アトロシャス・デイズ2
後期試験終わったのでようやく投稿。
自己採点も大丈夫そうなので進級もできそうかなぁ。
マックスから暇を貰ったイヴとノエルは、陰鬱とした裏路地を抜けて人通りの多い中央通りへと足を伸ばしていた。二人は自分たちの小さな体躯で人と人の間を縫うようにスルリスルリと抜けていき、人の波に逆らうように進んでいても誰にぶつかることはなかった。並んで歩くそのスピードは二人の心象を表しているように、心なしか早足だった。
「イヴは何買うのか、もう決めてる?」
「まだ。向こうで見てから、決めるつもり」
ふわりと弾む軽やかな声で、ノエルがイヴにそう聞いた。
女性にしてはやや低く聞こえる声でも、その声色からして嬉しそうだというのはよく伝わってくる。伊達に同じ血を分けた姉妹をやっている訳ではない。イヴからすれば、ノエルの顔も心なしか嬉しそうに綻んでいるということもわかっていた。
戦場で過ごす内に見せなくなった懐かしい表情だと、イヴは久しぶりに見たノエルの楽しそうな顔にほろりと笑みを漏らした。
来る日も来る日も、恐怖と不安が心を脅かし心の奥底にまで負の感情が根付いて離れることのなかった暗泥の日々。心を理性の鎖で縛り付け、それでも感情を零すことを許されなかったあの時間は、まさに鎖で雁字搦めにされた牢獄のような日々だった。自分の心に素直で感情が表に出やすいノエルには殊更に強い負荷を強いられていたようで、日に日にいつもの顔から表情や感情が抜け落ちていくのに対し、唯一思いの丈を吐露できる戦場では反動で感情的になりやすくなっていた。
それが今では、平時でも心のままに在ろうとしている。今のノエルはもう、あの頃のように怯え続ける柵には囚われていないのだろう。その在り方が、未だ折り合いが付けられていないイヴにはちょっぴり羨ましかった。
「あ……イヴ、見えたよ」
そんなイヴの思いを知る由もないノエルは、綻んだ顔のままに正面を指差した。
その視線の先にあったのは、視界一杯に広がる人の活気だった。声が飛び交い、物が行き交い、人と人との熾烈な駆け引きが更に心を熱くする。人が通貨を手にして以来、時を経るごとにその熱を増していき、そして西暦2000年を超えた今日、それでも尚 進歩を止めないこの営みはその泰然たる熱量を以て、来たるべき人を盛大に歓迎する。
火薬が引き起こす爆発的な熱気とは気色が違う、人の営みがもたらす温かな活気が離れたこの場所にまで伝わってきており、そのあまりの熱量にイヴとノエルは感嘆の息を零し、声も出せずにその光景に圧倒されていた。
二人がやってきたのは市場からほど近い露店商が密集している区画で、理路整然という言葉からはかけ離れているが自由な買い物を求めるなら打ってつけの場所だった。
店舗で売られている物よりは品質は劣るものの、雑多なものも含めて品揃えはこちらが勝る。価格も薄利多売を狙った安価なものから一品物というプレミア価値を付けた厚利小売を狙った強気の価格設定のものまで店によって千差万別。そしてこちらは個人で店をやっているのもあって、店主との値切り交渉が可能となっていた。屋外という開放的な場所で、多くの客が売り手と白熱した交渉を繰り広げながら買い物に勤しんでいる訳だから、それにつられて客の財布の紐も緩くなる。何にも縛られない自由な買い物を求めていた二人にとってはまさに理想的な場所。自然と、二人はその空気が気に入った。
「あ。あれおいしそう」
流石のターゲティング能力は健在か。狙撃手をやっているノエルは早速一つの屋台に目を付けていた。そこはどうやら揚げ菓子を扱っている店のようで、屋台からは油の弾ける独特な音と、鼻腔を擽る香ばしい匂いが漂ってきていた。人はまちまち並んでいるが、列に並べば数分で買える程度だった。
「買ってくる?」
「うん」
「後でボクにも頂戴」
「もちろん」
ノエルはイヴに一つ頷くと、足早に人波を抜けて店の方まで歩いて行った。イヴはそれを見届けると、あまり離れすぎない範囲で散策を開始する。多少離れていても、狙撃手をしていたノエルの広い視野なら自分を見つけられるだろうという信頼があってこその行動だった。
視界の端から端へと移り行く露店を見ながら、自分の琴線に触れるものがないかを探していく。この場にある露店は地面に布を敷いているもの、日本の屋台のように簡易テントを張っているものと形態は様々で、店によって同じ系統でも商品はまちまちだ。
───何を買おうかな……。
こんな経験は、イヴにとっては初めてのこと。遠い過去似たような状況でノエルと一緒に買い物に来たことはあれど、その時は両親とも一緒だった。こうして何を買うか決めていない状態で来ること自体が初めてで、肌を火照らせる高揚感の陰で若干の不安が顔を覗かせていた。そうして気持ちを持て余しながら歩いていた最中、ふとイヴの足がとある店の前でピタリと止まった。
「らっしゃい、坊ちゃん。何か気に入るものはあったか?」
店先で立ち止まったイヴを客と思ったようで、男の店主は気前よく声を掛けた。アジア系の顔立ちにある太い眉はにこやかなアーチを描いており、店主からは一切の悪気は感じられない。悪気もなく『坊ちゃん』呼びをされるのはそれはそれで癪なのだが、話が拗れるのを嫌ってムッとした表情は即座に引っ込めた。それくらいの分別はイヴにもあった。
イヴが立ち止まった店は主にアクセサリーを扱う店のようで、紫の布の上には商品が見栄え良く陳列されていた。ブレスレット、指輪、イヤリング、ネックレスetc。一通りの種類が揃っているようで、品揃えもそこまで悪いとは思わなかった。そんな中でイヴの目に留まったのは、金に光るチェーンネックレス。アクセントとして南京錠を模した飾り付けがされた、所謂キーチェーンネックレスと呼ばれるものだった。自らを着飾ることに無頓着だったイヴだがそのネックレスに心惹かれるものがあったようで、スッと手が伸ばされていた。
「これ……」
「ほぉー、なかなか洒落たモン選ぶじゃねぇか坊ちゃん」
目に留まったネックレスを手に取ってしげしげと見ていたイヴに、店主は笑顔で語り掛けた。しかしそうは言ってもまだ納得がいかないようで、イヴの顔を見て何やらうーん と唸っていた。
「ネックレスはいつも服の外に出すのか?」
「普段はそのつもり。だけど動く時は、中に入れる」
「勿体ねぇな。素材は良いんだからもっと着飾らなきゃ損だぜ?」
「……多すぎても、反って邪魔になる」
「なぁるほど。……そんならこれはどうだ?」
着飾ることにあまり頓着しないタイプなのだろうと勝手に当たりをつけた店主は、一人得心した様子でテーブルの下から一つの箱を取り出した。大きさは15cm×15cm程。店主の自信あり気な顔に興味を惹かれたイヴは好奇心のままに箱を開けてみると、出てきた品を見て僅かに目を見張った。
「これは……」
「この前仕入れた一品物のイヤリングだ。その柄なら坊ちゃんにも似合うんじゃねぇのかと思ってな?」
中のクッションに置かれていたのは、カラーストーンに鷲の意匠が誂えられたイヤリングだ。留め具から僅かに伸びたチェーンと石の周囲を覆う金属は銀色に統一され、目立たない分だけ石のデザインを引き立てていた。
値札をチラリと一瞥し、高価だが払えない額ではないとわかった。デザインもイヴの琴線に触れたことからして間違いではないのだろうし、店主にしても会心の品を出せたという自負もあった。しかし、両者の顔は素直に喜べないでいた。
「でも、二つあるね」
「あー、そうなんだよなぁ。商品の都合上どうしてもそうなっちまっててな……。でも別売りはしたくないんだよなぁ」
「それは同意」
そう、箱の中にはもう1セット。計4つのイヤリングが納められていた。
純白で柔らかな光沢があるホワイトオニキスには黒い鷲が、それと対を成すブラックオニキスには白い鷲がそれぞれ意匠として描かれていた。白と黒が反転した対称的な、しかしそれでいて二体一対として完成された作品。一つずつ売ったとしても、それなりの値で売ることはできるだろうが、しかし。嗚呼、なるほど。確かにこれは一対であるからこその価値がある。これをバラでは売りたくはないと思う店主の気持ちも、イヴには何となくわかった。
「なら、二人で買えば、問題ないね」
「ん? そりゃ一体どういう───」
店主からすれば、一人に二セットのイヤリングを買わせるのもどうかという懸念があったのだろう。しかしそれは、この場において何ら問題にはならない。何故なら買い手は二人いるのだから。
「イヴ。何かいいのあった?」
先ほど買い物を終えたノエルが、揚げ菓子を口に放りながらやってきた。今日はイヴだけでなくノエルも一緒に来ているのだから、この手を使わないわけはない。ノエルも気に入れば二人で買ってしまえばいいのだから。
ふと、ノエルの片手に収まる紙袋から漂う香ばしい香りが、ふわりとイヴの鼻腔を擽った。どうにかお腹は鳴らなかったため、せめてもの沽券は守られた。どうやら買ってきたのはフランスの揚げ菓子であるベニエのようで、一口サイズのそれらが大量に袋に収まっていた。この香ばしい匂いの元凶は間違いなくそれだろう。人の空腹を勝手に刺激したのだから、対価として後で多めに貰ってやろうとイヴは密かに決意する。
「このイヤリング。ペアルックだけど、ノエルもどうかと、思って」
「鷲のデザイン………うん、それいいね。買おっか」
どうやら、ノエルもこの柄がお気に召したようだ。
ひょっとしたら、自分たちの二つ名にもぴったりだということも購入の決め手になったのかもしれない。
「……お金は足りる?」
「まだ大丈夫。そっちは?」
「ネックレスも買うけど、平気。……じゃあ、それも買う」
「なるほど連れがいたのか。……まいど。なんなら今付けてみるか?」
「いいの?」
「買ってくれる客なら構わねぇさ。買わずに付けるのは流石にいい気はしないがな?」
「じゃあ、付けてみる」
お許しが出たのなら遠慮は要らず。二人は早速互いにイヤリングを付け合ってみることにした。風に舞う綿毛のように軽やかに声を弾ませる二人は微笑を零し、初めてのおめかしに二人は興奮を隠せずにいた。お互いに付け合って感想を言い合うというのも新鮮で、憧れていたお洒落を自分達がしているのだという事実が二人の心を躍らせた。首を振ってみれば動きに揺られたイヤリングの感触が耳朶を伝う。たったそれだけのことであっても、二人にとっては未知であり同時に嬉しさとこそばゆさも覚えるものだった。
「ノエル、似合っている」
「イヴも、似合ってるね」
イヴはブラックオニキスを、ノエルはホワイトオニキスをそれぞれ両耳に付け、陽光に当てられた二つの石が澄んだ色彩で持ち主を飾っていた。傍から見ていても、その色合いがお似合いのように思える。二人の表情を見ても、お互い要求は被らずに済みそうだった。
「おしッ。んじゃあ会計といこうか」
商売成立だと、店主は一つ手を叩いて声を上げた。
だが、忘れてはいけない。ここは世界に名立たるアトロシャス。犯罪横行都市と揶揄される所以は、いつどこからでも無碍の人間に牙を剥くということを。
うねるような人の波の中から、一人の小柄な男がスルリと抜けてきた。赤いアロハシャツと中折れハットを身に纏い、深めに被った帽子の鍔から覗く瞳は獲物を狙う捕食者のようで、その視線は店先に立つノエルへと向けられていた。複雑な入り江の海流を思わせるこの人の流れの中を一直線に歩いて行き、足音を立てない歩法のままに二人に気取られないよう背後から自分のレンジまで近づいて行く。そしてちょうど二人の背後をすれ違った瞬間、身体をノエルに押し当てて一瞬だけ手の力を抜かせ、上着のパーカーから取り出そうとした物を横合いから強引に引ったくった。
「あっ……」
いくら長年戦場で戦い続けたと言っても、所詮は子供の体格。大の大人に押されれば押し返すことはままならず、しかも片手に袋を抱えていたためにイヴに支えられる形でようやくその場に踏ん張ることしかできなかった。
しかしその一瞬は、ひったくり男にとっては十分な猶予。戦利品をポケットに突っ込んだ男は、一気にその場を離脱する。この人波は最早自分の庭だと、そう言うかのように男はスルスルと速度を落とさず人混みの中を逆走し、そのままに奥へ奥へと消えていった。
まさに「あっ」という間の出来事。
こちらが追おうにも既に人波が幾重にも道を遮り、追うための道筋は残っていなかった。
「……おいおい冗談じゃねぇよ。流石に一度耳に通したモンは返品できねぇぞ?」
全てを見ていた店主だが、眉を寄せてノエルたちを睨んでいた。
降って湧いてきたような理不尽だが、しかし同情して「はいそうですか」と言ってしまえば店の赤字になってしまう。故にその一部始終を見ていたはずの店主は、人の良さそうな表情を引っ込め眉を寄せた表情でノエルに苦言を呈した。
「……ん、ふふふっ」
だが、その誰しもが同情に口を噤んでいる中で、嘲るような笑いが零れ出た。
声を発したのは、まさに今引ったくりに遭ったはずのノエルだ。その顔には一片の陰りすらなく、むしろ悪戯が成功したような悪い笑みが浮かべられていた。
その様子に店主が怪訝な顔をするも、依然としてその笑みを崩さない。イヴもその訳を知っているため特に心配した様子も見せなかった。
「ふ、ふふっ……大丈夫だよ。ちゃんと、お金は払える。……ほら」
この通り、と。
ノエルはパーカーの内ポケットから取り出した紙幣を店主に見せつけて、またクスクスと嗤った。イヴもノエルも、何ら不思議なことはしていない。ただこの街の治安の悪さを考慮して、予めスリが手を出しにくい場所に金銭をしまっておくよう二人で打ち合わせていただけのことだ。勿論、言い出したのはイヴの方だ。
「な、なるほどな。それなら大丈夫そうだな」
「うん。だから、このままお金払いたい、んだけど」
「あぁ、支払いがちゃんとできるなら俺も文句は言わねぇよ」
「ん。イヴも、それでいい?」
「……うん。大丈夫」
やや遅れながらもイヴもそう返し、懐から紙幣を取り出して店主へと渡した。ノエルもそれに続いて紙幣を渡し、釣り銭を貰って支払いは完了した。
「それじゃあね」
「まいど。また来てな」
ノエルも店主も、笑顔のままで言葉を交わす。
ここは犯罪横行都市アトロシャス。悪意はそこらに潜み、またいつ牙を剥くかもわからぬ非情な世界。悪意一つが顔を覗かせようと、実害がなければそれは路傍の石と相違ないのだから。
故に、二人は何もしない。
懐から出た紙幣を見た時、店主が一瞬だけ口元を引くつかせたことも。今も背後からそっと距離を詰めてきている男たちが居ることも知っていようとも。彼女たちに実害はなかったのだから。
この後、『Dumb ass』と書かれた紙を掴まされた男が裏路地で罵声を上げたらしいのだが、それは彼女たちの与り知らぬことである。




