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雨宿り

「いらっしゃいませ」

「いつもの」

 最近、「Green」に入り浸っていた。カウンターの左端から2番目。最後に璃帆と話した場所、そこが定位置になろうとしていた。

 何がいいというわけでもないが、余程仕事が遅くならない限り、来るようになった。ここで一杯飲んで、帰宅する。それで、なんとかバランスを取っている様な気がした。

 アメリカで、現地在住の女性と結婚し、すぐにすれ違うようになり、家に真っ直ぐ帰れなくなった時と似ている。また、同じことを繰り返している……。


「この間、久し振りに面白い娘をみつけてね」

 マスター相手に、なんでもない話を、何となくする。それで、すこしずつ日々を紡ぐ。

「お仕事で、ですか?」

「そう。あれは、天性のオタクキラーだな」

「オタクキラー……、アイドルですか?」

「う〜ん、ある意味そうかもなぁ」


 安田は、あのユーザー会の報告を稲垣にした時のことを思い出していた。

「稲垣。彼女、お前の名前、憶えてたぞ」

「えっ、ほんとですか!」

 飛び上がらんばかりの、喜びようである。

「間違い探し、4ヶ所で正解だったよ。4つ目、見つからないだろうと思ってたので、驚いたって言ってたぞ。『見つけて下さって、ありがとうございます』だってさ」

「……」

 稲垣が黙る。よく見ると、目が潤んでいる。

「オイオイ、ここで泣くのは、やめてくれよ」

「課長〜、俺達の結婚式には、出席してくださいね〜」

「……。お前の妄想は、成功率が高すぎるぞ……」

「他に、何か言ってませんでしたか?」

 すがるように聞いてくる。

「確か……『稲垣様も、実務レベルが高い方なので』だったかな」

「あぁ、やっぱり新婚旅行は、ハワイがいいですかねぇ」

「……、仕事しろ」


 あの最後の挨拶にしろ、初心者への対応にしろ、優秀な営業マンのノウハウを地で行っている。古参の顧客には、特別な繫がりがあるかのように振る舞い、初心者には懐の深さを示しつつ、貴方も魅力的ですよと新規開拓していく。まるで、地元アイドルのお手本のようなものだ。極め付きが、懇親会で見せた純朴さである。

 確かに安田も、あのユーザー会が終わって、もう1週間以上たっているのに、まだこうやって話題にしているくらいなのだから、心を掴まれているのかもしれないと、自嘲した。


「安田様が笑ってらっしゃるの、久し振りに見ました」

「……」

 マスターに言われ、我に返る。大きくひとつ、ため息を吐いた。

「いけませんね……」

「はい……」

 安田は、もう一杯頼んだ。今は、客が自分しかいない。次の客が来るまで、居るのが礼儀だ。


 店のドアが開く音がした。客が入ってくる。カウンターの右端に座るようだ。

「マスター、雨宿りさせてください」

 女性客だ。珍しい……。

「降ってきましたか?」

「そう。今日、降るって行ってましたっけ? 天気予報……」

 マスターが持ってきたタオルで、手に持っているものを拭きだした。

「今日は、お座敷ですか?」

「急に姐さんが他に呼ばれてしまって、私にまで回ってきちゃって……」

「時間は、間に合いますか?」

「ここで電話しても、いいですか? 外、酷い雨で……」

「ちょっと、お待ちください」

 何となく、2人の会話を聞きながら飲んでいた安田に、マスターが尋ねる。

「電話を掛けさせていただいても、よろしいですか? 外だと、少し雨の音が酷いようで」

「かまいませんよ」

「すみません」

 と、その女性客も頭を下げる。こちらも、顔を見ることなく、会釈で返した。彼女は、店の片隅に移動して話し始めた。

 直接見るのも失礼なので遠慮していたが、席に彼女がいない今、彼女の席を確認した。椅子に、三味線と着物を入れるバッグが置かれていた。玄人さんか……と、自分のグラスに視線を戻した。

「安田様も、傘はお持ちですか?」

「いや、借りられますか?」

「ええ。大丈夫です。お帰りの時、お渡ししますね」

「助かります……。今でも、三味線の入るお座敷があるんですね。」

「ええ。この先に、1つ料亭がありまして。でも、こちらのお客様は地方(じかた)といわれる芸者さんで、三味線専門でお座敷に出てらっしゃる方なんですよ」

「へぇ」

「やはり、料亭の数が随分減りましたから、芸者さんも成り手がいないらしいですね。踊りを担当する立方(たちかた)といわれる芸者さんは、まだ成り手もいるようなんですが、楽器を扱う地方さんは、本当に成り手がいないらしくて、大変なようです。楽器は、できるようになるまでに、時間が掛かりますからねぇ」

「なるほどね……。どこも、人手不足なんですね」

 そこまで話したところで、彼女が電話を終えた。

「お店から人を出してくれるみたいです。すぐ迎えが来るので、もう少し、お願いします」

 と、マスターに伝えていた。そのままカウンターには戻らず、テーブル席に落ち着いたようだ。安田は、何だか店を出るタイミングを失ってしまい、このあと雨がどうなるのか、スマホで調べていた。


 間もなく、彼女の迎えの人らしき男性が、店にやってきた。

「広瀬さん、お待たせしました」

「はい。あぁ、すみません。板前さんのお手を煩わせてしまって」

「広瀬……」

 思わず安田が顔を上げる。荷物を取りにカウンターに戻ったその女性の顔を、初めて見た。

「マスター、お世話になりました。助かりました。お座敷終わったら、改めて寄りますね。じゃあ、行ってきます」

「お待ちしております。行ってらっしゃいませ」

 安田は席を立った。女性が目の前を通り過ぎる。髪を結い上げ、着物を着ているその人から、あの優しい香りが、ふわりとした。

 出口に向かう彼女の腕を、思わず掴んでいた。

「菱機産業の広瀬さん、ですよね……」

「……」

 びっくりした顔で、彼女は安田を見つめた。安田も、その後の言葉が出ない。

「安田課長さん……」


「すみません、急いでいただけますか」

 板前の見習いと思しき若い男性が、彼女を急かす。安田は、思わず掴んでいた腕を、放した。彼女はそのまま出て行く。ドアが閉まって、その音に我に返った。

「えっ……」


 安田は課長会議に出席していた。今、製品設計部門全体で、標準設計の「見える化」を推進している。今まで、各技術者の経験値に基づく、「少し」とか「大体」とかの、いい加減な表現を、数値化しようというのだ。実質の実務作業に支障が出てはいけないので、課長・係長のうち、出席可能なメンバーで定期的に会議を開催し、順次進めていた。

 今日は、現場サイドからの意見の集約で、設計の安田はアドバイザー的な役割になっていたため、少し意識が離れていた。

「安田課長、どう思われますか?」

 一瞬の躊躇を気づかれないように、慎重に答える。

「3mmでいいと思いますが、過去直近で2件ほど、6mm近くなったことがあります」

「その時の状況は、分析済んでいますか?」

「はい」

 係長に説明を引き継ぎ、何とか無難に終わる。


 あの時の広瀬の顔が、意識から離れなかった。

 あの後、マスターに彼女のことを色々聞いたが、当たり障りのないことしか答えない。当然だ。ほとんど、個人情報に値することだ。聞くほうが、節制がないと言わざるを得ない。気持ちに整理がつかないまま、店を後にした。

 あれから5日、店に寄れない日が続き、今日やっと行けそうだと気持ちが波立っていた。

「行って、僕は何をしたいんだろう……。会えるかどうかも、分からない」

 目の前で進んでいく会議を眺めながら、揺らいでいた安田の気持ちが、定まっていく。

 ……知りたい。

「ただ、知りたいだけだ……」

 今日の必要な決定案件を全て終了し、会議は終わった。


「Green」のドアを開けた。今日は何人か先客がいた。いつもの席の左隣……、璃帆の席に、女性が座っている。諦めて、真ん中の席に座ることにした。

「マスター、いつもの」

「いらっしゃいませ。……お待ちでしたよ」

 マスターが(てのひら)で、その人の方に目線を誘う。

「……」

 璃帆の席に座っていたのは、広瀬だった。安田を見て立ち上がり、ゆっくりお辞儀をした。


「先日は、失礼致しました……」

 広瀬が立ったまま挨拶をする。広瀬の横の席……、安田のいつもの席に移動しながら、彼女にも座るように促し、安田も言葉を返した。

「いや、こちらこそ。うっかり、声を掛けてしまって」

「いえ……」

 沈黙が落ちる……。聞きたいことは、山ほどある……。

「あの……」「あの……」

 2人同時に、声を掛ける。目が合って、どちらからともなく、笑いが漏れる。

「これじゃ、まるで高校生だな」

「そうですね……」

 安田がリードすることにした。男性の役目だろう。

「三味線を、弾かれるんですね」

「はい、祖母の影響で。7歳から始めました」

「それは……、趣味の粋を越えてますね」

「何とか人様の前で、弾ける様になりました」

「大したものです……」

 また、沈黙が落ちる。広瀬は、安田の顔をまじまじと見つめ、少し顔を傾けた。

「安田課長さんって、優しい方なんですね」

「……」

「色々、お聞きになりたいことが、おありでしょうに」

 と言って、ニッコリ笑った。


 安田はユーザー会を思い出した。あの見事な采配、整然として無駄のない説明、人の心を瞬時に掴み取ってしまう言葉……、とうてい(かな)わないと諦めた。

「降参しますから、その課長というのは、なしにしませんか?」

 両手を軽く挙げて、広瀬に向き合った。

「ふふ……。安田さん、でいいですか。優しいだけじゃなくて、面白い方なんですね……」

 やっと、心が少し楽になった。そういえば、彼女の名前、聞いてなかったな……。

「お名前、名刺に『優吹子』とありましたが、どう読むんです?」

「あぁ、『ゆうこ』です。当て字にもなってないので、皆さん困られるんですよね」

「綺麗な、名前ですね」

「……ありがとうございます。綺麗と言っていただいたのは、初めてです。それも、祖母がつけたそうです。祖母……、深川の芸者だったんです」

「……」

 全てが、腑に落ちていく。お座敷のことも、見事な人の捌き方も、聡明な顔立ちも……。

「やっと、色々繋がりました。優吹子さんは、お祖母様似なんじゃないですか?」

 広瀬が、驚いたように安田を見る。すこし柳眉を寄せながら、呟いた。

「あの、私、そんなに普通じゃないんでしょうか……」

 今度は逆に安田が驚いた。目だけで、どうして?と聞く。

「芸者の祖母に似ていれば、色々腑に落ちるようなお顔をされて……。少し、傷つきます」

 と俯いてしまった。安田は、思わず笑みが込み上げてきた。やはり、いちばん素の彼女は、とても純粋なのだろう。

「言葉が、足りませんでしたね。あなたがとても素敵だと、お伝えしたつもりだったんですが」

 弾かれたように顔を上げ、真っ赤になって安田の顔を見た。安田は、これ以上はイジメだなと、更に言葉を足した。

「優吹子さんは、自分のことを何も分かっていないようだ」

 安田のグラスの氷が、コースターの上で、カランと音を立てて回った。


 広瀬は、聞けば何でも話してくれた。年齢は今年で27歳になるという。1歳下の弟さんがいるらしく、小さい時は外で駆けずり回って遊んだそうだ。お祖母さんに、肌が焼けるからと、いつも叱られていたと笑う。

「しかし、そんなにお祖母さんに目を掛けられていたなら、芸の道を勧められませんでしたか? 女の子でもあるし」

「父母が、特に母が嫌がって。祖母は母方なんですけど、母は全くそちらの素質がなかったらしくて、『芸者』っていうのも、とてもイヤだったみたいで……」

「優吹子さんは、嫌いじゃなかったんですね」

「小さい時は、祖母のお稽古がすごく厳しくて嫌な時もあったんですけど、三味線弾いたり唄ったりすることは、元々好きで、大人になるにつれてもっと好きになりました」

「へぇ、唄も唄うんだ」

「民謡とか、端唄とか。人の伴奏をするより、自分で唄ったほうが簡単なんです」

「聞いてみたいな……」

 安田は、カウンターの中のブランデーやウィスキーが並ぶ棚を見ながら、何気なく呟いた。一瞬、広瀬が固まった気配がする。すぐ、元の様子に戻ったが、安田は見逃さず、即座に詫びる。

「あぁ、すみません。プロに簡単にそんなこと言っちゃ、いけませんよね」

「……いいえ」

「ユーザー会の時ね、君の采配を楽しみながら眺めてたんだけど、ふと『いい声だな』と思ってたんですよ。こう、なんていうのかな、気持ちに入り込んでくるって言うか……、柔らかいっていうか……」

 ウィスキーを飲みながら、あの時の気持ちを思い出し、言葉を捜す。返事が返ってこないので、広瀬のほうを見ると、俯いていた。

「……、僕、何か変なこと言いました?」

「いえ、ちょっと嬉しくて。この声、コンプレックスで……」

 顔を上げたときには、笑顔に戻っていた。目が、少し赤い……。

「そうだったんですね……。でも、だから、ちょっと聞いてみたいなって思ったんですよ」

「……いつか、機会があれば」

「是非!」

 安田も笑顔で答えた。


 安田のスマホが鳴った。

「あぁ、もうこんな時間ですか。すみません、仕事で……」

 と席を外し、電話に出ながら店の外に出て行った。

「Good Moning. Yasuda speking……」

「何か、飲まれますか?」

 広瀬のカクテルグラスが空なのを見て、マスターが聞く。

「カクテルを。少し軽めで、後はおまかせします」

「かしこまりました」

「あの……、安田さんって、どちらか外国に行ってらしたんですか?」

「どうでしょう……。詳しくは、存じ上げませんが」

 とカクテル作りに移動してしまう。……教えてもらえないか。広瀬は必死に気持ちを落ち着かせていた。


 ――聞いてみたいな……

 

 安田のいった言葉を、反芻する……。

 お座敷に出れば、まれにお客さんにお酌することもある。そうすれば、「綺麗」だの「唄がよかった」だの、お褒めの言葉をいただく。しかしそれは、あくまで社交辞令だ。もちろん、通なお客さんが、本気で褒めてくれることもあるが、姐さんたちのように毎日弾いている訳でもなく、本格的な芸を追及しているわけでもない。自分の価値くらいは分かっているつもりだ。相手の言葉を、本気で受け止めたことはなかった。


 だが、先程から安田が言う言葉は、なぜこうも心が揺さぶられるのか……。

 広瀬は、自分の声が好きではなかった。少し鼻に掛かり、響きは低い。祖母は「その声だから端唄が生きるんだよ」といつも言ってくれたが、やっぱり好きになれなかった。

 学校の友達のように、アイドル達の歌を歌っても、何だか可愛くないし、かといって、J−POPを歌っても、しっくりこなかった。


 ――「いい声だな」と思ってたんですよ


「どうしよう……」

 広瀬は、できるだけ心を平らに保つように、深呼吸をした。

「あんまり、このまま深入りしちゃいけない……。もう、年上の人、懲りたんだから……」


 安田が戻ってきた。

「すみません。あまり遅くしたら、鳥出会長に怒られそうだ。帰りましょうか」

「ごめんなさい。今、カクテル頼んじゃって……」

「いいんですか。ご両親、心配されませんか?」

 ほんの少し、答えまでに間が空いた。

「……1人暮らしですから」

「……そうでしたか。じゃ、僕もあと少し付き合うかな」

「安田さんこそ、奥様お待ちじゃないんですか?」

 広瀬は、自分で言った言葉に、少し驚きながら慌てて訂正した。

「あっ、ごめんなさい。立ち入ったこと、聞きました」

「……。いや、僕も気楽な1人暮らしですから」

 何となく目が合って、ぎこちなくなる。そこへ、タイミングよく広瀬のカクテルが運ばれてきた。

「優吹子さん、強いんですか? お座敷でも、飲むんですか?」

「強いですよ。祖母譲りです。……お座敷は、滅多にお客さんの相手はしないんです」

「あれ、失礼なこと言った気がする。すみません……」

 ほんのり赤くなった安田が、頭を掻きながら謝った。

「……もしかして、以外に安田さんって、お酒弱いんですか?」

「今日は、特別ですよ。まさか、会えると思ってなかったですし、最初から、想定外のことばかりで、少し酔いました」

 青年のような顔で笑う。広瀬は、またドキリとしてしまった。やっぱり、どうしよう……。

「そういえば、何日か待たせたんでしょうか? 僕、忙しくてちょっと来られなかったですから」

「いいえ、大丈夫です。私も、仕事には支障のない様に来てますから」

 何日か待ってくれたんだと、安田は確信する。時間の無駄だな……。

「迷惑でなければ、LINE交換しませんか?」

 安田が、スマホを掲げて、真剣な顔で聞いてきた。

「あっ、はい」

 慌ててスマホを取り出し、フリフリした。

「……良かった。これで、すれ違いは解消される」

 本当に安心したかのように、優しい笑顔を向けられた。まただ……。いちいち、鼓動が反応する自分に、呆れてしまう。

「僕、割とこの店、入り浸ってるんです。よかったら、また飲みましょう」

 気安く言われて、本当にこの人は、大人なのだと改めて感じてしまう。

「いいですね。また、飲みましょう」

 次の約束をするわけではなく、でも、また飲もうという大人の約束。今の広瀬には、ちょうどいい距離感だと思った。


 途中の駅まで一緒に帰り、そのまま別れた。お互いに、どの路線の電車なのかは、確認ができた。合言葉の様に、最後に交わす。

「じゃ、また」

「じゃ、また」

 今日も、一日が終わった。

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