アトロシャス・デイズ1
さぁて、ここからはイヴとノエルにスポットを当てた回になります。
では、どうぞ。
暦の上では師走に入り、言わずと知れたクリスマスが近づきつつある今日のこの頃なのだが、アトロシャスには世界的なイベントなんぞ関係なしに年中羽目を外してバカ騒ぎをする連中がそこら中にいる所為で、そんなイベントで浮かれる気分になれるはずもなく。よく街に流れる日常のBGMを聞き流しながら、今は大通りの人込みの中を悠々と歩いていた。
わいわい、がやがや。
あぁ、いつも通りの騒がしいBGMだ。
「余所じゃあ散々な言い草をされてるが、ここも住んでみれば案外住みやすい街だろう?」
「どこを見て、そう言ってるのか、今一理解できない」
そんな俺の問いかけに返すのは、若干不機嫌な声。
くすんだショートの金髪に、細められた黄金色の瞳。コイツは一体何を言ってるんだと言わずともわかる表情をして、低めの声で俺にそう返すイヴ。風呂にも入ったことで所々汚れていた髪や黒ずんでいた肌は随分と清潔になったし、まだ健康状態は良くはないがそれも暫くすれば元に戻るだろうと思う。その隣では、イヴとよく似た顔をしているノエルが面白そうにクスクスと笑っている。
「不機嫌なのは、変わらないね」
「……ボクは別に、不機嫌じゃない」
「それなら、“ボク”じゃなくて、“私”でもいいのに」
「……アイツがボクを、男だと思ってた。……だからもういっそ、“ボク”でいい」
───結局それって拗ねてるだけじゃねぇのか……?
なんて言葉が喉元まで出掛けるも、背中に絶えず向けられるじっとりとした視線を感じて言葉を引っ込める。言えばそれまで。不機嫌さも相まって複雑怪奇な心境を刺激してしまえば、こいつは公衆の面前だろうと俺に襲い掛かってくるに違いない。あの風呂の一件以来ようやく意思疎通できるまでに機嫌を戻したというのに、再び機嫌を直してもらうのは流石に骨が折れる。近づく度に物が飛んでくるのはもう勘弁して欲しかった。
「そう言う割には、服装も随分と男寄りのを選んでるじゃあねぇか」
「……あの人に、似合うって言われたのが、これだったから」
そう言って自分の服を見下ろすイヴは、ジッパーを胸元まで上げた袖広のライトブラックのパーカーに、濃紺のジーンズ。靴もまたごついブーツを履き、随分とボーイッシュな恰好をしている。ただでさえ体付きと顔で性別がわかりにくいというのに、この恰好をされたら絶対に言われなきゃ女だとはわからない。男と間違われるのを嫌うのにこの恰好が似合うというのだから、今頃はきっと心の内は複雑な気分なのだろう。
一方でノエルは、パーカーはイヴと同じものだが、下はショートパンツに黒のロングブーツを履いており、中性的な顔だが服装で女だとわかるようになっている。上の服装が同じなこともそうだが、二人の首に巻かれたお揃いの白いスカーフが、二人が兄妹であることを証明している。二人の服装は以前トリアナに選んで貰ったものだが、これはこれでいい買い物をしたのではないかと思っている。
「それにしても、この街は本当に、賑やかだね」
「そうだろうさ。いつでもどこでもこの街はお祭り騒ぎだ。静かな街なんて逆に気味が悪い」
「この街の人、皆毒されて、ない……?」
ノエルが街をぐるりと見渡しながら、そう尋ねてくる。
初めは誰しもがそう思うものだが、少しすれば皆慣れて気にならなくなってくる。かく言う俺もその内の一人だ。逐一爆発やら銃声やら悲鳴やらにビクついていてはこの街には長居できないということを、俺は来て一週間目にして悟った。
銃声銃声、悲鳴悲鳴。罵声怒声爆発炎上。
こいつをいつも通りのBGMと思えるようになれば、そいつはもう立派な街の住人だ。
イヴはこう言っているが、こいつもその内に慣れるだろう。向こうに見える爆炎と狼煙が打ち上げ花火と思えるようになる未来はそう遠くない。
「それで、今日はどこにいくの?」
げんなりとした表情のままに、イヴが俺を見上げて聞いてくる。何をする気だと警戒心を剥き出しにしてないだけでも、心を開いてきている証拠だろう。
「医者のところだ。何かあってからじゃあ遅いからな。先にお前らを診せておきたいんだよ」
◆◇◆◇
アトロシャスには、大病院と呼ばれるものが3つ存在している。
一つは、玉樹會と提携している『快速杂项病院』。
一つは、フォラータ・アルマと提携している『ルンゴ・エ・ペレチーゾ病院』。
一つは、S.R.Hと提携している『モンゴ・プレヴィオルフ病院』。
それぞれが自分たちが優先的に使えるよう病院を確保しており、敵の病院に味方の人間を送り込まないようにしている。残念ながらこの街で三大勢力に中立でいてくれる心優しい病院はなく、そのため各勢力が味方が負傷した場合に備えて医療施設を抱えているという事情の下、こうして同じ街に複数の大病院が存在するという奇妙な状況となっている。無論傘下の組織も利用することもできるようトップが計らって、下手な情報流出をしないように警戒している。
しかしそうなると、どこの傘下にも与していない小規模の組織であるほどそういった病院を利用しにくくなる。彼らには彼らなりの誰の下にも付かず自分たちで伸し上がってやるというプライドがあり、彼らも敵に無防備なところを晒すのを恐れているのだ。その内の一人に俺も含まれている。
では俺らみたいな奴らは病院に掛かれないかと言われると、別にそういう訳でもない。どこの業界だろうとそういった少数向けを狙った起業者は少なからず存在しているし、今から向かう場所もそういうマイナーな人間も受け入れてくれる所だった。
だったんだが……。
「……で。医者に掛かる、って言ってたのに、なんで裏路地を、歩いてるの……?」
「おー怖い怖い。そう睨まなくてもいいだろうに」
底冷えするような声で、イヴが後ろから聞いてくる。別段彼女がそう思うのも無理はない。今俺たちが歩いているのは大通りから一本中に入った裏路地であり、日差しがあるからまだマシだが日陰者が好みそうな淀んだ空気が蔓延っている場所だ。事前情報なしなら表通りの日当たりの良いどっかの病院を思い浮かべたのだろうが、実際はそれと180°くらい違った場所にある。それと、初見ならほぼ確実に見つけられないような造りをしている。
「そら、そこの曲がり角のドアが入口だ。何かあったらここから入ればいい。……言っとくがここから先はもう迷路みたいなもんだ。今来た路は忘れるなよ?」
顎先でクイッと示した先には、L字の曲がり角にひょっこりと備え付けられたドアが見える。この鬱屈とした空気に紛れ込むかのような濃紺なドアに、清潔感を感じさせない外壁の粗々しさ。申し訳程度に診療所と書かれた掛札が掛かっていなければ、外見だけじゃとても医療施設とは思えないだろう。歯に衣着せずに言ったらボロアパートにしか見えない。
初見でほぼ見つけられないというのは、こういうことだ。
「ここ……診、療所……えぇ……」
「まさか私たち、連れ込まれちゃう?」
「…………」
「おいイヴ、無言でブーツの仕込みナイフに手を伸ばすな。そしてノエル、お前もイヴを煽るな。医者に診せに行く前に患者を増やしてどうすんだ」
「でも一緒に、医者に診せれば、大丈夫じゃない?」
「診察代もタダじゃねぇんだよ。余計な出費すると今晩のおかずが一品減るぞ?」
「あ、それは困るね」
やいのやいのと、軽い言葉の投げ合いが路地に響く。
そんなやり取りをしながらも、俺は中に続くドアを押し開けた。
「んぁ? マックスじゃねぇか。なんだまた来たのか?」
入った途端にそんな言葉を投げかけてくるのは、受付に座る一人のナースだ。
年の瀬は二十代半ば頃。元々のブラウンの髪に赤のメッシュを入れ、耳には白い宝石を象ったピアスを付け、雑誌を広げて煙草を咥えながらこっちを出迎える姿はどう見てもナースには見えないのだが、こいつは歴とした免許持ちのナースだ。
「絶っ対ナースが言っていい言葉じゃねぇよな、それ。未だに何でお前がナースやってるのかオレにはわからねぇよ。ナターシャ」
「口と態度の悪さは腕の良さでカバーできんだよ。常識だろ?」
「お前、学校じゃあすこぶる教師に嫌われるタイプだろ」
「よくわかってんじゃん。遅刻欠席居眠り上等、ただしテストはオール90点、ってな」
受付に片肘を付いて皮肉っても、この女はニカッと笑って飄々と受け流すだけ。
そう、こいつにとって玉に瑕なのがこのナースらしからぬ態度と口の悪さだ。一体何でこんな奴がナースやろうとしたのかよくわからないが、それでも仕事の出来が一品なのは確かなのだ。受付で堂々と雑誌広げて煙草吸っていても文句を言われないのはその恩恵に肖っているからだろう。
「んで、見る限りお前が怪我した様子もなし。ってなると今日の患者は後ろの二人か。何だよお前、いつの間に子供なんて拵えたんだ? え?」
「お前に手っ取り早くデリカシーって言葉を覚えさせてやろう。頭を出せ、風穴開けて直接脳に教え込んでやる」
少しばかり銃のグリップを覗かせて言ってやれば、ナターシャはすぐに両手を上げて降参のポーズをとった。このデリカシーのなさといい、明け透けな言葉といい、本当にこいつはつくづく人間性からして医療者に向いていない。
「冗談だ冗談。アタシはまだ死にたくない。……それで、要件は後ろ二人の診察だっけ?」
「あぁ。ユミルの手は空いてるか?」
「どうだろうな。今はできあがった新薬を試してるってユミルは言ってたし……まぁ呼ぶだけ呼んでみるか───」
「その必要はないわ」
ナターシャの言葉は、奥から出てきた一人の女に遮られた。
足元まで伸びる白衣を纏い、青みがかった黒髪に縁なしの眼鏡の奥から覗く吊り上がった目が特徴的な、仕事ができる女という印象を受ける女医だ。
「よぉ、ユミル。実験中に悪いな」
「いいわ。ちょうど欲しいデータも取り終えたことだし」
「因みに何の実験してたのか、聞いてもいいか?」
「新しく開発した抗生物質の投与実験よ。まぁ、無理矢理ウイルスに感染させた人間に試したら、ウイルスだけじゃなくて体組織まで崩壊してドロドロに溶けちゃったから失敗なんだけど」
「末恐ろしいことをサラッと言うよなお前。…………そんでもって後ろの二人、こそこそ逃げ出そうとすんな。被験体として連れ込んだんじゃねぇから」
そう言いながら、そろりそろりと逃げ出そうとしていたイヴとノエルの首根っこを掴み取る。ぐぇっ、なんて声が漏れたが、死んでないから大丈夫だろう。
「ちょ、ちょ、冗談だよ、ね……?」
「まだボクは、死にたくない……!」
「誰もお前らを殺そうとしてねぇから安心しろ」
ユミルのやってたことにどうやらこいつらは本気でビビッているらしい。もしかしたらこれから自分たちが被験体にされるのではないか、とでも考えていそうな気がする。いつも弄ってくるノエルまで涙目になって怯えているのを見るとその信憑性は高まるばかりだ。これは早い内に印象を戻さないといけない希がする。
すると、そのやり取りが面白かったのだろう。後ろでユミルが口元を覆って笑っていた。
「面白い子達ね。いいわ、手は空いてるからすぐに診察してあげる」
◆◇◆◇
診察室に通された二人は、用意されていた丸椅子に腰かけて目の前に座る女医をじっと見つめていた。今この場に、マックスは居ない。彼はこの女医にカルテに必要な情報だけを話した後、後は任せると言ってこの場を去ってしまった。疑心暗鬼になっていた二人を一時的とは言え預ける辺り、彼女のことを信用しているのだろうが、この二人にとっては第一印象が強烈過ぎて彼女からマッドな医者という認識を拭えないでいた。
そんな認識がある所為か、二人はマックスと接する時とは打って変わって大人しくちょこんと座っているだけだった。まるで借りてきた猫のようだと、誰が言ったか知らないが、それが最も的を射た表現なのは間違いない。
「イヴちゃんにノエルちゃん、ね。彼から聞いたけど、ノエルちゃんは兎も角イヴちゃんは本当に男の子にしか見えないわね」
「…………それはあんまり、言われたく、ない」
「あら、気を悪くさせちゃったかしら。ごめんなさいね」
カルテへの記入をサラサラと終わらせた彼女が、身体を二人に向けてそう尋ねる。イヴが嫌そうな顔をしたのを見て、彼女はイヴが自分の容姿を気にしているのだと把握した。そのままカチカチとペンを数度ノックして、質問を続ける。
「それじゃあ、幾つか質問をさせて貰うわね。先ずは──────」
それから、ユミルは二人へ幾つも質問をした。
原因に心当たりはあるのか、それはいつからなのか。身体の変化はあったか。生活していて違和感は覚えたか。調子を崩したことはあったか。
それら全ての質問に、二人はちゃんと答えを返した。暫くの間、ペンを紙に走らせる音と、静かな言葉のやり取りだけが部屋の中に流れていた。
そうして全ての問診や触診、諸々の検査が終わると、ユミルはクルクルとペンを手の内で弄びながら記入を終えたカルテを眺めていた。
「うーん、なるほど。………貴方たちの状態は大体掴めたわ。声が低いのと身体が筋肉質になったのはホルモンバランスが崩れた所為、声が掠れてるのはそれとは別に喉に炎症がある所為ね。検査の結果は後日渡すとして、今日の所は炎症を抑える薬を出すから、それを飲んで暫く様子見をして頂戴。直に声の掠れは治まるはずよ」
その言葉に、二人はホッと胸を撫でおろす。
思い出したくもない過去の記憶の傷痕。徐々にだが歪に変わっていく身体。そして衛生状態など欠片も考慮されていない環境に長く居た所為で、自分の身体がどうなっているのか知る機会すらなかった二人にとって、今回の診察は知らず知らずの内に精神的に負荷を掛けるものだったのだろう。不安と共に吐息を吐き出した二人の顔色は、幾分か良くなっているように見える。
その様子を見て、ユミルは優し気に微笑んだ。
「貴方たち、大事にされてるのね。普通大きな異常がなかったらここに診せに来ないわよ?」
「……そう、かな。あの人が、何を考えてるのか、正直よくわからない」
「そんなの、会って数日じゃわからなくて当然よ」
伏し目がちに言うイヴの顔は、どうしたらいいのかわからないと寂しげに訴える。不安と、漸く芽生え始めた信頼との狭間で、イヴは揺れ動く心を持て余していていた。そんなイヴの悩みを、ユミルは些末事だと切って捨てた。
「相手の考えなんて、長く居たって読めないこともあるわ。……でも、長く居ればその人はどういう人間かはわかるはずよ。これから時間はたっぷりあるんだから、少しずつ彼のことをわかっていけばいいわ」
相手の考えを知りたい。何を思っているのか知りたい。包み隠さず全部教えて欲しい。
そんなものは、傲慢に過ぎる。
結局どうしたって、わからないものはわからないのだ。自分たちにできるのは、ただ、相手に寄り添い相手の為人を信用することだけ。多感な年頃の彼女たちには、不安に思うだろう。でもこればかりは、自分たちの手で答えを模索する以外に、正攻法はないのだ。
「まぁ、彼の所は特一級危険地帯なんて影口言われてる場所だから、彼の為人を知るよりも先ずは生き延びることを考えなきゃいけないのだろうけど」
「……ちょっと」
「……それ、どういう意味」
「さてね。でも、彼の近くにいたら嫌でもわかるわよ」
そう言って、ユミルは二人の言及を一蹴する。
最後の台詞に物凄く不安を煽られた二人は、その言葉の真意を問い詰めようとユミルに詰め寄ったが、彼女はのらりくらりとはぐらかすだけでそれ以上を言わないでいた。
問い詰める子供、はぐらかす大人。
そのしょうもなく大人げない三者のやり取りは、様子を見に来たナターシャが止めるまで続いたのだった
◆◇◆◇
診察時間がやけに長いのを訝しんでナターシャに様子を見に行って貰ったのだが、どうやらユミルが二人に問い詰められていたらしく、ナターシャが仲裁に入って止めたとのこと。ナターシャが言うには二人には鬼気迫るような様子はなかったらしいが、そうなるとユミルが二人を揶揄っていたのだろう。あいつからしてみれば、二人は弄り甲斐のある子猫という認識なのだろうか。
「その様子なら、大した異常はなかったようだな」
「特に問題ない、らしい」
「薬を飲めば大丈夫、だって」
どこかむくれている様子だが、殊更にヤバいことがあった訳でもないらしい。それが確認できただけでも、ここに来た甲斐がある。
「ならいい。金は払っておくからこの後は自由解散でいいぞ。俺は酒場に行かなきゃならんからな。……っそら、昼飯代だ。これで好きなモン食ってこい」
「っん、と」
「……結構あるね」
「他に欲しいモンがあったらそれで買えばいい。……但し昼飯代も込みだってことは忘れるなよ?」
そう言ってやれば、イヴとノエルは顔を見合わせて年相応に目を輝かせる。
この前の依頼料も問題なく振り込まれていたから二人に口座を作って給料を振り込んでもいいのだが、この街の相場を把握していなければ商人のいいカモにされるため、今は小遣い制にして、店の良し悪しと価格の相場を自分で覚えさせるようにしている。口座作りはそこら辺を理解してからでも遅くはないだろう。今の内に金の出し入れを任せると痛い目を見る気がする。
「オレが居るのは中央通りのフラット・フラッグだ。何かあったらそこに来い」
「「はーい」」
二人は意気揚々と返事をすると、浮き足立った様子で診療所を後にした。
初めての小遣いを貰った子供は、皆あんな感じなんだろうか。世には『はじめてのおつかい』なるテレビ番組もあるようだが、それをこの街でやったら10人中9人が翌日海辺で魚の餌になってるか、違法臓器売買組織に攫われて臓器を抜かれているかのどちらかだろう。実行したなら、ネットは炎上、局にはクレーム殺到、放送一話で見事打ち切り、とある意味伝説的な番組になりそうな予感がする。
まぁ今の俺には、アイツらがその10人の内の1人になれるよう祈ることしかできないのだが。
「元気が良いわね、あの二人。変なのに捕まらなければいいけど」
「あれでも名持ちだ。そこらのチンピラなら問題ないだろうさ」
「あらそういうこと……なら問題ないわね。さっさと貴方の用事も済ませましょう。……どうせこの後ナターシャに誘われてるんでしょ?」
「さっすが先生。アタシのことよくわかってるぅ」
「一応聞くけど、ノルマは終わってるんでしょうね?」
「勿論。紙もデータも不備なく揃えておいたぜ」
「ならいいわ。彼の件が済んだら好きになさい」
「いやっほーー!! 物分かりがよくて助かるぜ!」
「お前って本っ当にダメ人間だよな」
上司のお許しがでたことで、ナターシャは大喜びである。そのまま診察室に入る俺を笑顔で見送ってくるのだが……お気付きだろうか、これは朝の10時代に行われている会話であるということを。これはこの街だから許される会話である。
「ナターシャの奴、人生楽しく生きてそうだよな」
「診療所はほぼ副業みたいなものだし、仕事ができれば彼女に文句は言わないわ。…………はいコレ。貴方の検査結果ね」
「あぁ。サンキューな」
渡されたのは、机の上に置いてあった一封の茶封筒。一部を切り抜いて透明なフィルムに替えた部分からは俺の名前が見えているので、これは間違いなく俺のものだ。今回の診療所の訪問の本命はこっちなのだから。
封を開けて、中身に目を通していく。
これは以前、俺がユミルに依頼して検査して貰っていたものだ。
小さい頃に一度だけ、扉越しにくぐもった声だったが、父親が話しているのは聞いていた。
その時は気にする事じゃないと、子供ながらに深く考えないようにしていた。
だが、年を経るにつれて情欲が目覚めると、否が応でもその時の言葉が頭に沁みついて離れなかった。そんな訳あるはずないと、それを誤魔化すように、忘れるように、何人もと肌を重ねた。危ない日の人とも、肌を重ねた。
俺はあの頃、終ぞ確認することはしなかった。忙しいという理由を付けて、事実を突きつけられるのが怖かったから。あやふやなままで形にしたくなかったから。
だが、純然たる事実として、今現実が目の前に在った。
もう逃れられることはないのだと、現実を受け止めるしかないのだと、この時悟った。
半ばわかっていたことだった。淡い期待だったのは知っていた。
───だが、これは…………堪えるなぁ……。
「“作品とはそれだけで完成されている。故にどれだけより優れたものになろうと、二世などという異物が混じった作品は、唾棄して然るべきものである”、か。……俺は今日ほどその言葉を憎んだことはねぇな」
そのクソッたれた信条に……俺を巻き込むんじゃねぇよクソ親父……!
くしゃりと、紙が力強く握り締められた。
以降はちゃんと二人にスポットを当てたものになります……!




