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赤と銀の硝煙二銃奏3

リアルが忙しくって、更新できずホントすいません



「そんで、まァた性懲りもなく人殺しの道具を買いに来たって訳か。え? クソガキよぅ?」

「開口一番に罵声を飛ばしてくるのは相変わらずだな、ロットン」



───そりゃあまぁ、間違ってないから何も言い返せないが……



 目が合った瞬間にそんな皮肉に満ちた言葉を吐くのは、この街広しと言えども一人ぐらいだろう。



 場所は変わってロットンの武器屋。

 徐々にだが見慣れ始めた店の内装に、見渡す限り銃器。カウンターの奥から、読んでいた新聞を放り投げ、非難の目を向ける店主。目一杯吸った息と共に、タバコの煙が吐き出される。

 つい先日も要り様でこの店に訪れたのだが、今日もまたここに来てしまった。前回も前回で結構な罵倒を言われたのだが、今回はそこまで日を開けずに来たことで、店主の機嫌をさらに悪くしてしまったらしい。口でははっきりと言わないが、目がそれを語っている。



「ハンッ、好き好んで堅気(カタギ)から転じて殺しを続けるクソガキには、皮肉の一つでも言ってやりたくなるってもんだ」

「オレを今でもクソガキって言うのはお前くらいだぞ? ロットン」

「クソガキはクソガキだろうが。好き好んで人殺しなんぞしてるバカ野郎は、どこの誰だろうとクソガキだ」

「おうおう。すげー暴論だぞ、それ」



 軽く笑って流すが、結局のところそれだけだ。

 この店主は、この店主なりに俺を気遣って皮肉を言っているのかもしれないが、俺にも退けない一線がある。下手にここで怖気づいて身を退こうものなら、後に待っているのは俺が死ぬ未来だけだ。

 もう俺がいるのは、まだ足が洗える(上澄み)の領域じゃあない。腹に幾つも(不純物)を抱えた奴らが巣食う温床(ヘドロ)の領域。

 退いた所で、こびり付いた(汚れ)は決して落ちない。中途半端に終わるには、やり遂げた所業が大き過ぎた。



「チッ……まぁ、クソガキだろうが何だろうが、ウチにとっては大事なお客様だ。それも名うての、な。……要望は何だ?」



 嫌々そうに、本当に嫌々そうにしながらも、溜息や舌打ちや皮肉を零しながらも、結局はこの店主は銃を売ってくれる。俺がもう少し老けたら、この仕草もなく売ってくれるようになるのだろうか? ……それは一体何年後の話だ。



 まぁ、それはさておいて。



「今度の依頼で要り様でな。ライフルを一丁、見繕って欲しい」



 今回の依頼は、恐らく遠距離狙撃がネックになる。既に『義勇軍』もそれくらいはやっているだろうが、だからと言ってやらないという選択肢はない。ただでさえ戦力的には圧倒的に分が悪いのだ。正面突破は愚の骨頂。接触してからの暗殺も視野に入れたが、忠誠心が高く統率が取れている集団相手には怪しい素振りを見せた瞬間殺されかねない。となると、残るのは認識外からの狙撃ぐらいしかないのだ。



「小機関銃のお次はライフルか……今度は一体何をする気だ?」

「端的に言やぁ、戦争屋(ハイエナ共)聖地(吹き溜まり)で、『解放戦線(レジスタンス)』の頭の首を獲ってこいって話だ」

「……はぁ。お前もとうとう、死臭に群がる傭兵(ハイエナ)風情に成り果てたか」

「しんみりした顔つきで縁起でもねぇこと言ってんじゃねぇよ、ロットン。悪党の吹き溜まりで言やぁ、向こうもここもそんなに変わりねぇだろ」

「ハッ、それもそうか。……どれ、お眼鏡に叶うブツを探してみるか」



 そう言ってロットンはカウンターから立ち、ライフルが集中的に展示してある区画に向かった。俺が口頭で伝えた内容を受け、頭の中で思い描いたリストを整理しているのか、ブツブツと何かを呟きながら店内を物色するロットン。タバコを吸ってだらけ切っていた様子とは打って変わり、その目は既に仕事人のソレへと変わっていた。

 ……最初からそうしてくれていればいいものを



「向こうは砂塵が舞ってる。ってぇなると、セミオートはダメだな。すぐイカれちまう。となると、最近出た『AS50』も無理か……」



 あーでもない、こーでもない、とブツブツと呟きながら物色しているロットンを後ろから眺めているのも手持ち無沙汰だから、俺もふと、目にした銃を手に取ってみた。



 手にしたのは、深緑色のボディカラーをしたボルトアクション式ライフル。全長は120cmほどで、大型のスコープが取り付けられており、狩猟用というよりは軍が使っていそうな近代的なデザインをしている。他のものに比べてもまだ新しい銃のようで、銃床部分がやや革新的な構造をしている。

 去年の夏に、アメリカでの映画出演のオファーを受けて空砲だったがライフルを扱ったことがあるが、その時のライフルのデザインは、どちらかといえば猟銃といったデザインだった。だからこうした軍向き───対人に特化したライフルを握るのは、これが初めてだ。



「ほう、なかなかいいチョイスするじゃねェか」



 と、銃を眺めていたら、横合いからロットンの感心したような声がかかった。特に考えもなく手に取ったせいで、特に銃の良し悪しは考えていなかったんだが、当りの銃でも引いたのか?



「こいつはなんて銃だ?」

「『SV98』だな。ドラグノフに代わってロシアから出た一品物だ。軍の連中も使ってるヤツだぞ」

「へぇ……」



 銃床の長さを調節し、実際に構えてみる。重さも丁度良く、手に馴染みやすい。実際に俯せで構えてみないことにはわからないが、意外に使いやすいかもしれない。



「そいつも候補に入れとくとして……俺から勧めるのはこいつだな。『ツァスタバM93』。そいつより前に出たモンだが、ウチで扱ってる中でも上等な対物ライフルだ」

「なるほど……………………あん?」



 ふむふむ、そうかそうか。とロットンの説明を受けて受け取ろうとしたところで、ふと、違和感を察知した。会話の内容は英語。そして今、『Rifle』の発音だけでなく、その前に『Objective』という言葉が続いたような…………?

 


「……対物(・・)ライフルだと?」

「おう、対物(・・)だ。対象が兵器じゃねぇってこたぁ知ってるが、連中の武装を考えたらこれくらいでちょうどいいんだよ。連中、どっから持ってきたのか知らんが戦車やら航空戦力まで投下してくる生粋の戦闘狂いだぞ? ただのスナイパーライフルみたいな豆粒ぐらいで、どうやって戦闘ヘリやら戦車やらを墜とそうってんだ?」



───嘘だろ、そんなレベルなのかよっ!?



 それはもはや、闘争という概念に支配された畜生共の殺戮地帯なんてレベルではないだろう。俺の背中を、嫌な汗がツーッと垂れていく。

 個人が持つような銃火器であっても、整備や弾薬の調達など、意外にやることは多いのだ。ゲームなんかで見られる、整備工房に持ち込んだら数秒で終わるような摩訶不思議な便利時空は存在しない。衝撃を与えれば部品が曲がったりするし、撃ち続ければ内部に火薬が溜まる。ましてや、戦車や戦闘ヘリをはじめとした航空戦力の兵器など、メンテナンスには専門の技師が要る。



 そんなものを持ち出してくるなんて、十中八九、裏で何かしら手引きをしている協力者がいる。『OPEC義勇軍』は、文字通り石油産出国が加盟している『OPEC』が主導の部隊なのだろう。そしてそれを支援しているのが、石油の恩恵を受けている大国。それに対抗しうる戦力を、レジスタンス一つが持てるはずもない。一時的には拮抗できたとしても、武器弾薬の底が尽きれば地力で負ける。



 にも関わらず、未だ戦線が維持され、その上驚くべきことに、押し勝とうとしている。

 明らかに、バックに武器を供給している黒幕がいる。それも、国が組織した部隊を退けられる武装を送り込めるだけの、とてつもなく大きな力を持った組織が。



───随分と、きな臭くなってきたなぁ……



 始まる前からこれだ。今更ながら、自分がかなりやばい案件に首を突っ込んでいることに気が付いたがもう遅い。既にもう、片道切符は買っている(賽は投げられている)んだから。

 考えても仕方がない。後はどうやって依頼をこなし、生き延びるかが問題だ。



「ったく、ここは、オレをとことん退屈させてくれない街だなぁ」



 クククッ、とニヒルに嗤い銃を受け取る。

 心臓がバクバク鼓動を立てて背中でダラダラと冷や汗が流れているが、不敵な装いは崩さない。

 新しい玩具でも貰うように、ライフルを見分する。流石、老舗の店を構えるロットンの目利きは素晴らしいの一言だ。自分でも驚くほどに、よく馴染む。違和感がまるで息をしていない。調整さえすれば、長年使いこんできたかのような安心感さえ覚えることだろう。



「んじゃ、ロットン───こいつはいくらだ?」



 購入は、決定事項だった。






◆◇◆◇






 アトロシャス沿岸部には、貪欲で強欲な港(グリーディ・ハーバー)があるが、その更に南西方向に行った所には、この街の空の玄関口である影ある者の船着場(ギルティ・エアライン)がある。

 字面からして胡散臭さの塊とも言える空港だが、実際その通りなのだ。空輸便をはじめとして旅客機もそうだが、そうした経路を通して荷物、人が行き交っているが、それのどれもこれもが、どこか薄暗いナニかを抱えている。ここから出ていく()も、ここにやってくる()も。

 実際、こんな所に態々飛行機で来る時点で、裏に関わっていることを言わずとも語っているようなものなのだ。普通の燃料補給のために寄るなら、インドのインディラ・ガンディー空港あたりで十分なのだから。



 そんな仄暗い背景のある空港にこうして足を運んだわけなのだが、そんな裏話を腹の内に隠すかのように、この建物は随分と整備の行き届いた容貌だった。夕陽によってオレンジ色に染め上げられ、一点の曇りもない綺麗な窓ガラスが柔らかな斜陽を散らしている。これは先進国に建てられた国際空港だ、と言われても場所が場所なら信じてしまいそうなほどのものだ。



 治安が最悪と言っても、ここに飛行機でやってくる人物はその多くが組織の要職に就いている幹部や、腕利きの殺し屋といったビッグネームばかり。その外部の要人たちに、この街の影響力、そして資金力(地力)を見せつけるための戦略だろうか?

 だとしたら、この街の人間性をよく表していると拍手を送って称賛してやりたくなる。腹の内にしまい込んだ実情(悪意)外見(外装)で取り繕って堅気っぽくしているなんて、まさにこの街の住人のことだろう。いい感じに皮肉が効いている。



 そんなことを片手間に思いつつ、一歩、俺はターミナル内に足を踏み入れる。

 瞬間、向けられる好奇の視線。ひそひそと耳打ちをする男たち。

 俺がここ最近、アトロシャスで名を上げているのは周知の事実だ。普段は街中にいる俺がこうして外へ行くのだから、興味を持たれるのは当然と言えば当然か。新参者で有名になったのなら、きっと最初はどこの業界でもこんな感じなのだろう。しばらくすれば、この好奇の視線による針の筵もなくなるだろう。



 肩に背負(しょ)っている荷物を背負い直し、一歩一歩、気にした素振りも見せずに歩を進める。

 エントランスの入口から入って左側がチケット購入売り場、正面が滑走路を一望できるガラス張りの構造となっており、右側がコンビニやカフェなどの飲食店のテナントが並んでいる。と言っても、そこにいるのは家族連れの旅行客でもなく、着飾った紳士淑女が何やら秘密の会談をしているだけだ。旅行のワクワクなんて欠片も見られない。実に事務的で緊張感に満ちた光景が広がっている。



 っと、チケットを購入しようと歩みを進めているところで、見知った───正確には顔だけは知っているが名前は知らない───人物が目に映った。エントランスの待合スペース、腰掛け用の椅子が多数ならんでいる場所に、黒髪にサングラス、東洋系に見られる堀の浅い顔立ちをした黒いスーツを着た男が特に目を合わせるわけでもなく、座って新聞を読んでいた。



 ───この前、劉の後ろに控えてたやつだよな……?



 他人の空似や変装の類には見えないし、加えて一発で所属が割れる服装をしているあたり、こちらとコンタクトを取りたいのだろうか?

 劉に会ったのは、つい今日のことだ。あいつが情報を伝え忘れた、なんてことは考えにくい。となると、新たに伝えておかなきゃいけない案件が浮上したのか?



───なら、ここはいつも通り、しっかり見越してる感を出しといて……



 何気ない風体を装って待合スペースまで行き、座っている男の真後ろに背中合わせになるよう腰を下ろす。こちらからは声は掛けない。意図は察したから、用があるなら早く話せ、と無言で問いかける。

 すると、男が口を開いた。



「このタイミングで悪いなマックス。追加の情報だ。……現地に、こちらで手引きした工作員が潜入している。向こうに行けば、ウチの工作員が接触する手筈になっている。そいつらを通して向こうの情報を貰ってくれ」



───ビンゴ



 予想の範疇でしかなかったが、やはり連絡要員を回してきたらしかった。しかしタイミングがかなりギリギリ。……何か嫌な予感がするな……。トラブルか?



「随分と急だな。こういうのは、初めから伝えとくモンじゃねぇのか?」

「事情が変わったんだ。こちらも、別に伝える必要はないと踏んでたんだが……」

「伝えなきゃならねぇ何か(・・)があった、ってことかよ? ……そもそも、伝えてなかったら、お前らの工作員も下手したら手にかけてたぞ?」



 むこうで、何が起きるかは全くわからない。完全なる手探り状態でブラックボックスの中を彷徨い、標的を仕留めなければならないのだ。素性を教えられてなかったら、知らない内に巻き込んで殺していた可能性も否定できない。



「安心しろ。これでも何年も向こうに潜り続けてる工作員たちだ。実力は玉樹會(ウチ)の中でも選りすぐり。危険を察知したら、さっさと身を潜めるだろうさ。その辺の心配はいらねぇよ」

「なるほどねぇ。そいつを聞いて安心した」



───しっかし、あの劉が土壇場(ここ)で連絡しなきゃいけない事態、か。



 敵ではある。油断してはいけない相手だとはわかっている。

 だがこれまでそこそこに顔も合わせ、言葉のやり取りをしているからわかることが、あいつは仕事に関してはかなり手際がいい。むろん、予防策も含めて、だ。

 ゾンビ狩りをした翌日の一件の手引き、あれも劉に俺が依頼して手配してもらったものだ。一晩というリミットしかないにも関わらず、タクシーの手配やらその制服の手配やら諸々全て完璧に揃えられるあたり、かなりの手腕だろう。

 その劉が、この出国ギリギリのタイミングで連絡員を介して新しい情報を持ってきたのだ。想定外の事態が起きて後手に対処せざるを得なかった、というのが妥当な筋書き(ストーリー)だろう。



「これがチケットと、向こうで工作員と接触する時の合言葉と目印だ」

「チケット程度は自費で出すつもりだったんだがな。……これも事情が変わった、ってやつか」

「そう言うことだ。俺からもあんたの武運と仕事の成功を祈ってるよ」

任せとけ(オーライ)。いくつか土産話でも持ってきてやるよ」

「ハハッ、そいつは頼もしいことだ」



 後ろから渡された封筒を背後で受け取ると、言うことは全て言った、とばかりに俺たちは同時に立ち上がり、別々の方向へ去っていった。

 チケットをもってゲートを通る時には、アイツの姿はもう見えなかった。






◆◇◆◇






「とりあえずは、一仕事終えられたか……」



 先程までマックスと話していた男が、空港より出て歩みを進めている。彼が負っていた任務は、マックスへの情報提供とチケットの確保。横並びの座席を2席、確保しておくことだった。

 マックスに渡したのは、その内の一枚だけ。もう一枚懐にしまい込んであるが、それは渡す必要のない分だ。



 よもやネズミが潜り込んでいて、その出処がよりにもよって連中(・・)だったとは。なんとも巡り合わせが悪い。すぐさま電話やメールのログを確認したが、今回の一件は確実に向こうに洩れていることが判明している。それがわかったのが今日の昼過ぎ。マックスに依頼をし終えた直後のことだった。

 なら、せめて向こうでどんな動きがあるのか、この情報を元に連中の動きがどう変わったかの通達くらいはしておかなければマックスの仕事に支障が出る。これは、マックスが失敗すればマズいことになる案件なのだ。



 そして往路でも連中からの接触がないよう、こうして手配する必要があった。今回、マックスの隣の席は空きとなっており、後ろは壁となっているために万一にも背後からの強襲はない。襲撃するなら座席越しに前か、通路を挟んで横からしか狙うことはできないが、席は既に埋まっている。それはあり得ないだろう。あるのは通路を移動してきた人物が強襲をかけるくらいだが、それならマックスでも対処はしやすいだろう。常に周囲に敵がいるより、難易度は格段に下がる。



 だから後は、このチケットを処分するだけだった。



 歩道の端に寄り、海への転落を防ぐための柵の位置まで移動する。懐から取り出したチケットとライターを手に、柵からそれらを突き出す。燃やして処分するつもりなのだ。

 本当ならトイレにでも行って流して捨てるべきなのだろうが、チケットを購入でできた時間も、実はマックスが来るほんの少し前だった。トイレに行く間にすれ違いになるのを恐れた彼は、そのまま肌身離さず持っていたのだ。破って近くのごみ箱に捨ててもいいが、ここなら半分以上原型が残っていればすぐに復元できてしまうというのだ。故に、この手段しかなかった。



 チッ、チッ、ボォッ



 ライターが点火され、オレンジの火が点る。しかし突然に噴き出した海風に煽られて、不規則に揺らめく。危うく火が消えないように、そして手短にさっさとチケットを燃やしてしまおうと、男はその火を近づけていき───



ドスッ───!



「──────ッ!?」



 駆け巡る激痛


 こみ上げる血色


 迸る熱


 そして───血色に染まった切先



 男の胸から鮮血を帯びた銀の刃が飛び出し、黒のスーツをじわりじわりと赤く染めていく。悲鳴をあげようにも、男の口元は手で覆われて吐血すらままならない。振り返ろうにもガッチリと顔をホールドされているため、それすらも許されない。



 そしてなにより、驚くべきは自分が一切強襲に気づけなかったという事実。

 玉樹會の、それも腕が立つ部類に入るこの男は、文字通り数多くの修羅場を潜ってきている。だからこそ、幹部である劉が引き連れる常備戦力にも抜擢され、工作員としての訓練を受けていないにも関わらずにこうした単独任務も任せられるのだ。それは戦闘力を買われているから。ある程度の襲撃ならば、身一つで切り抜けることくらいはできると信頼されているからこそなのだ。



 その自分が、一切気づけなかった。

 何故、どうして、と。その事実が男を驚愕という感情で縛り付け、抵抗しようとする気を奪っていく。ズルズルと、滴り流れ落ちる流血の如く、男の身体から生命力と共に抵抗力を失わせていく。

 


 徐々に身体の強張りが抜け、男の死期が確実に近づいているのを感じ取った下手人は、頃合いか、と口を覆っていた手を退け、ひょいっと男の持っていたチケットを抜き去った。

 そのチケットの状態をチェックし、まだ新品同様に真新しいものであることを確かめると、口元が薄く弧を描いた。そして、彼の耳元でこう囁く。



ご 苦(хорошо) 労 様(поработали)



 乾いた音が、3発。 水を打つ鈍い音が、一つ。



 一つの命が、母なる海へと還っていった。

 その瞬間にはほんの少し、海の潮の匂いに混じって鉄の匂いがしたそうだが、多くの者は気にした素振りを見せず、その次の瞬間には、そのことを忘れているようだった。




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