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武器

 今日はISO内部監査の日である。製品設計の課長として、対応する。年に一度あるが、毎回形骸化しない様に、様々な工夫が施されるため、対応する方は緊張する日である。

「個人の技術レベルの判断基準については、問題ないかと思います。ただ、少し離職率が気になりますが」

 昨年、結婚、出産に伴う退職が、4名ほど重なったことをいっている。安田は、そんなこと知らんがな……と内心思いながらも、事実を説明するしかない。

「皆、結婚により遠隔地に行くことになったり、2人目以降の出産だったりと、なかなか育児休暇だけではフォロできないこともありまして、退職されました」

「新人では、技術教育を全てやり直し、ということですね。それに伴う技術レベルの低下を、どのように補う計画でしょうか?」

 こちらの頭の痛い問題を、的確に突いてくる。これは確かに、返答を準備しなければならないだろう。

「他部署から、1名異動を予定しています。また、技術の標準化を更に具体的で初心者にも対応できるものに、現在改革中です」

「その一部を見せてもらえますか」

パソコンの画面を通じ、手直し中の設計手順書の一部を見せたり、会議の議事録をみせる。1つずつ、不安要素を追求していった。


 15時頃に安田の担当は終了した。監査の担当社員と雑談に入る。

「今年は、こんな弱点があったんだな……」

「うちの九州支社で、実際にあった事例です。まあ、監査員が違えば、手法も違うと思いますが、穴は埋めときませんと」

「そうですね。もう少し資料、整備しておきます」

「よろしくお願いします」

 この内部監査員とは、アメリカに行く前から交流がある。監査室の中堅社員となりつつある。

「安田さん、アメリカはいかがでしたか?」

「勉強になりました。生活環境の違いもですが、文化の違いは身に沁みましたね。日本人は、やはり勤勉で、規律を守る。我々の当たり前は、世界では通用しない」

「私、来年度行くかもしれないんです。まだ、通達は出てませんが、そろそろ順番かと」

「ご家族、どうする予定です?」

「嫁は一緒に来てもいいと言ってるんですが、子供ですね、問題は」

「あぁ、それなら問題ないですよ。連れて行くべきです。教育が遅れることを心配してると思うけど、それより語学が身に着くメリットの方が大きい。何より、小さい時に違う人種の人達との交流ができるのは、何にも代え難い体験になるはずです。グローバルな視点を、自然と身につけられる」

「そうですか……。やはり体験した人の言う事は、説得力あります。嫁とも相談してみます」

「それがいい。子供より、多分負担が大きいのは、奥さんのはずですからね」

「そうなんですよ〜。嫁、英語が嫌いで。『私、青森弁と標準語でもうバイリンガルなんだから、勘弁して〜』って言ってます」

 と笑う。

 英語が嫌いか……。優吹子の顏が浮かんだ。もう、英会話の勉強はしてないんだろうな、と寂しく笑う。

 白井の事件から、もう3週間経っていた。そして、優吹子は「Green」に来なくなった。LINEでの連絡も、もう今では取っていない。安田は、毎日がどこか他人事の様に感じていて、実感がない。水中から、外の世界を眺めているかのような、そんな日々を過ごしている。

 

「今度の新製品の展示会後のレセプションですが、安田課長は出席されますか?」

 営業部の主任をしている、水村だ。社内でも最近増えてきた女性主任である。

「展示会は出席予定ですが、レセプションにも出ないといけませんでしたっけ」

 特に要請がなかったはずだがと、記憶を引き出す。

「強制ではないんですが、できれば課長に出席いただけると助かるんですが」

「何か、技術的に難しいお客様でも呼んでますか?」

「いえ、女性のお客様と女子社員のために……」

 レセプションの資料を手渡しながら、水村は安田の目を見てキッパリと申し出る。安田は書類を受け取りながら、到底業務とは思えない内容に、一瞬思考がズレてしまう。

「…………。遠慮がないお言葉ですね。セクハラですよ」

 苦笑いしながら、安田が答えた。水村も、苦笑いしている。

「セクハラは承知の上ですが、私も皆に懇願されての義勇兵だと、ご承知頂ければ……」

 安田は、いわゆる昔で言うところの、3高のバツイチである。イケメンであることから、社内での人気は当然トップクラスと言っていい。当人はあまり自覚していないが、熱い視線を向けている女性は、両手ではとうてい足りない。

 課長を通しての要請ではないので、安田は断ることができる。しかし、「義勇兵」とまで言われては無下にすることもできないだろう。さすが営業主任である。

「課長を通して、正式に依頼願えますか。僕もあまり目立ちたくないので」

「すぐ依頼します。ありがとうございます!」

 安田の前を辞し出入口に向かう最中、腰のところで拳を引いて、ガッツポーズをとっている。出席することになるだろう……。こだわることは、なにも無い。全ては、仕事の一環である。


 今回の新製品は、我が社でも少ない、自社開発デザインの製品で、「和」がテーマになっている。我々日本人には今更であるが、世界戦略的には、半永久的に「和」のテーマは、アイデンティティの根底にあるべきものであろう。レセプションも外国からのお客様を特に重視し、「和」で統一していた。昨年の「アニメ」よりは、安田は居場所があって助かっている。


「悪いな、安田課長。君に出席してもらうと、女子たちのモチベーションが半端でなくなるんだ。我が社の女子には、この残念なおじさんを救ってやろうという、慈悲深い社員はいないらしい」

 残念なおじさんと自称する、こちらもバツイチの営業課長が寄ってきた。

「いえ。部下のやる気を引き出すのも、管理職の重要な仕事ですから」

「安田課長が言うと、嫌味にも聞こえんな。今日、芸者衆が来るんだよ。さっき裏で見たけど、色っぽいな〜。俺、あっちでいいわ」

「随分と予算使ってますね……」

「今回の新製品は、4年ぶりのフルモデルチェンジだからな。部長が動いてる」

「なるほど……」

「まあ、よろしく頼むよ。俺が近くにいては、女子達から恨まれる」

 といって、そそくさと立ち去った。

 今日の安田は3ピースのスーツ姿である。女子にはたまらない。綺麗な顔が、更に際立ち、レセプションを陰から盛り上げていると言っていいだろう。先程から入れ替わり立ち替わり女性社員がやって来る。水村に連れられて、何組かの女性の顧客も来たりする。何だか、見たことない部署の子達までいる。水村の口コミは、どこまで(とどろ)いているのか。

 その女性達が、途絶えた。一息つくと共に、途絶えた理由に目を向ける。仮設ステージで芸者さんが踊りを披露していた。今日の踊り手は3人。地方は、三味線に唄、鼓、笛まで入り豪勢である。


 その踊り手の1人に、見覚えがあった。染吉である。安田はその踊りに目を奪われる。

「姐さんの清元は、流麗という文字そのものなの。止まることがない。全ての動きが次への意味のあるものだから、動きが止まっても、周りの空気が止まらないの。それでいて、動いている間、どの一瞬を捉えても、『絵』になるのよ。もうねぇ、止まった絵が連続しているみたい。揺らぎがなくて、本当に美しいの。安田さんにも、一度見せてあげたい」

 優吹子の声が甦る。本当に、日本人形の様だ。所作の1つ1つに揺らぎがない。扇子もまるで生き物のように、流れ動く。背中を見せての場面でも、着物の上からでもしなやかな動きだと綺麗に分かる。すっと1回転しても、軸は微動だにしない。どれだけ筋肉トレーニングをしているかと、勘繰ってしまうくらいだ。きっと、そんなことはしていないだうが……。

 万雷の拍手に、意識が戻った。染吉達は一旦ステージから降り、レセプションの皆の中に入って、会を盛り上げてくれる。このあと、お座敷遊びのデモンストレーションも予定されている。安田は、染吉の元に向かった。

「お久しぶりです。初めて踊り、見せていただきました。とても、美しかった」

「あら、ありがとうございます。安田さんでしたね。お久しぶりです。こちらの会社の社員さんでしたか。これからもご贔屓に」

「贔屓にしたいですが、染吉さん達を呼べるまでには、まだまだ修行が足りません。頑張って呼べるようになりますよ」

「まぁ、それは楽しみですね。私達は定年がありませんから、お待ちしてますよ。少し、おばあちゃんになってますけど、忘れないで下さいね」

 と笑う。

「そうそう、うちの地方さんも、最近更に腕を上げましたから、その時はご一緒させて下さいね」

「……」

 優吹子のことだと、即座に分かる。

「元気で……、いますか?」

「ええ、何だか取り付かれたように三味線頑張ってますよ。忘れなきゃならない人がいるらしくてねぇ。あれは、いい修行になります」

「! 忘れる……ですか?」

 その言葉に染吉は答えず、流し目を寄こしながら安田の前を素通りしていってしまう。

「待っていただけますか……」

 いつまでも1人には関わっていられないという風情で、もう相手にはしてもらえない。あっという間に染吉の周りに人集りができる。皆スマホで、滅多に見られない芸者さんを撮影している。その中に割って入ることはできない……。

 すると輪の中から、染吉が安田に話し掛けた。

「そういえば、お見合いされたとか。良縁であることをお祈りしておりますわ」

 それを聞いてギョッとしたのが、安田目当ての女性社員たちだ。一瞬、安田の周りがザワついた。

 安田はそんな中でも、冷静に言葉を発していた。今伝えなければ、きっと君には永久に伝えられない。

「いえ、あのお話は、お断りしましたので」

 周りの空気が、安堵に包まれる。間違いなくこの噂は、あっという間に広まるだろう。でも、安田は構わなかった。どうせ今の自分は、また、まともに息ができていないのだから、多少会社で居心地が悪くなっても、それほど変わらない……。

「あら、そうですか。それは、残念でございました。またのご縁がありますように」

 そう柔らかく笑ったかと思うと、次の踊りのため、ステージに向かっていった。

 

 安田は、腕を組んで染吉の踊りを眺める。優吹子が後ろで三味線を弾き、唄う姿を想像する。艶のある声が、甦る。

 君は、僕を忘れるつもりなのか……。勝手に誤解して、言い訳する機会も与えずに……。

「それで、君は満足か」

 声になっていた。どうしてこんなに腹が立つのか、安田は分かっていた。優吹子に腹を立てているのではない。自分に腹が立っているのだ。

 手を伸ばせば、君に届いた。


 ――私は、似てるんでしょうか? リホさんに


 あの時、ずっと誰にも話すことがなかった璃帆のことを、話す気になった。

 どうしたらいいか分からなかったからだ。璃帆を手放してから、苦しくて、息ができなくて、逃げても連れ戻される……。

 話をするだけで、息ができるようになった。話にすることで、璃帆と過ごした時間が「過去」になっていった。子供のことで璃帆が身を引いたのではないかと教えてくれた時の、背中にあった君の手の温もりは、今でも忘れていない。

 君は、黙って聞いてくれて、だから、気付かなかった。それがいかに君にとって辛いことだったのか……。

 最初から君は、それを許してくれていた。辛そうな素振りは、全く見せなかった。

 ……何故。


「……っ!」

 安田は、ゆっくりと瞠目(どうもく)する。


 ――そこにいつまでも留まっている人を助けたくて、自分がその忘れられない人を弔うのだと……


 片手で、思わず口を覆う。視界から、レセプション会場の景色が消えていった。

「優吹ちゃん……、君なのか……!」


 踊り終えてステージから降りてきた染吉の、腕を掴んで聞いていた。

「どうやったら、優吹ちゃんに会えますか……。教えてください」


「優吹ちゃん、今日のお客様は一見さんだから、よろしくね」

「はい」

 いつもの料亭だった。染吉がお客様の相手をして、まずはお客様がお食事とお酒を楽しむ時間の相手をする。小1時間後、芸の披露となる。ここで初めて地方の出番となる。襖をあけて、お客様の顔を見て一礼をした。先に入った姐さんがお客様を遮る形の位置に座ったため、どんなお客様か確認ができない。そのまま部屋の隅に座り、更に一礼。三味線を構えた。


 座卓の前に、安田が座っていた。優吹子を、じっと見つめていた。その目を見た途端、全ての景色が止まる。優吹子は、三味線を構えたまま、弾き出すことができない……。


「豆奴さん」

 染吉姐さんに呼ばれ、我に返った。小さく息を吸い、強張った右手で、バチを握り直す。三味線が鳴り出せば、後は何をしても、止まることはない。染吉の絹連れの音と、優吹子の声と三味線の音だけが、響いていた。

 一曲目が終わり、安田が拍手をする。そのまま、染吉に話し掛ける。

「染吉さん、お願いしていた通り……」

「はい。承知しておりますよ。豆奴さん、こちら豆奴さんの唄が聞きたいそうなの。お願いできますか」

「姐さん……」

「安田様、こちらの豆奴さん、最近長唄の練習をずっとされてましてね、よかったらそれをお聞きくださいませんか」

「ええ。ぜひ」

 優吹子がずっと練習していた唄は、お座敷には相応しくない。なぜそれを唄わせるのか……。しかし、お客様の要望ならば、逆らうことは難しい。


 優吹子が唄い始める。最初の一節が終われば、三味線がかき鳴らされる。三味線の捌きが大変なのが、素人でも分かる曲だ。

 優吹子は、無心で唄っているように見える。いつもの、艶のある声と言うより、緊迫に満ちた訴えるような声である。染吉は、黙ってその様子を見ていた。

 途中、山場である、三味線を鳴らしつづける場面に差し掛かかる。

「ガチッ」

 と音がしたかと思ったら、弦が、切れていた。同時に、それまでの張りつめた空気も、切れた。

「あっ」

 優吹子の小さな叫び声がしたかと思ったら、その目から大粒の涙がこぼれ出していた。

 さっと三味線を脇に置き、震える声で一礼していた。小さく肩も震えていた。

「お客様、申し訳ございません。これ以上、唄うことはできません……」


 安田は、優吹子のそばに駆け寄り、畳に着いたその手を取り、握り締めた。

「もう、いいよ。もう、いい……。もっと早く、来ればよかった。早くこうして、君の手を取ればよかったんだ」

 そこまで聞いて、染吉はそっと部屋を出て行った。

「安田さん……」

 身を起こしたところで、安田は優吹子の手を引き、体を引き寄せた。

「ずっと、こうしたかった。もう、僕は我慢しない」

 優吹子は強く抱きしめられ、安田の体の熱を、初めて知る。

「でも、安田さん……」

 優吹子はこの1ヶ月、ずっと振り切ってきた。自分を見ることで、安田が更に苦しい思いをするくらいなら、そう思ってずっと言い聞かせてきた。その想いが、言葉になる。

「私がそばにいては、リホさんを思い出して、辛いんじゃないんですか……。やっと、前を向けるようになったのに……」

「……っ!」

 安田は、一旦優吹子の体を離し、その涙の残った顔をじっと見つめた。

「君は、ずっとそうやって、僕の想いばかり考えて、僕を忘れるつもりだったの? 君は、どうなの。君は、どうしたいの」

 優吹子の顔が、見る見る歪んでゆく。もう、無理だ。私の決心なんて、この程度だ……。

「会いたかった。ずっと、会いたかった。安田さんが、……好きです」

「優吹……」

 安田は優吹子の頬を両手で包み込む。そのまま唇を重ねた。

 そっと離れた時、優吹子は名前を呼ぶ。

「やす……」

「まだだ」

 もう一度重なる。何度もキスをされて、優吹子は体の力が抜けていく。もう一度抱き締められて、優吹子も初めて安田の背中に手を回した。

「君はずっとそばにいてくれるんだと、思っていた。なんの確信もないのに、そう思っていた。辛い思いをさせていたんだね。すまなかった」

「安田さん……」

 安田は、優吹子の顔をもう一度見て、ゆっくり微笑んだ。

「もう、今日のお座敷は終わり……。家においで。君を僕だけのものにする」

 優吹子の顔が、みるみる赤くなる。その顔を見つめながら、安田は続けた。

「そうやって、すぐ赤くなる君も、すぐ膨れて怒る君も、お酒が強い君も、艶のある声も、全部大好きだったよ。君を傷つけることだけが、怖かった」

 笑いながら、少しほつれた優吹子の髪を指先で整える。そして、真面目な顔になった。

「でも、傷つけることより、失うことの方がもっと辛いんだと思い知った。まさか、もう会いに来てくれないとは、思いもよらなかった」

「ごめんなさい……」

「お見合いのことは、本当に一方的なことで、もともと僕の意志でしたわけじゃないから」

「でも……」

 安田は、優吹子の体を離した。改めて両手を取って、胡坐をかく。優吹子も、手を取られたまま正座に戻った。

「また君は。『でも』じゃないよ。僕のいう事、信じて。さっきも言った。そばにいて欲しいのは、君だ。優吹だよ」

「はい……」

「璃帆のことは……、君なら全て分かってるよ。いずれ、遠い記憶になる。そう、思えるようになった。君のお陰だ……。ただ、それでも、君が辛いなら、そばにいて欲しいとは、言えない」

「ううん……。忘れなくていいんです。それで、そばにいられなくなるくらいなら、忘れなくていい。ただ、それで辛い時は、一人で苦しまないで、私をそばにおいて欲しい……」

 また、安田は優吹子を抱きしめる。安田の胡坐の中に、倒れ込む形になる。優吹子は力を抜いて、安田に体を預けた。

「僕は、幸せ者だそうだ。マスターにそう言われた。今、僕も分かったよ」

「マスター?」

「そう。……君を失ったら、今度はだれが弔ってくれるの?」

「安田さん……」

「……。もういいよ。こうやって、触れることができた。もう、離さないよ」

 優吹子は、安田の腕に包まれて、これ以上泣かなくていいのだと目をつむる。

「あぁ、それと、僕は課長で終わるつもりはないから、多分もう一度アメリカに行くことになる。その時は、必ず君を連れてくから、英会話ちゃんと勉強してね」

「えぇ〜、それは、ムリ……」

「無理でも何でも、連れてく。もう、手を離すことはしない。よく覚えておいて」

「……はい」

 最後に、おでこにそっとキスをされる。優しい唇に、やっぱり優吹子は涙が溢れてきた。


 優しい風がサァと吹いて、桜の花吹雪が、2人の上に舞い落ちる。今日は、温かいのでお花見に来ていた。

「私、桜が1番好きだなぁ」

「アメリカにもね、桜はあるんだよ。でも、日本とは全然違う。やはり、こちらは荘厳だ……」

 優吹子が桜をスマホで撮る。安田も入れて、桜のトンネルをバックに撮る。2人で撮って、お互いにシェアする。

 この2ヶ月、普通のデートをできるようになって、優吹子は一段と綺麗になったと、安田は思っている。よく考えれば、昼間2人で会ったことがなかった。


 あの日、安田のベッドの中で、腕枕をしながら優吹子に聞いた。

「何か、2人でしたいことある?」

「お昼に、デートしたい」

「……、そうか。いつも夜だったな。これから、ちゃんと昼も会おう」

「うん! 安田さんは、何かしたいこと、ある?」

 また、優吹子の上に覆いかぶさる。

「もう一度、抱く」

「……、そうじゃなくて。こらっ」

「優吹の手料理、食べたい。この間、旨かったけど、君がいなかった」

 優吹子は思い出し笑いをしながら、胸に埋めている安田の頭をそっと抱く。

「いつでも。安田さんが望むなら……」

「あと、名前で呼べる? 僕のこと」

「いいんですか! うれしい。じゃ、耕二さん……。う〜ん、耕さんでもいい?」

「いいよ。そのほうが、いい。」

 もう一度、キスをされる。全てを確認するように、ゆっくり唇が体に移る。ずっとこうやって愛し続けてもらいたいと、優吹子は願う。

「耕さん……。ずっと、そばにいて」

「ん……。君も、離れないで」


「Green」には、2人で一緒に行った。マスターが優吹子の顔を見て、本当に柔らかい笑顔を見せた。

「お帰りなさい」

「マスター……。ただいま……」

 溢れてきた涙に、安田が気付く。

「泣かないで……。さあ、飲もう」

 そう言うと、優吹子の腰にそっと手を添え、いつもの席に誘った。

「マスター、またマスターの信念曲げさせてしまって……」

 マスターが、「弔う」と言った人がいると、安田に伝えてくれたことを言っていた。

「いいえ、私のルールにも、ちゃんと例外があるんですよ」

「何ですか」

 安田が、横から聞く。

「一度でもルールを破ったお客様のことは、必ず最後までお手伝いする」

「マスター……」

 優吹子は、あらためて最初にルールを破ってくれたことに、感謝の気持ちが沸いてくる。本当に無理をさせた。

「だから、あの言葉、僕に教えてくれたんですね。でも、僕はその意味に気付くまでに時間が掛かった。君を待たせてしまった……。ごめん」

 そう言って、優吹子の頭に手を置く。優吹子は安田の顔を見て、恥ずかしそうに手を乗せられたまま、小さく頭を振った。

「あの言葉は、安田様がずっと広瀬様のことを考え続けなければ、気付かないだろうと思っておりました」

「……マスター」

 安田はマスターの顔を見た。マスターは、安田の視線に応えて、小さく頷いた。

「耕さん、ありがとう……」

 今度は、優吹子が安田に小さく頭を下げる。

「これで私も、お役御免でしょうか?」

「はい」「はい」

 2人の声が小さく揃った。マスターと3人で笑う。残り少なくなっていたボトルを新しくして、改めて3人で乾杯をした。

 

 桜並木の下、ふと気が付くと、安田が足を止めていた。前方をじっと見ている。

「優吹、怖がらないで……。僕を信じて」

 そういうと、手を繋ぎ直す。恋人繋ぎに、胸が鳴る。

 安田の視線を追った先に、カップルが1組いた。こちらに向かっている。仲良さそうに、桜を眺めている。男性は、かなり背が高い。女性は、とても綺麗な顔をしていた。耳までの長さの髪が、ふわりとカールしていた。

 安田は2人に近づき、声を掛ける。

「今枝さん……。婚約したって、おめでとう」

 2人は驚いた顔で、安田に向き合った。男性が、少し身構えたのが優吹子にも分かった。

「安田課長……。ありがとうございます」

「結婚は、まだ先?」

「ええ、彼の仕事が、今とても忙しいので、それが落ち着いたらと話しています」

「そう。……幸せになって。君達なら、大丈夫だろうが」

 そう言って、安田は藤崎を見た。

「あなたも、幸せになってください」

 藤崎は、まっすぐ安田に伝える。

「ありがとう……。じゃ、また会社で」

 優吹子は、全てが理解できた。足がすくみそうになったが、安田の手の温もりに、心を預けて落ち着かせた。でもまだ少し怖くて、握っている手に少し力を入れてしまった。

「行こう」

 と安田は優吹子の手を引き、その場を離れる。優吹子は2人に会釈をして、離れた。しばらく歩いて、優吹子が小さく息を吐いた。

「大丈夫か……?」「大丈夫ですか……?」

 2人の声が重なった。お互いに、顔を見合わせる。安田がゆっくり笑顔になって、繋いでいた優吹子の手の甲に、そっとキスをした。

「本当に、大丈夫だったよ。ありがとう」

「私も。耕さんの手があったから、なんとか大丈夫でした……」

「なぁ、優吹。優吹にとって、三味線とCADは武器だろ。これからは、それがない時は、僕が君の武器になるよ。僕がいるから、怖がらないで戦って」

「……。はい。新しい武器、最強です。よろしくお願いします」

「何か、あったほうがいいな」

「はい?」

「そうだ。指輪、買おう。贈るよ」

 思いついて、安田は嬉しそうに提案する。優吹子は、もうこれ以上ない笑顔で頷いた。

「うれしい……。いつでも、そばにいてくれる気がする」

「いつでも、いるよ」

 2人は笑い合いながら、桜トンネルを抜けて行った。


「安田課長、幸せそうだったな」

 藤崎が、璃帆に話し掛ける。

「うん。……よかった」

「男の子だな……」

「? 何が」

「2人の子供だよ。とても可愛い子だ」

「見えたの?」

 璃帆の顔を見て、ゆっくり微笑みながらうなずいた。藤崎には、人に見えないものを見る力がある。璃帆の胸に、温かいものがゆっくり広がる。本当によかった。

「ねぇ、じゃあ、私達は? 見えてるんでしょ?」

「内緒」

「えぇ、教えて。お願い。ずるいよ〜。龍一さんばっかり」

「必ず会えるから、楽しみにしていて。俺達の方が、あの2人より後だけどね」

 龍一は璃帆の頭をそっと引き寄せて、ゆっくりまた歩き出す。2人も、桜のトンネルを、惜しみながら抜けて行った。

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