閑話 少女の再起
今回は前話ラストであった手紙の件の話です
もう9月の半ばに差し掛かるというのに、ここ最近は梅雨と間違えてしまうんじゃないかと思えるほどによく雨が降っている。朝の通勤通学をする人たちの表情も、空を覆い隠す雲みたいにどんよりとしていて、晴れている時よりも活気がないように見える。
昨日も、今日も、似たような日々。道行く人たちもそうだけど、私の心の雲も一向に晴れる気配はない。……ううん。きっと、あの日から私の心はずっと曇り空か、もしくは雨雲しかない灰色の景色のままなんだと思う。
忘れもしない、8月6日のあの日。
あの日はちょうど、彼がヨーロッパに旅行に行くと言っていた日だった。受験生なのに、受験勉強は大丈夫なの? と尋ねたけど、直前に受けた模試で、志望校のA判定という結果を叩きつけられて、私は唖然としたのを覚えている。私はようやくA判定目前の点数を取れるぐらいだったというのに、彼はその更に上を行っていたのだ。しばらく不貞腐れて、彼を困らせたのをよく覚えている。
しばらくそうしていじけた後、私も本当に付いていこうかな、って思ったんだけど、受験勉強をサボることに不安を覚えていたから、やっぱり行かないことにした。
『私は一緒に行けないけど、旅行を楽しんでね』と、その旨を彼に伝えたら、彼は驚いたように目を瞬かせた後、クスっと笑い、優しく私の頭を撫でてくれた。まるで世話の焼ける妹のちょっとした成長を褒める兄みたいに、微笑みながら私の頭を撫で続けた。妙にこそばゆかったし、気恥ずかしさもあったけど、そうしてくれるのがちょっぴり嬉しかったのは内緒だ。
そしてその言葉を交わしたのが、8月1日。いつも通りに最寄り駅から一緒に降りて、いつも通りに何気ない雑談に華を咲かせて、いつも通りに見慣れた分岐路で別れる。
日課の一工程にも思えるいつも通りのやりとりが、あの日を境に、途絶えた。
◆◇◆◇
事件が起きたのが、あの日の夕方のこと。
私は塾の夏期講習を終えて帰宅した後に、手洗いうがいを済ませ、飲み物を片手にリビングに来た時に、そのニュースが私の視界に飛び込んできた。
『続報が入りましたので、臨時ニュースをお伝えいたします。日本時間の今日、午前11時頃。成田空港から離陸した旅客機エアバスA340が、飛行途中でエンジントラブルを起こし、途中経路にあるインド東部そしてテンダレス共和国の国境付近の樹海に墜落、炎上しました。地元当局による消火活動が行われ、火は、日本時間の午後4時頃に鎮火されましたが、焼け跡からは身元不明の焼死体が多数発見されており、この便に乗り合わせていた乗員乗客合わせて438名の安否は未だ確認されておりません。地元当局からの報告では、『生存は絶望的』という報告があがっており───』
最後までそのニュースを聞き届ける前に、突然視界が真っ白になった。
耳から音が、やけに遠くから聞こえるようになった。
手足に力が入らなくなって、手に持っていた飲み物が床に落ちて床に広がっていった。
力が入らなくて、身体を支えられなくなった脚はそのまま崩れ落ち、私はその場に座り込んだ。
遠くから執事の伊藤さんの声が聞こえた気がしたけど、誰かが私を揺すっているような気がしたけど、私はそれに反応するばかりか、何も考えられなくなっていた。
そして気付けば自分の部屋にいて、自分のベットの前に立ち尽くしていて、右も左も、前後すらも分からない深い霧の中にいるように、私は何もできずに立ち尽くしていた。
日も完全に沈み切って、辺りは真っ暗闇。
そんな時でも私は部屋の明かりをつけることもせずに、真っ暗な部屋にいた。
大分意識が戻ってきて身体も動かせるようにはなっていたけれど、私は何かをする気力まではなかった。
ただ何の気なしに、ぼーっと部屋の中を見渡していた時に、ふと机の上に飾ってあった写真が目に入った
私と彼が、笑いながら映っているツーショット写真。以前遊園地に遊びに行った時に撮った、大切な思い出の写真。
そしてもう、二度と手に入れることのできない、私の宝物
『あ、ああ……』
思わず手に取ったソレに映る、幸せそうな二人の笑顔。でもそれは、その幸せは、私の手から零れ落ちてしまった。
『ああ……ああああああああぁぁぁぁ───!!!』
それを自覚した途端、私の心は破綻した
止め処なく溢れてくる感情に、私の心は蹂躙された。失ってしまったものはもう取り戻せないのに、私は手元に残った思い出を抱きしめて泣き続けた。そうすれば戻ってくるかもしれないと、在りもしない幻想に縋るように、子どものように声をあげて泣いた。
私はその日、涙が枯れるまで、泣き止むことはなかった。
◆◇◆◇
シトシトと窓に降り注ぐ雨音を聞き流しながら、何をするわけでもなく、私は只々ぼぉーっとしている。私の部屋に備えつけられているベットに寝転がる訳でもなく、ただ私は肩に羽織った上着の袖を握りしめながら、何もせずに虚空を見つめている。
あの日から3日はまともに動くこともできなかったけれど、もう日常生活を送るのに支障はないくらいに回復はした。両親に、それにいつもお世話になっている執事さんやお手伝いさんにも心配をかけちゃったけど、「大丈夫」と言って気丈に振る舞っている。
けれど、私の心はそんな簡単に前を向くことはできなかった。
あの日、声をあげて泣いた日からもう一ヶ月以上経っているけど、時々こうして何もしない無気力状態になることがある。
ふと気を抜いた途端に、心にぽっかりと穴が空いたような虚しい気持ちに陥って、また何も考えられなくて、暫くずっと放心状態になる。
彼が居る、いないだけでこんな状態になるのだから、私はきっと彼に依存していたんだとこの頃になってようやく気付いた。
着かず離れず、時々私のことを邪険に扱うこともあるけれど、私に何かあった時にはそれとなく私を助けてくれる。私が求めていないなら何もしないけど、逆に私が求めていたら面倒だと言いながらも、最後は私自身で解決できる程度に手助けてくれる。
求めていないのに勝手にやろうとするお節介な人や、私が介入する前に何もかも自分で解決してしまおうとする人たちとも違う。そんな人たちみたいに、私に振り向いて欲しいから助けてくれるんじゃない。
私が友達だから、助けてくれた
そこには変な下心も、打算的な考えもない。ただ、友達が困っているから助けるという理由で、当たり前のように助けてくれる。そんな彼が、いつしか心の拠り所になっていた。彼以外の皆は、そうではないから。
けれど、そんな心の拠り所である彼は、もういない。
心に空いた空白にはいつか折り合いをつけなくちゃいけないけど、今は只々それを忘れていたかった。その現実を、直視したくなかった。
幸い私は受験生。その事実から目を逸らしたい私にとって、勉強というまたとない言い訳があった。気を紛らわせるために、とにかく私は必死に勉強した。他事なんて考える暇も与えず、朝から晩まで勉強して、そして力尽きたようにベットで眠る。その繰り返しだった。
でも、それができたのは、意図的に人との接触の機会を減らすことができる夏休みまで。それも終わって新学期が始まった頃には、どこから情報が漏れたのか、その事故で彼が行方不明になったという話で教室はもちきりだった。私も実際に、いろんな人に質問攻めにあった。
当然、目を背けていたかった私にとってそんな話は聞きたくもなかった。耳を塞いでいたかった。叶うならば、私は耳から入る全ての情報をシャットアウトするように、その場でずっと俯いていたかった。
それは、聞いてくる皆の目が、怖かったから。
そこには私を、本当の意味で心配してくれている人なんていなかった。皆の目が、抑圧され続けた感情に染め上げられて、とても狂気的に見えたから。
愛してる、愛してる、愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテル……───
私が向けてもいないのに、皆から一方的に向けられるその感情。
今までは彼が居る時には気にならなかったのに、彼が居なくなった途端に、隠す気がなくなったように向けられる感情が露骨なものになった。私の気持ちを微塵も配慮しない無遠慮な視線は、私にとって精神を土足で踏み荒らすように感じられ、ひどく心を廃れさせた。
そんな環境に置かれること二週間。
表面上は取り繕ってはいたんだけど、そろそろ精神的に限界が見えてきた。ここ何日かは、もう毎日のようにこんな状態に陥っている。
休めばなんとかなるかも、とも思っていたけど、休んでも擦り減った精神は元通りにならなかった。これから先、ずっとこんな状況が続くのかな、なんて思ってしまえば、今よりずっと陰鬱な気持ちになってしまう。
どれだけ足掻いても抜け出すことのできない蟻地獄に飲み込まれていくようで、私の精神は、加速度的に窶れていった。
コンコンッ
突然、私の思考を打ち切るかのように、雨音しか聞こえなかった部屋の中に新しい音が響いた。その音にハッとなって、音源であるドアに目を向けると、ドアの隙間から影が覗いているのがわかった。
私はこれでも受験生。受験勉強の妨げをして欲しくないから、親にも私が部屋にいる時はなるべく一人にして欲しいって言ってあるし、余程のことがなければ誰も声をかけてこないはず……。
『お嬢さま、執事の伊藤です。お時間を頂いても、よろしいでしょうか?』
「伊藤さん? ……どうぞ。入っても大丈夫ですよ」
「では、失礼します」
そう言って入ってきたのは、執事の伊藤さんだった。黒髪をオールバックにして、角ばったフレームの眼鏡をかけた初老の男性。私が生まれた頃からお世話になっている人で、私がこんな状態になっているのを家の中で唯一知っている人。
「……ご気分がすぐれないなら、後ほど紅茶でもお持ちいたしましょうか?」
「ありがとう、伊藤さん。……それじゃあ、お願いしようかしら」
「かしこまりました」
私が精神的に危うい状態になったあの時も、伊藤さんは真っ先に駆けつけてくれたから、私がこの状態に陥っている理由も薄々察しているんだと思う。だから、私を気遣って何も言わずそっとしてくれている。その気遣いが、気遣いの欠片も見せない人に囲まれた環境にいる私にとって、掛け替えのない心の癒しになっている。
「本日は、お嬢様宛てにお手紙が届いております」
「私宛て……? 模試の結果とかなら、もう貰っているはずだし、お見合いの話は全部断っているはずなんだけど?」
「いえ、そのような内容ではないようです。内容は見ていただければ、お分かりになるかと」
「伊藤、さん……?」
いつもみたいな、仕事に徹した顔じゃなかった。何かを必死に押し殺しているような、そんな神妙な顔。心なしか封筒を差し出す手も震えている。
一体何が。そんなささやかな疑問符が浮かんだけど、私は差し出された封筒を手に取った。
届けられた封筒は、縁が青色と赤色でストライプで彩られた特徴的なイラスト。
これは確か……
「国際郵便? 一体誰、が───ッッ!?」
差出人を見た瞬間、私の思考は再び停止した。
驚きで目を見開いて、瞬きさえも、呼吸すらも忘れて、食い入るようにそれを見つめていた。
だってあり得るはずがなかったから。だってそれは、もう触れられないと思っていた人からの手紙だったのだから。幻覚か、ただの夢なのか、そんな疑問が頭を過るのも束の間。次の瞬間には、まるで身体が勝手に動いたかのように封筒の封を強引に破っていた。
「これ、は……っ」
拝啓 常盤 美弥殿
お前が今何処で何をしているかはわからないから、先ずは俺の近状報告をしておこうと思う。この手紙を読んでいるだろうからわかっているだろうけど、俺はちゃんと五体満足無事な状態で生きているから安心してくれ。あの飛行機事故からどうやって俺が生き延びられたのか、それは天文学的数字でないと表せないぐらいに奇跡的な現象の結果だ、としか言いようがないから、そういうものだと納得してくれると助かる。
そして今の俺の現状だが、今は『アトロシャス』でちょっとした万屋を開いて活動している。出される依頼はほぼ毎回荒事が絡んで、懐の銃を撃たなきゃ生き残れないような地獄みたいな場所だ。流石、『犯罪者たちの終着駅』って呼ばれるだけはある。毎日が退屈どころか、ちゃんと気を張っていないとすぐに殺られそうなほど物騒な街だよ、ここは。そしてこの文で分かる通り、俺は日本じゃあ後ろ指を指されるような銃の発砲やら、生き残るためとは言え殺人に手を染めている。お前の傍にいるには相応しくない人間に成り下がっちまっている。もう、お前が知っている俺はどこにもいないのかもしれないな……。
さて、しんみりした話はここまでにしておこうか。お前は今、受験生だろう。勉強はちゃんとしとけ。大学入学は日本じゃ当たり前みたいな風潮があるし、しっかりしたところに入学できれば、お前の将来にも役立つだろう。こっちは自分の身を護るのに精一杯だから、そうそう何度もそっちに戻ることはできねぇけど、高校の卒業式には、なんとか工面してお前に会いに行こうと思う。それまでは、後悔しないように勉強しとけ。お前に会えるのを、楽しみにしてるぞ
P.S 何があろうと、俺の親父には決して近づくな
敬具
字の書き方、言葉遣い。どれをとっても彼のものだ。
彼は生きてた。生きていた。生きていてくれた……っ
「うっ…っ、ひぐっ…っ────!!!!」
溢れ出た想いは、どんな手でも抑えることはできなかった。
気づけば、ボロボロと大粒の涙が頬を伝って文面にシミを作るのも厭わず、夢中で手紙を読んで、只々子どもの様に声をあげて泣いていた。
悲しみなんてなかった。辛さなんてなかった。
ただ、彼は生きていてくれた。また、会いに来てくれると言ってくれた。その言葉が、悲愴に暮れていた私の心に何よりも染み込んだ。
その日、私はあの日と同じく、また涙が枯れるまで泣き続けた。でもそれは、決して悲しみで彩られた涙なんかじゃなかった。
そしてこの日以降、私が悲しみで涙を流すことも、悲愴感に暮れることもなくなった。
翌日の朝、昨日までの雨が嘘のように清々しい青空が広がっていたのをよく覚えている。
「樟則、次に会える日、楽しみにしてるよ」
風間 樟則、それが私の、大好きな人の名前だ。
「でも、『父親に近づくな』って、一体どういう意味なんだろう……?」
恋する乙女の心境とかハードル高過ぎました……が、ここで一言
これは本当に『恋』なのでしょうかね……?




