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「アメリアが口にしてしまった毒は、今では滅多に使われなくなった古い毒でね。『乙女殺し』と呼ばれているものなんだ」
朝食後、トロンが私の私室に訪ねてきて教えてくれた。
今では殆ど使われることのない毒で、引退した老医師が偶然診療所に遊びに来ていなければ、気づかずに手遅れになっていたかもしれないと。
「女性にしか効かない毒なの?」
「いや男性にも効く。だが女性のほうがダメージが大きいんだ」
『乙女殺し』は、口にした直後に効果がでない毒なのだそうだ。
身体に入った毒は、静かに全身に回りやがて体内の老廃物と混じり合って、全身の毛穴や汗腺から排出されていく。
「放っておけば勝手に身体から排出されるものだったのね」
それならば、蒸され揉まれたあの苦労はなんだったのか。
「ただ排出されるわけじゃない。排出される際に吹き出物が出来るんだよ。それも普通の吹き出物じゃなく、赤黒く化膿する吹き出物が、それこそ全身にできるらしい」
「まあ……」
吹き出物が頬にひとつ出来ただけでも憂鬱になるのに、それが全身だなんて……。
「その吹き出物、治らないの?」
「時間が経てば炎症もおさまって治る。ただし、濃い赤紫色の跡が残るそうだ」
顔や手指、背中や足の裏にいたるまで、それこそ全身にぶつぶつと気味の悪い赤紫色の斑点が残る。
それは確かに、女性のほうがダメージが大きそうだ。
「……だから、『乙女殺し』というのね」
もしも毒だとは気づかなかったら、私の全身にも赤紫色の斑点が残っていたのだろうか?
想像しただけで、ぞっとして鳥肌が立った。
もしそんなことになったら、私は二度と鏡を見ないだろうし、全身をベールで覆って人前で肌を晒すこともしないだろう。
私の女としての人生は、きっとそこで終わっていた筈だ。
「『花嫁殺し』とも言われているらしい。……老先生が言うには、かつては貴族間の婚姻を阻むために使われた毒だったそうだよ」
全身に赤紫の斑点がある娘では政略結婚にも使い難くなるし、被害にあった娘が将来を悲観して自害する例も後を絶たなかったらしい。
『乙女殺し』の毒が廃れていったのは、その匂いの強烈さのせいだった。
あの香水のような香りは毒そのものの香りだったそうで、なにをどうやっても誤魔化せないあの香りが周知されたことで、毒を仕込むことが難しくなり自然に忘れ去られていったのだとか……。
「あの香りは強烈だったものね。覚えたからもう二度と口にしないわ」
「そうしてくれ。『乙女殺し』は口にしたら最後、中和するのは難しいんだそうだ。できる対策は、老廃物と混じりあう前に汗と共に排出してしまうことだけだ」
「私はそれで三日も蒸されてたのね。……そうだ、ダニエル兄様は? ダニエル兄様も蒸されたの? それにジューンの店にもあのジャムは卸されたのよね。他に犠牲者はでなかったの?」
「君達以外の犠牲者はいないよ。毒が入っていたのは、アビーが買った瓶だけだったんだ。兄さんは、汗を出すには鍛錬が一番だと言って、三日三晩鍛錬し続けてた。さすがに限界だったようで、朝方にぶっ倒れて、今は眠っているけどね」
さすがは脳筋。
ダニエルの鍛錬に交代でつき合わされ続けた騎士や兵士達も、みなボロボロになっているらしい。
「……アビーはどうしてる?」
「とんでもないことをしてしまったと、落ち込んで、憔悴しているよ」
「そう。――毒を口にした直後に、あんなおまじないなんて信じなきゃよかったって、アビーが言ってたんだけど……。その話は聞いた?」
「ああ、聞いたよ。……アビーは、旅の行商人に騙されたんだ」
アビーにあの毒を売った行商人は、あのジャムのことを、キールハラルの恋の薬だと言ったのだそうだ。
惚れ薬と呼べるほどの効果はなく、おまじない程度だが、既に親しい間柄の者達が恋に落ちるきっかけを作ることができるかもしれないと……。
『かもしれない……か。曖昧なところが実に小狡いな。これが惚れ薬だと断言されていたら、あの娘も決して使わなかっただろうに……』
(そうね)
どんな理由があったとしても、他人の心の方向を薬物でねじ曲げるのはいけないことだ。
でも、おまじないだと言われてしまえば、つい気も緩む。
――三日連続で恋人と共に、水晶湖に映る北辰の輝きを見つけることができたなら、そのふたりは結ばれる。
我が領地にもそんなおまじないがあって、こっそり親の目を盗んだ恋人達が夜に湖畔でデートしては、水晶湖に映る星々の輝きを捜しているようだ。
アビーもきっとその程度のおまじないだと思っていたのではないだろうか。
私の存在が、アビーが密かに慕うトロンとの恋の障害にならないようにという気持ちもあったかもしれない。
でもそれと同じか、もしかしたらそれ以上に、失った王太子への恋心(だと、皆は勘違いしている)にいまだに囚われている私の気持ちを、新しい恋へ向かわせるきっかけになればと考えてくれたのではないかと思うのだ。
「この通り私は無事だったし、ダニエル兄様も大丈夫だったんでしょう? アビーに酷い罰を与えないでほしいのだけど」
「それは……伯父上が決められることだ。だが、アビーの一族は、彼女を追放処分にすると言っている」
「そんな……そんなの駄目よ!」
ここヴィロス城の広い敷地内には、代々我が家に仕えてくれている使用人や兵士達の家族が暮らす家々が立ち並んでいる一画がある。
アビーの一族もそこで暮らす人々だ。
アビーを追放処分にするという発言は、馬鹿な真似をした娘を自分達で断罪するとか、そういう厳しい考えからのものじゃないと思う。
ただただ領主一族の者に危害を加えてしまったことが申し訳なくて、なんとかして償わなければと過剰に反応してしまっただけだ。
「アビーのような若い娘が、慣れた土地からひとりで追放されたら、まともに生きて行くのは難しいわ。私は無事だったのだから、そんな厳しい罰を与える必要なんてない。――それとも、ダニエル兄様がなにか言っていた?」
「兄さんは、アメリアが無事ならそれでいいと。過剰な罰を与えては、逆にアメリアや周囲の者達の心に傷が残る結果になってしまうから、ほどほどにしておけと言ってくれたよ」
「そう。よかった。――それなら、決して早まった真似はしないようにとアビーの一族の者達に言っておいて」
「わかった。ちゃんと伝えるよ。――今回の件、僕ではどうしても私情が交ざってしまうから、なにも言えなくなってしまってたんだ。ありがとう、アメリア」
トロンは、泣き笑いのような表情で私に礼を言った。
アビーが密かな想いをトロンに抱いていたように、トロンもまたアビーに心惹かれていた。何事もなく日々が過ぎれば、ふたりの想いは自然に通じ合っていたかもしれないのに……。
今回の一件がどう影響を及ぼすか、それを思うと胸が痛くなる。
「いいの。私にとってもアビーは大事な幼馴染みだもの……。――それで、アビーに毒を売った行商人は捕まったの?」
「残念ながら、まだだ。見事に行方をくらませてしまったよ。……たぶんその行商人は、どこかの貴族家か国家の間諜の類いだったんだろうと思う」
「……最初から、私を狙っていたってこと?」
「ああ。――実は、少し前から変だと思っていたことがあるんだ。アメリアが第一王子に振られたって噂に関してなんだけど……」
事実なのかな? と、トロンは少し気まずそうに聞いた。




