ユーザー会
製品設計部モジュール課の主任の稲垣は、朝からワクワクしていた。今日は、年に一度のCADソフトのユーザー会なのだ。同じCADを使っているユーザー同士の、交流会である。
毎年バージョンUPがなされるソフトの世界では、常に新しい仕様と新しいバグが誕生する。ユーザー会は、ヘビーユーザーばかりが集まるので、新機能の有効性や、バグの回避方法など、いち早くしかも確実に入手できる。知識だけのソフトメーカーの人間より、よっぽど実務レベルの知識を持った人間同士が集まるのである。
午後の半日を使って行われる情報交換の後は、懇親会まで開かれる。そこでの人脈作りも、サラリーマンには貴重なものだった。営業と違い、外部の人間と接触することがあまりないデータ部門の人間にとっては、外と繋がる大きな窓口の1つなのだ。実際、ヘッドハンティングもあったし、転職情報も多く飛び交う会となっていた。
そしてもう1つ、この地区のユーザー会には、特別な楽しみがあった。
「今日も、菱機産業の広瀬さん、来るかな……」
ニヤけそうになる顔を、なんとか平静に保ちながら、稲垣はひとりごちた。
「何だか稲垣主任、楽しそうじゃないですか?」
そう言うのは、部下の橘だ。稲垣は、この春から主任に昇格していた。
「そうかな」
「バレバレですよ。稲垣主任には、ポーカーフェイスは無理です」
「うるさいぞ、橘。仕事しろ、仕事」
「今日、午後からユーザー会でしたね。あぁ、それですね。懇親会も、出られるんですか?」
「まあな。そのうち、橘も連れて行ってやるよ」
「それは、ありがたいです。楽しみにしています」
午後出掛けなくてはならない分、午前中の仕事は濃密になる。無駄話もそこそこに、稲垣は黙々と仕事をこなした。
11時頃、下請会社から電話が入った。
「えぇ、0.2mm喰い込んだー! また、なんでそんなに……」
課のメンバーが、一斉に稲垣に注目する。稲垣も電話を受けながら、手振り身振りで、図面や資料を揃えるよう、皆に指示する。橘も、データを確認した。
「まずいですね……。ここの部分は、子部品にはできません……」
「日程は、どうなってる!」
電話を切った稲垣が声を張る。日程調整担当の女性社員が、眉をひそめた。
「昨日、日程調整してもらったばかりなので、これ以上の納期の遅れは、無理です」
「はぁ〜」
大きな溜息と共に、椅子にドカッと腰を下ろした。
「広瀬さんとは、縁がないらしい……」
小さい声で呟いたかと思ったら、気を取り直したかのように真剣な顔になった。
「橘、下請けまで、物を取りに行ってくれ。後のメンバーは、一旦今の仕事を中断して、こちらの改修に当たってくれ。設変をかける」
メンバーがそれぞれに動き出した。
安田は、ユーザー会の会場に来ていた。受付で、稲垣の名前を告げ、急きょ出席者が変わったと申し出る。本日の資料と、入館カードを受け取った。
安田は、設備設計部門から、製品設計部門に異動していた。元々、帰国直後には正式な部署への配属はされず、3ヶ月〜6ヶ月後位に、本来予定されていた部門に組み込まれることが通常なので、安田もその通例に習った形だ。
璃帆に別れを告げられてから、3ヶ月後の異動だった。
「課長、何とか出席していただけませんか? 今日の情報は、本当に重要なんです。頼めそうな他の主任も、係長も、今日は皆んなもう出掛けてしまっていて……」
「僕だけが、暇か?」
「いや、そうではなく……。CADのことが分かって、設計のことも熟知していて、社外の人ときちんとコミュニケーションが取れる人は、そうそういないんです……」
「おいおい、そりゃ、残ってる管理職にとっては、随分な言われようだぞ」
「安田課長だから言ってるんじゃないですか。まさか、こんな設変が入るとは思ってなかったんですから、助けると思って、よろしくお願いします」
深々と頭を下げられ、しょうがないと引き受けた。稲垣は、アメリカに行く前からの部下で、気心が知れていた。
午後の、出入り業者とのアポイントメントを4件キャンセルし、社内ミーティングも2つ翌日に回した。今週1週間部長が海外に出張なので、大きな会議がない。なんとかなる予定で、まぁ良かったと言うべきだろう。
出席に当たって、USBメモリまで渡され、必ず資料を手に入れてきて下さいと、念も押された。今時、そうそう簡単に、データを手渡しするとも思えないが、取り合えず鞄には入れてきた。ユーザー会に出席するのは、10年振りくらいではないだろうか。
60名程の出席者数だった。こんなに出席者が多い会だったかと、認識を新たにする。確かに、昨今のCADのユーザーは、世代が若くなると共にどんどん多くなっている。情報交換会が盛況なのは、必然の成り行きなのかもしれない。
「安田さんではありませんか?」
今回の主催者、ソフトメーカーの小西から声を掛けられた。安田がまだ平社員だった頃、よく質問をして困らせた技術者だ。同年代で、結構やり込めた口だ。今では彼も、役職がついているだろう。
「あぁ、やっぱり。お久し振りです。どうされたんですか? ユーザー会なんて、何年ぶりのご出席ですか?」
「お久し振り。うちの稲垣が、急きょ出られなくなってね。代理です」
久々に、名刺交換をする。やはり、相手も課長になっていて、更に営業職になっていた。
「安田さん、課長になられたんですか。すごいですねぇ。やはり、優秀な人は上がほっとかない」
「いえ、小西さんこそ、課長じゃないですか。同じですよ」
「御社の課長とは、比べ物になりません。うちの課長なんて、ぜいぜい部下が15名くらいです。安田課長のところなら、50名は下らないでしょう?」
「まぁ、そんなとこです……。アメリカに暫く行っていたので、無事昇進しただけです」
「アメリカですか……。さすがですねぇ。しかし、またどうしてそんな偉い方が、この会に……?」
「どうしても、今日の情報が欲しいと、稲垣に泣き付かれましてね。随分、出席者も多くなって、盛況ですね。驚きました。」
「あぁ、ちょっとこの地区のユーザー会は特別なんです。きっと、稲垣さんも悔しがってらっしゃったんじゃないですか?」
「何です……?」
「それは、実際に見て、確かめて下さい。我々も、楽しみにしているんです」
そう言い残して、小西は別のユーザーに挨拶に行った。
今回のバージョンUPの説明は、資料に基づいて30分ほどで終わってしまった。実際に新バージョンが配布されるのは1ケ月後なので、メーカーの人間以外は見たことも、触ったこともない訳だから、そんなものだろうと推測された。特段変わった趣向もなく、何が「特別」なのか、安田には見当が付かない。
すると、左後ろの席の会話が耳に入ってきた。
「お前、目ぇ覚ませよ。ここからが面白いんだから……」
こっそり見れば、かなり若い出席者だ。いかにも技術者っぽい、理系の男性2人組で、起こされた方は「おっといけない」とでも言うような表情で、資料に目を通し始めた。
進行役の若い男性が、次第通り次に移る旨のアナウンスをする。
「ではここからは、現在の皆様の実務においての疑問や、お困りごとなどに関する質疑応答の時間とさせていただきます」
会場が、ザワつき始める。あちこちから、先程までとは違った緊張感が発せられ、安田は傍観者になっていた。
「何が始まるんだ……」
まず、出席者から実際の操作方法で出たエラーでの疑問が投げかけられた。安田は、もう今はCADの操作をしていないため、具体的な回答は分からない。が、かなりニッチなコマンドで、質問者が初心者でないことは、分かる。
それに対し、ソフトメーカーの技術者が回答をするはずなのだが、かなり手間取っている。会場のスクリーンにソフトの動きを映しているのだが、エラーが起こるところまで再現できても、その答えを持っていない様子なのだ。やはり、滅多に使わないコマンドだ。
「大変、申し訳ありません。こちらも把握をしていない動きでしたので、次の質問の間に調べまして、返答させていただきます。次を、お願い致します」
まぁ、それが妥当な対応だろうと、安田も眺めていた。ところが、次の質問も、かなり混み入ったエラーで、そんな特殊な使い方、このコマンドではしないだろうという内容で、当然メーカー側は答えられない。
よく見れば、メーカーの回答担当者も、熟練技術者と言うよりは、入りたての新人あたりに見えなくもない。普通、ユーザー会では、当然複雑な質疑が想定されるのだから、もっとベテランを当ててもいいはずなのだが、先程、安田に声を掛けた元技術者トップの小西も、黙って見ているだけだ。
「どうなってるんだ……」
安田が事の成り行きを見守っているところで、先ほどの左後方の1人が再度呟いた。
「さぁ、そろそろ出番だぞ」
「えー、こちらのコマンドを、このように使用されるとは想定外だったため、こちらも調べてからの返答とさせて頂きたいのですが、会場にお越しのユーザー様で、もし回答をお持ちの方がおいででしたら、是非ご発言をお願いしたいのですが……」
とアナウンスする。
確かに、そのためのユーザー会なので、回答をユーザーに求めるのはやぶさかではないが、さすがにこの回答は難しいと思えた。
「菱機産業の鳥出会長、いかがでしょうか?」
安田は、懐かしい名前に思わず名指しされた人の方を確認した。
そこには、白髪の小柄な老人の姿があった。この鳥出会長を業界で知らない人は潜りと言われ、その英才ぶりは、この会社の特許技術の数を見れば分かる。安田も以前、懇親会で何度か話したことがあったが、一見穏やかそうに見えるのだが、技術の話となると熱量が半端ではなく、途中から理解できない専門分野の話になっても、聞いているだけでエネルギーを貰えると、誰でも惹きつけられずにはいられなくなる人物だった。
この鳥出も、たしかもう70代のはずである。それなのに、まだこんなユーザー会に顔を出しているとは、安田は驚き、ある種の感動を覚えていた。
その鳥出が名指しされ、隣に座る女性に何やら言葉を掛けている。秘書かと眺めていたが、その彼女が小さく頷くのを確認して、彼は席を立って前まで進んだ。
「当社の広瀬が回答できるとのことですので、質問者の方、実際のデータをお見せ頂けますかな」
と、話した。最初の質問者も、2番目の質問者も、慌ててデータを提出する。安田は更に驚いた。
普通、会社のデータは、こんな場所では公開しない。大抵が、データには機密事項が満載されているし、開発を担う会社であるならば、新製品に関わる情報かもしれない。ここにいるメンバーが見れば、画面の至る所から、そんな情報は簡単に知ることができる。
下請けの会社ならば、もっと問題だ。取引会社の機密データを、こんなところで開示しようものなら、即座に取引停止になってしまう。それどころか、補償を迫られ、倒産に至る可能性だって、無くはないのだ。どうなってるんだ……。
スクリーンに映し出された画像を見て、言葉を失った。そこには、先程のエラーが再現されていくのだが、データそのものは、ごく一般的な講習テキスト用のデータが使われていたのだ。つまり、質問者のデータを使用するのではなく、それを即座に、開示に問題のないデータに差し替え、機密に関する懸案を払拭したということだ。まるで、そんなことは当たり前だと言われた気がした。操作しているのは、会場で鳥出の隣に座っていた、広瀬という名の女性だった。
「大変僭越ではございますが、分かる範囲でよろしければ、ご説明させていただきます。それで、よろしいでしょうか?」
と、マイクで語った。にわかに会場から拍手が沸き起こった。あろうことか、あの小西まで拍手している。安田は、知らぬ間に椅子の背から体を離し、前のめりにスクリーンを睨んでいた。
そこからが、圧巻だった。
まず、最初の質問に対しては、ソフトの問題ではなくデータの問題だという。スクリーン上のデータでは、確かにエラーは再現されなかった。しかし、同じモデリングの次のデータではエラーが起こる。いつのまに、そんな2種類のデータが準備されていたのか、そこも驚いたが、その違いから回避方法まで丁寧に説明していくのだ。
「まず、このエラーデータが、どのソフトで作成されたかを見ます。ここにお集まりの皆様ならば、方法はお分かりかと思いますが、初めての方のために御説明致しますね」
と語り、その調べ方からスラスラと説明していく。そして、エラーデータを読み込む際のコマンドの設定の画像を示し、オプションコマンドをつらつらと入力していく。それを通せば、もう先程のエラーは現れなくなった。
次の質問に対しては、こんな言葉から始まる。
「このような使い方をされるとは、私も驚きました。平岩テクノロジーの和田さんは、とても柔軟な発想でいらっしゃるので、私もいつも楽しみにしております」
言われた和田は、何だか誇らしげに見える態度で、軽く頭を下げる。とても、エラーを出して質問している態度ではない。
広瀬は、そのエラーにはちゃんと理由があることを示し、それがコマンドの限界であるとの説明も加える。それに従って、そのコマンドの前にひと手間加え、データにも少し必要な要素を加え、入力する数値を変えれば、あっという間にエラーは回避され、斬新な和田の使い方の結果も、正しく表示される。参加者は、手品を見せられているようで、思わずどよめきが起きた。
次々と矢継ぎ早に質問が始まる。最初見とれていた安田が、我に返った。この回答を何とか持ち帰らなければならない。メモを取り出したが、とても追いつかない。すると同じ動きをした人間がいたらしく、やはりあの左後ろの2人組から声が聞こえた。
「メモってるのか?」
「もちろんですよ。せっかくの情報なんですから。とても覚えきれません」
「大丈夫だよ。あの回答は、全て後でマニュアルと共に、貰えるんだ」
「うっそ……、ですよね」
「それが、彼女の真骨頂だよ」
安田も同じ反応だった。
「うそだろ……」
この質疑応答が何と2時間以上続いた。質問があるたび、広瀬は講演台の隣で椅子に座っている鳥出会長に、回答していいかと必ず確認を取り、会長もニコニコと頷き続け、マニア過ぎる質問の数々が、どんどん解決していく。ひと通り質問が落ち着いたところで、
「皆さんの質問が、かなり内向的になって来たので、初心者の方には退屈な時間になっていないかと心配なのですが……」
と広瀬が発言した。ここでやっと、一旦休憩が挟まれた。どうやら広瀬は、鳥出会長を休憩させたかったようだ。本来の自分たちの席に戻り、コーヒーを自販機で購入し、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
再開された冒頭、広瀬が発言する。
「初心者の方もどうかご質問を。こんなことに困っているとか、できないとか、意外と経験者が見落としていることもあります。私も是非、初心者だった時の気持ちに立ち戻ってみたいのですが、いかがですか?」
安田は、腕を組んでため息を吐いた。
「一体君は、何者なんだ……」
見事な采配としか言いようがない。どう見ても、20代にしか見えない。我が社にも優秀な女子社員はたくさんいるが、ここまで人の気持ちを掴む社員は、そうそういない。
おずおずと、数人の手が上がる。広瀬がそれを見て、花が咲いたように微笑んだ。
「ありがとうございます。では、どうぞ」
安田は、ドキリとした。この笑顔に、既視感を覚えたからだ。
そう、安田が好きだった、璃帆が笑顔になる瞬間を思い出していた。胸の奥に痛みが走る。いつになったら僕は、この痛みから解放されるのだろう……。
「あぁ、とてもいい質問が出ました。この操作ですが、諦めている皆さんがほとんどではないでしょうか。でも、実は2ステップ程減らすことができるんですよ。図形を選択する順番を変えるだけで、解決するんです」
といって、スクリーン上で操作してみせる。これは、安田でも分かる基本的な操作で、言われた通り、これが仕様なのだと、面倒ではあるが諦めている操作の1つである。
サクサクと操作し、確かに広瀬が言ったとおりの結果になる。改めて、面白い。
「私もこれを発見したときは、ワクワクしたことを思い出しました。質問者様、ありがとうございました」
質問した若者が、他の男性に何故だが鋭い視線を送られている気がするのは、気のせいか。安田は、くすっと笑ってしまった。
「さて、質問もほぼ出尽くしたようですので、前回お渡し致しました、マニュアルの間違い探しの答え合わせをしたいと思いますが、いかがでしょうか?」
と広瀬が呼びかける。全く、この会は、誰が主催なんだか……。ん? 答え合わせ? 安田は、そういえば稲垣から預かった資料に、そんなのがあったなと思い出す。
「これは、その資料なのか……。こりゃ、さぞ来たかっただろうな」
と、稲垣に同情した。稲垣の答えは、4つとなっていた。
最初の2つまでは、多くの挙手があった。答えがいくつなのかも、謎であるところが楽しい。3つ目は、なかなか正解がでない。引っ掛け問題もあったらしい。
「ごめんなさい。それ、引っ掛けでした。ふふ。作った甲斐があったと言ったら、怒られますね。笑い飛ばしていただけると、嬉しいですが?」
引っ掛かった本人がバカにされたと怒るかと見ていたが、広瀬の言葉に片手を上げて笑っていた。いいのか、それで。何なんだ、その満足そうな顔は……。安田は、もう半分呆れていた。完全に彼女に掌握されてる。
3つ目は、若手技術者が当てる。そうか、難しい質疑応答には参加できないが、これならばマニュアルの操作を実際に行えば、答えが出せる。そして回答を得るために、皆一度はマニュアルの操作を、一通り実行するのだ。これほど簡単に再確認させる手段に、改めて感心した。
「皆様、これ以上はないでしょうか?」
見渡して、手が上がる気配がない。やはり、あの引っ掛け問題が、皆の気持ちにセーブを掛けているのだろう。さすがに、2度目の笑いものにはなりたくない。
「4つ目があると思いますが……」
安田が挙手した。少しは、稲垣の無念を晴らしてやろう。
「はい。どうぞ」
安田は稲垣の出した答えを発表した。他の出席者が、一斉に手元のマニュアルを眺める。
「お見事です。どうして、気づかれましたか? 実はこれは、見つからないだろうと思っていたので、少し驚いております」
「私が見つけたのではありません。部下の手柄です。私は、代理出席ですので、これを見つけた経緯は分かりません。先程のあなたの言葉を伝えれば、きっと、喜ぶと思いますよ」
「分かりました。是非、部下の方にお伝えください。よく、見つけてくださいましたと」
確かに伝えてやろう。よかったな、稲垣。
今回の間違いは、4ヶ所で正解だったらしい。
広瀬は、司会進行していたメーカーの人間に、進行の主導権を返した。
「最後に、いつものように、広瀬さんにひと言頂きたいと思います」
いつものようにか……。これが「特別」なユーザー会なのだと、安田は腑に落ちる。
「皆さん、このコマンドについて、最後に少しお話したいと思います」
どこまでも、ソフトについてなのかと、もはや驚きもしない。
「このコマンドでのエラーメッセージについて、先日考えておりました。こんな親切なメッセージ、他のコマンドでは出てこないこと、皆さんもお気付きだと思います。これは、きっと、プログラマーが違うのだと思いました」
「プログラマー……」
安田は、反芻する。
「ご存じの通りこういったソフトは、多くのSEが分担して開発していきます。ですから、所々仕様が統一されていないですよね。指示する要素の順番が違ったり、内容が不揃いだったり。そういう違いを、こっそり楽しんでいる中で、このエラーメッセージに出くわしました。そして、このコマンドの設計者は、とっても優しい人なんだと感じたのです。『面を指示する場面ではありません』なんて、他では一切見られないメッセージです。きっと、親切で優しい人なんだろうと。どうせなら、全てのコマンドをこの仕様にしてほしいなぁと、そこまで想像して、ふと、思い出しました。これは、「VSYOS」のエラーメッセージと同じなんですね」
「VSYOS」とは、別の3D―CADソフトのことである。我々が使用しているソフトと、業界の中ではシェアを2分しているソフトだ。そちらのソフトまで、熟知しているのか……。
会場の中の何人かが反応する。思い当たるところがあるのだろう。
「あぁ、ヘッドハンティングだったのか、たまたまフリーランスの設計者が両方を手掛けたのか、実は、下請けのソフト会社が同じなのかも、などと想像致しました。そして、今日のユーザー会を思い出したのです、このことに、誰か気付いてらっしゃるかしら、あの人はどうだろう、あの人なら分かるかもと、一瞬にして皆様の顔が浮かびました。あっという間に繋がるんですね、人と人は……。私達は、日頃かなり孤独な作業をする時間が長いので、きっとそんな繋がりに、とても敏感なのかもしれません。このユーザー会の存在に、更なる感謝の意を表したいと思います。本日も、本当に楽しい時間を過ごすことができました。また来年、お会いできることを楽しみしております。ありがとうございました」
会場から、割れんばかりの拍手が起こった。
安田は、もう一度呟いた。
「一体君は、何者なんだ……」
隣で椅子に座って聞いていた鳥出会長が、マイクを引き継いだ。
「さて、本日も質問があった項目についてのマニュアルを、広瀬が用意しているようです。これは、広瀬の知の結晶であり、当社の中でも正式なマニュアルとして普及しているものでもあります。ですから、本来皆様方にお渡しできるようなものではないのですが、このようなものは来年になれば、古い情報としてクズ同然になります。そうであるならば、是非皆様と知識を共有し、少しでも何かの発展に貢献できることを信じつつ、出席された皆様にのみ、配布させていただきます。くれぐれも、社外秘としていただき、他への流出がない様、ご配慮いただきたい。万が一そのようなことがありましたら、今後一切、当社はこのユーザー会への参加を致しません。本日も誠に楽しい会でした。ありがとう」
安田は、何故USBメモリーを持たされたのか、ようやく納得した。
懇親会では、当然、広瀬は多くの人に囲まれていた。立食形式の会場で、壁際に用意された椅子に会長は座り、その横で広瀬は立って皆と談笑していた。
「どうでした? 安田課長」
小西が近づいてきて、興味津々といった体で聞いてくる。
「純粋に、驚きましたよ。面白かった」
「そうでしょう。無事終了して、安心しました」
確かに、あれだけ広瀬に主導権を任せることには、メーカーとしても信頼感がなければできないことだ。しかも内容的に、間違った時の責任問題もある。なかなかな英断だと言わざるを得ない。
「御社も、随分吹っ切った対応でしたね」
「最初は、少し社内で物議も起こったのですが、鳥出会長と広瀬さんの人徳のなせる業でしょうか」
「あぁ、マニュアルは、どうなってるんですか? 質問の内容が彼女にだけは、事前に連絡がいっているとか……」
「いえいえ。全くの現場対応です。どうやら、あらゆる場面でのマニュアルを作成している様なのです。しかも、内容もとても分かりやすい」
「社内で、そんな仕事の担当なんですかね……」
「いや、ちゃんと設計の仕事をしてらっしゃいます。マニュアルは、片手間ということです」
安田は、思わず口にした。
「何者なんです?」
「鳥出会長の、お気に入りといいますか。ただ、彼女が社外に出るのは、このユーザー会ぐらいだそうで、普通の設計者さんの1人だと聞いています。鳥出会長は、本当に社員の特性を伸ばす「天才」だと思います。未だに好奇心旺盛でいらっしゃるので、このユーザー会にもご出席いただけてます」
「なるほどね……」
「でも、さすがにあの内容だと、女性の出席者が極端に少なくなってしまいました」
と笑う。確かに、あれだけ優秀な姿を見せられると、同じ女性というカテゴリーにいては、居心地のいい空間ではなくなるかもしれない。
「そういえば、御社にも確か、うちのソフトに詳しい女性の設計担当者さんがいらっしゃいましたよね」
「……誰です?」
社内にはそれこそ何百人と女性社員がいるのだから、安田は咄嗟に分からない。小西も部下に確認してから答えた。
「今枝さんとおっしゃる方です。なかなか、手強いユーザーさんだと、報告を受けてます」
「……」
こんなところで、璃帆の名前を聞くのか……。
「あぁ、社内でCADの新人教育の担当をしていますので……。手強いですか?」
「ええ。優しい語り口調でらっしゃるのですが、内容がシビアなんです。いつも緊張します」
と、実際のコールセンターの担当者と思われる男性が答えた。
「ふっ……。間違ったことは嫌いなのでね。意外と天然で面白い女性なんですが」
と、優しい表情になる。しかし、直後に視線が沈んだ。小西は、何かあるのだと瞬時に感じ、話題を変えた。営業の鉄則である。
「会長に、ご紹介いたしましょうか?」
「大丈夫です。少し人が引いたら、挨拶に伺いますよ」
「あ、それは無理ですね。最後まで、あの状態ですよ」
「……。そりゃ、そうか。了解です」
安田は、鳥出会長の許に向かった。
「鳥出会長、ご無沙汰しております」
と、名刺を差し出した。
「やぁ、久し振りだね。おぉ、課長さんになられたか。広瀬君、ちょっと……」
と、広瀬を呼ぶ。男性に囲まれていた広瀬が、輪から出てくる。挨拶を交わし、名刺交換をした。近くで見る彼女は、優しい香りがした。
「久し振りに、面白いものを見せてもらいました」
「面白い……、ですか?」
以外にも、不思議な顔をされる。何か、違う表現だったかと、眉を上げる。
「ええ」
「安田課長さんは、今はCADを使ってらっしゃらないんですね」
「……はい」
「あ、そうでした。代理のご出席でしたね。部下の方、確か稲垣様でしたか?」
「よく、覚えていただいて。喜びますよ」
「稲垣様も、実務レベルが高い方なので……」
「ところで、なぜ私は今CADを使っていないと、分かりました?」
「使ってらっしゃる方なら、楽しかったとおっしゃいますから」
また、花の様な笑顔を見せる。安田は、やはり胸が波立った。璃帆とは違う、理知的な美しさを持った女性だと、初めて意識した。
「なるほど……」
「はっはっ、楽しいですなぁ。悪気はないので、許してやってください。うちの広瀬は正直でね」
鳥出会長が嬉しそうに安田に詫びる。
「いえ、やはり面白い社員さんをお持ちで、羨ましいですね」
「そうでしょう。欲がないのが、男性と違って残念ですがねぇ」
自分のことを話題にされて、居心地が悪そうに、広瀬が俯く。ソフトのことを語っている時は、あれ程堂々としているのに、素の顔はこちらなのかと、愉快な気持ちになる。
「いやぁ、このまま独占していては、他の参加者に恨まれそうですから、これで失礼します。鳥出会長、お会いできて光栄でした。いずれ、また」
安田は、ユーザー会を後にした。