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呼吸をしなさい、と厳しく命じる声に、はっはっと再び小さく呼吸を繰り返した。
目を開けて周囲を見なさい、と命じられて重い瞼を開くと、ずっと看病してくれていたお母様の泣き顔と、王都で仕事をしているはずのお父様の心配そうな顔が見えた。
『お前の生還を望む者がいる。諦めてはいけない。――さあ、口を開けて。生きる為に努力するんだ』
励まされるまま水分を取り、咳をして気管支に詰まった痰を吐き出す。
弱っていた私にとって、水を一口飲むことすら苦行だった。
それでも、負けるな、生きろと励ます声に背中を押されて、なんとか生還を果たすことができた。
それ以来、ワタシはずっと私の心の中にいる。
私の身になにか問題が起きたときには助言してくれるが、基本的にはずっと黙ったまま、ただ心の中で私の成長を見守ってくれている。
話しかけて来ないときでも、ワタシの存在を感じ取れることもある。
たとえば私が、「わたくし」とか「ですわね」とか「ますの」などと貴族女性らしい口調で話したり、扇子を口元に当てて微笑んだり、丁寧にカーテシーをしたり、とにかく上品な仕草をするときなどに特に強くワタシの存在を感じる。
なにかこう、心の中からむずむずとこそばゆいような居たたまれないような、とにかく耐え難い違和感が伝わってくるのだ。
子供の頃の私はそれがどうにも我慢できず、むず痒い胸元を掻きむしったり、その場でジタバタと足踏みをしたものだ。
そして周囲の人々は、そんな私の奇行に驚き、眉をひそめていた。
どうやらそれは、心の中のワタシが私の言動を見て、それこそ転げ回りたい程の照れくささを感じているのが私に伝わった結果だったらしい。
幼い頃は、それが心の中のワタシの仕業だとは気づけなかった。
ただなにか嫌な感じがするからと、それらの言動を自然と避けるようになった。本来なら注意すべき立場の周囲の人達も、人前で奇行に走られるよりはマシだろうと、私のマナー違反に目をつぶってくれた。
その結果、私は妙に言動がこざっぱりした、貴族女性らしからぬ侯爵令嬢になってしまったのだ。
ワタシは声音も口調も中性的だったし貴族女性らしい振る舞いを恥ずかしがるところからも、きっとかつては男性だったのかもしれない。
ずっとそう思っていたが、成長するにつれそれもあやしいと思うようになった。
助言の内容が細やかで女性的だったりすることもあるからだ。
男女どちらなのかと何度か聞いてみたが、ワタシは黙ったまま教えてくれない。
それどころか、どんな仕事をしていたのか、どんな人を愛したのか、何歳まで生きたのかと聞いても教えてくれない。名前だって教えてもらえないから、仕方なくワタシと呼んでいるのだ。
どうやらワタシは、かつてのワタシの人生が、今の私の人生にほんの僅かでも影響を及ぼすようなことがないように一切情報を与えないつもりらしい。
とんでもない頑固者だということが、ワタシに関して分かっている数少ない事柄のひとつだった。
(フローリア様も転生者だというのなら、やっぱり心の中に、ワタシのような存在がいるのかしら)
『……いや、それはない。彼女はワタシ達のように分かたれてはいないようだ』
ワタシの意識が目覚めてしまったのは、私の命が危機にさらされたせいだったのだとワタシが言う。
幼い子供の魂では乗り越えられない危機を乗り越える力を得るために、転生する前の大人だった自分の記憶を強引に呼び覚ましたのだろうと。
『本来なら、目覚めた段階でワタシ達は融合する筈だった。そしてその場合、まだ幼いアメリアの自我は、かつて大人だったワタシの自我に打ち負け呑み込まれて、ただ記憶として残ることになっていただろう』
(私が記憶になる?)
『そう。大人と幼子では自我の強さが違いすぎる。対等な融合は不可能だ。だがワタシには、無垢な幼子の人生を喰らうことなど出来なかった』
目覚めてすぐその危険に気づいたワタシは、咄嗟に互いの自我の間に障壁を作り上げ、擬似的な二重人格を構築することに成功したのだという。
ひとつの魂にふたつの人格。
コインの裏表のようなものだと理解すればいいと言われた。
(別に融合しても構わなかったのに……)
『ワタシは構うと言っただろう。ワタシは納得ずくで既に人生を終えた者だ。まだ小さな若い芽を踏みにじってまで、もう一度人生をやり直す気にはなれない』
本当に頑固だ。そして、優しい人だったのだろう。
そう実感できることが、なんだか嬉しかった。
ワタシがゲシュタルト崩壊中。