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アトロシャス・デイズ7

え、10000字越え……?



 時はやや遡り、イヴとノエルが二手に別れた頃。

 イヴと別れたノエルは悲鳴をあげる脚に鞭を打ちながら、息を荒げて細い裏路地を駆け抜けていた。



「ハァ、ハァ、ハァ、っ、ハァ……、ッ!」



 目尻には涙が溜まり、呼吸は乱れ、その顔は悲壮感に覆われている。ノエルの心の内には負の感情が荒れ狂い、爆発的な感情の昂りがパニック寸前まで彼女を追い詰めていた。今の彼女に残されたほんの少しのリソースでできることは、ただ愚直に走り続け身に迫る危険から必死に逃れることだけだった。



 パシュンッ! ––––––パシュンッ! パシュンッ!



 しかしそんなノエルの思惑などお構いなしに、銃弾は次々に撃ち込まれていく。ほんの一歩前に居た場所に、あるいは数歩先の場所に。そのどれもがとても嫌らしい場所で、窓ガラスや空き瓶といった割れ音が目立つものばかりが狙われていた。割れた破片が服を掠め、一部は皮膚を裂いて血を滲ませる。しかしそれは副次的なものに過ぎず、本命はノエルに精神的な揺さぶりを掛けることだった。



 戦歴だけ見ればノエルはそこらの凡百など恐るるに足らず、奪った命の分だけ培った技術は他を圧倒するものがある。しかし、逆境から逃げてばかりいた彼女の心は未だ幼子同然で、劣勢になればパニックに陥ってしまうほどの弱さを抱えていた。

 そしてその弱さを今までカバーしていたのが、相方であるイヴの存在だった。罠を張り戦況をある程度優位に調整できるイヴが隣にいたからこそ、彼女は弱音を吐きながらもパニックに陥ることなく何とかここまでやってこれていたのだ。

 しかし、今や頼れる相方は隣におらず。虚勢にもならない張りぼての仮面はあまりにも脆く。他者を甚振り、虐げ、屈服させることに悦を見出すサディストたちには簡単に嗅ぎ分けられる程度のものだった。

 そして今回の敵は、まさにそんな相手。当然ながらノエルは恰好のカモと思われており、こんな巡り会わせをした天をノエルは呪わずにはいられなかった。



––––––よりによって、なんで今なの……っ!



 ぐちゃぐちゃにかき回された心が、そんな悲痛な叫びをあげている。敵が自分を甚振って遊んでいるのだということも、自分の泣き出しそうな顔が相手の嗜虐心を刺激していることも、敵は常に上の位置を取り、建物から建物へと飛び移りながら狙撃できる実力者であることも、ノエルには全てわかっていた。

 性格的にも、そして技術的にも。今この場で一番当たりなくなかった相手が敵だということぐらい、ノエルは身に染みてわかっていた。


 だからこそ、ノエルは声を大にしてイヴに物申したかった。



––––––こんな状況で……一体どうやって殺せ(・・)っていうのっ!?



 ノエルの心に、今も耳から離れることのないイヴの言葉が響いてくる。まるで呪いのように離れないその言葉(フレーズ)に、ノエルは荒れた内心で悪態をついた。

 

『A tempo do almoço.』


 それは『ランチに遅れるな』という、何処にでもありふれた言葉。しかしイヴが伝えたかったのは、その裏に込められた意味の方。

 “撤退”と“排除”。それまでに逃げ切って来いという意味なのか、それともそれまでに殺して来いという意味なのか。解釈次第ではどちらともとれるこの言葉だが、しかしイヴはあの時ノエルに確かにこう言った。


 『今逃げて、その後は? 襲われたら、また逃げるつもり?』


 有無を言わせぬ瞳を携えて、甘えた心に釘を刺すように、その金の瞳はジッと自分を見つめていた。例え言葉がなかったとしても、その瞳だけで彼女の心象は嫌と言うほどに伝わってきた。ともすればどちらともとれるこの言葉の答えは、自ずと決まってくる。


 即ち、時間までに“殺してこい”。


 今得られている日常(安寧)は、所詮は享受されただけの仮初めのもの。逃げ続けるだけではまた失うだけだぞ、とイヴがノエルの身を案じて強かに諭していることはわかっていた。そしてイヴと同じ苦境を歩んできたからこそ、そのことは骨身に染みてわかっていた…………だが。



––––––やだ、やだやだやだ。怖い、殺される……!



 しかしだからと言って、人はそう簡単に変わらない。頭でわかっていようと、必ずしも心が伴うとは限らない。恐怖で竦んでしまった彼女の心には、理性(頭)が鳴らす警鐘に従うだけの気力は残されていなかった。

 それでも、理性は絶えず警告を発してくる。そして心は、その警告を拒否し続ける。まるで駄々を捏ねる子供のように、理性が叫ぶ警鐘を無視して。

 そうして今は、逃げるためだけに身体を動かし続けていた。



「––––––あっ」



 頭と心の思惑が食い違い、心中が混沌としていた最中、不意にノエルの身体がぐらりと傾いた。道端に転がっていた空き缶に足を取られたと把握した頃には時すでに遅し。背後の敵に注意を向けるのが精一杯で、足元の警戒が疎かになっていたのだ。そして体勢を立て直す間もなく、勢いのままにその場に倒れこんでしまった。



「ぐ、ぅ……っ」



 ぶわりと舞い上がる土の香り。久しく嗅がなかった香りが自らの顔を覆い、そして砂利の舌触りと苦々しさが口に舞い込んでくる。

 顔を顰めたくなる苦々しさ味は、本当に砂利の苦さだけだろうか。それとも空き缶に足を取られるほど視野が狭まっていた自分への情けなさだろうか。思わずそんなことを浮かべてしまい、そしてハタと気付いて、その感情を追いやるように口に入った砂利をペッと吐き出した。逃げなきゃと思う心の中に、そんな気色の違う感情は不要だと、自分を戒める。



「あ゛、ぐ––––––っ!」



 だがその一瞬の思考の隙を突いて、今度は容赦なくノエルの左腕を抉り取った

 焼き鏝を当てれられたような熱と激痛に、押し殺したような声が零れた。起き上がりかけた身体が再び地面へと打ち付けられ、再び砂の味を噛みしめることになった。チラと見れば、左腕には大きな赤黒いシミが広がっていた。それは遊びのない、紛れもない殺意が籠った凶弾。それは遊びを終えていよいよ殺しに来るのだということを、否応なしにノエルに理解させた。



「いや、だ……!」



 端正な顔が、更に絶望に覆われる。パーカーに広がる赤いシミのように、彼女の心が更に暗い影に覆われていく。唯一心に残されていた仄かな光も、その影に覆われて陰りを見せていく。最後まで保っていた心の柱に、ピキリと亀裂が入ったような気がした。慟哭とすら呼べず、かと言って言葉にすることもできない絶叫は、罅割れゆく心の悲鳴とでも言うべきか。埋め尽くす死の恐怖に遂に崩壊を始めた心は、遠からず砕けて塵になるのだろうかという漠然とした予感すら思い浮かばれた。



––––––死にたく、ない……。



 そうして思い起こされたのは、ずっと心の奥底にあった強い願望。今は亡き姉と約束し、そしてイヴと誓ったあの日からずっと奥底にあった根源的な願い。その願いを叶えるために、ノエルはずっと“逃げ”という選択を取ってきた。戦わなくてはならないと理解しつつも、どうやれば敵を殺せるのか理解しつつも、戦わないという選択肢を取り続けてきた。

 だが、その逃げ続けたツケがこの有り様だった。いずれ訪れると何度も頭に思い起こされ、その度に振る払い続けた結末が、今ここに在った。



––––––死にたく、ないっ!



 順当に破滅への道を辿っていたというのに、そんなことを言うのは傲慢だと、誰かは嗤うのだろうか。どうすべきか理解しながら逃げ続けたのだから、それは自業自得だろうと、誰かは呆れるのだろうか。

 しかしそれでも、彼女は抱くことを止めはしない。後ろ指を指されようとも、死んでもいいなどと思うことは、何よりも姉の死への冒涜だと思っているから。



––––––私はまだ……死にたくないっ!



 奥底に留めていた思いは確かに表面化し、より強い願望となってノエルの心を支配する。そしてその純粋たる想いが想起されたことで、警鐘を鳴らすばかりだった理性がここぞとばかりに動き出す。弱腰の心にいつも妨げられながらも、蓄積し続けた戦いの記憶は確かに残されている。そしてここからどうやって切り抜ければいいのかを、この理性は全て知っていた。



“なら、どうすべきかわかっているだろう?”



 そして元々能力が高かったこの理性は………何が一番邪魔(・・)なのかを、よく理解していた。


『生きたい、死にたくない』


 その根幹となる願望の前に、手段の是非は関係ない。その願望を達成するためならば多少の無茶も許容範囲だろう、と。首を振れない免罪符を盾に、上から心に押し迫った。



“だから、心(お前)はもう邪魔だ”、と。



 そんな声が聞こえた時には、既に身体の自由は奪われていた。






◆◇◆◇






「あーあ、建物(なか)に逃げられちゃったか。しっかもまた面倒なところに………あれ、確か昔バチってた連中の根城(とこ)じゃん」



 気怠げで覇気のない声が、高さも疎らな建物が軒を連ねる裏路地に降りかかる。その中の一際高い建物の屋上からスコープを覗きこんでいたレオは、その声と共にスコープを顔から離した。標的であるノエルが逃げ込んだのは、オフィスビルの名残が残る5階建ての大きめの廃墟。そこは彼が組織に入る以前からこの辺り一帯を縄張りにしていたグループが拠点にしていた場所だった。



 くるくるとライフルの銃身を指で弄びながら、レオは昔のことを思い出す。裏路地や東部のスラム街では、抗争に敗れた組織や、組織にも満たない人間の集まり––––所謂集団(グループ)と呼ばれる者たちが日々縄張りを主張し合い、勢力の拡大を目論んでいる。数を揃えられない小さな集団(グループ)は大きな集団(グループ)に恭順するか、淘汰されるかの二択を迫られるのが常識だった中、レオとラルドの二人はその中でも対抗という道を取った異端の強者(つわもの)たちだった。その過程で彼らと衝突したことも少なくなく、レオにとってはここを根城にするグループとは浅からぬ因縁があったのだ。



 そしてそれを知っているために中に入ったノエルがどうなるのか、凡その検討は既についていた。彼らは奴隷商に売るよりも、目先の玩具に我慢できずに手を出すに違いない。そして一頻り遊んだ後に、飽きて殺される(捨てられる)のだろうと。

 そしてそうなれば、今回の仕事はこれで終わりということになると、彼の冷静な部分は言っていた。



「どーすっかな、これ。ウィルさんだったらここらで手を引くんだろうけど………」



 あの廃墟に逃げ込む直前、ノエルの動きが急に(・・・・・・・・・)機敏になった(・・・・・・)気がしたが、所詮は最後の力を振り絞っているんだろうと自分を納得させた。

 誰がやろうと、得られる結果は同じ。しかし彼の顔色は、どうにも浮かばれない。彼にとっての問題は、その過程で自分の欲求が満たせられるかどうかだからだ。折角手間を掛けて心をぐちゃぐちゃにして、あの恐怖に引き攣った顔を引き出したというのに、最後に余所者に摘み取られてしまうというのは………やはり、どこか釈然としない。



「だーー!! やめだやめ!! やっぱ難しく考えずにシンプルに行こう!」



 頭を振って、小難しく考えていた頭の中を一旦リセットした。そして純粋に、仕事として求める結果と自分の欲求を天秤に掛け………レオの中では後者に重きが置かれた。最後はやはり自分の手で片を付けようと、その意思を固めたレオは目をキラキラと輝かせて、それこそ玩具に飛びつく子どもの様にすぐさま動き出した。

 持ち前の運動能力でパルクールをしながら難なく地上まで降りていき、何事もなかったように地面に着地する。両手足で衝撃を分散させたため、彼に大したダメージはない。

 レオは新たにサブマシンガンを取り出して、左手に装備する。右手にライフルを、左手にサブマシンガンを。そんな歪な恰好を得手としながらも、使い熟した得物故にか、その恰好は随分と様になっていた。

 使い慣れた自分の得物。それらを左右に広げて、ニィと口端をしならせる。そして行き掛けの駄賃とばかりに、レオは勢いよく窓を蹴破って廃墟(なか)に侵入した。



「てめっ、一体何も––––––」

「ここに喧嘩を売る(カチ込む)意味がわかっ––––––ぎゃぁっ!」



 そしてそんな音を立てれば、当然のように中の人間は反応する。見張り役らしき二人の男が声を荒げてやってくる。しかし、二人はレオによってロクな言葉も残せず意識を飛ばされる。血を噴き出し二度と起き上がらないのを確信したレオは、再びサブマシンガンを前にして突貫する。

 その階に居た下っ端たちを順に撃ち殺し、断続的な破裂音と怒声を響かせれば、それに呼び寄せられて上の階から集団(グループ)のメンバーが次々とやってくる。その数はざっと20。しかしそのどれもが若く、若さ故の力任せな突貫ばかりしてくるものだから、銃を構えるレオにとっては恰好の的だった。ライフルを使うまでもなく、サブマシンガンだけで終わらせられてしまう。



「かぁーーーっ!! 何だよ、昔はもっと恐かったのに、今じゃ只の的当てにしかなんないじゃん!!」



 声を大にして、レオの中に興奮が湧き起る。昔の苦戦していた姿を知っているからこそ、孤軍無双をしている今の自分に笑いがこみ上げてくる。自分が強くなったのだという高揚感。所詮それは武器を持っているからに過ぎないということにすら気付かずに、過去との違いに酔っていた。



 組織と集団の明確な違い。それを示す指標の一つに、保有する武器弾薬の数がある。何かしらの収入源(シノギ)がある組織には、当然金がある。そして金があるからこそ、武器が買える。言葉にすればたったそれだけだが、しかしそれだけで途端に数=力の法則は成り立たなくなる。

 収入源(シノギ)がある組織は末端でも銃を持てるのが当たり前だが、収入源(シノギ)を持たない集団の末端はナイフを持てるのが精々なのだ。だからそんなところにサブマシンガンを持ってカチ込めば、こうなるのは自然のことだった。



「テメェ、レオかっ!? なんで今更ここに来やがった!?」



 死屍累々。血染めの赤い床が形作られていく中で、突如としてレオの名前が叫ばれた。レオがそちらに目を向ければ、階段の途中に立って驚いている顔の男と目が合った。こちらを覚えているようだが、記憶を探っても顔だけは見覚えのある程度。幹部の人間だっけ、と漠然とした感想しか思い浮かばなかった。



「いやぁ、俺の獲物がここに逃げ込んだからさ。取りあえず弾幕張って燻り出してるんだよ」

「ふざけんな! そんな犬の糞みてぇな理由があるかっ!? 第一、鼠なんざどこにも入ってきやしてねぇよ!」

「やだなぁ。鼠なんて、入られた方が一々気付くわけないじゃん。だから俺がここに来てんだよ」

「鼠が入り込んだってんなら、それはもうここを縄張りにしてる俺たちの問題だ! これ以上暴れるならお前ェだろうと容赦しねぇぞ!」



 悲鳴にも似た男の叫びには、恨みつらみも何もない、ただの次いでとばかりにメンバーが殺されたことへの憤慨が多分に含まれていた。生き残ったメンバーもその声に釣られ、レオをぐるりと囲むように動き出す。数で叩けばやれるといういつも通りの思考が、彼らにそうさせていた。ただし、誰も彼もがレオの銃に怯えて引け腰だった。その様子を、レオは鼻で笑った。



「そんなへっぴり腰で、どうにかできると思ってんの?」

「ハッ、馬鹿が。銃を持ってるのがお前だけだと––––––」



 タァーン、と。その男が紡いだ言葉は銃声に遮られ、そこから先が聞こえることはなかった。反撃の狼煙は上がる前に消え去り、僅かに保っていた気概は一瞬で崩れ去った。

 一瞬の静寂の後、男は懐から僅かにグリップを覗かせただけで、何もすることなく仰向けに倒れこむ。レオのライフルから昇る紫煙が、それがこの残酷な結果を引き起こしたと語っていた。



「馬っ鹿じゃねぇの。誰が銃抜くまで悠長に待つってんだよ」



 その言葉が最後の引き金となり、下っ端たちの気概を木端微塵に圧し折った。



「う、うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

「オルドスさんが殺られたっ!?」

「逃げろ! 俺たちが敵うわけがねぇっ!!」


「あっはは!! 黙って逃がすわけないじゃん。全員ここで死んどけよ!!」



 最後の砦が陥落したことで、下っ端たちは蜘蛛の子を散らすように散り散りになって逃げだしていく。それを後ろから、レオは容赦なくサブマシンガンでハチの巣にしていく。既に自分はここで争っていた時とは違うんだという優越感が、レオの言動を大きくさせていた。周りはただ無力に殺されていくばかりだからこそ、余計にその思考が助長させられていた。



 そうして弾切れになるまで続いた一方的な虐殺劇が終わった時には、辺り一面は血と臓物が散乱する処刑場に様変わりしていた。血の海に横たわる見知った顔とそうでない顔は、一様に絶望色に染まっていた。それがまた、レオを調子づかせる。標的のノエルを含め、もうこの場で自分に適う者はいないだろうと言う驕りが今のレオにはあった。



「さぁて、と。俺の可愛い子猫ちゃんはどこかな~」



 ぴちゃり、ぴちゃりと。血を踏みしめながら、レオは軽やかな口調でノエルを探し始める。仲間が聞けば寒気すら覚えるような声は、レオの気分が最高にハイになっている証拠だった。そしてぐるりと視線を一周させた後、その視線は閉まりかけの外付けの非常階段扉へと向けられた。

 集団のメンバーは、全員階段から降りて来ており、階段を使って上に逃げようものなら彼らと鉢合わせしていてもおかしくはない。しかし、レオの記憶ではそんな様子は欠片も見られなかった。となると、入口を除いて三方を壁に囲われているこの場所では、逃げ道はそこしか考えられなかった。



「お、ビンゴ~」



 半ば確信を持って扉を開けた先には、まるでバリケードのように大量のごみ袋や段ボールが投げ出され、積み重ねられていた。そしてそれだけではなく、誰かが通ったと思しき靴跡が残っており、更には砕かれたであろう細かいガラス片までもが散らばっていた。十中八九、件の少女がここを通ったのだろうという確信がレオの中に生まれた。



「逃がさないよ~。……最後はちゃ~んと、俺が殺してあげるんだから」



 進路を塞ぐバリケードの山々を、レオは非常階段の手摺を足場にすることで易々と越えていく。手摺に点々と砂が付いているのを見て、どうやってここを登っていったのかわかってしまったからだ。その足取りを追うように、ひょいひょいと身軽に手摺の上を渡っていく。



 そうして足跡を追って辿り着いたのは、建物の最上階。扉の奥に足跡が消えているのを見て、漸く待ちわびた瞬間が来たとレオは笑みを深めた。

 この胸の内の興奮が冷めやらぬ内に、早くやってしまおうと。そして意を決して扉を開け放った。



「…………は?」



 しかし、意気揚々としていたレオを出迎えたのは––––––噎せ返るような血と臓物の香りだった。高揚していた心が、冷水を浴びせられたかのように冷えていく。視界に広がるのは血飛沫と流血で赤く染まった壁に床。まるで先程の自分が作り出したのと瓜二つな光景だと、そんな感想を抱く。

 血に濡れた赤い床には首筋を切られて血を噴き出して死んでいる男や、心臓を一突きにされた死体が横たわっている。そのどれもが急所を一撃で仕留めたかのような殺され方。刃物で殺されている分だけ、より惨劇さが増しているように思われた。その死体の数は、目に付くだけで5つはある。

 そして先程自分が作り出した光景と差異があるとすれば、彼らの手には漏れなく拳銃が握られているということだろうか。



「いや、いやいやいや。いくら何でもそれはないでしょ……」



 それはつまり、拳銃を持つ相手に刃物だけで立ち向かい、そして勝利したことを意味している。レオの中で、想像している少女の姿がと今の光景が全く結びつかない。

 一歩一歩、確かめるように。床に転がる死体や壁に寄りかかる死体を見ながら、ゆっくりと血の海を踏みしめていく。その足取りは、随分と重い。そしてこの階唯一の部屋に入る頃には………その歩みは、完全に止まっていた。



「こりゃぁ……下手すれば俺より酷いじゃん……」



 目の前に広がる景色は、変わらない一面の赤。それも外にあった死体よりも、一層残忍に殺された死体の数々。それを見て、レオの頭が理解不能だと音を上げた。涙を堪えながら逃げ惑っていた少女の顔が、頭の中でどんどんブレていく。まだ別の誰かが偶然居合わせていたと考える方が自然に思われるくらい、目の前の現実と自分の認識に食い違いが生じていた。銃を手にした複数敵を相手にこれだけできるのならば、逃げるなどせずこちらと殺り合えたはずだとろうにと、レオの直感が言っている。



「一体、何がどうなってるんだ……?」



 何が何だかさっぱりだと、レオはポツリとそんな言葉を零してその場に立ち尽くす。







「––––––––––………」



 その無防備な背中を、感情の失せた冷徹な瞳が見つめているとは、露ほども知らずに。






◆◇◆◇






「…………ノエル、どこまで行ったのかな」



 降り注ぐ晴れ陽気を一身(いっしん)に受けて、しかし襲い掛かる倦怠感を何とか振り払いながらも、イヴはノエルを探して裏路地を走って回っていた。

 二手に別れた場所から遡ってずっと探しているのだが、未だ見つかる気配はない。それがイヴの中で焦りを生み、“もしかしたら”の可能性を思い浮かばせる。頭を振ってその思考を追いやろうとしても、最後まで振り払うことはできなかった。故にイヴの顔には、空の綺麗な青とは対称的な陰りが見えている。

 あの時自分は、ノエルに間違ったことは言っていないと思っている。しかしこの状況を考えると、ひょっとしたらあの時言ったことは間違いだったんじゃないかという、益体もない思いが思い浮かんでくる。



「––––––ッ、この臭いは……」



 そんな時にふと、イヴの鼻が何かの臭いを嗅ぎ取った。それは今まで嫌と言うほどに嗅ぎ慣れた、赤い香り。命を狩る死神の道標。しかもそれは、風に運ばれて尚息を呑むほどに濃密なもの。イヴの中の思考が、最悪の結果を想像した。



「ノエル……!」



 そして気が付けば、イヴはその臭いがする方向へと駆け出していた。近づくほどに強くなっていく強烈な血臭に、思い描く最悪の光景がどんどん鮮明になっていく。心臓の早鐘は速度を増すばかり。頼むから違って欲しいと願いながら角から飛び出した光景は、しかしイヴにとって驚くべきものだった。



「………あれ、イヴ? どうしたの?」



 耳を打つ聞き慣れた声と、目に映る変わらぬ容貌。フードを被りながら窓枠に腰かけ、こちらをきょとんと見つめるノエルの姿に、イヴは溜め込んだ毒気を抜かれてしまった。こちらが心配しただけ損だったではないかと。ただ同時に、無事でよかったという安堵も浮かんでいた。



「……血の臭いが濃かったから、何かあったと思った」

「ふふ。心配してくれたんだ?」



 コロコロと揶揄うような口調で、ノエルはイヴにそう問いかける。あぁ、揶揄われてるなとイヴは自覚しつつ、しかしいつものようにここで言葉に詰まるのも面白くないな、と思い至る。今日ばかりはちょっぴり反撃してやろうと、いつもの意趣返しを敢行した。



「うん。……心配した」

「…………ふ~ん。そっか」



 自分の口から言ったとは思えない、とても真っすぐな答え。ここまでサラリと言えてしまった自分にも驚きだが、まさかそんな答えが返ってくるとは思っていなかったノエルもまた面食らった様子で、しばし瞠目してしまっていた。その様子に、してやったり、とイヴはほくそ笑んだ。



「んぅ………えいっ」

「っと、ノエル……?」



 いいように仕返しされたのが気に食わないのか、それとも素直に心配されたことがこそばゆかったのか。むくれた顔をしたノエルが窓枠から飛び降り、そのままイヴに抱き着いてきた。イヴは急なノエルの行動に、やや驚く。



「もう、いきなり何を––––––」



 と、そこまでいいかけて、それ以上を言うのを止めた。右肩に顔を埋めて背中に回した手で服をギュッと握りしめるノエルを見て、されるがままに受け入れることにした。自分もノエルの背中に手を回す。すると、やっぱり少し震えているのがわかった。きっとそれだけ怖かったんだろうと、そっと心の中で思い浮かべた。少し強めに抱き着かれたが、今日ばかりは許してあげようと思い、何も言わなかった。



「………ん、もう大丈夫。ありがとう」

「どういたしまして」



 それから暫くして、ノエルはようやくイヴから離れた。フードを取ったその顔色は、傍目から見ても先程よりもよくなっているのはわかった。



「……それにしても、お互い酷い恰好だね」

「ふふ、確かに」



 ノエルはそう言って、お互いの恰好を見合わせた。確かに改めて見てみれば、買ったばかりの服はもう着れないほどにボロボロで、トリアナが見れば怒り出しそうなほどだった。お互いに目を合わせて、そして二人一緒になってクスクスと笑いあった。互いにボロボロ、血だって当たり前のように流し、そしてついさっき命の奪い合いをしたばかり。


 だと言うのに……この二人は、戦う前より少女の顔をしていた。



「それじゃ、時間もいい頃だし、お昼に行く?」

「それはいいけど……でも、こんな恰好だよ?」

「ん。当てはあるから大丈夫」



 そう言って、イヴはノエルの手を引いて歩き出す。その顔は、とても晴々としたものだ。



「マックスのところなら、きっと食べられるよ」



 花の咲くような笑顔で、ノエルはそう言った。

 尚、彼女から自分への遠慮がなくなったのもこの頃からだったと、後のマックスが供述している。




さて、恐らく初めてノエルメインにスポットを当てた回になりましたが、いかがだったでしょうか。イヴはイヴで色々抱えていますが、ノエルもノエルで色々抱えてます。それも今後出せていけたらなと思います。

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