策士と先達
「一体、何がどうなってる……」
「えっ、あの方、兄さんに話してないの?」
「あの方って、誰?」
「雪だるまの君」
「……会ったのか!?」
電話で、耕二と鈴美が話していた。
「これはダメだな。ちゃんと会って聞きたい。今夜、どこかで落ち合えないか」
「無理よ〜。真理連れてっていいなら、いいけどぉ」
「……。大事なことなんだ。何とかならないか」
「直接聞けばいいじゃない。彼女に」
「聞けないから、まずお前に確認してるんだろう」
「ふふっ……」
「何が、おかしい……」
「兄さんが、そんなに焦るなんて、久し振りに見た」
「……」
「何とかするわ。1時間までよ。家の近くまでは来て。場所はまた連絡するわ」
あの日、安田は20時頃目が覚めた。部屋は真っ暗で、人の気配はなかった。体が随分楽になっていて、空腹を感じたため、何かあったかと冷蔵庫を開けた。
3食分程度の料理が、タッパに詰められて入っていた。
そこで始めて、優吹子がいないことに気が付いた。やっと帰ってくれたのかと、安堵の気持ちが大きかったが、ちょっと違和感も覚えた。あの、優吹子らしくない気がしたのだ……。
彼女なら、安田が目覚めるまで、待ってくれたような気がする。どんなに帰れといっても、この2日、目覚めるたびに優吹子の姿があったから、帰るにしても、きっと食事をするのを見届けてから、帰るような気がする。
「僕の甘えか……」
ふと、テーブルにお見舞い熨斗のある、箱を見つけた。そこには、「白井」とある。誰だっけ……と考えて、驚いた。
「どうして、彼女の名前がここにある……」
スマホを慌てて確認する。仕事の用件が何件かあり、その中に、鈴美からのLINEもあった。
「兄さん、今様子見に来たけど、開けてくれない」
「……」
事態が、呑み込めなかった。時間は、今日の15時53分。もちろん、安田は対応していないから、優吹子がいたなら、彼女が対応したことになる。鈴美が、白井からの見舞いを預かってきたのか? でも、なぜ白井が僕の体調不良を知ってるんだ。
確かに雪の夜、「風引いたみたいだから、体調が戻ったら、伯母さんに返事をする」とLINEしておいたから、鈴美が心配するなら理屈も通るが……。
一番の問題は、なぜ今優吹子がこの場にいないか、だ。書き置きもない。やはり、優吹子らしくない……。
優吹子にLINEを送ろうとして、手を止めた。
「まずは、事実確認が先だな」
それよりも、体調を戻さないと……。まともに頭が回らない……。安田は、優吹子の作っておいてくれた食事を取った。
「旨いな……」
優吹子がほんわり笑っている顔が、浮かんだ。
仕事が、溜まっていた。2日分は、かなり大きい。まだ体力が戻っていないため、あまり無理も利かず、とにかく承認関係の書類を処理する。メールの処理にも、半日以上掛かった。下からの報告を順次捌き、上への報告を書類にして回す。頭が、クラクラする……。とも言っていられず、なんとか19時には会社を出た。
鈴美の指定したカフェまで、タクシーを使った。ちょっと、微熱が戻ってきていた。
「まだ、本調子じゃなさそうね」
という鈴美の言葉から、話は始まった。
まず、なぜ白井が安田の風邪を知ったのかは、単純な話だった。LINEを送ったとき、ちょうど伯母が、鈴美の家に来ていたらしい。安田から見合いの返事がないのをいいことに、待っている間に、色々画策しようとしたらしい。
伯母は、鈴美が安田に1番近い存在であることを分かっている。昔から、そこを狙ってくるのだ。鈴美は、それをネタに、よく安田に交渉を持ちかけたものだ。
「この情報欲しければ、お小遣いほしいなぁ……」「お前は、チンピラか」
このくだりを、何度もしてきている。安田も、伯母の攻略には、鈴美を頼りにしているから、甘んじるしかない。
よって、現在安田は病気中で気弱になっているから、白井を直接遣わす作戦に出たとの事だ。白井も、いい迷惑だろうに……。
「家政婦……!?」
「そうよ。まさかいるとは思わなかったから、さすがの私も焦ったわよ」
家政婦だといわれて、優吹子は怒らなかったのか。
「ちゃんと、一瞬で理解してたわよ。頭のいい人」
「それで」
「白井さんは信じたみたい。だから、伯母さんには「雪だるまの君」の存在は、バレてないわね」
少し、安堵した。そこが絡むと、1番ややこしい。
「で、白井さんが見合いの相手だって、彼女の前で話してー」
「……! ちょっと、待った。おかしいだろ、関係のない家政婦にその話は」
「だからー、お茶出してもらってね……」
わざと聞かしたのか!
「お前、何企んでる……」
スカした顔して、上目遣いで安田を見る。
「そしたら、白井さんが言ったのよねぇ。『鈴美さん、なんとかお力になっていただけませんか? 私、耕二さんと結婚したいんです』」
「……」
「「雪だるまの君」は、顔色1つ変えなかったわよ。大したもんだわ」
「……」
「部屋に入った時、いい匂いがしてたのよねぇ。夕飯作ってるんだなって思って。寝室も綺麗になってたし。2日間、きっとろくに寝てないだろうに、お化粧もしてたから、兄さん起きたら、食事させるんだろうなって思ったのよ」
「そうか……」
「兄さん覚えてる? パジャマとシーツ、まだ仕舞ってなかったけど、畳んであったから、きっと替えてもらってるのよ」
「パジャマは、なんとなく……。シーツは、記憶がない」
「一応言っとくけど、あんな風にお世話ができるのはね、それこそプロの介護士か、その人のことを大切に思ってるかの、どっちかだけなのよ」
「……僕達は、お前が思ってるような、付き合いじゃないよ……」
「どうやら、そうみたいねぇ。じゃなきゃ、普通、喧嘩になるわよねぇ。見合いのことで」
「お前……、そうなると思って、焚き付けたのか……」
「まさか〜」
これは、確実にそうだな。
「でも、だったら別にいいじゃない。彼女に見合いのことバレたって」
「そうだが……、勘違いはされたくなかったんだよ」
「ふ〜ん。兄さんも、大切に思ってるわけねー」
安田は思わず、目をつむる。これは、弱みを握られたに等しい……。
「とにかく、状況説明はしました。後は、自分でなんとかしてください」
鈴美は意気揚々と帰って行った。
「まったく、昔から、手間が掛かるんだから」
と、鈴美が1人ボヤいていたことは、安田は知らない。
やはり、優吹子がいなかったのは、白井と会ったからだと確信する。
――あんな風にお世話ができるのはね、その人のことを大切に思ってるからよ
胸に、ズキンと痛みが走った。また君を、傷つけたのではないか。
――離れて!
あの日、僕は君を傷つけた。もう、君のあんな顔は見たくない。
触れてはいけない。先の約束をしてもいけない。もちろん、抱きしめることは何があってもしてはいけない。今まで、何度も我慢した。
だが、熱があった日、僕はまた君に触れてしまったのではないか。
――悲しいことなんて、何もありません
そう言いながら、泣いていたのは、夢だったのか。
また、息ができない。どうして……。熱はもう、下がったはずだ……。
優吹子に会って誤解を解きたいと、LINEに向かう。が、説明をしてどうする気だ。彼女に触れることもできない自分が、繋ぎとめようとして、どうする……!
安田は、スマホをテーブルの上に置いてしまった。
「今日も、来られないらしい……。忙しそうだ」
「Green」でLINEを見ていた安田が呟く。
「……、そうですか」
2人の間に、静かな時間が流れる。ロックの氷を眺めながら、安田はマスターに話し掛けた。
「マスターは……」
「はい」
「いや……、何でもありません」
「……」
今日は何人か別の客がいる。何となくザワザワしていて、心地よい。1人でもゆっくりできそうだ。
「私では、話し相手になりませんか?」
珍しく、マスターが話し掛けてくる。滅多にないことだ。
「いえ、興味本位のことですから、失礼かと……」
「何でしょう?」
「……、忘れられない女性とか、いるのかなと」
「いますよ」
何でもないことのように、答えが返ってきた。
「どう、したんですか……」
思わず、聞いてしまっていた。マスターは、ニッコリ笑って安田の正面に立ち直した。
「惚れた女のことは、決して忘れられませんよ」
「……」
「それが、当たり前です」
安田のグラスの氷が、カランと鳴った。
「今でも、思い出せば痛みが伴う……」
「……」
「でも、気がつきました。もう、連れては行けないと」
「連れては、行けない……?」
「そうです。もう、その人は、そこから動かないんです、何をしても。だから、共に歩くことはできない」
「……」
「自分が歩きたければ、もう、置いていくしかないんです」
「置いて、いく……」
何度も置いていった場所に戻り、進んでは、また戻り……。繰り返して、最後はもう戻らなくても、前に進めるようになりましたと、マスターは語り終わる。
「『弔う』のだと、言った人がいます」
「……っ!」
あまりにも、その言葉が胸に落ちて、息が詰まる。
「そこにいつまでも留まっている人を助けたくて、自分がその忘れられない人を弔うのだと、おっしゃっていました」
「……」
「助けられた方は、幸せな方だと、私は思います」
そう言って、マスターは安田の目を見た。
安田は、今この時、それが自分だとは分からなかった。