慶応元年~ 風霜厳しくも主命を奉じ、領民を哀れんで腹を賭ける
主君から悲願達成を託された伝八郎は息子と共に忠勤に励むが、反対派が多数を占める郡内で次第に孤立化する。有形無形の圧力が高岡家にかかるが、知恵と工夫で乗り越えていく。
その年、領内は不作となり、百姓は苛斂な年貢取り立てにあえぐ。自分の忠勤に白眼視を向けていた百姓のため、伝八郎は切腹を覚悟で、主君への訴願提出を嘆願する。
人の目には長閑に映る大河の流れも、必ず幾つかの急流を生むものでございます。元治から慶応という時代の流れも、丁度そのような、人が越えねばならぬ急流の一つであったのでございましょう。文久三年に平野国臣様方々が挙兵なされた生野の変のごとく、大きな渦はこの先幾つも待ち構えているのでございましたが、但州七美の天地は、この先の急流を未だ知らずに浮かぶ一枚の笹葉のごとく、田の畦から見上げる白曇はいつもと変わらぬ暢気さでございました。
父と私は、相変わらず村々の田を見て回る日々でございました。立藩のための石直しは、家中でも一部の方しか知らぬことでございましたが、人の口と戸締まりはまま閉め忘れるものでございますから、噂となって人の耳から耳へと伝わっておりました。
家臣、百姓、町人に関わらず、多くの者が石直しに反対でございましたでしょう。藩を立てて得られるものといえば、ただ御屋形様の御面目のみにて、実損益を算すれば、家臣から見れば軍役の増加、百姓町人から見れば年貢や税の増加となり、代々の御屋形様が石直しに着手しなかったのも、得少なくして損多しの一点にございましたでしょう。義済公が名君であられるのか暴君であられるのか、代々の御屋形様が明察であられたのか怠慢であられたのか、私ごときが御政道を評するのは無礼の極み、憶測すら畏れ多い次第でございまして、ただ忠義一筋の父は、上司同輩、百姓町人の冷めた視線に晒されながらも、ひたすらに郷を歩き、田を巡るを無私の御奉公としておるのでございました。その忠勤は、御屋形様が江戸へ再び参勤されてからも変わることはございませんでした。
検地道具を担ぎ、一日に十数里も山道を歩く日々は過酷でございましたし、段々に石直しの噂が村々に染みこんでいくにつれ、村役人や庄屋の対応も一物を含んだものとなってまいりました。
検分前に茶も出さず、検分後に見送りもないことは珍しくなく、検分最中に俄雨に打たれても蓑の貸し出しもないような有様でございました。それでも父は居丈高になることなく、常に辞を低くし、百姓を労い、時には畦を百姓と共に整え、ぬかるみにはまった牛馬を引いてやり、泣く百姓の赤子をあやし、怒りを見せず、嘆きを口にせず、背筋を曲げず、一念を天に向ける蟻のごとき塩梅にて、時折は笑顔なども私に見せながら一途に村々を巡り歩いたのでございます。およそ武士らしからぬ父の姿に、歯がみし、やきもきしながらも、総じて父の行いは正しいと私には思えたのでございます。
一時の楽しみは、弁当でございました。母が父に精を付けて貰おうと白米の握り飯を持たせてくれましたし、塩鮭の焼き身が添えられることもございました。父のための弁当を父よりも多く平らげながら、江戸の話を聞きますのは、大層楽しいことでございました。
特に胸を躍らせましたのは、江戸名所図会にも載せられた名所名跡の話でございました。口下手なはずの父が、この時ばかりは、往来の騒音、鳥の声、増上寺の鐘の音などを口真似し、あたかもその名所名跡に目を閉じて立っているかのように思ったものでございます。
また、父は江戸の童子の遊びも教えてくれました。私が興味を持ちましたのは、貝打ちでございます。巻貝の殻に砂や粘土を詰めた貝独楽を回して弾かせ合うという遊びでございます。元々は上方の遊びであったものが、江戸に伝わったそうでございます。貝独楽同士がぶつかる音、勝ち負けに喜び悔しがる童子の声、それらの口真似も愉快ではございましたが、何より、何の愛想もない父が、童子の遊びを熱心に観察している様を思い描きますと、どうにも腹のよじれに苦しむばかりでございました。
一方で、父が明倫館でも学べぬような今現在の政治状況などを語るときには、私も背に竹筒を通したようになったものでございます。
父が江戸に勤めておりました安政、万延の事件と申せば、何を置いても桜田門外での大老襲撃事件でございましょう。まさに驚天動地の大騒動でございまして、父は、嘉永の黒船が十隻も空から落ちてきたような衝撃を受けたとのことでございました。
このように父と私は男児でございますから、忠義の道を踏み外してこそ万死の恥とすることあれ、白眼冷遇など意に介するものではございませんでした。されど、同じ白く冷たい視線が母や妹にも注がれるのではないかと想像いたしますと、眠れぬ夜に身もだえすることもございました。父はそのことについては語りませんでしたが、おそらく同じ思いであったに相違ありません。
慶応元年、数え七つになった私の妹は、明倫館に入学いたしました。一昔前であれば、何を女だてらに、との誠に都合の良い決まり文句で女子の勉学が否定されておったのでございますが、西洋文化という響きがもつ生臭さと解放感がようやく七美にも聞こえてきたこの頃には、勉学を志向する女子にも明倫館での学業が許されるようになりました。
ある一日、私は明倫館からの帰り道で、妹と同輩と思しき学童らが四五人、妹を取り巻いている場面に出くわしたのでございます。辺りには、妹をかばう素振りを見せぬ女児の姿も数人ありました。
私はかっと頭に血が上り、火に掛けた鉄瓶の蓋のようにその場で跳び上がりました。慌てた両足が宙を掻くのももどかしく、妹の側に駆け寄ろうといたしましたが、妹は私よりも何枚も上手でございました。
「高岡伝八郎を、君側の奸と呼ばわった方はどなたですか」
妹が草履を進めますと、取り巻いていた学童は後ずさりいたしました。
「そうであろう。家臣領民皆苦しいこの時世に、百姓のなけなしの田を洗いざらい調べあげ、御家の負担もわきまえず、あまつさえ、そなたの父のみ御加増をいただいておるではないか」
「いずれも御屋形様の御指図によるものでございます。あなたは御屋形様の御政道を批判なさっておられるのですか。切腹の御覚悟はおありか」
我が妹ながら、痛快に言い放ったものでございます。学童共は、もうぐうの音も尻から出さねばおれぬような顔で、そこへ真っ赤に灼けた鉄瓶の蓋のごとき私が駆け込んできたものですから、その逃げざまたるや、蜘蛛の子も呆れるような逃げ足でございまいした。
「兄上」
さすが気丈な妹も、私を見ると安堵した様子でございました。
「小春、あまり無茶はいたすなよ」
「無茶はいたしませぬが、筋は通します」
妹がこれほど勝ち気な娘であったとは、私もぐうの音が尻から出そうな有様でございました。武士の娘もまた武家の子だと、私は改めて認識いたしました次第でございます。
「仲間はずれにはされておらぬか」
などと妹を気遣う私も、実はこの頃、明倫館でも声を掛け合う友を少なくしておりました。いつも虚勢と手を繋いでいるような小原などは領内の雰囲気に敏感なもので、さっそく流れに乗って私から遠ざかって行きました。本山などの子分も同様で、元々、共に竹馬で遊びたいとも思わぬ者どもでございましたから、離れて寂しいわけではございませんでしたが、陰口を黙殺するには少々の忍耐が必要でございました。
この頃の私の唯一といってよい友は、例の八木市右衛門でございました。無口な男でございますから、軽口を叩き合うという間柄にはなりませんでしたが、漢籍を語る際の一言一言、道場で交える木刀の一振り一振りに真心を込め合う間柄ではございました。
市右衛門は一時の落ち込みからは立ち直り、寡黙ながらも清々しい男になっておりました。父を失い、家を支えねばならぬという自覚に目覚めたのでございましょう。私が郷方廻りの手伝いをし、勉学が疎かになっていると見るや、明倫館の帰り道に、真心を厳しさに包んで、私の遅れている点を補習してくれるのでございました。
この頃、私は既に市右衛門を一角の人物と見ておりましたから、彼の真心に応えようと努めておりましたが、市右衛門の父の横死が記憶から顔を出すたび、あの夜の父の悽愴な横顔が脳裏に蘇り、後ろめたい思いを抱くのでございました。むしろ騒がしいだけの小原のような者等こそ気軽に付き合える友垣になれるのではないか、などと思うこともあったのでございます。
「己に如かざる者を友とするなかれ、でございますよ」
木で括れそうもない七つの小さな鼻をおしゃまに逸らした妹が、したり顔で申しました。
「そうだな」
分別顔で相づちを打った私は、妹を三歩後ろに従えて組屋敷に帰るや、母への挨拶もそこそこに自室に籠もり、教本を引っ繰り返して妹が引用した言葉を探しました。論語の学而編にその一文を見つけましたとき、妹に遅れを取った己を恥じますと共に、この一文を見た市右衛門が私をどう算定しているか、その胸の内を推し量りますと、何とも情けない思いに苛まれるのでございました。
子弟学童のなすことはこのように他愛もないものでございましたが、大人の世界はもっと婉曲で隠微なものでございました。どうやら、家中上層の、御屋形様に直には諫言を差し上げられぬ方々が、石直しを妨害すべく、暗に高岡家に圧力をかけるよう指示されておった由にございます。私の耳が惚けておったのでございましょうか、御家老の中には、庄屋や村役人を抱き込み、隠し田の耕作を密かに指示して、私腹を豊かにされた方もおったように聞き及びました。もしや真実であれば、御屋形様への謀反と申しましても過言ではない悪逆でございますが、山を動かさんとする愚公を天が愛する故事に倣うごとく、父はただ黙々と御役目に勤めるのでございました。
御存知のとおり、武士というものは高楊枝さえあれば大抵のことには耐えられる仕様となっておりますが、存外、金にはやり込められるものでございます。
金策に長けるは武士の不面目とするところでございますが、冠婚葬祭何かと入り用の多い武家の生活では、親類同輩の家々が拠出金を出し合って有事に備える頼母子講は必要不可欠の金策でございます。頼母子講の利用を差し止められる、或いは講からの脱退を余儀なくされるのは、武家にとって大層厳しい仕置きでございまして、丁度首に縄をかけられた鶏のごとき塩梅にて、生きるも死ぬも縄の締め加減となり果てるのでございます。
高岡家はかつて講の定めに背いたことはなく、寄合を怠ったこともございませんから、直ちに仕置きを受ける謂われはございません。父が郷方廻りを拝命した後も、高岡家は折々に頼母子講を利用しておりますが、その折衝に当たっておりました母は、おそらく無形の圧力に晒され、気骨が折れたことでございましょう。
私の母は、針仕事に一家言を持っておりました。教訓書である女大学にも、女子の第一にたしなむべき事はぬひはりのわざ也、とございますとおり、妻となる女子は夫や舅、姑の衣類を仕立てる技を修めることこそたしなみの第一とされておりましたから、武家では娘が良縁に恵まれるよう、どこの家も競い合って針仕事を学ばせておりました。
父の剣術と算術のように、人には何事にも得手不得手のあることでございますが、母は特に針仕事の才能に恵まれておったようでございます。私は男子でございますから針仕事の善し悪しは判別しようもございませんが、母の針の才能は、母方の祖母から受け継いだようでございます。祖母はそのぬひはりのわざが家中随一との誉れもあり、先代義問公の御正室の小袖を仕立てる栄光にも浴したほどでございました。
我が家の一室には、四畳半ほどでございますが、母が針仕事に使う部屋があり、家中の女子が針仕事を学ぶ手習所ともなっておりました。常時、七、八名は通っておったと思います。手習の謝儀は大したものではございませんでしたが、それでも内職代わりの家計の足しにはなっておったようでございます。
その針仕事の部屋に、一枚の見事な小袖が飾ってありました。御正室の小袖も仕立てるほどであった祖母が、娘への手本に仕立てたものでございまして、これも私には判じかねるのでございますが、大層立派な小袖であり、未だその境地には達し得ないと、常々母は申しておりました。
この小袖は女児用の小振りな一枚で、背守りとして見事な蝶の刺繍がしつらえておりました。祖母の家も錦糸をふんだんに購えるような裕福な家柄ではございませんでしたが、御正室に小袖を献上した際の御褒美が絹糸であったそうでございます。母は祖母から授かった小袖を手鑑とすべく、針仕事部屋の北面に飾っておりました。母も、手習いに通う女子も、その小袖を胡蝶と呼んで、大変敬っておったのでございます。その胡蝶に例の頼母子講が絡んで、一悶着がございました。
霜月はどこの家も七つになった娘の成長を祝うものでございまして、高岡家でも小春の帯解の儀を執り行うべく、母があれこれと手配しておったのでございます。帯はもちろんのことながら、母心としては小袖も一新したい所存にて、仕立ては母自身が手がけるものの、反物に上品を選びましたゆえ、高岡家の家計がとても耐えられぬ出費と相成りました。母は父とも話し合い、頼母子講を利用いたしました。帯解の儀は頼母子講からの借り入れで恙なく執り行い、親類も招いて、大いに小春の成長を祝ったのでございます。
さて、借りたものは返すのが必定でございまして、金銭ともなれば、利息なるものがつくことは町人、百姓も承知のことでございます。家臣同士の頼母子講も、元金と共に利息を払わねばなりません。とは申しますものの、お互いの福利を目的とした講でございますので、貸し主、借り主お互い様にて、元金は期日通りとするものの、利息は遅納を認めるのが慣例でございました。それゆえ母も、火の車を上手に操って捻出した元金を講に返納し、ひとまずの息をついておったのでございました。
ある一日、郷方廻りから父と私が帰宅いたしましたのは、師走も末のこととて日の落ちも早く、雪深い宵の口でございました。戸口の灯りが、どこか悄げておったように思えたのでございます。
蓑と笠の雪を落とし、土間に入りますと、やはり家の中の空気がどこか重い。父も同じように感じたのでございましょう、小走りに迎えに出た母に、
「かわりはなかったか」
と、普段は口にせぬことを尋ねました。湯の入った桶を運んできた小春も、口をつぐんでいるように思えました。
「あとで少しお話が」
母はそう申し、父は心構えを整えるようにうなづきました。私は、また小春が明倫館で嫌がらせに遭ったのかと思いました。
「また、あいつらか」
私は、次に遭ったらどうしてくれようかと先走っておりましたが、そうではなかったのでございました。
「私の」
話しかけた小春が泣き出しそうな顔になりましたので、私は慌てて、
「よいよい、どんなことであっても、父上と母上に任せておせばよいのだ」
そう申しまして、式台を上がりました。
食膳には射添村で採れた大根の煮物がのぼっておりました。七美の大根は旨いと京でも評判とのことでございますが、父が申しますには、七美の雪が旨味を熟成するのだそうでございます。冬瓜のようにとろりとした身は大層おいしゅうございましたが、どうも気が気でなりませんでした。
夕餉を終え、父が白湯を飲んでおりますと、母が話を切り出しました。私も自分の食器を片付けながら、聞き耳を立てておりました。
かいつまみますと、小春の帯解きの祝いの入り用に借入れしておりました頼母子講の利息の取り立てがあったとのことでございました。母が慣例の取り扱いを申し出ますと、利息は利息とのことで、支払いを強く求められたのでございました。されども、支払いなどできようはずもなく、母はしかたなく、祖母が残したあの小袖の胡蝶を利息代わりに納めたとのことでございました。
「胡蝶を借金のかたに致したのか」
父は母を睨み付けましたが、すぐにそれは誤りと気付き、視線を膝に落として、湯呑みを膳に戻しました。今にも虹を振り撒いて飛び立ちそうな錦の蝶を二度と見ることができないかと思うと、私もこの団欒の光景が重い嘆きの色に沈んでいく思いでございました。
「すまんな。苦労をかける」
父の眉と眉の間には、苦渋が滲んでおりました。誰もが嘆きの息を吐くであろうこの一幕で、予想外の笑い声を聞いた私は、我が耳を疑いました。小春は、口を袖で覆って笑っておりました。耐えきれなくなったかのように、母も噴き出したのでございます。父と私は惚けた顔で、母と小春の笑う様を見比べるしかございませんでした。
「どうです、小春。父上はこうおっしゃられましたでしょう」
軽やかに、おぼつかぬ足取りの幼子の歩みを囃すような心底愉快な調子で、母は笑いました。小春は、縁日でおはじきを買って貰ったときに見せたような無邪気な笑顔で笑いました。二人が調子を合わせるように笑いますと、家の中の重さが呪術のようにかき消えました。
「そなたたち、吾を担いだのか」
父は色をなしましたが、どこか安堵した様子でもございました。
「いいえ、決して」
笑いを納めた母は、居住まいを正しました。
「胡蝶を講の御仲介に御渡ししたのはまことでございます。旦那様が御怒りになるのではと小春が案じますゆえ、旦那様が何と申されるか、ひとつ賭けをしたのでございます。私は先ほど旦那様がおっしゃったとおりと。小春は『ばかもの。取り戻して参れ』でございました」
すました顔で、母は申しました。おそらく、母と小春は共謀して、わざと沈んだ空気が醸し出されるよう演じておったのでございましょう。私も欺かれた一人でございますが、母の普段垣間見せぬ悪戯心を見て、怒りを覚えるよりも愉快な気持ちが先に立ちました。
「まったく、呆れた馬鹿者だ、そなたたちは」
「申し訳ございません」
母と小春はしおらしげに頭を下げましたが、二人共がこっそり舌を出しているのが分かりましたもので、うっかり笑ってしまい、私が父に睨まれる羽目となりました。
「しかし、よいのか、胡蝶は。大事なものであろう」
「私の母の拙作を御案じくださり、有り難く存じます。されど、御無用にございます。胡蝶は、早晩戻ってまいりますよ」
母には、領内の集団心理に阿って我が家に嫌がらせを仕掛けてきた講の仲介役を懲らしめる一計があるようでございました。
「無茶はいたすなよ」
「無茶はいたしませぬが、筋は通します」
既視感を不思議に抱いておりますと、その因たる小春が母を囃しました。
「おお怖い、お母様」
「女はこのくらいが丁度良いのです」
母と小春の会話を聞きながら、私は、女は敵に回さぬがよいと学んだのでございました。
「心強いですね、父上」
私が申しますと、父は何も答えず、黙って席を立ちました。
夜も更け、母に就寝の挨拶を済ました私は、父を探しました。父に挨拶せず、床に入るわけには参りません。
父は、縁側にあぐらをかき、庭の雪を見ておりました。一通り雪を降らして気が済んだのか、夜空は凍ったように澄明でございました。
「そなたの申したとおり、心強いことだ」
私に気づいた父が、そう申しました。丁度、澄明な夜空の星が見えるように、父の心が見える気がいたしました。
高岡伝八郎は、外では士の忠勤をひたすら励み、内では家族の身を一心に案じる父親でございましたから、御屋形様からの直々の命とはいえ、家中領民の意に沿わぬ御役目を仰せつかり、忠勤を励めば励むほど、領内の風霜が家族に降り注ぐのは、何ともやりきれぬ思いでございましたでしょう。私などとは比較にならぬ身もだえの夜を、幾夜も過ごしたに相違ございません。
強いものでございます、家族と申しますものは。大藩、御公儀などからみれば、一家族などは塵芥でございましょう。その塵芥が強く結束いたしますれば、城壁も打ち抜く銃弾となるのでございます。私は、父が拝命した御役目の成就が、遠い日のことであったとしても必ずや叶うであろうと、この夜、確信したのでございます。
「明倫館は、どうだ」
父が尋ねたかったのは、ただ学業の具合ではなかったと思います。
「己に如かざる者を友とするなかれ、でございますよ」
「ほう、学んでおるようだな」
父に感心され、私は急に恥ずかしくなりました。
「もう休みます。父上も」
「うん。吾もすぐに休む」
「明日は、小代でございますか」
「この雪だ。田はもう見えぬであろう」
田は見えなくてもやることはございます。この頃になると私も、一通りのことは分かるようになっておりました。
「では、休みます」
頷いた父を、数歩下がってから振り返りますと、質朴ながら何とも清らかに佇む一体の仏像のような姿に見えたのでございます。
さて、胡蝶が我が家に戻って参りましたのは、新年を迎え、年始めの挨拶客の往来が一段落ついた時分でございました。針仕事始めの挨拶に訪れた若女房や娘は、母の四畳半間に胡蝶がないのを見て、随分と騒いだのでございます。蝶が逃げた、蝶が逃げたと騒ぐ娘らを座らせた母は、いきさつを話して聞かせました。講の利息のかたに胡蝶が取られたと知って、若女房や娘は大層憤慨しておりました。
それからわずか一日後、胡蝶はいつもの場所に奉られることになりました。講の仲介人が胡蝶を返しに参った折、私は丁度、母とのやりとりを聞いておったのでございます。
「武家が一度出したものを納めれば、主人から叱られます」
「いや、これは何とか返させてもらわねば、こちらが困る」
「しかし、他に利息代わりになるものもなく」
「いやいやいや、それは当方の思い違いでござった。利息は慣例通り、有る時払いで」
「そうですか。思い違いでございましたら、仕方ございませんね」
「では左様に、左様に」
仲介人は汗を飛ばして帰ったのでございます。私が忍び笑いしておりますと、母はすました顔を向けました。
「さて、陽平さん。手伝ってくださいますか」
「はい、母上」
母と私は、胡蝶をもとの場所に戻しました。推測いたしますに、仲介人は、自分の女房や知人の女房などから随分責められたのでございましょう。女を味方につけた母の戦略勝ちというところでございましょう。
このように、御家老様方の御意向や領内の風潮はどうあれ、高岡家は、外は忠勤を励み、内は筋を通し、臆することもなく、日陰に籠もることもなく日々を暮しておりますと、私が感じておりました圧力は、いつの間にか霧散しておりました。どうやっても懲りそうにない高岡家に辟易したか、馬鹿馬鹿しく思ったのでございましょう。それでも、人の悪意と申しますものは、底に沈めば沈むほど、濃く、黒くなるものでございます。
この年、慶応二年には、とうとう但州の片田舎まで動乱のおどろしい風声が轟いてまいりました。文久、元治の頃より上下乱痴気騒ぎの態にて世を沸騰せしめた長州様が、先の御征伐にも悔悟なく、いよいよ容易ならざる企てありとして、五月、御公儀は長州様再征伐を諸藩に命じられました。
川向こうの火事と喧嘩は派手な方がよいと世の人は申しますが、火のついた柴を背負った狸が川を渡ってきては堪ったものではございません。
長州様再御成敗の軍役負担という名札をつけた狸は、六月にやって参りました。もともと但州の片田舎でございますから、御公儀は遠く、豊秋津島誕生以来の天朝様に親しむ気風の濃い七美郡でございましたから、御公儀のための軍役負担はその負担感をいやがうえにも嵩増しいたしました。折しも、諸藩が軍用米を買い占め、京、大坂では民がその日の米にもありつけぬ有り様で、その余波が次の狸になりはせぬかと、領民一堂不安に駆られていた時分のことにごさいます。
不安とやる瀬なさに多少の反逆思考が混ぜ合わされますと、たちまち爆薬ができあがります。調合師はいずれかの村の富農かもしれませぬし、または富商かもしれませぬし、あるいは混乱により領内の実権を御屋形様から切り離そうとする者の仕業かもしれません。えてして、結果は現象となって露わとなるものでございますが、原因は闇に落ちて行方もしれぬものでございます。
慶応二年の一揆が起こりましたのは、六月二十日のことでございます。村岡山名家は小身なれども、文政三年には外国船からの但馬海岸警備を御公儀より拝命いたしましたし、元治元年の長州様御征伐にも出兵しております。また慶応二年の四月には、京都所司代が、山陰道を不逞浪士が上下するのを取り締まるため領内に番所を設置し、山名家には番所詰役が命じられました。このような負担の出役と経費割は、結局領民の負担となります。折しも米価高騰のため生活に難儀しているところでもございましたので、町衆、在郷衆との軍夫規定書の調定はままならず、不平不満を持つ領民は御陣屋近くの大運寺に大挙集合し、四箇条からなる願連判状を掲げたのでございます。動きは大運寺のみにとどまらず領内の村々に伝わり、願状もいつしか十四箇条に膨れ、とうとう御陣屋のある村岡にまで押し寄せてまいったのでございます。
対応に当たられたのは国家老の土井様でございます。一揆御仕置は、首謀者の死罪が常識ではございますが、土井様といたしましても強攻策で押さえ込むには、壮年の家臣の多くは江戸勤番や出兵に取られておりますことでございますので、要求の飲めるものは飲み、譲れぬものは御屋形様に伺いを立てたのちの回答とし、穏便な解決を図られました。その甲斐あって、打ち壊しも流血もなく一揆が引き上げましたことは、誠に幸いでございました。
そもそも領民、なかでも在郷人の鬱屈が蓄積しておりましたのは、田結庄様が郡方御勤以来、領民への掛かり物が多くなったからとのことでございます。一揆衆は十四箇条の願状のなかに、田結庄様の政治取扱差止め要求を含めており、土井様はすぐには応じませんでしたが、後に田結庄様は郡奉行筆頭御罷免となり、御物頭席へと異動となりました。
大地主などが田結庄様を供応し、賄賂なども差し入れて、米の値段を釣り上げる奸策を共謀したとの風聞もございました。真偽は定かならぬものの、煙は勝手には立ち昇らぬものでございます。御物頭席への異動に抵抗を示さなかったのも、目付に叩かれてほこりが出てくることを恐れたからであろうとする見方もございました。ともあれ、御物頭席として江戸屋敷の守衛のため国元を発つ際の田結庄様御一行は、恨みを担いで出立していくように見えたのでございます。
一方、一揆方への仕置でございますが、打ち壊し、略奪、殺傷なく、また長州様再征伐の出兵に領民の協力が不可欠との実情もあり、不届き重畳ながら、御屋形様の出格の御宥恕を以て、首謀者であっても生涯逼塞などの比較的軽いものとなりました。罷免となった田結庄様の縁者には噛む歯が足らぬほどの結果でございましたでしょう。
このような経緯で一揆はおさまり、領内は平穏を取り戻したのでございますが、領民と領主が手を携えて新たな一歩を踏み出す大団円は御伽噺でも教えぬ話でございまして、現実は何らかのしっぺ返しが待っているものでございます。今回の一揆で、領民が勝者であったとすれば、敗者は悪役たる領主でございます。御屋形様は江戸に御在府でございますので、悪役は国家老以下の士ということになりましょう。悪役が爪を噛む時間は、思いの外、短いものでございました。
さて、民が恐れる災害と申せば、何をおいてもまず第一は飢饉でございましょう。天保の飢饉は僅か三十年足らず前のことにて、そのときの恐ろしさ、哀しさは、父母からも常々聞き学んでおりました。
近国の因州池田様御領内では、凶作により、四十二万石の石高のうち実に二十七万石分の損害高となり、飢えと疫病で二万人もの人が亡くなったそうでございます。私などは話に聞くのみでございますが、父母はその飢饉の最中に幼少期を過ごしていたわけでございますから、その恐ろしさが骨身に沁みておるのでございましょう。ただ、その話を持ち出すのが、決まって夕膳の乏しい折りでございましたから、父母の教訓に僅かな胸三寸を感じましたのも、私が不心得者であるがゆえでございましょう。
鬼が出れば蛇も連れてくるのが世の常でございまして、七美郡に吹き始めた不穏の風は不作を連れて参りました。天保の時のように桃の節句に雪が降るような惚けた天候ではございませんでしたが、公武の御騒動に天が冷たい目を向けているせいでございましょうか、慶応二年の七美郡は、御天道様が顔を隠す日が多うございました。
領内では、百姓が年貢を納める際には、定免法を用いておりました。現年の取高に関わらず、過去の取高に基づいた一定量の年貢を、百姓は納めねばならぬのでございます。この制度を用いて、先の一揆で悪役として成敗された者が、目を輝かせたのでございます。
秋のある一日、郷方廻りから帰って参りますと、御陣屋の御蔵前で人だかりができておりました。この日は年貢米の御蔵納めの日であったと思い至ったのでございますが、どうもただならぬ気配が漂っておりました。
父と共に人だまりをかき分けますと、様俵の最中でございました。山型に俵が積まれ、役人が検見道具を持って立ち働き、中央に敷かれた筵には、百姓が数人、平伏しておりました。正面には厳めしい装いの武士が床几に腰を下ろしており、左右には吟味役の上役人が並んでおりました。鶯様こと郡奉行の青山様の姿もございました。
「郡奉行御筆頭の桐口様だ」
父が小さい声で教えてくれました。その桐口様は厳めしい顔を些かも緩めることなく、扇子を膝に、きつく打ち鳴らしました。
「うぬら、納める米が足らぬとは、いかなる了見じゃ」
桐口様が怒鳴りつけますと、百姓らは平伏した身をさらに縮めました。羽織を着けた者が、おずおずと頭を上げました。見覚えのある者で、作山村の庄屋でございました。
「不足の分は、銭で納めさせていただきます」
「足らぬ」
桐口様の膝で、扇子がまた激しく鳴りました。
「おそれながら、前年と同勘定の銭を納めておりまする」
「たわけ。京、大坂では米の値が十倍にも跳ね上がっておるわ。なれば、うぬらも前年の十倍を納めねば計算が合わぬであろう」
庄屋は蒼い顔からただ汗を滴らせるのみでございました。人だかりの中にも、同じような顔で汗をかき、体を震わせている者が何人もおりました。作山村の次に様俵を受ける村の者共でございましたでしょう。
私も郷を廻っておりますから、今年の不作はよく分かっておりました。不足を銭で納めるのは慣例でございましたが、京、大坂の例によって、七美郡でも十倍の銭を納めよと命ずるのは、いかにも理不尽に聞こえました。そのことを桐口様に意見する者は、誰もおりませんでした。
「手前共の村では老人、病人が多く、これ以上は村人全て死に絶えるほかございませぬ。どうか、平に、平に」
ようやく庄屋は絞り出しました。この年、作山村に病人が多いのは真実のことで、父も案じておりました。
庄屋の懸命の願いも、作山村の実情も、桐口様の御怒りを鎮めることはできませんでした。衝天の勢いで立ち上がった桐口様は逆上のあまり、羽織の袖も髷の銀杏も跳ね上がっておりました。憎々しげに地を蹴りつけ、筵の庄屋、百姓に土が降り注ぎました。
「うぬども、先の企てではどうのこうのと理屈をこね、御屋形様へ御無理をねじ込んでおきながら、うぬらは納める銭を渋るとは言語道断。あまつさえ、老いぼれ、病人が多いとうぬらの勝手をほざきおる無礼。断じて許せぬ。よいか。死に絶えたくば死に絶えるがよい。米が足らぬと申すなら、女房、娘、二束三文で叩き打って、銭をこしらえてまいれ」
怒声を吐き散らしても腹の収まらぬ桐口様は、庄屋、百姓へ何度も何度も土を蹴りつけたのでございます。もはや作山村は一村心中の覚悟を決めるほか道がないように思えました。人だかりの中にも、己が村の暗雲を予感せざるを得ない情景を目の当たりにした者が、幾人も恐ろしさにおののいておりました。
「御待ち下さい、桐口様」
進み出ましたのは、父でございました。二言目には死罪を申し付けかねぬほど逆上した桐口様の前に、ゆったりと、しかし無駄のない動きで袴を払い、膝をつきました。私はもちろん、周囲にいた者たちは皆、目を見開くと同時に息を詰めました。
「郡奉行配下、高岡伝八郎にございます」
「控えぬか、高岡」
血相を変えたのは鶯様でございます。父が失態を犯せば上役たる自分にも罪が及ぶと案じての、叱声でございましたでしょう。うわずった鶯の声は、なんとも聞き苦しいものでございます。桐口様はその聞き苦しい鳴き声を、扇子で抑えました。
「よいではないか、青山。下役人風情が何を申すのか、聞いてやろう」
桐口様は、腰を床几に戻されました。
「ただし、覚悟してもの申せ。わしは今、少々高ぶっておる」
父は土に手をつき、頭を一度深く下げてから、少し戻しました。
「今年は春より冷えた日が続き、夏となっても晴れが少なく、どの村も、稲は十分に育っておりませぬ。しかも、作山村では、山中の餌不足に耐えかねた鹿、猪などが田を荒らす始末。どうか、破免を御認めくださいますよう」
父は、額を土に押しつけました。
「下らぬことを。破免は五分以上の損害高と決まっておる」
「されど、御公儀の御領内では三分で破免とされているところもあると聞き及びまする。また、先の軍役負担もあり、京、大坂では米の値段が十倍にも跳ね上がっております今日、とても損害高を銭で納めることはできませぬ」
父の口上を聞き終えぬうちに、樋口様は扇子を膝に叩きつけました。
「控えよ。下役人の分際で、御公儀の御政道を持ち出さんとする性根は無礼千万」
「しかしながら」
「黙れ。もはや口上は許さぬ」
「何とぞ、何とぞ、御屋形様へ御奏上を」
このとき、土を間近に見つめる父が何を考えていたのであろうかと、私はその後も繰り返し思い起こしたものでございます。未だに、その推論は見つかっておりません。
「高岡、それは、その方の腹を賭けてのことか」
低い声の桐口様は悪性の笑みを浮かべ、辺りは無音となりました。風も、土埃も、凍てついたように動きませんでした。ただ父のみが、ゆったりと体を起こしたのでございます。
「無論、それがしの腹を賭けての御願いでございます」
凍てついた風が突風となって、私をさらったのでございます。吹き上げられ、視界が回り、私は、宙空のどこか遠くで、現実とは思えぬ情景を眺めておったのでございます。
「腹を賭けると申すのであれば、無下には扱えぬの」
「何とぞ、御屋形様への訴状を御許しください」
桐口様は折れた扇子をうち捨て、床几から立ち上がりました。
「一両日中に訴状を認め、上役を通して提出せい。御屋形様からの御判断があるまで、高岡、その方は禁足といたす」
そのように沙汰いたしますと、桐口様は御陣屋の政庁に御戻りになられました。
誰かが息を吐いた拍子に周囲の音が蘇り、風が吹き、土埃が立ったのでございます。鶯様は蒼白な顔で床几から転げ落ち、御配下に支えられて役所に戻られました。
今日はもう仕舞いであるとの掛け声がしますと、人垣は消え、作山村の庄屋と村役人が父に何事かを囁いて去り、父と私だけがその場に残りました。父はしばらく動かずにいましたが、ようやく地に足を戻した私が駆け寄りますと、
「吾は御役目を引き継がねばならん。さほど時は要せぬであろう。待っておるか」
いつもの仕事終わりの穏やかな表情で、父は申しました。私は、ただ頷くのみでございました。
御陣屋の築地塀の上、せわしく色を替える釣瓶落としの空を、私はどこか遠い世界の出来事のように眺めておりました。空が月明かりに落ち着いた頃、私は父と連れだって帰りました。
「待たせたな。鶯様が、取り乱しておられてな」
父にとっては、何事もなかったかのようでございました。私は黙っておりましたが、父に問いたいことがなかったわけではございませんでした。むしろ問いたいことがあまりに多くありましたがゆえに、何も口から出てこなかったのでございます。
湯舟川に架かる橋を渡り終えますと、虫の音が騒がしくなりました。
「鈴虫だな」
父は言葉と共に、何かの思いを吐き出したようでございましたが、それが何であるか、私には分かりませんでした。
「窮屈な七美郡だが、空には果てがないな」
父は星空を見上げておりました。なぜ落ちてこぬのですかと、幼い頃の私は、父を困らせたことがあったそうでございます。
「山美しく、川美しく、里美しく、空美しく、雲美しく、星美しく、人美しきや七美郡。山から星は天に任せておけばよいが、人は勤めねば美しくなれぬ。我らも、勤めようぞ。のう、陽平」
私は不覚にも泣いておったようでございます。武士の子が泣くとは何事かと一喝されるべきところでございますが、さすがにこの日の父は叱らず、私が自らの意思で涙を止めるのを、星空を眺めながらじっと待っておりました。そういうわけで、父と私が家に帰りました頃には、夜も随分と更けておりました。
母と妹は、私達の帰宅を静かに待っておりました。すでにこの日のことは耳に届いておったと思います。肝要なことには口を閉ざしても、他人の不幸は盛んに言いふらす輩は、どこにもおるものでございます。
母はいつもとかわらぬ素振りで夕餉の支度を調えました。小春も、甲斐甲斐しく母の作業を手伝っておりました。
重い夕餉でございました。喉も飯を通す気力を失っておりましたが、ここで悄げていては父の覚悟の鼻白みになろうと、私は敢えてもりもりと飯を食らいました。食事の最後に飯を湯漬けにした父は、箸を膳に置いて、居住まいを正しました。
「すでに聞き及んでいることと思うが、そのような仕儀と相成った。これも武家の習い。いかな結果になろうと、決して取り乱してはならぬ」
父はそれだけを訓示いたしますと、毎夜とかわらぬ顔で湯漬けを啜りました。母も妹も、ただ静かに頭を下げたのみでございます。
翌日から、父は出仕いたしませんでした。一日で訴状を書き終えると、郡奉行への進達を隣家に頼みました。隣家の主人は、内心穏やかではなかったでございましょうが、表面には恭しく父の訴状を受け取ったそうでございます。
父は一計を案じておりました。訴状の写しを作成しており、飛脚を雇って江戸へ発送したのでございます。火急に江戸へ走る飛脚を仕立てたため費用が嵩張り、内密のこととて頼母子講も利用できませぬので、父は本差しを竹光に替え、費用を用立てました。父の御役目、御屋形様からの御信頼を心良く思われぬ方が、この度の父の訴状を握りつぶすこともあろうとの一計でございましょう。父と御屋形様との間に忠義と信頼があってのことでございましょうが、父の忠義は変わらずも、御屋形様の御信頼が揺るがぬとは誰にも保証のできぬことでございます。
それからの日々は、誠に長うございました。詩経にある一日三秋から派生した一日千秋という言葉を私も存じており、まさかそんなことはあるまいと笑っておりましたが、御屋形様からの父への御沙汰を待つ日々は、まさに一日万秋と申してもよいほどでございました。
郷方の仕事がなくなった私は、明倫館での勉学に励むほかはございませんでした。元々学業は得手ではないうえ、好奇の視線にさらされる学舎での時間は楽しいものではございませんでした。
私と小春は、すっかり罪人の子でございました。明らかに蔑みの目を向ける者もおりましたし、日頃は仁義や徳を声高に唱えている講師も、私とまともな視線を交えようとはいたしませんでした。私は、悔しいと感じることさえならぬと己に言い聞かせておりました。
悔しいと感じることは、つまり父を信じぬことでございます。父が覚悟を据えた以上は、子はただ従うのみでございます。耐え忍ぶ時は誠に長く、ふとした弾みが気力のたがを外しにかかるのでございます。市右衛門が側にいるときなどは、まさにそのような忍耐の正念場でございました。
明倫館で昼の弁当を済ましたあと、この頃の私は、御陣屋の練兵場が見渡せる大桂の根元に座って午後の講義を待つことが多うございました。その一時、桂の枝葉が陰らす狭く薄暗い天地の隙間が、私が逃げ込める唯一の場所でございました。
草を踏む音がし、ふと頭を上げますと、市右衛門が立っておりました。私は立ち去ろうと致しました
が、ここ以外に隠れる場所がないことに思い至り、かすかに身じろぎしただけで、そのまま座っておりました。
「座るぞ」
市右衛門は私の正面で胡座をかきました。この頃の市右衛門は、一角の武士の風貌を身につけておりました。私も父を失えば、哀毀骨立を経て、一角の武士となることができるのだろかと辛い想像をいたしました。
「おぬしの父上のことだが、おれは立派だと思う」
快活にそう申した後で、市右衛門は申し訳なさそうに鬢の辺りを撫でました。
「まぁ、おれがそう思ったところで、何がどうなるわけでもないが」
私は胡座をかいた足をぐいと尻に引きつけ、体を堅くいたしました。胸の底からせり上がってくる熱いものに耐えておったのでございます。
「怖い顔をしておるな。気に障ったか」
市右衛門には私の感情の具合が分かったのでございましょう、目許を和らげて、私を見ておりました。私は嗚咽を漏らすまい、涙を見せまいと唇を噛んでおりました。武家の男児が二度泣くことなど許されるはずもございません。私は市右衛門の友情に、ただ感謝の一言を伝えるのが精一杯でございました。
それにいたしましても、市右衛門は父を立派と評しました。私もそれを誇らしく思います。されど、父を誇りに思うことがこんなにも苦しく、こんなにも哀しいものであるのなら、父は立派でなどあって欲しくないと、私は大声で叫びたい衝動に駆られました。誠に、不肖者でございます。
さて、江戸からの沙汰が届いたとのことで、父が御陣屋に出頭を命じられたのは、二十日ほどしてのことでございました。父は万一に備えて、沐浴して身を清め、白無地の小袖を用意させました。その日は私も小春も明倫館への通学を差し止め、謹んで父の帰宅を待っておりました。
芝居や読本などでは、吉事の前には吉祥があるものでございますが、その日は何とて前兆もなく、強いて申せば、私の部屋から見える庭石に、蜻蛉がずっと止っておったほどのことでございます。
父は、いつものように帰宅いたしました。日の暮れにはまだ一刻ほどあった時分でございます。父は、玄関に出迎えた私共を前にして、朗らかに笑いました。
「御屋形様が破免を御許しになられた。今年の年貢は、村ごとの実取高に応じて四公とすることとなった。検見のやりなおしとあって郷方は大慌てだが、我らの調べが役に立とう。陽平、しばらく忙しくなるぞ」
父は私を見て申しました。私は元気よく返事をいたしました。
「兄様の大きな声。洋式の鉄砲でももう少しお淑やかでございますよ」
小春がしかめっ面で小言を申しましたから、高岡家にはまた軽やかな笑い声が戻って参ったのでございます。御陣屋の練兵場でも、ようやく洋式調練が執り行われておるのでございました。
就寝前、私はどうしても父に尋ねたい儀があり、父の部屋に罷り越したのでございます。
「入りなさい」
書見をしていた父は、私に向き直ると、正座の足を崩しました。いつもの父に見えましたが、さすがに安堵の様子がうかがえました。
「御尋ねいたしてもよろしゅうございますか」
「申してみよ」
「先頃、父上は腹を賭けて御屋形様へ御裁可を仰がれました。本日、御認可が下されたのでございますが、父上には、初めから勝算がおありだったのでしょうか」
父は深く頷いてから、一度、天井を見上げました。それから徐に視線を私に戻しましたときには、父の目は訓示を授けるときの厳しさでございました。
「武士たる者は、己が進退の基準を勝算や損得に置いてはならぬ。ただ誠心あるのみ。誠こそを尽くさねばならぬのだ」
そして父は目を和らげました。
「とは申せ、誠心のみで腹を賭けられては、家族は堪らぬな。そなたたちには心配をかけた。許せ、陽平。勝算とはいかぬが、筋は描いておった」
「どのような筋でございますか」
「いつぞやにも申したとおり、御屋形様は立藩を悲願とされておられる。いずれ御公儀の裁可が必定となるが、改めて検地を行なえば生臭い。百姓の苦境を哀れんで定免法を破免とし、検見をやり直すとなれば至って自然。しかる後に石直しを願い出れば、御公儀の御許しも得られやすかろう。その道理を、御屋形様であれば必ず汲んで下さると信じたのだ」
私は、心の底から得心いたしました。主君を想い、領民を想って、父は筋を描いたのでございましょう。これが誠心を尽くすことだと、私は学んだのでございます。真心から生じる創意工夫を知恵と申すのでございましょう。算術書の前に珍妙な顔を置いてはいても、父は知恵者でございました。
「無茶はせぬが、筋は通す。それが高岡の家風であろう」
父が笑いましたので、私も笑いました。
高岡伝八郎は、こういう人でございました。その父の手を、私というこの大馬鹿者は、振り解き、あまつさえ、男子ならばこそ共に越えるべき厳しき士の道に、父を一人置き去りにするのでございます。