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指輪

 安田は、直属の部長、間宮に呼び出されていた。

「この間、現地から電話が入ったろ」

「はい。ちょっと、現地で対応できる範疇ではないかもしれません……」

「やはりそうか……。こちらにも、矢代部長から連絡が入っている。自然災害じゃどうしようもないからな。もしかしたら、至急行ってもらうかもしれないから、準備だけしておいてくれ」

 矢代部長は、アメリカの担当責任部長だ。先日、大型ハリケーンで被害が出ていた。

「分かりました。最終判断は、いつ頃でしょう」

「今日、明日ってところかな」

 安田は、アメリカに連れて行くべき人選に取り掛かった。


「菱機産業さんは、今忙しい?」

「ええ、通常の範囲ですけど」

 今日も「Green」で飲んでいた。優吹子もあれからちょくちょく顔を出すようになり、会えば一緒に飲むし、会えないからといって、呼び出したりすることはない、そんな距離での付き合いになっていた。

 優吹子も設計の仕事なので、常に忙しいといっていい。特に菱機産業は特殊加工が多く、全国各地からの受注があり、閑散期というものはなかった。

「安田さんは?」

「ん、今度またアメリカに行かなきゃ行けないかもしれなくてね」

「そういえば、マスター知らないって言ってたけど、安田さんアメリカにいらしたんですか?」

「マスター知ってたけどね……。4年程行っててね。この間、大きなハリケーンがあったでしょ。あれの影響で、出頭要請がね……」

「やっぱり、マスター知ってたんだ〜。まぁ、そこが信用がおけるところだけど……」

 2人に笑いながらネタバレをされ、マスターは苦笑いである。

「アメリカ、行かれるとなると、どれくらいですか?」

「ん〜、2週間から1ヶ月ってとこかな。まだ、はっきりしない」

「そっか……」

 寂しいなと思いつつ、言葉にはしなかった。それを伝えていい、付き合いではない。

「4年間って、観光とかされました?」

「まあ、ニューヨークとかワシントンとか。あと、NASAも見たかな。一般的な観光地は、少しだけ行きましたよ」

「ディズニーランドとか、ブロードウェイとかは?」

「確か行ったな……。忘れてました。ははっ、結構忙しくてね……。とにかく、何をするにも車で1時間くらい移動しなくちゃならなくてね。その点、東京は楽ですよ」

 安田の話に、生活感がない。仕事ばかりしていたのだろうと思わせる。

「楽しかったですか?」

 簡単に帰ってくる質問だと思っていたのに、直ぐに答えない。聞いている人を、不安にさせる間があった。

「……、どうかな……」

 安田はグラスのウィスキーを飲み干す。苦いものでも飲んでいるかと思えるほど、辛そうな顔をしていた。優吹子は、たまならく切なくなる……。

「……そんなところに、また行かなきゃいけないって、お辛くないんですか……?」

 驚いたように、安田が、ゆっくり優吹子をみた。

「……」

 優吹子は、その顔を、目を逸らさずに見つめた。


 割れたガラスが刺さっているのかと思った。ヒンヤリとして、鋭い痛み。安田の心には、そんな生々しい傷がある。

 頬に、涙が流れているかと思えるほどだった……。

 思わず、その頬に指を伸ばす。そっと、触れそうになって、慌てて引っ込めた。

「ごめんなさい……。もう、この話はやめますね」


 沈黙が続いてしまう。安田はマスターに、もう1杯頼んだ。

「アメリカで、現地在住の日本女性と結婚してね。向こうに行って、1ヵ月後くらいだったかな……」

「安田さん……」

 微笑みながら、テーブルの上で腕を組む。マスターが、安田のボトルからロックを作る様子を眺めながら、話す。穏やかな声だった。

「明るくて、優秀で、さっぱりとした女性でね。そこに、甘えてしまった……。足らない物を埋めてくれそうな気がしたんだ……」

 優吹子は黙って聞いていた。いつでも忘れられるように、心に刻み込まないように……。

「そんな僕では、気持ちが直ぐにすれ違うようになった。半年もせずに、別れを切り出されたよ。僕は彼女を、酷く傷つけてしまった……」


 ――あなたに必要なのは、私ではないでしょう


 あの時言われた言葉が、胸に刺さる。安田は、ゆっくりと新たに出されたウィスキーを口にした。

「そうでしたか……。ごめんなさい……」

「どうして、優吹子さんが謝るんです?」

「話したくなかったこと、話させてしまって……」

 俯いた優吹子を見ながら、安田は少し呆れる。天性のオタクキラーなわけだ……。

「本当に、君は……」

 安田は小さく笑いながら、前を向く。

「大丈夫。何となく君になら、話してもいいような気がしたから……」

 今度は、優吹子がゆっくり安田の顔を見た。目が合う……。

 先に安田が視線を外した。


「それからはもう、一心不乱に仕事に打ち込みました。だから、今アメリカに行っても、仕事意外のことは考えられないから、辛くもありません」

「よかった……」

 小さく、本当に聞こえないくらいの声で、優吹子が呟いた。

「……ありがとう」

 横で、小さく首を振る彼女に、思わず触れたくなる。でも、彼女には触れてはいけない……、そんな気がして、手を伸ばすことはなかった。


「マスター、さすがにここまでの情報は持ってなかったでしょ」

 話題を変えるかのような明るい声で、安田が確認する。

 以外にも、マスターは微笑んだだけで、否か応か答えない。

「う〜ん、知ってましたか……。竹内ですね。彼は、元気にしてましたか?」

「ええ。とてもお元気でした」

 安田は、色々説明するように話す。

「この店ね、実は僕の卒業した大学のお忍び店でね。代々、先輩から後輩に受け継がれてる店なんです。竹内っていうのは、僕と同じ会社の後輩で、大学も同じ。先にアメリカに行ってて、僕より前に日本に戻ったんですよ。今は九州支社に異動していて、会えてませんがね」

「そうですか」

 優吹子もやっと、普通の笑顔に戻っていた。

「そういえば優吹子さんは、この店、どうして知ったんです?」

「……連れてきて、もらいました」

「……」

 野暮だったな。よく考えれば、すぐ分かることだ。女性ひとりで見つけられる店じゃない。誰かに連れてきてもらって、そしてそれは、きっとただの友達でもないだろう。

「もう、会うこともない人です……。30代ルールもあるんですよね」

 伏目がちに優吹子は答える。

 つまり、その相手は、もう40代になったということだろう。

「例外は、ありますけどね」

「えっ、そうなんですか……?」

「奢られる場合は、いいんです。30代の人にね」

 その時、店のドアが開いた。偶然と言うのは、どうしてこうも、意地悪なのだろう……。


「懐かしいなぁ。40過ぎてから来ると、何だか禁断の香りがするなぁ」

 男性2人組だ。笑いながらそんな話をしつつ、席に座った。

「今日は、僕の奢りですから大丈夫です。ホントに今回は、お世話になりました」

 安田は聞くとも無しに、聞いていた。まさに、例外の40代だ。

 ガタッと隣で音がして、優吹子が席を立っていた。怯えたような顔をして、今入ってきた客の方を見ている。

「安田さん……、ごめんなさい。急用を思い出して、今日はこれで失礼します」

 と言って、マスターを手招きする。支払いをするつもりなのだろう。

「……いいですよ。一緒に飲めた時ぐらいご馳走するって、いつも言ってるじゃないですか」

「でも……、すみません。ごちそうさまです」

「気をつけて。じゃ、また」

「また……」

 そのまま出て行こうとして、もう一度マスターを呼んだ。マスターの耳元で何かを話している。安田には聞こえなかったが、急いでいるのだろう、慌てて出口に向かう。

 あまりに急なことで、さすがに安田も驚いたが、一緒に帰ることはしなかった。


「優吹子……」

 さっき入ってきた40代の方が、彼女の名前を呼んだ。椅子の背に手を置き、半分立って、時間が止まったかの様な顔をしていた。

 安田も動きが止まった。小さく振り向いて、優吹子を確認する。彼女は1度足を止めたが、振り向くこともなく、そのまま出て行ってしまった。

「お知り合いですか?」

 30代が聞く。

「ああ、ちょっとね……。いや、気にしなくてもいい。今日は、君のお祝いでもあるんだから、飲もう」

 安田は、席を立てなくなった。彼なのだと、分かったからだ。優吹子をここに初めて連れてきたのは……。


 しばらくして、30代の方がトイレに立った。残った彼は、マスターに聞く。

「彼女、まだ来てたんだね。よく、来るの?」

「はい。最近、よくいらしていただいてます」

「……、僕の誕生日、過ぎたからな」

「広瀬様が、『もう来ないので、気兼ねなくお使いください』と伝言されていかれました」

 わざとだろう。安田にまで聞こえる声で、マスターが言う。

「そう……」

 寂しそうに笑い、グラスを手に取った。

「彼女に、伝えといて。僕が最後にするからって……」

 静かに答える彼の左手薬指に、指輪があった。


 ――もう、来ない……


 安田は思わずマスターの顔を見る。マスターは、安田の前まで来て、声を掛けた。

「今日はもう、お帰りですか?」

「……!」

 マスターが、帰れと言っている……。弾かれたように、席を立つ。会計をしなくては。支払いをするのも、もどかしい。

「今日の分は、次回で結構です。お気をつけて」

 そういって頭を下げるマスターに、「すみません」と言い残して、安田は急いで店を出た。


 LINEを送る。初めてのLINEだった。

「もう、電車に乗りましたか?」

 しばらくして、返信があった。

「いいえ。どうかされましたか?」

「飲み直しませんか? 僕も今、店を出ました」

 既読になるのに、返信が来ない。

「僕の話を聞いてもらったお礼です。もう一杯、(おご)りますよ」

 これも、返信が来なかった。これでは、ダメか。

「今日は、そのまま帰らないで欲しい」


 空白の時間は、随分、長く感じた。

「はい」

 やっと、返事が返ってきて、止まっていた時間が戻ってくる。

 安田の行きつけの店の地図を送る。店の入っているビルの前で、待ち合わせることにした。


 駅に近い店だったので、優吹子の方が先に着いていた。安田は、顔を見たところで、軽く手を上げる。今日は、もう、「Green」でのことは、無かったことにしよう。

「小腹、すいてませんか?」

「ええと……」

「すいてることに、して下さい。ここ、美味しいんですよ」

 安田は笑いながら地下まで下りる。暖簾を上げて、店に入った。

「らっしゃい!」

 と声が掛かる。とても変わった造りの、居酒屋だった。


 まず、畳敷きの座敷がある。そこに、店主らしきおじいさんが座って居る。70代ではないだろうか。小さい体で、ちょこんと正座をしている。

 彼の前には囲炉裏が切ってあり、その上で色んなものが焼かれていた。囲炉裏の周りに、常温でも大丈夫な食材が、笊に載せられ置かれている。彼の後ろには流しが掘ってあって、捌いた貝などを、後ろ手にその流しで洗っている。器用なものだ。

 客は、座敷をLの字で囲むように置かれた椅子に座っている。座敷から一段低くなった所が板敷きになっており、そこがテーブル代わりになる。つまり、店主が一番高いところにおり、皆を見下ろす形になっていた。ただし、本当に小さいので、威圧感はまるでなかった。

 

 安田は優吹子を誘い、空いた2つの椅子に腰掛ける。Lの字の角部分にあたる。

「優吹子さん、何か飲みたいものある? ここ、地酒が上手いんだけど、どう?」

「いいですね。それ頂きます」

「『係長』、地酒2つお願いします」

 安田が店主に声を掛けた。

「係長?」

「そうだった。ここね、おやじさんのこと『係長』って呼ぶのがルールなの」

「どうしてですか?」

「昔、大きな会社の係長だったのを辞めて、この店を開いたらしい。だから『係長』。間違っても『課長』とか呼んじゃいけない。『俺は、係長で終わったんだよっ』って叱られるからね。二度と注文聞いてもらえない」

「へぇ、面白そう……」

 安田は、旬のカツオとしらすを頼む。あと、名物とのことで、きのこのホイル焼きも頼む。

 注文は、奥にも通される。どうやら、この「係長」の母親が、奥を仕切っているようだ。この店長の母親って、いくつ……。「係長」は「ハバア」と呼んでいた……。

 腰の曲がった小さなおばあさんが、材料を運んでくる。さっき、入り口のレジの前にいたおばあさんだ。どうやら、この2人で店を切り盛りしているらしい。なんだか、すごい……。

「はい、あんちゃん。しらすね」

 優吹子は思わず安田を見る。

「あんちゃん……」

「40、50は洟垂れ小僧だからね、30代は、まだまだ赤ちゃんで……」

「ぷっ」

 優吹子の笑顔を見て、安田も笑う。この店で、よかったらしい。

「はい、嬢ちゃん笑ってないで、地酒ね」

「はーい」

 と、受け取りながら安田の分も受け取る。「嬢ちゃんだって」と喜びつつ、乾杯をして、つまみを口にした。

「美味しい……」

「よかった」

 ホッとした顔で、安田はそのまま、「係長」に報告する。

「美味しいって、『係長』」

「当ったり前よ。嬢ちゃん、カツオも、ほい」

 ドンドン出てくる。炭火焼だから、ホイル焼きは時間が掛かりそうだ。楽しみにしよう。

 優吹子は自己申告どおり、とてもお酒が強かった。顔色が変わらない。途中、にごり酒も頼み、3杯目を飲み干す。安田は最初の1杯で止めていた。

「嬢ちゃん、いいねぇ。あんちゃんより、ずっといい」

「まいったな……」

 安田は困りつつも、優吹子を楽しく見ていた。無理をしていないなら、いい。それだけが、気掛かりだったが、今はとにかく楽しいらしい。


「鯖の塩焼き、まだですかー」

 1番店の出口に近いところにいた、20代前半のカップルが声を上げる。

「はいはい」

 「係長」はぞんざいに返事をしながら、他の客の調理をしていた。良く見ると、鯖は網に乗っていない。優吹子は不思議に思いながら、お酒を楽しんでいた。

「ここは、ハンバーガー屋じゃないんだ。そう、直ぐにはできないよ。残ってるものでも、食ってな」

 と、こちら側にいるお客にだけ聞こえる声で、「係長」が呟く。

 安田は思わず「くっくっ」と笑った。

「何ですか……?」

「『係長』ね、あの2人が気に入らないんだよ。見ててごらん。もう、何も出してもらえないから」

 確かに良く見れば、出されたものをロクに食べもせずに、次から次と注文だけしているように見える。彼らの前には、いっぱい料理が残っていた。


「係長」が、立腹ついでに唄いだす。「木曽節」だ。小さな体に、この歳なんだから、張りがある声とはいえないが、何とも味のある声だった。

 節回しも独特で、「待ってました!」と始まったお客たちの手拍子の中に、納まらない。そこがまた可笑しくて、笑いながら皆が囃す。

 優吹子が合いの手を入れた。「は〜、ヨイ、ヨイ、ヨイ」絶妙な間だった。

 安田は驚いたが、「係長」は喜んだ。それでもやっぱり、拍子とズレて、優吹子もずっこけながら手拍子を続ける。皆んな、大笑いである。

「嬢ちゃん、分かってるねぇ」

 歌い終って、「係長」はご機嫌である。そりゃ、こっちは本職なんだから、上手いはずだ。


 民謡が終わったかと思ったら、今度は何やら口三味線が始まった。安田は「木曽節」までは聞いたことがあっかたが、これは知らない。優吹子が「あらっ」という顔になる。


 ――言えばよかった〜ただ好きですと……、飲んでくやしさ〜(ます)の酒〜

 

 「係長」は、安田の隣にいた若い男性2人組みの1人の前に、一升瓶をドカッと置く。

「さあさあ、飲んで忘れっちまいな」

「係長〜、俺、諦められません〜」

 もう1人が、周りを気にしながら(なだ)める。

「しょうがないじゃないか。あの子には他に好きな人が……」

 最後まで聞こえないが、どうやら恋路のやけ酒らしい。そういえば、さっきから1人だけ酷く落ち込んで飲んでたなと思い至る。どうするのかと、皆が見守る……。

 

 ――諦めましたよ〜どう諦めた……、諦めきれぬと〜諦めた〜

 

 優吹子が唄った。

「嬢ちゃん、いいねぇ」

「ほんとに、いい声だ……」

 安田も思わず呟いた。優吹子が安田の顔を見て、ゆっくり笑う。優しい顔だった。

 周りからも、思わず拍手が起きる。

 優吹子側にいるカップルの女性が、優吹子に聞いた。こちらも20代前半と思われる。

「それは、民謡ではないですよね……。何ですか?」

都々逸(どどいつ)っていうの。分かるかな……。江戸時代から、お座敷で唄われているものなのよ。ホントは三味線で合いの手が入るの」

「凄―い。他にもあるんですか?」

 優吹子は、安田の顔を見る。さすがに少し、とろんとした顔になってきた。「どうしよう」と、聞いているようだ。あんまり話の中心になるのは、嫌なのかもしれない。まぁ、手遅れだ。

「僕も、聞きたいな」

 また優しく笑って、唄いだす。

「そうねぇ、あなた達には、こんなのはどうかしら……」


 ――行きは二つで〜帰りは一つ……、相合傘で〜肩濡れて〜

 

「色っぽーい。でも、素敵ですね」

 そう答えた女性より、連れ合いの男性の方が赤くなっている。こちらは、30歳に近いかもしれない。お座敷遊びは、想像力が豊かなほうが楽しいのだ。

 それにしても、やはりいい声だ。節回しの時に、ふっと艶っぽい声が入る。

「姐さん、一杯飲んでください!」

 「諦めきれない」若い男性が、優吹子に一升瓶を突き出す。

「さっきの、俺、感動しました! 彼氏さん、前、すみません」

 といって、安田の膝の上を通り越して、優吹子の湯飲みに酒を注ぐ。

 おいおい、大丈夫か……。

「ちゃんと、帰れる……?」

 さすがに心配になって、優吹子に小さく聞く。コクンと頷き「楽しいから」と呟いた。

 安田はその顔に、ドキリとする。酔った彼女を見るのは、初めてかもしれない。やはり、マズいな。家まで送っていくことは……、僕にはできない。

「これくらいに、しとこうか」

 と言いながら、安田は優吹子の湯呑を自分の方に引き寄せた。

「彼氏さん、焼きもちですか〜。一杯くらい、いいじゃないですか〜」

 こっちは、絡み酒か……。勧められてる本人がいいなら構わんが、やはりちょっと心配だ……。それに、奴の言っていることも、当たっていないわけではない……。

「心配性ですね、安田さんって……」

 上目づかいに呟いて、それでも湯呑を取り返すことはしなかった。

「ん……、君が強いのは、よく分かったけどね……」

 「Green」でのこともある。手放しで、大丈夫とはいかないだろう。


 沈みかけた空気を割くように、あの「鯖の塩焼き」カップルの、女の子の方が一番端から呼びかけた。

「お姉さ〜ん。私にも、ひとつ歌って下さ〜い。そのドドなんとか〜」

 ある意味、貴重なのかもしれない。空気を読まない、バカップルは……。

「あー、君らには難しいだろうから、俺が分かりやすいのを唄ってやるよ」

 と、それまでホタテを焼いていた「係長」がまた唄い出した。


 ――入れてもらえば気持ちはいいが……、


「きゃ〜、入れてだって〜」

 と、彼氏とはしゃぐ。「係長」は、両目を上に押し上げ、あきれる。続けるのが嫌になったのだろう。その先を優吹子に任せた。


 ――ほんに気兼ねな〜もらい風呂〜


 一瞬の間があって、当のカップル以外の客が、一斉に吹き出した。

「ねぇ、もらい風呂って、何?」

 彼氏に聞いている彼女の言葉を聞いて、また皆んなが一斉に笑った。

「ダメだねぇ、こりゃ……」

 「係長」が、嘆いた。


 安田と優吹子は、皆に惜しまれながらも、帰ることにした。会計となって、入り口のおばあさんの許に行く。

 その金額を聞いて、安田が驚いた。

「あの……」

「あぁ、今日はいい声聞かせて貰ったからねぇ」

 と、おばあさんが意外にもチャキチャキと話す。

「まぁ、足らない分は、あっちの若いのからもらうから、気にしないどくれ」

 といってバカップルを見た。

 あっけにとられながらも、安田は「係長」に声を掛けた。

「『係長』ごちそうさま。また、来ます!」

「おう。その嬢ちゃんも、ちゃんと連れてきな」

 優吹子はとびきりの笑顔になって、「係長」とその母にお礼を言って、2人は店を出た。


「ごちそうさまでした」

 優吹子が改めて、安田に礼を言う。

「いいよ。会計ね、半額にも足りてないんじゃないかな。ビックリした」

「まぁ……、そうだったんですか。……ほんとに楽しいお店でした」

「君がいたからだよ。僕一人じゃ、こうはいかない。今日は、ラッキーだったな。君の唄も聞けたし……。ほんとにいい声だったし……」

「……、ありがとうございました。誘って、くださって」

 声が小さくなっていく優吹子に、安田は明るく声を掛ける。

「また、飲みましょう。Greenで」

「……、ごめんなさい。もう、あの店には、行けません。……だから、もう……」

「彼は、もう来ませんよ」

 優吹子が最後まで言う前に、安田が遮った。

 優子は、俯いていた顔を上げた。逡巡するようにじっと安田の顔を見ていたが、やがて小さく微笑んだ。

「そうですか……」

「だから、また、飲みましょう。Greenで」

「はい……」

 歩き出した優吹子が、小さくよろける。思わず安田が手を差し出して、優吹子はその手を取った。

「ほら。いくらなんでも、飲み過ぎだよ」

 繋いだ手をそっと離して、優吹子も答える。

「今度は、にごり酒は止めておきます……」

 笑いながら、2人は駅に向かった。


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