別れ
ここは、カウンターとテーブルが2卓しかない、小さなバーだ。名は「Green」。
安田の大学の先輩から代々受け継がれてきた、30代専用の隠れ家的な店である。皆それぞれ自由に使っている店だが、来店時、お互いに連れ合いが居る場合は、赤の他人を装うことが暗黙のルールになっている。40代になると、もう使ってはいけないのも、守られるべきルールだった。
「いらっしゃいませ。お久し振りですね。安田様」
もう、60代と思われる、この店のマスターである。バーテンとしての腕はもちろんだが、人と人を結ぶ影の役割が、皆からの厚い信頼を得ていた。
「相変わらず、よく、覚えてくれてますね。お久し振りです」
「4年振りですか……。アメリカでしたね、転勤先は」
「はい。無事、戻ってきました」
「それは、何よりでした。今日は、何にされますか?」
「ウィスキーを。ロックで」
以前飲んでいた銘柄のウィスキーが、何も言わなくても出される。安田にとっては、本当にホッとできる数少ない店の1つだった。
「今日、もう1人来ます」
「かしこまりました」
「僕は……、これから振られるんです。……改めてね」
「そうですか……」
そう言ったきり、もうマスターからは会話はない。カウンターの離れた場所で、グラスを磨いているだけだった。
歓迎会が開かれたあの日の、次の月曜日。朝一番で、璃帆は安田の机の前に立った。
「先日は、大変ご迷惑をお掛け致しました。1度、お時間を作っていただけないでしょうか」
まっすぐ、真剣な眼差しで安田を見つめる。その髪は、ばっさりと耳の下辺りで切られ、ふわりとカールしていた。
璃帆の目には、侮蔑も哀れみも、そして喜びもなかった。
それが全ての答えなのだと、安田は覚悟を決めた。
「分かった……。連絡する」
水曜日、ノー残業デーだ。この日なら、誰もが予定が合わせやすい。10分もせずに、璃帆がやってきた。昔、一緒によく来た店だったのだ。静かに、隣に座った。
「いらっしゃいませ。何にされますか?」
「すみません。すぐ帰るので……」
という璃帆の言葉を引き継いで、安田が代わりにオーダーする。
「ウーロン茶を、お願いします」
「かしこまりました」
それが出されるまでの、少しの間だけでも、安田は璃帆を感じていたかった。
「髪、切ったんだね。似合ってるよ」
「……、ありがとうございます」
璃帆の前にそっとグラスが置かれ、沈黙も置かれた。
「課長……。先日のこと、ちゃんと課長から聞きたいです。私は、課長に……」
「してないよ。そんなこと、してない……」
「……彼にも、そう言われました。その言葉は、信用していいって」
「……」
「私、本当に課長のことが好きでした。そのことに、嘘はありません。……後悔もありません。どれだけ大切にしてもらったかも、課長と離れてから、嫌と言うほど思い知らされました」
安田は、璃帆と並んで、黙ってグラスを眺めながら聞いている。
「本当に、大切な時間でした……」
「それでも、ダメだと……?」
安田が、初めて璃帆の目を見た。
璃帆も真っ直ぐ安田の目を見て、言葉にした。
「もう、時間は、戻せません……。私が愛しているのは、藤崎龍一なんです。彼に会う前の私には、もう、戻れません……」
「……」
「本当に、ありがとうございました」
璃帆は、椅子から立って、ゆっくりと頭を下げた。そのまま帰ろうとする璃帆を、少しでも引き止めたくて、安田は声を掛ける。
「1人は危ないから、送っていくよ……」
「いえ、彼が外で待っているので」
「……」
――今度も、ない!
先日藤崎に言われた言葉が、甦る。
「そうか……」
「ごちそうさまでした」
そう言って、璃帆は出て行った。
隣にウーロン茶のグラスを置いたまま、安田はその後も1人で飲み続けた。