閑話 少女に迫るもの
場の空気というものは、必ずしもその場の気温を表しているわけではない。
喧 々 諤 々と気心の知れた友人同士と語らい合えば五感で感じる気温よりも暖かく感じ、傍から見てもその場は暖かい喧騒に包まれている、と表現されるのだろう。
だが、その逆もまた然り。
両者の主張がぶつかり対立し合い、お互いの感情が激情へと変貌することで体感温度は一気に下がり、傍から見れば場が冷え込んでいると表現される。
それは、激情を燃え上がらせるために周囲の暖気をひたすらに奪い食らい尽くすため。そして周囲が冷え込むのは、そこにいる人間が熱と熱のぶつかり合いから逃れるために己の暖気を明け渡すため。熱同士のぶつかり合い、故に己も熱を持つことで敵と認知されるのを無意識下で怖れ、本能的に背景の一部に溶け込むというある種の防衛策。
そしてそれは、今この時もまた、同じことであった。
「どういう、こと…………お父さんっ……!」
ダンッ、と机を叩く少女の悲痛な声。
煌びやかでありながらも品が失われず、派手とは思わない繊細な技巧が施された部屋の一室。壁に飾られた有名画家が手掛けた風景画。趣向を凝らしたキャンドルに暖炉。この部屋の用途をたったそれだけで表している長大なテーブル。
これまで数多くの企業の幹部や政界の重鎮らをもてなしてきた豪著な部屋が、しかし今は身を締め付けられるような重苦しい空気に包まれていた。
「だから、何度も言っているだろう」
それを泰然と受け止めるのは、対面に座る初老の男性。
容貌と風格で彼を表するならば、それはまさしく老紳士。厳格でありながらも品の備わった面持ち、教養を感じさせる何気ない所作、ストライプの入った上質な山吹茶のスーツ。上流階級を思わせる出で立ちに身を包ませた男性が、呆れと苛立ちを含んだ表情で問いを返した。
「───婚約だ。近々、見合いの席を用意する。今度ばかりは断るのは許されないぞ」
「ふざけないでっ!」
ガシャン、と。割れたティーカップから零れた紅茶が、シミ一つ皴一つないテーブルクロスに大きなシミを作っていく。きつく握りしめられた少女の手が、布に皴を作り出す。端麗な顔に紛れもない憤怒の貌を浮かべ、理論・理屈・道理をかなぐり捨てて目の前の父親に食って掛かった。
「よりにもよって受験期の11月に………私が、私がどれだけプレッシャーと戦っているか知っているの!?」
「そんなこと、重々承知しているとも」
「だったら!」
「しかし、だ」
しかしそれでも、目の前の大樹は揺るがない。感情という炎をどこまでぶつけようとも、感情的になる素振りすらなかった。そして淡々と、目の前に置かれた書類に目が動く。
「これを見る限り、勉学の方は順調なのだろう。私も最初はこの時期には心苦しいと思ったが、どうやら杞憂だったようだな」
手元にあるのは、先日返却された全国模試の結果。そこには五教科全てにおいて輝かしい成績の数々が並べられており、第一志望へもA判定と記され文句のつけようのない成績だ。A判定の中でもかなり上位に食い込んでいるから尚のこと。
「プレッシャーに負けずにこの成績を出せるのは素晴らしい。親として誇らしいことだ」
「話を逸らさないで!」
しかしそんな褒め言葉は、少女には無用のものだった。自分はそんな言葉を聞きたいんじゃない。ようやく立ち直り始め、心の整理の時間が欲しいと言って、高校卒業までは見合いの話は全て断ってくれと頼んでおいたのだ。そして、その時は確かに父から「わかった」と了承を得たはずだったのだ。
だが、それが覆された。そのことが、少女には我慢ができなかった。
「高校を卒業するまでは待って、って言ったのに。…………その時は「わかった」って言ってたじゃない! やっと普通に生活するくらいまで立ち直れたのに……こんなのはあんまりよ!」
「事情が変わったのだ。それに、相手の評判は悪くはないと聞く。私も何度か言葉を交わしたが、問題のない人物だと思っている」
スッと、少女の横合いから使用人が見合い相手の顔写真と簡潔だがよくまとめられた略歴と為人が載ったファイルを差し出した。
そこに映っているのは、柔和な笑みを浮かべている好青年。邪魔にならない程度に伸ばされた茶髪混じりの髪。制服に身を包んでいることから、おそらく少女と同じ年代の人なのだろう。
「───ッ!」
だが、激昂寸前の彼女はそんなもの見向きもしない。記載された文章に一瞥すらくれず、左手でファイルを払い飛ばした。中身の開いたファイルが絨毯の上に投げ出される
「………美弥」
「私の気持ちは変わらない。卒業するまで、そんなつもりは更々ないっ」
キッ、と。澄んだ黒瞳が睨みつける。しかしその目尻には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
その様子に、男ははぁ、と溜息を零す。実の娘の機敏のわからぬほど、愚図な親となったつもりはない。本気で彼女が嫌がるということは、態々言葉で伝えるまでもなく理解しているところだった。
だがしかし、男は心を鬼としてでも彼女に言わねばならなかった。
…………例えそれが、娘の傷を抉る行為であっても。
「……あの男のことが、まだ忘れられないのか?」
「っ───」
瞬間、彼女の心臓が鷲掴みにされたように軋み上がる。
燃え上がる激情の根幹を曝け出され、一瞬で核を潰され、二の次となる想いを封じ込められる。
放ち続けていた熱が霞のように散って失き、火照った身体から急速に熱が失われていく。指先に至るまで、まるで凍傷を起こしたかのようにピクリともない。
二の句を告げようにも、言葉が喉を通らない。出すはずだった言葉は出ず、口がパクパクと動くだけに終わる。
それを見ただけで、男は察した。娘は、未だ帰ってこない彼に懸想を抱いているのだと。
「忘れろ、などとは言わん。だが、折り合いはつけろ。……いつまでも帰ってこない男を引き摺っているわけには───」
「そんなことはないっ!!」
ダンッ、と。激昂が男の言葉を遮り、怒気が空気を震わせる。
それ以上は言わせてなるものかと、彼女の心が箍を外して叫びを上げる。
また会いに来てくれる、その時に恥ずかしくない自分でいるために、胸を張って彼に会えるようにと思い、そして今に至るのだ。
彼女にとって、それだけが今を乗り切る希望だった。向けられる一方的な愛の視線。削られていく精神。
そんな摩耗し擦り減らされた心に差し込まれた、地獄の蜘蛛の糸。克己するための強靭な精神を持たず、ハリボテの大人の顔を貼り付けて精神も成長したと周囲が思っていても、その実彼女の精神は幼い少女のそれだった。
弱く脆く傷付きやすい彼女の心を支えていたのは、希望という名の蜘蛛の糸。差し出されたそれを巻き付けて、崩れる寸前の心を支えているのが、今の彼女だった。
その希望が、プチプチと千切れ掛かっている。少女に対してではない、蜘蛛の糸そのものに対する揺さぶり。辛うじて心を支えているそれは、外からの口撃で容易く千切れてしまうほどに、脆いものだった。
「樟則はちゃんと帰ってくる! そう約束した! だから、だから私は!!」
「今も待っている、と? ……それは、楽観視が過ぎるぞ」
娘の激情を、父親が理性で消しにかかる。手紙の一件は男の耳にも届いており、彼が生きているということは把握していた。
だが、いる場所が犯罪横行都市となれば楽観視はしていられない。命を奪う行為が日常として罷り通ってしまう街では、未来の約束が確約されることはない。それを知っているが故に、親としては帰ってくるか怪しい人物よりも、確実な相手を選んで欲しいという思いがあった。
「でも………それでも私はっ!」
視界が涙で滲み、言動すら滅茶苦茶になってきている。自分でも、それは駄々をこねる子どもの行いだという自覚はあった。だがそれでも、一抹の希望を齎したあの手紙が、偽物だとは思えない………否、思いたくなかった。
「ッ! 美弥、まだ話は───」
「知らない! 私はお見合いも婚約も、受けるつもりはない!!」
俯き、悲しみに震え、しかしこれ以上説得できる言葉が出て来なかった彼女は、咄嗟に踵を返す。これが、無力な自分にできる精一杯の反攻。父親の制止の言葉を振り切って、彼女はドアの向こうへ飛び出した。
薄暗がりの廊下、霜月の冷え込んだ空気が肌から熱を奪う。一分、一度。奪われていく熱と共に心の均衡がボロボロと崩れていき、その欠片が心の受け手に溜められていく。されど手には許容量というものがあり、全てが零れては拾うことができない。故に掌から零れ落ちる前に人目につかない場所に行こうと、その足取りがどんどん速くなっていく。
すれ違う使用人たちの目には見向きもせず、ただひたすらに、自分の閉じ籠れる部屋に向かって最短最速で駆けこんだ。
今は誰も入ってくるなと扉を強く閉め、カチャリと鍵を閉めて扉に凭れ掛かる。力の抜けた体は、身体が重力に掴まりズルズルと落ちていった。
「………樟則……早く、帰ってきてよぉ……」
幼子が囁くような、今にも掠れそうなか細い声が、暗闇の中に消えていった。
手間のかかる妹を見るような、めんどくさがりながらもいつも振り返ってくれた相手は今、そこにはいない。
◆◇◆◇
バタンッ、と激しく閉められたドアが音を鳴らし、部屋の中に静寂が訪れる。話し合いが破談した時に訪れる気まずい空気。豪著な部屋を冷め切った空気が支配する中、男は溜息一つ零し、背凭れに背を預けた。
「………難しいものだな。新しい相手を見つけるというのも」
「彼自体が稀有な存在でしたから。お嬢様も彼には全幅の信頼を寄せておりましたし、早々に新しいお相手を見つけるのは難しいかと」
男の独り言に進言するのは、執事服に身を包んだ老齢の執事。少女のお付きの執事である、伊藤と呼ばれた男性だった。
「わかっておるよ。……しかし、いつまでもアレではまずい。心の内に溜めた鬱屈をどうにかして取り除いてやらねば」
「その点、今回の相手は問題ないと?」
「人格には問題はないだろう。少しばかり引っ込み思案なところもあるが、概ね聡明で優秀な人物だ。相手と真摯に向き合あえるというのも、美徳の一つだ」
「なるほど……」
チラリと、視線が男に送られる。
相手の総評は、まま好評と言ったところ。見合い相手からすれば、相手の父親に好感触を得られたことは大きな成果と言えるだろう。
しかし執事は、それは上辺だけの理由と切って捨てた。
その程度の人物など、これまでの見合いで掃いて捨てるほどいた。今更その程度の理由で、この娘想いの父親が大事な跡取り娘の婚約相手に据えるものかと、彼の勘が言っていた。
とすれば、それ以外の何かしらの思惑があるということになる。それが何か気になるところではあるが、しかし自分の立場は執事でしかない。これまで仕えてきて、目の前の男は考えなしの主ではないということは理解しているため、その意図が読み取れないならば迂闊な発言はしない方が良いと判断して別の話題に切り替える。
「見合いの話が進んでいるとなると………例の件は、いかがいたしますか?」
話題が変わった途端、男の眼光が鋭く切り替わったのを感じ取った。
「……いや、それは引き続き進めておく。今のところの進捗はどうなっている?」
「何分、場所が場所ですからな。表だって調べることもできず、難航しているとしか」
「構わん。生きているならばコンタクトは取れるだろう。……死ぬ前には連絡を取りつけておきたい。功を焦らせる必要はないが、なるべく早急に見つけ出せ」
「承知しておりますとも」
口調も顔も、何もかもが先ほどまで娘の機敏に手を焼いていた父親のものではない。既にそれは、日本有数の大企業を率いる社長のもの。社長の顔が挿げ変わるまでこの企業と競争をするのは愚策と、他の企業に知らしめた辣腕の仕事人のそれだった。
だが、この執事は知っている。この顔の裏には、れっきとした父親の私情が眠っているということを。
「……まったく。手を回されるなら、お嬢様に伝えてあげればよろしいではないですか。旦那様?」
「うるさい。私はただ、連絡は寄こすくせに一向に帰ってこない愚か者に一言物申したいだけだ」
「ほほほ。では、そういうことにしておきましょうか」
新しい紅茶をカップに注ぎつつ、彼はそっと笑みを浮かべる。
いじけた顔が父娘そっくりだということは、そっと胸の内にしまっておいた。




