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七美の士  作者: 三星尚太郎
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慶応三年~ 孺子は猜疑を練り、士は幽明の境に一人佇む

 命を賭して百姓を守った伝八郎。高岡家は安堵するが、父が人斬りであることを告げられ激しく動揺する陽平。

 時代はついに維新の時を迎え、小さな七美郡も激動の波に揺れる。

 ある雪の日、四人の資格が高岡家を訪れる。

 慶応三年ともなりますと、但州の片隅の七美郡でも、途轍もない回天の大軸がいよいよはっきりと見えるようになってまいりました。


 村岡山名家は誠に小さい所帯でございまして、御公儀のそれとない素振りにも、その欠伸に吸われ、そのくしゃみに吹き飛ぶ可憐さでございましたが、それでも人が集まれば派が生じる道理にもれず、佐幕、勤王の二派で争う事態もございました。されども、元来、勤王の風土に根ざす七美郡でございましたから、長州毛利公、土州山内公御家中のような熾烈な闘争はなく、御屋形様の御意向もあり、家論は概ね勤王で調えられておりました。 そのような情勢でございましたが、高岡家は相変わらずこの先の大渦を知らぬ無邪気な一葉の態にて、時世の流れにただ長閑に浮かんでおりました。


 郷方廻りの仕事は、随分と楽になりました。御屋形様が取高の再実検を正式に御命じになられたため、郷方役所は大騒ぎとなりましたが、これまで父一人で検見していたものを、同役、小者等が総動員となりましたので、父の担当する範囲は随分と狭くなりました。異端視されていた父は一躍、御政道の先駆者となり、何よりも父の仁義溢れる行動により救われた村々は、父の作業に競って協力するようになりました。


 士は御役目を忠実に果たすことこそ本懐ではございますが、それでも百姓の笑顔に迎えられ、笑顔で見送られるのは誠に気持ちの良いものでございます。あろうことか私も、明倫館では英雄視を受けるような始末でございました。風の柳も手のひらほどには返せまいと世の人は申しますが、真実、一時の振舞で、世間は変わるものだと痛感いたしました次第でございます。


 ところで激動の時世でございますから、大家小家に関わらず、武芸は奨励されておりました。明倫館におきましても古籍算術の座学だけではなく、敷地内の道場で剣術稽古が行なわれておりました。江戸では竹刀剣術が隆盛しておりましたが、なにぶん但州の片田舎のこと、木刀での型修得の古い稽古に固陋しておりました。


 武芸に精進し金城鉄壁の士たれ、との御訓戒とともに下賜くだされました竹刀防具一式が届けられました折、私共の浮かれ具合と申しますと、雀も範を仰ぐほどの踊り様でございました。さっそくに小手、面、胴を身につけ、初めてのこととて付け方が滑稽な輩を笑い笑い、腕をさすり、足を勇ませながら竹刀打込稽古に励んだ次第でございます。


 半年もいたしますと、面の紐の締め方、竹刀の構え方などもそれぞれ様になり、稽古終わりには、気の合う物同士、腕を競いたい物同士で稽古試合を行なうことも頻繁になりました。私もときには勝ち、ときには負け、ときには勝者を囃し、ときには敗者を激励して、いつかは父のように直心影流の極意を学び、江戸の上覧試合で挙がる己が名を夢見る日々を過ごしておりました。


 二日ほど明倫館にも道場にも顔を出さなかった市右衛門が、私の挨拶にも無言で鬼気発する稽古をし、稽古終わりに稽古試合を申し込んでまいりました。市右衛門の気魄閃々たる眼光に怖じ気づいたのが本音のところでございましたが、何度も腕を競った仲でもございますし、同輩も囃し立てますので、とうとう申込みを受諾いたしたのでございます。


 互いに正眼に構え、竹刀の剣先を絡めてみますと、市右衛門の竹刀が鉄刀のように重い。練り上げた気力が竹刀に迸っておるのでございました。市右衛門とは数度立ち会い、五分の勝負でございましたが、これほど鬼気迫る市右衛門を見たことはございませんでした。私は不覚にも、市右衛門に何があったのかと逡巡いたしました。


 市右衛門の面打ち。これは何とか避けました。小手を打とうといたしましたが、蝿のように払われました。市右衛門は面、面、面。執拗に、ただ一心に面を打って参ります。逃れ、受け止め、弾かれといたしまして、間を置こうにも、市右衛門は怒龍の勢いで押してくる。さて、いつ彼の逆鱗に触れたかなどと考える間もなく、私は道場の端に追い詰められたのでございます。


 背に板壁。裂帛の気合い。


 私は情けなくも尻餅をついておりました。市右衛門の竹刀は板壁に叩きつけられ、物打ちの辺りからへし折れておりました。


 ただならぬ様子を見て取った師範が、待ての号令をかけ、私と市右衛門を道場中央に引き戻しました。


「勝ち負けなしとする」


 試合を続ける危険を感じた師範は、そのように宣告いたしました。竹刀の勝負では確かに、勝ち負けなしでございます。されども、誰の目にも勝敗は明らかでございました。


 師範に礼をした市右衛門は、私には目礼もせず、すれ違いざまに申したのでございます。


「真剣なれば、貴様の首を叩き落としたであろうに」


 戯言や雑言ではございません。濃密な呪詛でございました。耳を激しく打たれた私は、抜けた腰からさらに何が抜けたものでございましょうか、奈落に落ちるような暗さを見たのでございます。


 同輩の介抱を受けて正気を取り戻した私は、帰路、前を行く市右衛門の姿を見て、堪らず駆け寄りました。市右衛門は一瞥もくれず、真っ直ぐ前方を見据えておりました。


「どういうことだ、市右衛門。戯言では済まされんぞ」


 ようやく腹の立ってきた私は、市右衛門に詰め寄りました。市右衛門は私を見ました。目にはやはり憎悪がございました。


「戯言などであろうか。おれの本願よ」


「いったいどうしたと言うのだ」


「友を装った口を利くな、人殺しの子が」


「なに」


「おれの父を斬った男はだれあろう、高岡、貴様の父よ」


 私は脳天を打ち据えられました。月明かりに浮かんだ父の横顔が脳裏に弾けました。目眩に耐えて、私は申したのでございます。


「何を申すのだ、市右衛門。おれの父が人を斬るなど」


「伝八郎殿の刀をみたか」


「いや、実は父の刀は竹光で」


「加州家吉じゃ。御屋形様から御下賜があったであろう」


 私は何とか頷きました。


「見たか」


「いや、見ぬ」


「ならば見るがよい。刀身におれの父の無念が必ずや刻まれておろう」


 袖を払って、市右衛門は立ち去りました。私は、明倫館の築地米に手を添えて身体を支えるのがやっとでございました。同輩が側に来て、しきりに何事かと問いました。せめてもでございましたのは、ただならぬ様子が人を寄せ付けず、私と市右衛門の会話が誰にも聞かれていないことでございました。


 どうやって組屋敷に帰ったのか、私には分かりませんでした。父が帰宅し、どうにか夕餉の膳に向かいましたが、米の一粒も喉を通りません。


「陽平さん、具合でも」


 母が案じました。父も戸惑ったような目で私を見ておりました。私は、父と席を共にすることが耐えられませんでした。


「すぐれませぬので、今夜はやすみます」


 私は自室に逃げ込みました。横になっても、当然、眠れません。


 深夜となって、私は部屋を出ました。物音を立てず、土間の棚に置いてある納屋の鍵を持ち出しました。


 冷めた月明かりでございました。錠前を外し、納屋の戸を開けますと、射し込んだ月明かりが闇を拭ったその先に、長い、桐の箱がございました。加州家吉でございます。桐箱の蓋を外し、本絹の刀袋を手に取りました。信じられぬほど、冷静でございました。どこぞで落としたかと思うほど、心臓は静かでございました。なぜならば、私は知っておったからだと思います。あの夜の父の悽愴な横顔。それを見たときから、私は知っておったのでございましょう。ただ、それを表わす言葉を知らなかったのでございます。あれは、人を斬った者の顔でございました。


 刀袋から加州家吉を取り出し、鍔を両の親指で押し上げてから、刀身を引き抜きました。明り取りから差し込んだ月明かりに刀身を晒しました。乱れ刃の鍔元少し上から中程までに、人の無念が刻まれておりました。実際のそれは、曇るような刀身の陰りでございましたが、私には滴るような深紅の血の色に見えたのでございます。


 私の世界が急速に閉じてゆきました。私は、私が膝を抱くだけの空間にうずくまり、納屋を出ましたのは、もう明け方でございました。


 その日、私は父と共に八井川村を廻りました。憔悴した私に、父は案じる言葉を投げかけてまいりましたが、私は何も応えませんでした。


 検地の御役目が郷方の御役目となりました関係上、父の同僚や小者などが主に担当し、父は、村々を廻って作付け状況等を見回るだけの御役目となっておりました。検地道具を担がなくて済む分、御役目は楽になりましたが、私の足取りは墓石でも背負ったかのような重さでございました。


 昼食の休憩となり、父は川水で身体を拭うために水際へ降りていこうといたしました。その背に、私は問うたのでございます。


「父上は、何故、八木浅右衛門殿を斬ったのでございますか」


 父が、凍りつきました。市右衛門が父の犯行を知った経緯は存じませんが、もはやそれは重要ではなく、父の強張った表情こそが真実を物語っておりました。


 随分と長い間、蜩を聞いておりました。


「やむを得ない事情があった」


 ようやく、父が申しました。父は、暗い陰の中に落ちておりました。


「どのような事情でございますか」


「いずれ、そなたにも解る日が来よう」


「いずれではなく今、解りとうございます」


 私は引き下がりませんでした。青臭い正義感が、そうさせたのでございます。市右衛門に顔向けできぬという貧弱な矜持も手伝っておりましたでしょう。


「天地に恥ずべきことでないのであれば」


「陽平!」


 父が鋭く叱りつけました。


「父を、信じよ」


 辛そうに、父は申しました。それは哀願であったのかもしれません。されど、父の苦しい心情を推し量ることなど、私にはできなかったのでございます。


「信じられませぬ。人殺しなど、信じられませぬ」


 私は駆け出しました。どこをどう駆けたものか、皆目見当もつきませんが、私は組屋敷まで駆け通したのでございます。もし、父がまだ見えるところで一度でも振り返っておれば、寂寞とした父の孤影が、今でも瞼に焼き付いていることでございましょう。


 一人で走って帰ってきた私に、当然、母は驚きました。問いかける母の声から逃れるべく、私は自室に閉じこもりました。


 その日以来、私は父の郷方廻りに同道いたしませんでした。父も、それを求めませんでした。


 文武修練は武士の勤めでございますから明倫館には通いましたが、学業も剣術も性根が入らず、どこか異界の出来事を眺めているような茫漠感に囚われておりました。市右衛門はあれ以来、私に近づくことはありませんでした。


 同輩共には随分と迷惑であったかと思います。教場にも道場にも、触れば祟られる仏像のような顔をした者が両端におるのは、さぞかし窮屈でございましたでしょう。


 父が御屋形様の御裁可を仰ぐ間、禁足を命じられたみぎりには、江戸からの便りを待ちわびましたが、この度も、御陣屋からの父への出頭命令を待ちわびておりました。人を殺めれば罪を得るべきである。それが私の狭隘な了見でございました。さすがに一日千秋というわけにはまいらず、また、一行に御陣屋から捕り方が来ぬのを不思議に思いながらも、やはりどこかでは安堵しておりました。


 自ら御陣屋に訴え出ることもせず、つまりは私の正義感などはその程度のものでございました。重ね重ね不思議であったのは、市右衛門の親族が訴え出ぬことでございました。されど、青二才の了見内で収まるほど、世の中は狭苦しいものではないということでございましょう。


 明倫館に醸し出した窮屈と同じものを、私は家内にも持ち込んでおりました。朝餉、夕餉のおり、母と小春は辟易したことと存じます。父の問いかけに、私が応えぬことも二度三度ではございませんでした。見かねた母が私を叱ろうとしたことがございましたが、父がそれを制しました。その後、母から小言がなかったところを見ますと、どうやら父が母に言い含めたようでございます。


 ためたつもりもないのに重なるのが歳と世の人が申しますように、どんなときにも月日は流れるものでございます。私も中身は大して成長せぬ間に、柄だけは元服を迎える歳となりました。


 御役目料を加えて僅か三十石の武家では、元服の儀式は質素なものでございます。脇差はかろうじて母の実家が用意してくれましたが、本差までは用意が適いませんでした。私にこだわりはございませんでしたが、家としては大変面目のないことであったようで、祝いの席で伯父などが武士の身の辛さを嘆いておりました。それでも絵鯛ではなく本物の鯛が食膳に上りましたのは、母の精一杯の大奮発でございましたでしょう。これが母の針の手習いの謝儀に反映されておりましたならば、誠に申し訳ないことでございます。


 父は、終始和やかに微笑んでおりました。私も、この日は高岡家の晴れの日でございますから仏頂面を孝子面に取り替えておりましたが、父と私との間のわだかまりを親戚一同の目から誤魔化せたかどうかは自信がございません。


 私の元服の儀式が滞りなく終了し、七美郡は、また冬を迎えました。初雪は今日か明日かというある日の夜、帰宅したばかりの父に呼ばれました。父の部屋の襖を開けますと、父は少し疲れた表情をしておりました。私は伏し目にして、父の前に正座いたしました。父は文机に置いてあった刀袋を、私の膝元に置きました。


「先の日には本差が間に合わず、面目ない思いをさせた。実は、そなたにも郷方廻りの御役目、精勤著しいとして御給金が下された。それでこれを購った」


 父がそれ以上何も語らず、私も話すことはございませんでしたので、本差をいただいて退室しようかといたしましたところ、父が申しました。


「吾にもしもがあったときには、そなたがその刀で母と妹を守るのだ。よいな」


 拍子のずれたありきたりな訓示としか受け止めなかった私は、襖を閉じる間際の、


「頼むぞ」


 という父の念押しに一抹の違和感を抱きましたが、父の側から離れたい一心の私は、父の真意を問うこともなく、父の言葉を反芻することもございませんでした。


 自室に戻り、授けられた刀は刀袋から出すこともせず、脇差しだけがのっている刀掛けに置きました。


 それからは、いつもの冬の暮らしが過ぎていきました。父と私との会話が極端に減った以外は、高岡家には平穏な時間でございました。


 この年の十月には将軍家が大政を返還奉り、十二月には王政復古の大号令が発せられました。とうとう、斯くも強大であった徳川将軍家が、武家政権の天幕を折りたたんだのでございます。


 帝親政の維新政府が樹立され、世はいよいよ御一新となりました。私共軽々の者はただただ平穏を祈るばかりでございますが、計り知れぬ雲上人の色とりどりの思惑が錯綜いたしますと戦争という化け物が生まれ出ますようで、徳川の兵は討薩の上表を掲げて大坂に充満し、薩摩兵、長州兵と睨み合って、今日でなければ明日爆発かという情勢でございました。


 十二月と申しますと、七美郡は雪の下でございます。降りつのる雪は京、大坂の騒動を冷ややかに見つめておるようでございましたが、雪の下の大地に存外の温もりがあるように、山名家中にも小さな火種が燻っておりました。


 家論を勤王に統一していた山名家では、新政府に若干の兵力を派遣しており、旗色を明確にしておりましたが、それでも人の心を根絶やしにするのは難しく、徳川家に心を寄せる者も皆無ではございませんでした。あるいは、この混乱に乗じて、主義信念ではなく、我欲我執で目的を果たそうとする輩がおったやもしれません。


 高岡家では、私が殻に閉じこもっている以外はさしたる動きもなく、ただ父の差料が竹光から加州忠吉に替わったことが小さな変化でございました。


 この冬はことのほか寒うございました。日本中の熱が、京、大坂に奪われたようでございました。年の暮れは、士農工商、どこでも誰もが慌ただしいものでございますが、家中から若い士が洋式銃を肩に京へ出兵していることですので、この年の暮れは特に忙しく感じられたのでございます。


 御役目に一区切りを終えた父は、その日一度帰宅した後、また御陣屋に参るとのことで土間に降りました。玄関まで見送りに立った母と私に、父は穏やかに申しました。


「すぐに戻るつもりだが、夕餉は済ませておくとよい」


 父は、笠を片手に持ちました。雪は降っておりませんでしたが、山際に僅かな暮色を見せるだけの灰色の空はいまにも割れそうな緊張感をはらんでおり、今夜も大雪になりそうな気配でございました。風は、止っておりました。


「陽平」


 その時の父の優しい声に、この頃は無言を返すことの多い私も、思わず素直に返事をしたのでございます。


「留守をたのむ」


 父は蓑の紐を確かめてから、雪の道を踏んで行きました。私はしばらく立っておりました。父の背を見送ると申しますよりは、父の踏む雪の音を聴いておりました。


 四人の士が訪いを入れたのは、それから半刻ほどしてからでございました。すでに夜陰は濃く、四人の顔を確かめることはできませんでしたが、士であることは間違いございませんでした。奥にいた母に代わって玄関に出た私は、とうとう父の罪が問われるのであろうかと流石にひやりといたしました。


「吾は使番、八位彦十郎と申す。伝八郎殿は、ご在宅か」


「いえ、伝八郎はでかけております」


「いずれへ参られたか、教えていただくことはできようか」


「御陣屋に参ると申しておりました」


「ご帰宅は遅くなられるのかな」


「いえ、すぐに戻ると申しておりました」


 八位殿は、後ろの三人とすばやく目線を交わしました。


「かたじけない。それでは御免」


 八位殿は、私のような若輩にも礼儀正しく頭を下げました。風が吹き、粉雪が舞い始めたのは、四人の士が去ってすぐでございました。


「陽平さん、どなたでしたか」


 母が奥から出て参りました。私が委細を伝えますと、そうですかと、父の罪を知らぬはずの母も案じげな顔で、外の粉雪を見つめました。


 夕餉を終えた頃、粉雪は風に舞うことをやめ、しんしんと降り始めたのでございます。すべてを黙殺するような降雪の夜の静けさは、耳に痛いほどでございます。


 父は、まだ帰りませんでした。私が、父の、人を斬った者の顔を見たのも、父を待ちわびた夜のことでございました。胸の底で、何かが騒ぎ始めたのでございます。


 母と小春の側には居たたまれず、自室に戻ると、父から授かった刀が気になりました。刀袋に納められたままの刀。手にとって、紐をほどきました。二尺とすこしの刀。鞘を持つと、ひやりとした感触が掌に伝わりました。


 人を斬った父。深い事情はあった様子。雪の中、父があの四人の士に事情を釈明している光景を想像いたしました。


 私は、鞘に収まったままの刀を正眼に構えました。明倫館の道場で、二つ三つの技は学びましたが、腹の一番底にあるのは、父が剣について授けてくれた唯一の教えでございました。


 君命、正義にあらずんば、軽々に剣を抜いてはならない。相手に打ちかかられたならば、後の先を取って、胴を打て。


 私はふと気付きました。八木浅右衛門殿は胴を斬られたのでございました。父が斬ったのであれば、それは後の先であったはず。もしや、斬りかかったのは八木殿ではなかったか。


 畳みかけるように私に迫ってきたのは、先に訪ねてきた四人の士の目的が何であったのかという疑惑でございます。様々に去来する思いの最後に現れたのは、父の言葉でございました。


 私は空廻る足ももどかしく、土間へ走りました。母と小春が、大慌ての天狗を見るような目をしておりました。


「陽平さん、どちらへ」


「父上を見てまいります」


 飛び出しますと、雪が叩きつけてまいりました。視界は白でございます。


 愚かさを、私はこの時ほど後悔したことはございません。知らぬ相手に安易に父の行き先を告げた唾棄すべき無邪気。刀を授けた時の父の言葉、出掛け間際の父の言葉。一つ一つ合点がまいりました。一本の筋は、恐ろしい推測へと繋がっておりました。


 降りしきる雪。絶えた人影。黙り込む家屋。凍てついた川。ただ唯一の雪を蹴る音。


 私は一度立ち止まりました。荒い息づかい。何かを打ち交わす音。剣と剣。再び私は走りました。湯舟川に架かる橋の途中で足を滑らせ、私は雪の中を転がりました。起き上がった私が見たものは、白い大気の中で交差する四本の刃でございました。恐ろしく、されど、どこか美しい光景でございました。


 父を取り囲む白刃は三本。あの四人の士でございます。一人はすでに雪の上に倒れておりました。飛び散っていた血が、見る間に粉雪に隠れていきました。


「父上」


 私にできることは、ただ叫ぶだけでございました。助太刀しようにも震える手は容易に刀を抜けず、助けを呼びに走ろうにも足はすくんでおりました。


「陽平、下がっておれ」


 父はこちらに駆け寄ろうとする素振りを見せましたが、取り囲んだ三人がその隙を与えませんでした。それどころか、私に気を取られた父は、前方と左右をすっかり囲まれてしまいました。斬られる。父が死ぬ。私の中のどこか殺伐とした部分が、冷静に、あと数瞬先の結末を囁きかけてまいりました。


 降る粉雪の動きが、緩やかとなりました。止ったようにすら見えたのでございます。父が吐く細く長く白い息。父の切っ先が秘めやかに左に揺れ、右のつま先がごく僅か、されども鋭く雪を蹴る。右手の士が上段から斬りかかる。体を捌き、相手の撃ち込みに刀峰を絡めて左へ流す。囲みの外へ一瞬出た父が、流された士が体勢を立て直すよりも早く踏み込む。


 血が噴き上がりました。無音でございます。返り血をくぐって駆け抜ける父。正面の士。私に訪いを入れたあの士でございます。まなじりを裂き、咆哮を上げたようでございましたが、無音でございます。面打ちと胴打ち。散る血飛沫。飛ぶ雪飛沫。赤と白の交差。駆ける父。最後の士。刀身一体の突き。父の左脇腹を裂いた白刃。士の背の真中から突き出た血刃。頽れる士。


 音が戻ってまいりました。父の荒い息づかいでございます。父は私を見ずに、背後を振り返りました。正面にいた士が立っておりました。父の撃ち込みは浅かったようでございます。


「高岡殿、さすがの御腕前」


「八位殿も、江戸で一刀流を学ばれたと聞いております」


 父は、あの夜の顔をしておりました。八井殿も同じでございます。二人は向かい合いました。父は下段。八井殿は上段。互いの細く長く白い息。粉雪の一鳴き。刀と刀が激しく撃ち合わされ、激しく弾ける。横なぐりの一閃ふたつ。


 血が、雪を打つ音がいたしました。父の足元に滴る血が、見る間に血だまりとなりました。父は、右の肩を割られておりました。父が左手で力なく提げた刀の下に、喉を裂かれた八位殿が倒れておりました。父は八位殿の一閃を肩で受け止め、左手一本の一閃で、八井殿の喉を斬ったのでございました。


 父は刀を提げたまま、私に歩み寄り、膝を付きました。


「案ずるな、大事ない」


 血の匂いが、私をきつく抱いていた恐怖から解き放ちました。


「助けを呼んでまいります」


 走りかけた私の手を、父の血塗れの右手が掴んだのでございます。肩の痛みに、父は顔を苦しませました。


「ならぬ。誰も呼んではならぬ。何もない。何もなかったのだ」


「なにゆえでございますか」


「春には、新しき政府に、山名家の高直しを願い奉ることになろう。このときに、勤王佐幕の争いなどあってはならぬ。あってはならぬのだ」


 私は言葉を失いました。士は、かくも厳しく生きねばならぬ事を知ったのみでございます。


「四人は、非業に斃れた。事実は、ただそれだけである」


 父の目は正気を保っておりました。その目に見つめられて、私も平静を取り戻すことができたのでございます。父に教えられるまま、自分の衣を裂き、父の右肩の血止めを致しました。父は帰り道を急襲されたのでございましょう、右肩と左脇腹の他にも、左の鎖骨の辺りと右の腿に刀傷を受けておりました。


 私に寄りかかりながらも、父は自分で歩きました。加州家吉を提げたままの左手は、八位殿に撃ち込んだ際によほど精魂を込めていたらしく、私がどれほど力を入れましても、強張った父の指を解くことはできませんでした。


「八位殿には、私が、父は御陣屋にまいったと話しました」


 私は告白いたしました。父の許しが得られるとは思いませんでしたが、告白せぬわけにはまいりませんでした。されども、父は意外にも笑ったのでございます。


「大方、吾はすぐに戻ると申したのであろう」


「父上が、すぐに戻るとおっしゃられましたので、そのままに」


「それで合点がまいった。予想外に遅くなったのだが、八位殿は、そなたのような子が、まさか嘘はつくまいと思ったのであろう。雪の中、四肢が凍えるまで吾を待っておったようだ」


「八位殿は、なにゆえ我が家で父上を待たなかったのでございましょう」


「それもそなたが応対してくれたお陰だ。刺客といえど、八位殿も一角の士。年端のゆかぬ子どもを、斬り合いに巻き込むことはできなんだのであろうよ」


 私は不思議でございました。一手間違っておれば自分を斬り捨てていた八位殿を、憎むでもなく、むしろ敬うように、父は申すのでございました。士の道とは、誠に難しいものでございます。


 慶応四年があけた早々、京、大坂で大きな戦いがございましたのは御存知のとおりでございます。時世と申しますものは、頑固者でありながら、いざ走り出すとどうにも止めようがございません。江戸城無血開城の知らせが領内に届いた際には、上下共々、放心するより仕方のない有様でございました。東北諸藩はなおも頑強に抵抗いたしましたが、武士の誇りの顕揚と引き替えに数々の悲劇が生み出されたことも、また御存知のとおりでございます。


 村岡山名家が新政府へ正式に高直しを願い出た後、父は、隠居いたしました。刀傷の治りが悪く、十分な働きができぬことを気に病んだ末のことでございました。私は、せめて願い出の結果が判明するまではと残念に思いましたが、父は御役目を果たしたことに安堵し、働けぬ身を恥じておりました。


 父の隠居に伴い、五石の御役目料は召し上げとなりましたが、質素倹約の生活にさしたる変化はなく、食膳の蜆が田螺に戻った程度のことでございました。


 明倫館の卒業を明年に控えていた私は、父の仕事を手助けした経験を買われて、郷方に出仕することが内示されておりました。当面は見習いの扱いでございますが、それでも一人前の士の仲間入りができることを嬉しく思っておりました。


 父は縁側に座り、中庭を眺めていることが多くなりました。夏が始まりかけたある日の夕べにも、私が帰宅いたしますと、父は縁側に座っておりました。わずか数ヶ月のことで父はすっかり細くなっておりましたが、衰弱したと申しますよりは、高僧が俗世に立ちながら魂を昇華させている様を、どこか思い描かせる姿でございました。


「御疲れではございませんか」


 私が父の隣に並びますと、縁側の夕景に同化していた父が、現世に戻ってまいりました。


 和やかな面持ちを私に向けました。


「どうだ。勉学は捗っておるか」


 はい、と返事いたしますと、父は、そうか、と申しました。二人でしばし中庭の深まる夕やみを眺めておりますと、おもむろに父が話し始めました。


「そなたには、あまり剣の話はせなんだな」


 父と共に村々の田を見回った帰り道、父が江戸の話などを語ってくれた日々が、遠い昔日のことのようにも、また、昨日のことのようにも思い起こされたのでございます。


「士が剣を抜くときの覚悟を教えていただきました」


私が申しますと、父は懐かしげに目を細めました。


「そなたには、教えねばならぬことを、教えてやれなんだ気がする」


「これからは毎日教えていただこうと思います」


 父は嬉しそうに笑いました。


「正しいことを、あるがまま正しいと言えるならば、世はさぞ暮らしやすかろう」


 そう切り出して、父は語り始めました。それは、慶応三年の暮の出来事に繋がる話でございました。


 御屋形様は若き頃から立藩の志を御持ちになり、江戸在府中には御側の方々や父に志を語っておられたとのことでございます。文久二年、帰国された御屋形様は立藩の策を御家老に諮られましたが、郡奉行筆頭であった田結庄様をはじめ主立った家臣から強固な反対をうけ、共に帰国した父一人を頼って命ずるより他はなかったとのことでございます。


 ただ一人、御屋形様の志の実現を担った父は、武士の忠魂と御屋形様の御信頼を拠り所として、御役目を果たすため、懸命に働いておりました。


 やがて慶応二年の一揆が起こり、立藩策に強固に反対していた田結庄様が失脚なさいました。そして、伝八郎の命をかけた嘆願により年貢の破免が認められ、御屋形様の正式な御命令により、領内は石高直しの検地に取りかかりました。


 米価の高騰を画策したとして一揆衆に糾弾された田結庄様は、風聞によりますれば、郡奉行筆頭当時、村々の隠し田を密かに奨励し、そこから挙げられた利潤を大庄屋の財布を通して受け取っていたとのことでございます。田結庄様にとって、隠し田を残らず石高に組み込む立藩策においても、桐口様を使役して果たさんとした失脚の報復を破免により妨げられたことにおいても、伝八郎は決して許すことのできぬ不倶戴天の敵だったのでございます。御物頭席に異動となった田結庄様は江戸屋敷の守衛を担っておられましたが、臥薪嘗胆を実践されておりましたならば、薪も胆も真っ黒に変色していたであろうと推察いたします。


 慶応三年となり、各家が旗色を鮮明にせねばならぬご時世、村岡山名家におきましては御屋形様の御意向により、また元々の風土もあって、帝を御助けすることとなりましたが、それでも密かに争いはございました。遠方に逼塞しながらも腹いせの機会を窺っていた者により、争いが生み出されたと申しましても過誤ではないかと存じます。


 父は、一部の家臣から佐幕派と目されました。山名家は検地に歳出を増やし、年貢の破免により歳入を損じましたが、そのため新政府への献金額が十分ではございませんでした。その事実から、伝八郎の画策による勤王貢献の妨害という虚言を生み出した者がどこかにおったのでございます。八位様はその虚言を信じ、御家のため刺客となられたのではないかと、父は申すのでございました。八位様は元々江戸屋敷に御勤めでございましたから、田結庄様の指嗾があったことも推察されるのでございます。


 八木浅右衛門殿のことが語られるかと期待いたしましたが、父はそのことには触れませんでした。語ることのできぬ由がある。私は、ようやくそう得心することができたのでございます。


 さて、慶応四年は九月に明治元年となりましたが、先立つ六月、念願の立藩が新政府により認められ、但州七美郡村岡山名家は村岡藩一万一千石の大名となったのでございます。


 領内の浮かれ様と申しますと、雀が喜び踊るどころの騒ぎではなく、山々が立ち上がり、逆巻く川と手を取り合うような沸き上がりでございました。慶事を寿がぬ者などおらず、禽獣もすれ違えば祝辞を送りあうような具合でございました。


 勲功第一席であるはずの父は、されど功を誇る素振りは微塵もなく、何かに達した者の顔で、日溜まりの中庭を眺める日々を過ごしておりました。


 そうした秋の一日に、父は亡くなりました。私共家族に看取られての、穏やかな臨終でございました。慶応三年の暮になくしていたはずの命を、この天地を見守る偉大な何かが、父の忠勤が結実するこの瞬間まで来迎を延ばしていてくれたのではないかと、私には思えたのでございます。明治二年の版籍奉還、明治四年の廃藩置県を父に見せることがなかったのも、偉大なる何者かの粋な計らいでございましょう。


 私の父である高岡伝八郎の半生は、大方このとおりでございます。


 明治十年、西南の役が終結いたしますと、時世はまた頑固者の顔を取り繕って腰を据えました。士は士の難儀を忍び、民は民の難儀を忍び、新しきを求めた者も、古きに固執した者も、恨み辛みを腹の下に押さえ込んで、欧米列強に比肩する強い近代国家を作るべく、一味同心、各々の責務を前にして居住まいを正したのでございます。


 非才なる私もまた、新しき世の堅牢なる石垣の隙間を埋める砂の一粒ともならんと、御屋形様の御引き立ても賜り、現在は兵庫県庶務課に出仕いたしております。


 当時を振り返りますと、想念は大きく隔たった世を行き来し、あの時代は夢であったのではないかとさえ思えるのでございます。明倫館の学友はそれぞれの大業に向けて懸命努力しており、手の返し技に一家言を持っていたあの小原千次郎は小学校教員となり、その様もなかなかのもので、今では国の行く末を語り合う友人の一人でございます。


 本日、御屋形様に御招きいただき、こうして父の半生を語る機会を賜りましたこと、誠に恐悦至極。東京にて、郷土の後進の鼓舞激励の宴を催していただき、懐かしき顔とも久闊を叙すことができましたことは、昨今一番の慶事でございます。ただ、北海道の開拓を志した八木市右衛門が欠席でございましたことは、その使命の火急重大であることから致し方ないこととは申せども、一つの心残りではございます。


 されども、本日、御屋形様から拝聴いたしましたあの夜の真実を伝えることができますれば、私と市右衛門との軋轢も、たちまち氷解いたしますことでございましょう。その時を、今から楽しみにしておくことといたします。


 文久二年六月、帰国間もなく立藩策を家中に問い、強い反発を御受けになられた御屋形様から密かな御招きを受けた父の心情を推察いたしますと、後醍醐天皇に桜樹題詩を奉った児島高徳のごとき気概を抱いていたことでございましょう。同日同夜、同じ場所で八木浅右衛門殿と鉢合わせいたしましたのは、天恵であったのではございましょうが、天は父に重い荷を背負わせたものでございます。


 浅右衛門殿をけしかけた人物を、父なれば詮索せなんだでありましょうが、よもや浅右衛門殿の独断ではございますまい。凶刃が御屋形様に届くより早く、父の剣が飛来しました様子は、父の戦いぶりを間近で見た私には容易に思い描くことができます。


「このことは内密に、内密に。ただ頽れた古木のごとく、川辺にうち捨ててくれ」


 事切れる間際にそう懇願した浅右衛門殿の心情を、父なれば深く酌んだことでございましょう。


 御寝所奥での異変であったことが幸い、御屋形様と父、そして浅右衛門殿以外に知る者はなく、たとえ我が子に人殺しと罵られようと、父はその夜の真実を秘しおく覚悟であったのでございましょう。深夜、月明かりに苦心しながら浅右衛門殿を湯舟川の河原に横たえた父は、士の身の辛さを亡骸に語りかけたやもしれません。


 御寝所での異変は、物音を聞いた者や、亡骸を運ぶ父を月明かりに見た者などの口から少しずつ漏れ出し、八木家にも染み込んだのでございましょう。市右衛門に伝えるには、些か心痛い真実でございます。高岡伝八郎を憎みながら過ごしたこの十年でございましょうから、仇に家名を守られていた真実を受入れるのは難しいことでございましょう。


 父が存命であれば、


「八木浅右衛門殿は七美と家族を想いながらあの夜を駆けたであろう。そのことを忘れてはならぬ」


 一言そう諭し、市右衛門が自らの力で立ち上がる日を待ち続けることでございましょう。


 私は今、妻を娶り、神戸に居を構えております。母と妹も呼び寄せました。御存知のとおり、神戸はひなびた一つの漁村でございましたが、諸外国との条約による兵庫開港の事実上の開港場となって以来、外国人居留館なども筍のように生え並び、東洋最大港の規模を整えるべく、今日でもまだ槌音喧しい有様でございます。そのような活気の中におりますと、ふと、七美郡の静けさが懐かしく思えてまいります。


 年に一度か二度は七美郡に帰り、検地道具を担いで父と共に廻った山道を一人で辿っては、父が何を想い、どのように生きようとしたのか、私はそのことに少しでも触れるための断片を探し求めております。


 さて、私が語るべき言葉はもう尽きておりますが、御屋形様への忠義を貫いた高岡伝八郎が心底から愛したものは、七美郡とそこに生きる全ての命、そして風景でございましたでしょう。山美しく、川美しく、里美しく、空美しく、雲美しく、星美しく、人美しきや七美郡。


 不肖者ながら、私もまた美しくあろうと、日々を勤める所存でございます。


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