえ、安田様のことですよ」

「……、そうなんですか?」

 ゆっくりと、マスターが頷く。それは、やっぱり嬉しいかな……。

「遅いから、帰れって叱られたので、もう帰りますね」

 マスターは相変わらず笑ったままで、

「そうですか……。お気をつけて、お帰りください。ありがとうございました」

 と挨拶をした。チャージ代まで、安田が払ってくれるという。いくらか預けていったそうだ。あんまり、甘えすぎはよくないと思いつつも、それが当たり前だという顔で安田が言ってくれるので、すっかり甘えていた。

 いや、それは言い訳かな。ただ、うれしいだけかもしれない……。心配されて、叱られて、甘えられて……。

 早く会いたい……、って思っちゃいけないんだよね……。そう、とにかく今日は帰ろう。


 2日後、無事帰国を果たした安田達は、翌日から通常勤務に就いていた。

「ふわ〜っ」

「大きなあくびだな」

 自販機の前の、休憩所だ。先に稲垣と、その下の橘もいた。安田もコーヒーを飲みに来たところだ。

「すみません。眠くって」

「まぁ、時差はもう少し掛かるからな。現地は今、夜中の2時過ぎだ」

「眠いはずですよね……」

「今日終われば、明日は土曜日だから、この2日間で何とか戻せよ。あと出張のリポートも出せよ」

「ふぁ〜い」

「お前、遠慮がないなぁ、全く」

 と言いつつ、釣られて安田も小さくあくびをする。ブラックを選んで、ボタンを押した。


 稲垣は、隣にいた橘との話を、再開させていた。

「まぁ、そんなに落ち込むな。元々、彼氏がいたのは知ってたんだろ」

「はい……」

「どのみち、今枝女史は、お前には手に余る。あんな美人、みーんな憧れてたんだから」

 安田が、小さく反応していた。

「はい……」

「よし! 今日、飲みに付き合ってやるよ。時差ボケを押して行くんだから、感謝しろよ!」

「すいません、主任。ありがとうございます。……お先に、戻ります」


 橘が離れたところで、安田が声を掛けた。

「どうした……」

「長かった片思いに、終止符ですよ」

「片思い……?」

「あいつ、あの時からだからなぁ……」

「分かるように、話してくれないか」

「課長にだけですよ。元部下の話ですし……、知っててもいいでしょうから」

「何だ?」

「今枝さんが、婚約したって」

「……」

「今枝さんの事故のとき、一緒にいたのあいつだったんですよ。一時、噂にもなったくらいで……。でも、その時にはちゃんと彼氏がいたらしくて、その人と婚約したって。今枝さんが住所変更に総務に行ったらしくて、どこから漏れるんだか……。こういう噂って、あっという間だから……」

「事故って……」

「あぁ、課長ご存知ないですよね。ニュースにもなった大きな事故で、ビルの工事中の鉄板が、風にあおられて剥がれ落ちて、その下を歩いてたんですよ、今枝さん。確か、腕に怪我したんじゃなかったかな」

 あの、傷か……。

「まぁ、社内見渡せば、密かに失恋してるのは、橘だけじゃないでしょうけどね〜。皆んなの憧れだったからなぁ」

「……」

「課長、コーヒーとっくにできてますよ」


 その後、どう仕事をしていたのか、ほとんど記憶にない。

 分かっていたことだ。彼女が愛しているのは、僕ではない。もう、僕の腕の中には戻ってこない。分かっている……。分かっている。分かっている! だけど……、璃帆! どうして僕じゃなかったんだ!


 優吹子は、そっと「Green」のドアを開けた。いつもの席に安田の背中があった。やっぱり、来ていた! 胸がトクンと音を立てて、そこから体中に温かさが広がっていく。ほんの目の前にいるのに、自然に歩調が速くなる。会いたくても会えなかった時間は、まだ隠しきれていた優吹子の心を、しっかり見えるものに変えてしまったようだ。

「お帰りな……」

 声を掛けようとして、止まった。……安田が、寝ていたのだ。

 カウンターに両肘から先を置き、頭を垂れている。疲れ切った顔をしていた。

 優吹子は、そこに置かれているボトルを見た。先日入れたばかりなのに、半分ほどになっている。驚いて、マスターに聞いた。

「安田さん、どうされたんですか?」

「ちょっと今日は、無理な飲み方をされていて……」

「……」

「お起こししましょうか?」

「いえ、少し様子を見ます。時差の関係かも知れないし……」

 優吹子は、自分もウィスキーの水割りを頼んだ。こうして、そばにいられることの嬉しさを、改めて自覚してしまう。そっと、出されたグラスに口をつけた。

 

 誰かの声がする。ゆっくりと、目を開けた。目の前には、飲みかけのウィスキーが置かれ、横には女性がいた。セミロングの髪で、ほんのり薄く色が入っている。緩やかに流れていて、顔がはっきり分からない。でも、いつもその席にいるのは、決まっていた……。

「璃帆……」

 呼ばれた女性が、ゆっくりとこちらを向いた。でもそれは、璃帆ではなかった……。


 安田に呼ばれた気がして、顔を向けた途端、安田の顔が苦痛に歪んだ。

 優吹子は、心臓がちぎれるかと思った。鋭い痛みが走り、一瞬息が止まる。ここに座っているはずの人は、私ではないのだ。あっと言う間に涙が溢れそうになるのを、必死で堪えた。


 あなたの心の中にいつまでもいる人の名前は、リホ……。


「あぁ、来てたんだね。ちょっと、寝てしまった。時差ボケでね……」

「……お帰りなさい。お疲れ様でした」

「これ、お土産。帰りの空港でしか、買い物できなかったから、定番のチョコレート。よかったら、どうぞ」

 何もなかったかのように、いつもの安田に戻っていた。お土産を受け取りながら、優吹子もいつもの自分を取り戻そうと、必死に気持ちを取り繕う。

「ありがとうございます。気に掛けていただいて……」

「嫌いじゃなかった、それ? あんまり定番過ぎて、嫌がる人もいるから」

「大好きです。ニキビできちゃうけど、気にしません。あっという間に、食べちゃいます」

 優吹子は、思いっきり笑顔を作る。そうしないと、崩れてしまいそうだった。


 安田が、右の拳を軽く握って、頬杖を着きながら、笑顔でそんな優吹子をじっと見ていた。おもむろに左手をゆっくり上げて、優吹子の髪をそっと触る。そのまま、髪を梳かすように何度か繰り返した。

「可愛いな、君は……」


 優吹子は、ビックリした。こんな安田は見たことがない。微笑んだまま何度か髪をなでられる。でもそれは、明らかにいつもの安田ではなかった。

「安田さん……」


 安田は、不思議なものを見ているかのようだった。こうやって髪に触れれば、いつもの君なら、花が咲いたような笑顔になるのに、今日はどうしてそんな顔で僕を見てるんだ……。


 ――あなたに必要なのは、私ではないでしょう


 あの声が甦った。そして、泣き出してしまいそうな目をした優吹子の顔が、目の前にあった……。

「何をやってる……、僕は……」

 左手を下ろし、大きく息を吐く。

「何度、同じこと繰り……」

 優吹子には最後まで聞き取れない。安田はぎゅっと1度目を瞑り、席を立った。

「すまないが、今日は先に帰らせてもらうよ。マスター、ここにお勘定置いとくから」

「安田さん、待ってください」

 優吹子も席を立った。そして、思わず安田の腕に触れていた。このまま帰したくない……。


「離れて!」

 安田の声で、ビクッと体が固まり、優吹子は思わず手を離した。安田はそのまま、優吹子の顔を見て、きっぱりと言った。

「今日の僕は、君に何をするか分からない。離れてくれ!」

「安田さん……」

 そのままドアまで行き、出て行こうとする。その足を止めて、少し振り向いた。

「気をつけて、帰って……」

 最後は優吹子の顔を見ることなく、出て行ってしまった。


「マスター……」

 優吹子は、呆然とマスターの顔を確認した。

 めったに表情は崩さないマスターが、さすがに眉を歪めている。

「何が、あったの……」

「……、詳しくは、存じ上げません」

 そうだ。マスターは、決して教えてくれない。だけど、それでは私は、どうしたらいいの!

「マスター、ちゃんと教えてください! 何かあったんですよね、『リホ』さんに」

「……」

「マスター、私、安田さんを助けたい。このままじゃ、あの人は、壊れてしまう」

「……」

「ちゃんと、心の中の人弔ってあげないと、これから先、安田さんは幸せになれないんじゃないんですか!?」

「弔う……。それを、今枝様が行うというのですか?」

 どこまでも冷静な目で、優吹子の目を見つめ返す。

「……、そうです」

 決意を秘めた目で、そう答えた。

「……」

「マスター!」

 責めるように、優吹子はマスターに詰め寄った。だが、まだ言葉が足りないらしい……。

「マスターは、目の前で溺れている人を、見殺しにできるんですか!」

 優吹子の言葉に、マスターはゆっくりと答えた。

「それでは、今枝様が辛すぎます。私は、今枝様にも幸せになって頂きたいのです」

 優吹子は、気が付いた。マスターは、優吹子の前の恋愛もよく知っている。そして、それで優吹子が傷ついたことも、よく分かっていた。

「マスター……。大丈夫です。今ならまだ、私は心を止められます。でも、彼はもう限界なのではないですか? 違いますか……?」

「……」

 無言の攻防が続く。

「この先、安田さんが1歩前に進めるようになれば、もう私は手を引きます……。だから、大丈夫です。覚悟はできましたから。傷つかないように、ちゃんと自分の心は、守ります……。前みたいに、失敗しません」

 マスターの顔が、一瞬歪む。

「だから、教えてください……。何があったんです?」

 マスターは、優吹子を憐れみの目で見つめていた。そして諦めたように、呟いた。

「……ご婚約を、されたそうです」

「……!」


「……そうでしたか。ありがとうございました。後は、私が、自分で聞きます……」

 出口に向かおうとして、足を止めた。

「マスター……、矜持を曲げさせて、ごめんなさい。秘密は、必ず守ります」

 マスターは、ゆっくりと頭を下げた。

「ありがとうございました」

 優吹子は、そのまま店を出た。


「染吉姐さん、この間言ってたの、教えて」

 置屋で姐さんの帰りを待ち、優吹子はそう切り出した。

「優吹ちゃん……。いいの?」

「うん……。もう、覚悟はできたから。彼を救いたい」

「そう……。分かったわ。この染吉姐さんが、優吹ちゃんの骨は拾ってあげる」

 そう言って、胸を軽く叩く。

「うん……。よろしく……、お願いします……。姐さん、これから、二度と泣かないから、今日だけ泣かせて下さい……」

 畳に突っ伏し、優吹子は泣く。その背中を、染吉姐さんは、いつまでも、擦ってやった。

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