閑話 少女の変化
さて、前回の更新から一ヶ月以上空いてしまいましたが……残念ながら今回は前話での予告通り閑話です。早く本編の執筆をしたいところですが、この閑話は外せないのでご容赦を。
師走が近づきつつあるとある晴れた日曜日。
真面目・不真面目を問わず目先まで近づきつつある大学入試に受験生が総じてピリピリし出すこの時期は、彼ら彼女らにとって非常にデリケートな時期であり、良くも悪くも皆心のどこかにストレスを抱えている時期でもある。電車やバスの中、はたまたカフェやショッピングモールの休憩所でさえ、参考書や問題集を広げた少年少女が居座り自身に追い込みを掛けている。
そんなどこか緊迫した空気が漂う中、寒空に吹く冬の寒風を押し切って、聳え立つ摩天楼の下を走る一台のセダンがあった。透き通るような黒を纏い、隅々まで手入れが行き届いている様相はまさしく高級車のそれ。ただ走っているだけだというのに、その車は同じ道を走る車両の中でも得も知れぬ存在感を表していた。
その後部座席。肌触りに加え、乗客に負担が掛かりにくく調整された上質なシートに腰かけた、不機嫌さを隠そうともしない少女の姿があった。
「お嬢様、そろそろ到着します。あまりそのようなお顔をするものでは……」
「……わかってる。でも、私はまだ今回のことに納得したわけじゃないから」
「しかし………いえ、これ以上は口が過ぎますな」
少女──常盤美弥の様子に執事の伊藤が口を挿むも、過ぎた陳言はかえって気分を荒立てると思い、閉口する。その様子をチラリと見た彼女もまた、自分の行動が彼を困らせていると察して罪悪感を覚える。今は自分の察しの良さすら恨めしい。自分の中の感情に折り合いを付けられていない今は、余計に心の中がぐちゃぐちゃになるばかり。
感情と感情が絡み合い、ドロドロとした思いが心の中を渦巻き、心の中に重りがあるかのような錯覚すら覚えていた。
今日は彼女の父──常盤茂樹と相手家族の合意により、彼女の意思を無視した婚約者との顔合わせが行われる日だった。
「ねぇ、伊藤さん。……樟則は、帰ってきてくれるのかな?」
「彼は手紙で、お嬢様に会いに行くと言っておりした。彼が約束を違えない人物であることは、お嬢様が一番よくご存じなのでは?」
「うん。そう……なんだけどね」
どこか釈然としない、曖昧な返答が彼女の口から零れ出る。
彼は来てくれるはずだと、声を大にして言うのは簡単だ。しかしそう叫んだところで、彼女の周囲はそれを許さない。認めない。彼女の意思など吹けば飛ぶ塵のように、周囲はいつも彼女にとって敵であり、彼女にとって真に味方となるのは彼女の傍に立って彼女を庇護してくれる存在だけ。その担い手が居ない今、擦り切れた彼女の心は非常に不安定になっていた。
「……執事として、あまりこういうことは言うべきではないと存じますが、近頃のお嬢様は深く思い詰め過ぎていらっしゃるご様子。どうでしょう、今日は肩の力を抜いて外でお茶をしに行くだけと考えては?」
「伊藤さん……」
その精一杯の、気遣いと思い遣りが込められた言葉に、彼女は心苦しさと共に嬉しさを覚える。自分の都合通りにしたいがための嗜めでも、下心に満ちた薄っぺらい慰めでもなく、ただ親愛という思いだけでこちらを気遣ってくれることが、今は何よりも彼女の心の支えになってくれていた。ほんの少しだけ、彼女の顔に笑みが戻った。
「ありがとう。ちょっとだけ、元気が出た」
「ほっほっ。それはよろしゅうございました。…………さて、そろそろ到着ですな」
見れば、車は既に密林の如く聳え立つ摩天楼を抜けていた。目に入る景色は既に移ろい、先進的であって、それでいて雑多であり、分野を問わず人を集めることに主眼を置いた街並みを抜けて、どこか落ち着いていて、只人が行くには些か物腰が引けそうな、上流階級が好む独特な雰囲気な街並みが車窓から覗いている。
そしてその中で彼が車を停めたのは、年若い女性が行くには似合わない黒を基調としたシックで大人びた店。金色に刻まれた筆記体の店名に、窓際に飾られた観賞植物が程よいアクセントとして添えられており、車窓から見える駐車場に停められている車が全て高級車であるということが、その店の格式高さをありありと示してみせていた。
そしてこの店が、今日の婚約相手との顔合わせの場だった。
「…………はぁ」
車止めに、車体が揺れ動く。完全に車体が停止し、もう駄々を捏ねても意味がないと悟った少女は、諦めと共に一息を吐き出した。
「では、お嬢様。私はこちらでお待ちしております」
「うん。……いってきます」
「はい。いってらっしゃいませ」
白と金の、肩掛けのショルダーバッグを大事そうに抱えて、彼女は車外へと足を踏み出した。グレーのチェスターコートと、薄紫のニット帽から伸びる艶やかな黒髪が、冬の風に煽られてフワリと舞い上がる。肌を撫でる冷気に、思わず身体が縮こまる。冬の到来を知らせる季節の歓迎を受けつつも、舞い上がった髪を右手で抑えながら、彼女は不安気ながらも店の入口へと歩いていった。その後ろ姿が見えなくなるまで、執事である彼はその場からそっと見つめていた。
「…………」
いや、見つめているしかできないと。そう言った方が正しいのかもしれない。
憐憫と、そして何もできない無力さと。言葉にしたくとも言葉にできない思いが、無言のエールとなってその背中に送られる。今傍で支えられるのは自分だけだというのに、これしかできないとはなんと体たらくな。これではただの見殺しではないかと、忸怩たる思いが頭に浮かぶばかりで、かといってこの状況を打開することもできない自分が情けない。
が、そんな思いは懐から鳴り響く電子音によって遮られた。
「はい、伊藤です。…………………っ、それは本当ですか!?」
電話口から齎された一報は、彼が声を上げるに足るもので。その表情は積もり積もった鬱屈を晴らすかのような、喜色に溢れたものだった。
◆◇◆◇
ウォールナットの暗い色調と、場の空気を整えるクラシック音楽と。光源でなくインテリアとして在るランタンの仄かな灯りが店内を彩り、目と耳を、視覚と聴覚を通じて、静かに門戸を潜った来客へと語りかける。トレーを片手に歩くウェイターも、席に座り料理に舌鼓を打つ客たちも。皆が皆その所作に礼儀と気品があり、ここは居るべくして居る者と来るべくして来た者しかいないのだということを、言葉を介さずして理解できてしまう、そんな場所。
彼女もまたそんな静かな歓待を受け、チラリと店内を一瞥し、そして顔に出さずしてこう思う。
あぁ、またこういう場所か、と。
不意に、過去に何度か父親に連れられて会社の重役とその子息たちと会食した記憶が蘇る。当時、彼女の父親は会社の同僚と懇親を深めると言っていたが、今にして思えばあれも一種のお見合いであったのだろうかと、彼女は何の気なしにそう思う。もっとも、誰も彼もがいつもと変わらぬ反応を示したため、特に印象に残った人物などはいなかったが。
「いらっしゃいませ。ご予約はされていますか?」
「はい。常盤と言います」
「常盤様ですね。少々お待ち下さい」
柔和な笑みで一礼と共に尋ねてきたウェイターに、彼女は咄嗟に外向けの顔でそう答える。誰にでも受けが良いこの顔は、彼の指導によって身に着けたもの。咄嗟にでもできるようにしたこの顔は、今では欠かせないほどに重宝していた。
「お待たせ致しました。お連れ様はお待ちになっておりますので、お部屋までご案内致します」
「はい。お願いします」
「では、こちらへ」
そう言って、案内を申し出たウェイターに続いて店の奥まで足を運ぶ。正面から見えるオープンスペースとは別に、この店の奥には個室も用意されている。主だった客層が上流階級であるがために、会社の社長を始めとして名立たる企業の重鎮や、政界の大物がこの店を訪れることも少なくはない。立場が上であればあるほど、自然とその内容は他人に聞かせられないものとなるため、そういった利用客には個室は宛がわれることになっているのだ。
故に、そこはある種のVIPルーム。使えるか使えないかで、上流階級の中でも更に格付けが行われる場所。彼女はそんな部屋に向かって、まるでそこに行くのは当たり前とでも言うように、悠々と歩みを進めていた。
そうして行き着いた先は、オープンスペースの基調とされた暗色とは打って変わり、白を基調とした壁色に木材のシャモアの色が映える明るい色調が広がっていた。利用できる人数よりも、一つ一つの部屋を最高の質で利用できることを念頭に置いて設計されたこの場所には合わせて5つの個室しかなく、しかしその各部屋は利用客に圧迫感を与えないために広々とした造りとなっていた。まだ陽の出ている今は窓から見えるこじんまりとした庭園を楽しめるようになっているが、夜には傍にあるキャンドルに灯りが点されて、日中とはまた違った趣ある様相に変わるのだろう。
そして5つある内の、唯一仕切りがされている部屋の前でウェイターが立ち止まり、中の先客へと語りかける。
「少々お待ちを。……お客様、お連れの方がお見えになりました」
『は、はい。ありがとうございます。中に入って貰っても大丈夫です』
すると、中から男の声が返ってきた。まだその声は固く、どこか緊張している様子だった。
「かしこまりました。……それでは、ごゆっくりどうぞ」
「はい。ありがとうございます」
ウェイターは仕切りを開き、彼女が中へと入れるようにする。彼女が中に入れば、一礼と共に静かに仕切りを戻し、彼は持ち場へと戻っていった。
それを見届けた彼女は淀みなく自分の席へと歩いていき、コートやバックを椅子の笠木に掛けてから、初めて目の前に座る同い年の人物と対面した。
「初めまして。常盤美弥です」
「こ、こちらこそ初めまして。僕は尾末卓遂と言います」
最初は、当たり障りのない挨拶から。もはや手慣れた仮面の笑顔で、ニコニコと微笑みながら挨拶を交わす彼女と、そんな彼女に頬を染めながら返事をする彼。あぁ、いつも通りだなと思いつつも、彼女は微笑みを絶やさずに会話を重ねていった。
出されてくる食事に舌鼓を打ちながら、未だよく知らないお互いのことを話し、聞きながら相手のことを知っていく。趣味に、好きなアーティストに、所属している部活動に。最初はどういう話をするか手探りとなるが、暫くすれば相手の為人は大方掴めるというもの。どういう話なら合うのかがわかれば、自然と話は弾んでくる。そして多少なりとも、互いの距離も縮まるものなのだが───
───? 遠慮してる……?
いつも通りの相手の反応だと思いながらも、しかしあと一歩を踏み込んで来ない目の前の彼に、彼女はどこか違和感を覚えた。自分とこうして接していても露骨なまでに下心を向けてこないことを嬉しく思う反面、その役割は彼だけのものだと思う欲深い自分もいる。同じ煌めきを放つ宝石に混じった、ほんの少し歪な煌めき。彼女が恋焦がれ、今尚待ちわびているあの煌めきと同じものが、どういう訳か目の前にある。
そんな僅かな違いに、彼女が違和感を覚えた時だった。
「───あ、あの!!」
突如として、目の前の彼が一際大きな声を上げた。唐突な出来事に、彼女の肩がピクッと動く。いきなり声を上げた彼に懐疑的な視線が向かうが、その視線を彼は何処か後ろめたそうな面持ですみませんと謝りつつも、彼は覚悟を決めた目で以て彼女に言葉を投げかけた。
「大変失礼だとは思いますがこの話───なかったことにして頂けないでしょうかっ!?」
「…………………えっ?」
数瞬、たっぷりと間を置いて尚、彼女の口から零れ出た言葉はそれだけだった。
どうやって破談に持ち込もうかと思っていた矢先の、いきなり投げ込まれた言葉がこれだ。欲して止まなかった代物が何の脈絡もなくポンッと出されたことで、彼女の思考は数瞬フリーズしてしまった。もちろん彼が何を言っているのかは理解できているし、彼女の心では諸手を挙げて喜びが狂喜乱舞しているのだが、しかしそんな唐突に降って湧いた吉報に彼女の頭が対応できるはずもなく。
よもやこちらが願って止まなかったことを向こうから言ってくれるとは。今の彼女の顔には、嬉しさと困惑が織り交ざった何とも言えない表情が浮かんでいた。
「……ちなみに、理由を聞いても?」
「そ、その………お恥ずかしい話ですが、自分には好きな人がいまして。…………まだその人のことを、諦めきれないんです……!」
「……そう、なんだ」
対する彼は、唐突に切り出した破談の話に彼女が面目を潰されたと思っているようで、自分の言い出したことを申し訳なく思いながらも、その胸の内を語り出した。それは懺悔をする罪人のように、しかしどこかその顔はどこか達成感すら覚えているようで。たどたどしくも、彼は思いの丈を言い切った。
───そっか。……うん、そうなんだ。
お互いに、懸想を抱く誰かが他にいる。
その事実を彼は知らないだろうが、彼女は知っている。望まない婚約という、同じ思いをする人は自分だけではないたのだと、彼女はちょっとした親近感を彼に覚えた。…………そう、覚えてしまった。
「そっか。……その人のこと、大切に想ってるんだね」
「はい。恋人、という訳ではいないんですが……彼女のことは、ずっと好きなんです」
「うんうん。その気持ちは、大事にしないとね」
仮面の笑顔に、徐々に素の顔が混じり出す。笑みはより活き活きと。表情はより柔らかく。今浮かべているその表情は、正しく彼に対して向けていたのと同種のもの。それを見てホッと表情を崩した彼だが、しかしすぐに顔を曇らせる。
「……でも最近、彼女と急に連絡も取れなくなってしまって……ここ一ヶ月学校にも来てないんです」
「一ヶ月って……大事じゃない」
「えぇ。警察にも捜索願が出されてるんですが……未だ行方不明のままで」
この衝動を出そうにも、何もできることはなく。行き場の失った想いだけが彼の心の中でぐるぐると鬩ぎ合っている。故にこれは、仕方のない不可抗力。荒れる心中を少しでも宥めようとする身体の防御機能。
ちょっとずつ、そして確実に。彼の素もまた表に顔を出し始める。外では常に仮面を付けろと厳しく言われた所以である、彼の本性が。
「少し前まで有名だった……姫崎紫苑という人なんですが」
「えっ………………紫苑ちゃん?」
であるならばそれは、もはや必然ですらあった。彼に当てられて既に親近感を覚えていた彼女に、彼に対して一歩引いた距離で話すという思いは薄れていた。
故に、彼女は言ってしまった。躊躇いもなく、何の熟慮もなく。
その名前は、昔に彼を通じて知り合った友人の名だった。彼を合わせた三人で、どこかに出かけた思い出もある。彼女にしては心を許した数少ない、一つ下の親しい友人だ。
だが、この場においてだけは、その言葉は弱っていた彼の心を刺激する劇薬に等しい代物だった。目に見えない心の内で燻っていた火種を、爆発的に燃え上がらせることができる燃料を、彼女は投げ入れてしまったのだ。
バンッッ!
「か、彼女のことを何か知っているんですかっっっ!!?」
思いは燃料。想いは動機。恋慕は原動力。
その言葉に当てられて一瞬にして燃え上がった彼の心は、その心の赴くままに彼を突き動かした。テーブルを両手で叩きつけて、上体を乗り出した格好で彼は彼女へと迫った。それこそ彼我の距離は目と鼻の先。相手の吐息すらはっきりと感じられる距離間。本心の宿った意思のある視線が、高々数cmの距離で交錯する。
そしてそこから───恩恵が発動する。
駆り立てられた色をした瞳が彼女を見つめる。まるで金縛りにあったかのように彼女は身動きがとれず、その浸食を許してしまう。触れられる距離故に感じる吐息、伝わる熱、鼻腔を擽る、下手をすれば酔ってしまいそうな香り。感覚器官を通じて伝わるそれらの情報が、まるでウイルスのように彼女の内部に入り込み、その心層深部に辿り着く。
ギチギチと。ブチブチと。
言葉にするならば、それはもはや侵略と相違なかった。
他者を拒み、本人のみを受け入れるはずの最後にして鉄壁の扉。パーソナルスペースのさらに奥、常盤美弥という人の本性が在る領域に続く扉を、強引に、力づくで、彼女の意思など関係なくこじ開ける。懸想や恋慕、想いという感情まで、それは容易く侵し尽くし、土足で踏み荒らしていく。遠くにいる彼を想う、その小さく大事な一筋の希望の糸でさえ、それは無遠慮に引き千切り、彼女の心をありのままに暴き立てる。
だが……嗚呼、これはなんと不運なことなのだろうか。その力を以てして心を暴いた彼女もまた、恩恵を持って生まれた『保有者』だったなんて。
心層深部に入り込んできた彼を出迎えるようにして、後追いで彼女の恩恵も発動する。それは彼の全てを包み込むようにして、そしてその心を鷲掴みにするようにして、その想いをこちらに引き寄せる。まるでその想いは私のものだとでも言うように、男として生まれた全ての人間の愛を独占するかのように。時代が時代なら、それこそ傾国とすら謳われたであろう凶悪な力でもって、彼の愛を自分に向けさせる。
「えっ……あ、その」
「あっ……す、すみません!」
二人は揃って、自分たちの恰好に気付いて顔を赤らめる。今の二人の間には、なんら邪魔するものなどなかった。ただ素直に、自身の相手に向ける想いだけがある、歪な相思相愛の関係があった。
これが、恩恵の力。生まれながらに授けられた、神からの祝福。
だが強すぎる力は、本人たちを常に振り回し、時に当人たちの意思を無視した力を振るう。積み重ねた想いも、たった一度振るわれた力の前に無力にも捻じ曲げられてしまう。
『保有者』 『ホルダー』 『恩恵保有者』
そう呼ばれる彼らが、抱えた恩恵に振り回されて起こされる悲劇は、決して少なくない。これは本当に、恩恵と言うべきものなのだろうか。
これはそんな恩恵を持った彼らに引き起こされた、善意の悲劇の一つだった。
◆◇◆◇
バタン、と。後部座席のドアが閉められる。冬の寒さを纏った彼女がそこに腰を下ろし、防寒のために着けていたニット帽を外して膝の上へと置いた。そこに、バックミラー越しに様子を見ていた彼が声を掛ける。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「うん、ただいま」
寒空の中、車内に戻ってきた彼女に執事は慇懃に挨拶を述べる。そう言う彼の顔は、心なしか喜色に溢れているようだった。これから伝える内容で、彼女の心の憂いも晴らしてあげられると、彼は心の中でそう思っていた。何せ電話口で知らされた一報こそが、彼女が待ちわびていたものなのだから。
「お嬢様、先ほど連絡がございまして…………樟則殿の所在が判明したとのことです。お嬢様がお望みならば、こちらからアポイントメントを取り付けますが」
自然と、彼の口調も早口になってしまっていた。年甲斐もなく、嬉しさのあまり、というやつだろうか。
だがしかし、返ってきた言葉は、存外に素っ気ないものだった。
「そうなんだ。……態々、ありがとう」
想像していた反応との温度差に、彼は思わず面食らってしまう。何かが変だと、彼はそこから薄々感じ取っていたが、具体的にどこが変なのかは挙げられなかった。
数瞬だんまりとしてしまった彼だが、彼女はそんな彼の様子に目もくれずに次の言葉を紡いだ。
「でも、態々そこまでしなくてもいいかな。樟則がちゃんと生きていてくれているなら、それは嬉しい。それに会いに来てくれるって彼が言ったんだから、私は友達としてちゃんと彼を待っていてあげなきゃね」
「お嬢様……」
そうしてこの言葉が出てきた時点で、彼の違和感が一気に確信へと変わった。
もう既に彼女の心から、彼への懸想は残っていないのだと。
「そんなことより、伊藤さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど───」
あろうことか、彼女の口から“そんなこと”という言葉が出ようとは。彼の中にあった彼女の人物像に、ピシッと、小さくない罅が入り込んだ。
あれだけ彼に強い恋慕を寄せていたというのに。下手をすれば心を壊しかねないほどに追い詰められていたというのに。その心は、一度会っただけの男に傾くほど軽いものだったとでも言うのだろうか。
彼は只々、彼女の目を疑うような歪な変わり様に、とてつもない不気味さを覚えたのだった。
なんでここまで劇的に二人の心が変化したかというと、それは恩恵どうしの相性が最悪だったからです。それに加え、二人ともが保有者の中でも特別な部類であったことも一因となっています。
その説明は、いずれ本編にて。




