赤と銀の硝煙二重奏7
先週ぐらいには書けるだろうと思っていた見通しが甘かった……
「へぇ……ここがそうか」
あれから一時間ほど経過した頃。
途中、通り道であった宿場町で仕事終わりの傭兵に絡まれる一件に遭遇したものの、俺とアリシアは問題なくハムドチェラ地区まで辿り着いた。夕闇を過ぎ、夜の蚊帳が降りた街並みにあるのは、見渡す限りの廃墟、廃墟、廃墟……。夜闇がそれらを覆い隠し、戦いの雄叫びとは正反対な静寂が辺り一帯を支配し、薄気味悪さが蔓延っている。互いに命を掛けて生を削り合った場所だろうというのに、今や死が至る所に蔓延している墓地と化している。命の輝きと命の儚さを内包した街。それが、ハムドチェラ地区という場所なのだろう。
「えぇ、そう。……ここが今回の目的地、ハムドチェラ地区よ。どう? 壮観でしょ?」
「ほんっとうに世紀末染みてるな、ここは。この時代に戦争はもうない、とか平気な顔して言ってる連中に是非とも見せてやりたい光景だよ」
車窓から垣間見える廃墟の瓦礫には、車のライトに当てられて浮かび上がる死体が小石の如くゴロゴロと転がっている。四肢の無い死体など珍しくもない。顔が残っている死体に至ってはほとんどが恐怖と絶望とに染め上げられており、それは平穏な国で過ごしている者が見たならばトラウマを植え付けられるレベルだ。魂の叫びを今にも上げそうな死体は、その在り様だけで耐性の無い者の心を力づくで荒らしていくことだろう。
「『戦争』だなんて言葉を国が易々と掲げて言えるものでもなくなったから、かしらね。どの国でも「戦争なんて廃絶すべき」だなんて声がよく上がっているようだし」
「だが実際は、そういう連中こそがこういう場所で戦争を起こしている、と」
「そういうことよ」
「ハァ……ほんっと、世も末だな」
「残念だけど、それが世の常よ」
取り繕った仮初の平和とやらを引き剥がして見れば、出てくるのはそういった話ばかりだ。例え表では戦争を反対しているような国でも、裏では武力行使を厭わず平然と敢行する。それがどうしようもない、世界の姿だ。
だがそれは、目に見える脅威が表に出て来ないだけで、実際には敵が数多存在することが原因でもある。国の裏には大抵マフィアやギャングといった裏組織の手が入り込んでおり、それらによる国の乗っ取りを阻止すべく排除する必要がある。また、国によってはバックにマフィアが付いていることもあり、彼らと他の勢力の勢力争いもあることだろう。
そういう者たちの代理戦争とでも言うべき抗争が、これだ。存外にこの世界は、平和に溢れていない。アトロシャスを含め、この街の惨状まで目の当たりにしている今、俺は心からそう思った。
「ああ、これから向かうホテルの辺りは、そこまで戦火に晒されてはいないから安心してもらって大丈夫よ」
「なんだ。占領されたら向こうはそこを拠点にするつもりなのか?」
「こちらも工作員を入れて探っているけれど、それでも有用な情報は得られなかったわ。向こうの意図は深くは読めないけれど、おそらくそのつもりなんじゃないかしら?」
「んじゃ、そこにいる間は安全、ってことか。正に砂漠のオアシスだな」
「宿 泊 料 金は相当高いけれどね」
「おい、それって相当腕利きの傭兵かどっかのお偉いさんぐらいしか入れない、ってことじゃねぇか」
「こんな場所だもの。そうでもしなきゃ採算が取れないのよ…………あら、ちょうど見えてきたわね。アレが今日の宿よ」
アリシアの声につられて視線を向けてみれば、そこにあるのは荒廃したこの光景からは場違いとしか思えないような、一等豪華な天に向かって聳える大ホテル。まるでこの街の富を吸い上げて己が装飾としているかのような錯覚に陥りそうだ。
もっとも、この街を荒らすためにつぎ込まれた金があそこに流れ込んでいるとも言えるから、あながち間違いでもないのかもしれないが……。
「……ああ、あのデカいのがそうなのか?」
「そうよ。いいホテルだと思わない?」
「そうだな……何か、17世紀のフランス国民の気持ちを体感できた気がするよ」
「それじゃあ、私たちは舞踏会にお呼ばれした貴族、っていうところかしら?」
「無論、踊るつもりは更々ねぇけどな」
そう言って俺はアクセルを踏み込み、ホテルへ向けて車を加速させた。
それは一刻も早く、この凄惨な死体置き場から逃れたいという、『風間 樟則』の無意識の思いからだったのかもしれない。
◆◇◆◇
床一面を覆う上質な真紅の絨毯。左手には人一人には十分すぎる大きさを誇るダブルベッドが鎮座しており、部屋の大部分のスペースを陣取っている所為か異様な存在感を醸し出している。向かいの壁には大きめにテレビが備え付けられており、少し奥へと向かえば落ち着いて腰を下ろせる椅子と、いくらか小物を乗せるのに丁度よいガラステーブルが置かれている。調度品はそこまで手が込んではいないが、それでもシンプルながらも品のあるものが厳選されて置かれているようだった。物自体はそこまで多くはないが、それでも十分にお洒落だと感じるものが並べられている。
『アボルドハウム・ホテル』
それが、このホテルの名称。過去、このホテルの創業者であり、先代のオーナーであるガルシド・アボルドハウムが、第二次中東戦争の折に傷つき死にかけていた傭兵たちを見かねて何日か泊めたことが創業の切っ掛けとなった。以来、客足が次第に増えていき、増築や改築を繰り返していく過程で、いつからか各国の要人も泊まることもある大ホテルにまで成長したのだ。
その結果、この場所は疑似的な不可侵領域が創り出された。
資金の出処たる各国の要人がいる宿泊施設を襲撃しようものなら、それこそ手切れとされることは目に見えている。それを恐れた両軍が、ここを襲わないよういに部下たちに言い聞かせた結果、自然とこのホテル周辺では戦闘が起こらない空白地帯となったのだ。
もっとも、今栄えているのは、それこそここに闘争があるからだ。
この地における戦争が終結する頃には、この場所も用済みとなることは明らかだ。故にそれを途切れさせないよう、ホテルに努める彼らも日々気を抜くことなく働いている。
「……ここは、よし」
そしてマックスたちがいるのは、その中のダブルルームの一室。
アトロシャス内部に留まらず、世界規模においても一大勢力を築いている組織ではあるため、スイートルームをとることも案として出ていたようだが、今回の依頼の目的は敵組織の首領の殺害。殺害する側の人間が目立つ行動をしていては本末転倒ということで、最終的にダブルルームの部屋が取られた。
───ツインを取らなかったのは、まぁそういうことなんだろうが……
ガサゴソと、配線コードや備え付けられたテレビを始めとした電子機器を入念にチェックしていたマックスが、その手を止めることなく内心で愚痴る。
ハニートラップを仕掛けられる側としては、女を楽しむ、という俗物染みた心意気は欠片も湧き上がってこない。獣性を曝け出し理性をかなぐり捨てた男など、後先考えるという思考回路すら本能に塗り替えられ、持っている機密情報をうっかり口に零してしまう例が往々にして在る。
また、気に入った女を宛がわれて、そのまま組織に首輪を繋げられることも、だ。
マックスに至ってはアトロシャスでも頭角を現している新進気鋭の実力者の一人。目指すのは確かな地位と、絶対中立。
ここで女に墜とされ、首輪に繋がれることは、何としても防がなければならない。
「……盗聴器、隠しカメラの類はなし、か」
腰に手を当て、怪しい箇所を全て入念にチェックしていたマックスが、ボソリと呟く。すると、静かな部屋にキュッ、という音が聞こえてきた。ピクリ、とマックスが反応し、その視線はその音を最後に、水音が途切れたバスルームへと向かう。
「ふぅ。お先に使わせてもらったわ」
カチャ、とロックを外す音が聞こえると、バスルームのドアがゆっくりと開く。
バスルームから出てきたのは、バスローブに身を包んだアリシアだ。
身に纏う白いバスローブから覗く肌は上気して薄っすらと赤みを帯び、水気は軽く拭き取った程度にとどまっているため、首筋から垂れた水滴が鎖骨を伝い、バスローブで押さえつけられた柔らかな乳房が作り出した肉欲的な谷間へとツー、と滑り込む。すらりと伸びた美脚とそれを引き立てる丈の短いバスローブが太腿を大胆に曝け出し、されど女性の秘部は決して見えないようなエロティックなデザインをしている。それは男の中に在る獣性を、嫌が応にも引きずり出そうと画策しているようにすら見える。
マックスをして、そこに佇むのは供えられた魔性を最大限に引き出し、あらゆる手段を用いて男を魅了させる御伽噺の妖精を連想させた。
「随分とまぁ、大胆な装いだな……」
「ふふっ、大抵の男はこれでスイッチが入るものなのよ? ……勿論あなたも、でしょ?」
「生憎と、オレの腹の底に収めてる性欲は手綱が効いていてな。本能に身を委ねて女を抱くほど盛ってねぇよ」
「あら、意外と紳士なのね?」
片手を頬に当て、アリシアが妖艶に微笑む。動作の一つ一つが男心を弄び、その所作はまるで夢へと誘う妖精のようだ。
そして徐に、アリシアの手がマックスの顔へと伸ばされる。目は優しく細められ、浮かべる微笑みがありもしない言葉を伝えてくる。甘えていいのだと、この身を好きなように貪っていいのだと。言外に、とろけそうなほどに、妖しく誘う。
だが───
「言ったろ。見境なくお前を抱く気はねぇよ。」
「あら、残念」
そっと、伸ばされた手が優しく退けられる。
羞恥心で、咄嗟に撥ね退けたのではない。相手への気遣いを以て成された行為は、その根底に理性が残っていることを窺わせる。つまりマックスはまだスイッチが入っていないのだと、アリシアは表面を取り繕いつつ悟った。
「それじゃ、次は俺がシャワーを使わせてもらうぞ」
「ええ、そうね。ゆっくりしてくるといいわ」
「はいよ」
そう言って、マックスは片手を振りながらバスルームへと消えていく。
その後ろ姿をアリシアは、獲物を見つめる獣のような目で、静かに見送った。
◆◇◆◇
「それじゃ、詰めれるところまで詰めるか」
「そうね。さっき上がってきた情報もあるから、それを見ながら方針を決めていきましょうか」
マックスもシャワーを終えたことで、テーブルを挟んで向かい合う二人の身を包むのはバスローブのみ。火照った肌が冷めやらぬ内に事務的なことは済ませてしまおうと、軽口を省いて本題へと切り込む。
元々部屋に備え付けられていたテーブルには、ルームサービスの一つであるワインが置かれている。テーブルの中央に置かれたシャンパンクーラーから微量ながら溢れる白い冷気が、二人の肌にひんやりと包み込む。
アリシアはマックスがシャワーを浴びている間に用意しておいたパソコンから、USBメモリを抜き取りそのままテーブルの上に置いてあったタブレット端末に接続する。仲間から通達された現時点での最新の情勢なのだろうと、マックスは当たりを付ける。
次いで映し出されたのは、この街の衛星画像。この街をすっぽりと覆うように映し出された画像は随時更新されたもののようで、建物の壊れ具合を含めて細部まで正確な地図が映し出されている。最南部に位置し、現在地であるこのホテルは赤いサークルで囲まれていた。
「現在地はここ。そして向こうの本拠地は、ここよ」
アリシアがサークルを指さし、次いで指をスーッと動かして指し示したのは、北東部にあるハムドチェラ地区総括局跡。かつて『義勇軍』が前線拠点としていた場所だったのだが、今は戦局が推移してしまったがために敵に使われている。電撃的な襲撃で拠点を強奪したのか、周囲には痛々しい戦闘の痕がありありと残っている。
だが、遮蔽物が全くないという訳でもなく、伏兵が隠れられる場所はいくらでもある。迂闊に入り込めばたちまち強襲を掛けられることは明白だった。
「……これを見る限りは、西側から迂回した方がよさそうだな。東側からの迂回ルートだと遮蔽物がまるでねぇ。爆撃の余波で薙ぎ払われたか……かなりの激戦だったのか?」
「こっち方面は特にね。一度大隊規模の兵士と傭兵たちが別動隊として陣を敷いていたのよ。後ろに在るのは当然ここ。だから───」
「迂闊に攻め込めないから、人数揃って厄介になる前に徹底的に叩いた、か」
「そういうことよ」
その一件に加えて少し前までこの戦争の最前線であったことが災いした所為で、ハムドチェラ地区の西部に至っては既に更地に近い状態となっている。家屋は焼き払われ、薙ぎ倒され、倒壊した残骸となっても吹き飛ばされる。それが繰り返されたことで、遮蔽物としたい大きさの残骸がほぼ残っていない。それらを気にしないで行ける手段は、超高高度からのダイビングが、鋼の意思と集中力に持久力を費やして匍匐前進で進むことぐらいだろう。
一方、地区の東側は現在の前線であるため、損傷は随所に見られるがまだ無事な家屋も多い。四方八方から銃弾と怒声と悲鳴が雨あられとこだますることだろうが、そのリスクさえ背負い込み、そして上手く行動しさえすれば集団に紛れることができる。その先にあるのは、目の前の敵にしか注意を向けていない兵士たちが犇めき合う状況での、対象を一人に絞った狙撃。
お手本通りの、人目のつかない場所からの狙撃は向こうも想定して手を打っていることだろう。だが大局を左右する戦地から、直接陣地を狙うということは考えづらい。それもミサイルやヘリといった兵器ではなく、純粋な技量の下に行われる静かなる狙撃。暗殺の可能性は、大いにある。どちらを取るべきか、考えなくともわかることだ。
「そういや、『義勇軍』側の動きはどうなっている? 明日の動き次第でオレとしても行動ルートを決めなきゃいけねぇんだが」
「連絡を受けた限り、いつも通りになるそうよ。『義勇軍』の正式な兵士は半分が自陣防御に回されて、残りが襲撃。傭兵は防衛専門の数名を除いて全員が襲撃側。これまで通りの戦術よ」
「行動開始時刻は?」
「朝の9時頃開戦の夜6時頃撤退かしら? 仕事が長引けばその分撤退が遅れるでしょうけど」
そう言って、アリシアは右手でグラスを煽る。喧騒の溢れる酒場での飲み方とは全く異なる、気品が備わった上品な飲み方。左手でそっと右肘あたりを支えることで、彼女の胸部が下から押し上げられ形が崩れる。バスローブから一部だけ覗かせている白い肌が、そのしわ寄せで一層膨らんで見える。
サングラス越しに薄っすらとだけ見えるマックスの視線が、微かに自身の胸へと向けられたことを敏感に察知したアリシアは、揶揄うような笑みを浮かべた。
「あなたも飲まないの? ルームサービスの品だけど美味しいわよ? これ」
「お前がいるとは言え、ここがアウェーなのに変わりはねぇだろ。悪いが、酒は遠慮させてもらうぞ」
その言葉通り、マックスは先程からワインに一切手を付けていない。
アリシアも、マックスが下戸ではないことは事前情報からわかっている。だがそれでも飲まないのはどうしてなのか。彼女としては乾杯くらいはしておきたい気分だったのだが、ここで無理に誘うのは悪手だ。そう思っていたマックスから聞かされた理由に、思わず彼女の口から「ふふっ」と笑いが零れる。
───それは建前、ね。本音の部分は……
たぶん、言葉に発してはいないが、彼は気付いているのだろうと、内心で当たりを付けた。
「ほんと、ピリピリし過ぎよ、あなた」
組んでいた脚を解き、滑らかな動きで立ち上がったアリシアがマックスの後ろに回り込み、背後から優しく抱擁する。女性特有の甘い香りに、石鹸の清潔感のある優しい香りが、ふわりと漂う。身体を密着させ、肌が触れ合う距離に達したことで、彼女の息遣いや心臓の鼓動までもがマックスへと伝わってくる。蕩けるような甘美な声が、マックスの鼓膜を打つ。
「肩肘張るのもいいけど抜き時も必要よ。今日のお仕事は終わりだというのに、いつまでもピリピリしてちゃ気が滅入っちゃうわよ?」
「そうだな……オレとしても酒に媚薬を盛られてなけりゃあ、心置きなく乾杯をしてやれたんだがな……?」
その言葉に、アリシアの目がスッと細められる。同時に、その口元にも笑みが浮かぶ。
「あら、気付いていたの?」
呆れたような声に続くのは、驚いているような声。だがそこには、クスクスと揶揄う笑みも含まれている。既にそこには警戒を含む声色はなく、むしろこれからすべきことは決まっているだろう? という空気が出来上がっている。そっと、アリシアが甘えるように頬を摺り寄せる。
───ハァ……打ち合わせはここまでか
先程の誘いを断りはしたが、既に彼女がここまで来ている以上、今一度断っては空気を悪くすることだろう。これは培ったシナリオからではなく、これまで培ってきた経験則からの推測だ。向こうから誘ってきた場合、それを踏まえた上で主導権を相手に委ねず、こちらからことに踏み切るのが定石だ。焦らす目的で袖に振ることはあるが、それも一度キリだ。それ以降は、向こうにとってストレスになりかねない。
マックスは観念した様子で、そして不退転の覚悟を含めてそっと吐息を零した。
「別に枯れてるわけじゃねぇよ。媚薬なんざなくとも、ちゃんと相手はしてやれるぞ?」
アリシアはピクリ、と瞼を動かし、内心でマックスの内情の変化を感じ取った。
その言葉は言うなれば、OKサイン。警戒心を抱いていた男の心が、ようやく色欲に染まり始めたという合図でもあった。
マックスが、後ろを振り返る。互いの顔は文字通り目と鼻の先。どちらかが動けば、触れ合えてしまう距離だ。互いの視線が、重なる。
「あら、それは楽しみね。最近は満足させてあげてばかりで、満足させてくれる殿方がいなかったのよ」
「へぇ、これでも女の扱いは心得てるつもりだ。そうそう、お前を退屈させるつもりはねぇよ」
───さて、どうかしらね?
アリシアは内心で、そう呟いた。
女遊びで慣れてきた男というのは、それだけで自分は床上手だという傲りが出始める。こと娼婦や強姦の経験が多い場合、その傾向は華著だ。加えて、それは自分が満足することが目的であって相手を満足させることが目的ではない。よって、存外にそういう手合いは慣れていても必ず女を墜とせるというほどのものでもない。
なぜなら娼婦が相手ならば、相手の方が男を満足させうる駆け引きに一日の長があり、ましてや強姦においては相手を満足さるという気が微塵もない。そういう手合いを相手してばかりでは、自分のスキルは上がらない。
そんな経験を積んでいるようでは、相手を墜とすために訓練を積んだアリシアはイかせられない。
「───んっ」
始まりは甘い口づけ。情欲に駆られたように求めるわけでもなく、遠慮気味にいたしたわけでもない。ただこれから始めるぞ、と伝えるための、始まりの前戯に過ぎない。
だがこの時、アリシアは知らなかった。
目の前にいるマックス───『風間 樟則』がこれまでどんな世界で生きてきていたのかということを。
演劇。それも舞台公演などで登場する『役者』はなく、彼が属していたのは大衆向けに発信される、ドラマや映画に出演する『俳優』だ。
その業界においては、カメラワークによっては顔がアップで撮られることもあり、そのために何より見栄えが良くなくてはならないという暗黙の了解が存在するのだ。そうした根底条件によって、その界隈に籍を置く者たちは一応に美男美女揃い。誰しもが他を魅了する笑顔と身体、凡俗とは異なる品位を兼ね備えている。
そうした者たちが、役割は異なるが同じシナリオを読み、そのシナリオを現実のものにせんと奮闘するのだ。彼らの間には同じ作品に出演するという縁が生まれており、そして撮影期間中という僅かな期間ながらも、彼らは共に友好を育むのだ。
そうしてより親しくなった者同士が、肌を重ねる関係になることも、珍しくはない。
一見、色とりどりの華やかな風景に見られるが、その裏ではドロドロとした人間関係が複雑怪奇に絡み合っている。女優・俳優のスキャンダルが表沙汰になることもしばしばあるが、実際はもっと実例が存在する。
気に入ったからという理由で、新人の俳優に粉をかけておこうと手を出す先輩女優や、気に入った新人の女優に手ほどきという体でホテルに連れ込む俳優などザラにいる。
そんな人間の愛憎と色欲が絡み合う中で、彼は密かながらに女優たちの間で人気を集めていたのだ。
理由は─────彼女たちの身体を、決して他の男では満足できないほどの虜にするから。
幾人もの眉目秀麗の男性を相手にし、幾人もの男たちとまぐわってきた彼女たちをしてその虜とするその技量は、察して図るべし。
この暫く後、部屋の中に、甘く、美しく、それでいて官能的な声が聞こえ始めたのは、言うまでもないことだ。
ちなみに、マックス君は性行為を生業とするAV男優ほど床上手なわけではありません。
そして彼と肌を重ねた彼女たちが、快楽に墜ちたというわけではありません。
快楽というよりは、『満足感』ですね。
どうしてそうなるのか、それが明かされるのはもっと先のこと……




