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七美の士  作者: 三星尚太郎
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文久二年~ 郷方廻りを拝命し、人斬り騒動に児戯を図る

 但州七美郡の旗本交代寄合山名家に仕える高岡家では、江戸屋敷勤番を勤めた家主の伝八郎が帰国し、久方ぶりの一家団欒を迎えた。

 伝八郎の一人息子陽平は、ある日、郷方廻りを拝命した父に命じられ、村廻りに同道することになる。父の勤めぶりを間近に見て、陽平は士としての生き様を少しずつ学んでいく。

 そんな折、領内に人斬り騒動が持ち上がる。

 人生の幸福は様々ございましょうが、男児にとって、父を生涯の誇りとできますことは、その最たるものの一つでございましょう。


 家貧しくして孝子顕わると世の人は申しますが、ならば我が家がどれほど豊かであったかと申しますと、我が父、高岡伝八郎は、但州七美郡(しつみぐん)村岡、山名因幡守家中で軽々二十五石を頂戴するばかりの(さむらい)でございました。昔の人の箴言も、存外当てにならぬことがあるものでございます。


 高岡家は、幕臣の御歴々から見ますれば陪臣でございますし、大名御家中の方々から見ますれば、僅か六千七百石家中の軽輩侍と嘲りをうけることでございましょう。それでも父は、剣を直心影流に学び、江戸の講武所では直参旗本御家人をして瞠目させたほどでございます。主君義済公も大いに面目を施され、御褒詞を賜ること春の長雨のようであったとのことでございます。


 伝八郎が江戸屋敷勤番を拝命いたしましたのは安政六年、私が五歳の折でございました。


 江戸勤めは家臣の誉れとは申しますが、国許との二重生活でございますから家計は火の車でございました。知行取りと申せば聞こえはよいものの、二十五石と申しますのは日々の必需品を購えば、あとは何も残らぬという有様でございます。そのうえ、江戸での父が恥ずかしい思いをせぬ仕送りを、なけなしの家計からやり繰りせねばならぬ母の苦労は並大抵ではなかったと存じます。


 私などは世の仕組みも分からぬ未熟者でございましたから、袴儀の祝い膳に本物の鯛を用意できず、やむなく登場した絵鯛がおかしくて笑い転げたものでございます。


 端午の節句の祝いと申しましても、そういう次第で父母から何かを頂いたということもありませんでしたが、父からの私宛の手紙は大層嬉しかったものでございます。多くは戒めの言葉ではありましたが、言の葉の一つ一つに父の顔が映っておるようで、書物などままならぬものでございましたから、父の手紙をわざわざ文机において、日夜の勉学に用いたほどでございます。


 そのような生活が三年ばかり続いた文久二年、御屋形様義済公の御国入りに父が従い、我が家は久方振りに主を迎えたのでございます。妹の小春などは、父が江戸勤めを拝命した後に産まれたものでございますから、初めて目にする父の顔に、恥じ入るやら小躍りするやらで、大層なはしゃぎようでございました。


 江戸との二重生活は解消されましたが、それで生活が豊かになったわけではございません。確かに仕送り分の出費は不要となりましたが、頼母子講からの借財の返済もございましたし、父の姿が主室にある生活は母に安堵こそもたらしたでしょうが、家計を預かる身の苦労が払底されたわけではございません。我が家では、引き続き質素倹約が強く求められたわけでございます。それでも、食膳の田螺が蜆になるくらいの変化はございました。


 夕餉の話題は俄然豊かとなりました。なにしろ私はもちろん、母や妹や親戚一同、七美郡から一歩も出たことのない田舎者でございますから、同じ但州の出石や豊岡に出張した親戚から聞いた話が、三日三晩、食膳の上を飛び交うくらいのことでございました。


 私は好奇心旺盛な年頃でもあり、またようやく漢籍のひとつやふたつ読むこともできておりましたので、父が語る江戸の話をたいへん楽しく聴いておりました。特に、私も武士の子でございますので、父が修めた直心影流の話が待ち遠しく、奥義の一つや二つ、ともすれば伝授されるのではなかろうかと、腕をさすって待っておりました。


 ところが父は元来無口な性分でございますので、江戸の町の話こそそれなりに面白おかしく工夫して話してくれましたが、御役目のことなどはおまけ程度に触れるのでございましたし、剣の話などは、江戸に置き忘れたのではないかと案じるほどに、まったく父の口に乗ることはございませんでした。肩透かしをくらったような、落胆したような心持ちではございましたが、それでもやはり、父のいる生活は安らかでございました。


 一夜、私は意を決しまして、夕餉のあと、父の部屋を訪いました。少禄とは申せど武家たる身のしきたり、呼ばれもせぬのに父の部屋に推し参りますのは、叱責を覚悟せねばならぬことでございました。されども私は、是非とも剣の奥義の一片になりとも触れたい一心でございまして、武士の子として、決して恥ずべき性根ではなかったと信じております。


 さて、父は文机を背にして刀の手入れをしており、刀身を懐紙で拭ったところでございました。鞘や柄は当家に相応しい質素な拵えでございましたが、刀身が何とも美しく、柳眉と申しますのがこのようなものかと、まだ精も通わぬ若輩者ながら身を疼かせたものでございます。


 つい先刻、夕餉に他愛のない雑談を交わした人とは思えぬ重々しい面様で、父は私を一瞥いたしました。てっきり大叱責を落とされるものと身を縮ませましたが、父はただ手招いただけでございました。


「これは御屋形様から拝領した加州家吉である」


 父は鞘に収めた加州家吉を捧げ持ち、今そこに義済公がおわすかのような恭しい挙措で頭を下げました。それから丁重に、加州家吉を膝横に置きました。


「我は江戸の講武所で剣を学ばせていただいた」


 父が話し始めましたので、私はただ、はいと申し上げました。朴訥な父でございましたから、時鳥の鳴き声を求めるごとく、私は次の言葉を待ちわびながら耳を傾けたものでございます。


 父は決して武人たるに相応しい体躯を持った人ではありませんでした。どちらかと申せば痩身短躯でございましょう。それでも剣の道は体躯で決まるものではなく、父は講武所でも一目置かれるような剣才を発揮したようでございます。


 黒船騒動以来、尚武の気風が吹き始めた折も折、御屋形様におかれましても家臣のうち腕に覚えのある者を講武所で学ばされました。その一人に、伝八郎が選ばれたのでございます。もともと但州の田舎道場とは申せども直心影流で腕を鍛えていた父は、たちまち頭角を現したようにございます。


 一日、御公儀老中様御臨席の上、講武所に学ぶ各家の士を十人ばかり選抜し、東西二組に分けての上覧試合が催されました。そこに伝八郎が名を連ねたのでございます。大身旗本家中の士がひしめくなかで選抜されましたことは、それだけでも面目躍如たるものでございましたが、なおかつ次鋒で立ち会った父は、御旗本戸田様家中の士から見事二本を取って勝ちを収めたのでございます。さすが無口の父も、話がその段に至りますと、普段に見せぬ興奮顔で語ったものでございます。


「相手は心形刀流の目録、さすがの隙なき正眼でぐいぐい圧してくる。我も正眼においた切っ先をすると下段に落とすと、電光一閃、面に来た。我はすかさず切っ先を跳ね、胴を打って一本」


 父は年季の入った扇子を竹刀と見立てて、その立会いの様を六畳一間に再現してくれたのでございますが、今まさに胴を打つ段にきて、父にもその時の気迫が蘇ったものでございましょう、裂帛の気合が家屋を揺るがしたのでございます。驚いたのは母や妹でございました。山から落ちてきた鬼でも見るかのような蒼い顔で、襖から様子をうかがうのでございました。


「騒がせたが、何でもない」


 決まり悪げに咳を一つ払って、何事もなかったような顔で文机の前に座りなおした父の姿は、後から思い返せば、明倫館での講義の最中であっても危うく失笑を堪えきれぬほど滑稽でございましたが、その時の私は、父の迫真が浮かび上がらせた講武所道場の幻想の中で、まさに父の竹刀が戸田家士の胴をしたたかに打つ情景を見ておりましたので、母にしてみれば突然の雄叫びを上げた父も気がかりだったでございましょうが、魂を抜かれたような私の放心もまた案じられたことと存じます。


「ひとつ、そなたに教えることがある」


 いよいよ直心影流の奥義に触れることができるものかと、私は身を乗り出しました。


「武士が己から剣を抜くのはよほどの覚悟があってのことである。君命があるか、天地に恥じぬ正義を背負ってのことでなければ、ゆめゆめ軽々と抜くでない。もしも争いがあり、剣を用いるを避けえねば、相手に抜かせ、後の先を取って懐に飛び込み、小さく、鋭く胴を打て」


 父の教えが技の真髄でなく、心構えであったことに、剣を知らぬ私は少し落胆いたしましたが、それでも、しっかりと復唱し、父の言葉を腹にため込んだのでございます。


 高岡家に、団欒とそのような騒がしさが戻った日々のある夜のことでございます。帰宅の遅い父を待ちかね、母の許しを得て寝床に入った夜でございました。


 陰暦六月の夜のことゆえ蒸し暑く、私は夢を覚まし、団扇をどこに置いたかと手探りしておりました。すると土間から容易ならぬ気配を放つ物音がいたしましたので、私は咄嗟に布団から身を起こしました。母が夜なべの内職をしておるのかとも思いましたが、夜な夜な包丁を研ぐ鬼婆でもなければあのような気配を放つはずもございません。


 しばらく耳を澄ませておりましたが、物音はそれきりでございました。虫の音が幾つか重なっていたのを覚えております。草を枕の蛍も、寝苦しかろう夜でございました。私はそのまま眠るには癪でございましたし、鬼妖魔の類いであれば引っ括って手柄を立ててやろうと愚にも付かぬことが頭を過ぎりましたもので、そっと部屋を抜け出ました。


 縁側から父母の部屋を回って土間に向かいますと、廊下の暗闇の奥にうずくまる不穏な気配に、私は背筋を冷やしました。それは、確かに殺気でございました。今更臆する脚を叱りつつ、いつの間に持っていたものか、私は素振りの木刀を強く握り、そっと土間の暗闇に目を凝らしたのでございます。


 灯りが一つございました。それは蝋燭や行灯ではなく、土間の明かり取りから射した月光でございました。


 式台の人影。父でございました。父は式台に座り、月明かりを見上げておりました。鼻の奥を鈍く突く異臭。それは、確かに血の匂いでございました。


 未熟者は匂いごときで心を乱すものらしく、私の気配に気づいたのでしょう、父がこちらを向きましたので、私は慌てて廊下の角に隠れました。一瞬垣間見た父の顔は、とても父のものとは思えぬ悽愴な面様でございましたから、私は肝を縮みあげました。どうにか足音を殺し、抜けかけた腰を手で支えながら部屋に戻りましたが、寝床に入っても眠りは全く訪れません。私はその夜一晩、虫の音を耳にしながら、天井の夜闇に、父の悽愴な横顔を思い描いておりました。


 その夜のことを、父は私にも家族にも語りませんでした。私も、家族にも父にも話しませんでした。父の目が私を捉え損なったとは思えませんでしたが、こちらは闇の中から月明かりを見、あちらは月明かりの中から闇を見ましたので、ひょっとすると父は私に気づかなかったのではないかと、そのうち私はそのように暢気に考えるようになりました。父は穏やかな日を過ごしており、変化と申しますれば、拝領の加州家吉を蔵にしまい込み、自前の三文刀を差すようになった程度のことでございました。


 しばらくして、伝八郎は郷方廻り役を拝命いたしました。御馬脇として仕えることが通例であった高岡家ですから、この異動は予想外でございました。江戸勤番を無事に終え、御屋形様の覚えめでたき伝八郎でございましたから、末は家老かと冗談半分期待半分で話しておりました伯父などは、何か不始末をしでかしたのかと落胆しきりでございました。


 母も、ご事情がございますのでしょうと気丈に振る舞ってはおりましたが、家計を預かる身としてはあてが外れたことでございましょう。されども程なくして、御役目料として五石の御加増を頂戴いたしましたから、私共は首を傾げておりました。当の父が不平不満を口にせず、黙々と御勤めに精進しておりましたから、郷方廻りへの異動のことはそのうち誰も話さなくなったのでございます。


 嘉永から元治という時世は、学問と剣術の時世でございました。大身小身関わらず各家では有能な家臣を江戸で学ばせたり、領内に学校を建てたりして有為の人材を育て上げようと躍起になっておりました。村岡山名家におきましても教学振興、武術奨励が図られ、例えば伝八郎のように江戸勤番の者は講武所への入門が認められましたし、国許には先々代の徳源院様が御建てになった武術稽古所から発展した明倫館がございましたので、家臣の師弟には普く学びの道が整えられておりました。私もその道をゆっくりと歩く一人でございました。


 ところで、明倫館は明治御一新の後には日新館と名を改めるのでございますが、ご存じのとおり、明倫館は長州毛利様の藩校と同名でございますし、日新館は会津松平様の藩校と同名でございます。図らずも、時代の基軸となる両家の藩校の名をなぞることになるとは、何とも味わい深い奇遇であると申せましょう。


 さて、私は論語や春秋など、厳めしい顔をした漢文が隊伍を組んで迫ってくるような学問が苦手でございました。まして算法などは、教本に目で穴を開けましても皆目見当がつかず、教授の方々が描く図を見ましても、遠くから奇異なる浮世絵を眺めるような心持ちで、ずいぶんと忍耐を鍛えたような有様でございました。江戸や長崎などでは異国の言葉を学ぶ方もおられると聞きましたときには、驚天動地と申しますか、それならば鬼妖魔の言葉を学ぶ方もおられるのだろうと、空恐ろしさに身震いした次第でございました。


 学問は申し上げたような惨状でございましたが、剣術には励みました。高岡家は代々御馬脇を勤めて参りました家系でございますので、伯父などは、男児は剣か槍かをよくすればよしと断言しておりました。


 私は剣が好きでございましたので、直心影流を学び、江戸で腕をあげ、主君から刀を拝領した父が何とも自慢でございました。我が身の栄誉でないことは重々承知ながら、高なる鼻を押さえられず、明倫館までの川沿いの道を大股に歩いておりました。


 さて、ある一日のことでございます。私は明倫館の道場で、無心で木刀を振っておりました。江戸などでは竹刀を用いた稽古が流行でございましたが、何分田舎の但州七美郡のことゆえ、昔ながらの木刀での型稽古が行なわれておりました。


 稽古が終わり、汗を拭っておりますと、同輩共が四五人、何やら眉をひそめて話しておりましたので、私は何の相談かと割って入ったのでございます。


「市右衛門がここ数日きておらぬであろう」


「それがいかがした」


「どうやら、市右衛門の父御が斬られたらしい」


「なんと、いつのことじゃ」


「五日前の夜のことらしい」


 私は背を冷たく致しました。月光に浮かんだ父の悽愴な横顔を見ましたのは、丁度その夜のことでございました。指折り数えると相違なく、私は背骨を悪寒にわし掴みにされたのでございます。


「それで市右衛門の父御は」


「無論、死んだ。一刀の、見事な切り口だったそうだ。市右衛門の父御はかなりの手練れと評判であったが」


「葬儀などは」


「御屋形様の命により、近親の者にだけ知らせて、ごく質素に行なわれたらしい」


 私はもう同輩共の会話を聞いておりませんでした。聞くには聞いておったのでございましょうが、夢の中の呼び声のように不確かで、記憶に残るものではありませんでした。


 私は、膝から下が急に他人になったような頼りない足取りで、夕間暮れの家路につきました。市右衛門は、普請方八木浅右衛門殿の子息で、親同士の役目が離れておりますので、明倫館でも特に親しい間柄ではございませんでした。ただ、性根の良いまっすぐな剣筋をしておりました。


 とても恐ろしい思いでございました。得体の知れぬ黒いものに追われているような、お天道様のお目に触れてはならぬような底の知れぬ焦燥だけがあって、私は何とか組屋敷に帰り着いたのでございます。


 これは後から母に聞いたのでございますが、八木浅右衛門殿は御陣屋の尾白山御殿からさほど遠くない湯舟川の深い葦原で見つかったそうでございます。胴をばっさりとやられておったそうです。私はその現場に立ち会ったわけでもございませぬのに、なぜか生々しくその光景を思い描くことができたのでございます。


 その夜の夕餉は、喉を通りませんでした。せっかく母が作ってくれたものを残すわけにはいかぬと、蕪やらおからやらを胃に押し込みましたが、道場のある日は三杯は飯を食らう私でございましたから、母は案じ顔で私を見ておりました。


 私が飯椀や箸などを片付けておりますと、先に夕餉を終えていた父が、


「陽平、吾の部屋へきなさい」


 と命じました。私は危うく心の臓を口から転げ落とすところでございました。


 冥府の御白州で閻魔に手招きされた者がこうであろうと思しき蒼い顔で、私は父の部屋まで参りました。


 そろそろと襖を開けますと、父は正面に座っておりました。目を閉じて、いつもの柔和な父でございました。石に生まれ変わったと致しましても、そのまま地蔵として役に立ちそうな父の顔でございました。その様を思いますと、途端に、胸の底が軽くなったのでございます。この父が人を殺めるはずなどないことに、ようやく思い至ったのでございました。私は嬉しくなって、いつもより間近に、父の正面に座りました。目を開けた父は、存外近くにあった私の顔に驚いておりました。


「これ、なぜそのように近い」


「いけませぬか」


「いけなくはないが、ちと話しづらい」


 父は少し後ずさってから、一つ咳払いいたしました。


「吾が郷方廻りを拝命したのは存じておるな」


「はい」


「本来は許されぬのだが、特別に御許しをいただいた。吾が村を廻るときには、そなたも同道せよ。その日は、明倫館を休んでよい」


 武家でありますから、父がこうだと申せば、子は、はい、と応えるほかございません。その習いに私も従いましたが、三畳の自室に戻って首をひねっておりました。


 諸家により事情が異なるようでございますが、武士の男児の元服は概ね数え十四歳でございます。元服後すぐに御役を頂戴できるかどうかもまた、それぞれの家のしきたりがございます。


 村岡山名家では、由緒の御家柄は別格として、御役の世襲は認められておらず、必ず新規御召し抱えとなっておりましたから、父が致仕する前に子が御役をいただくこともままありましたが、それは子に才覚が認められた場合でございます。私に才覚がないことは自他共に認めるところでございますから、私が御役を頂戴するのはどう考えても正しいことではないように思えたのでございます。


 しばらく思考を巡らし、ふと思い至り、私は己の自惚れに顔を赤くいたしました。父はただ同道せよと申した次第でございまして、私が御役を頂戴したわけではございません。郷方廻りは身体にきつい御役目でございますので、子弟の助手が認められることもあるのだと得心いたしました。己には才覚がないと申しておきながら、密かに同輩から抜け出た優越感をもって、したり顔で事の善悪を思案していた己の浅はかさに、ただただ恥じ入るばかりでございました。


 翌日の明倫館で、さっそく同輩に伝えましたところ、一足先に御屋形様の御役に立つ私を、皆、切歯扼腕して羨ましがっておりました。私を激励する者もおり、負けず口を叩く者もおりました。


 ところで、例の八木市右衛門がようやく出席しておりました。事が事でございますから、誰もが二度三度と目を見合わせ、むずがる赤子をあやすような細い声で、一声、二声掛けるのでございました。私も同輩であり、道場では木刀を交えたこともある間柄でございましたし、まさか横を素通りするような真似もできませぬから、


「元気をだせ」


 と、肩を叩きました。市右衛門は硬い表情のまま、軽く頭を下げたのでございます。私が負い目を感じることではないと承知しておりましたが、私はやはりあの夜のことが心に掛り、講義中、何度も市右衛門の方を見ておりました。


 市右衛門は静かな表情をしておりました。本来、私共のような若輩者が辿り着くはずのない境地に一人座っているようで、私は痛々しく思うやら、何も手助けできない己を歯がゆく思うやらで、心の騒がしさを鎮めることができませんでした。


 さて、郷方廻りのことでございます。七美郡わずかに六千七百石と申しましても、五郷七十村を人の脚で廻るのでございます。まして、山高く谷深い七美郡でございますから、山渓草木を歌に詠むには風流でございましょうが、山腹にへばりついた一枚一枚の稲田を見て廻るのは、根気と体力を要する御役目でございました。


 私はまず、父に連れられて、郡奉行の青山様へ御挨拶に伺いました。


 御陣屋のある尾白山からは、町屋の照る甍越しに、畝や畔を整える百姓の働く様がよく見えました。谷の奥深くまで続く田んぼを見ておりますと、緑の稲がすくすくと背を伸ばし、風に騒いだり、雲の影に黒々とするあの美しい季節がまた来るのだという高揚感が胸の底から沸いてくるのでございました。


 ところがいざ大手門を潜りますと、風景を愛でていた心の余裕もどこへやら、郡奉行青山様の御姿を想像しては、恐ろしさに身を縮める有り様でございました。我が肝の不甲斐なさに恥じ入りますとともに、鬼閻魔の如く描いておりました青山様には誠に失礼千万であったかと存じます。


 郷方の御役所の門前まで参りますと、父は私にしばし待つよう伝え、一足先に御役所に入っていきました。私は影法師のような頼りなさで、築地塀の側に立っておりました。所々の御役所に出入りする御家中の方や御用商人の様子や、一声鳴きながら空を黒々とかすめる鳶の影を見ているうちに、ようやく肝も落ち着きを取り戻して参りました。丁度そのころ、父が門の潜り戸から私を手招きいたしました。私は二つばかり大息をつき、吸った息を丹田に溜め込みましてから、父の背に続いて御役所に入りました。


 玄関には御家中の方が何人かおられましたので、私は父の紹介にて、逐一深々と頭を下げて、御指導をお願い致しました。明倫館にようやく通い始めた私のような者がおりますのはやはり常のことではございませんようで、皆様は戸惑った御様子でございました。


 それでも激励の御言葉にどのようにお応えすべきかと心構えをしておりましたが、慮外のことに冷やかしすらもございませんでした。皆様の、まるで私がおらぬかのような振る舞いに、いささか不思議に思っておりましたが、父は気にも止めぬ様子でございました。


 父に導かれるまま式台で草履を脱ぎ、廊下を進んで参りますと、簡素ながら味のある梅と鶯の描かれた襖の前で、父は膝を付きました。私がそれに倣ったのを確かめてから、父は襖の鶯に向かって申し上げました。


「高岡伝八郎とその倅、陽平がまかりこしました」


 すると、襖の奥から甲高い声が返って参りました。


「入れ」


 父が襖に手を掛け、鶯がすっと横に動きますと、もう一羽の鶯が出て参りましたから、私は仰天いたしました。そう見えたのは、実は青山様の、鼻の頭を無理に引っ張ったような御尊顔でございましたから、私は吹き出しそうになる面を大急ぎで伏せました。


「その方が伝八郎の子息であるか」


 鶯にしては耳障りの悪い声でございました。平伏し恐懼の様を見せている父と、平伏して笑いを押し殺している私とを、青山様がどのような御顔で眺めておられたのかは分かりませんが、想像すると吹き出しそうでございましたので、私は努めて考えぬようにしておりました。


 大方こういったものは形式だけのものでございますので、


「幼少に関わらず父の手助け、大義である。尽力いたせ」


 と申されただけで、青山様は満足されたようにございました。あるいは白州などに座らされることもあらんかとおそれておりました私にとっては、まことに拍子抜けの御目通りでございました。


「待て」


 下がろうとしておりました父を、青山様が制止なさいました。私は平伏しておりましたので、青山様の挙措を窺うことはできませんでしたが、どうやら御屋形様からの拝領物が父に渡された様子でございました。


「修得に励み、御屋形様の御期待に応えるように」


 青山様はそう申され、すっと襖の閉じられる音がいたしました。面を上げますと、襖の鶯と目が合いました。青山様よりも、襖の鶯に親しみを覚えた私は、無礼千万でございましたでしょう。


 父を見ますと、平伏の姿勢を少し起こし、桐箱を恭しく捧げ持っておりました。やがて桐箱を膝に抱えますと、しばらく襖をじっと見つめておりました。私が焦れ始めたころにようやく父は立ち、私を促して御役所を退出いたしました。


 父は御役所の玄関を出ると右手に進み、納屋の前で屯する御陣屋御雇いの小者に声をかけました。小者は軽く会釈してから伝八郎を納屋の中へ案内いたしました。


 私も続いて入りますと、そこには梵天竹や水縄、間竿などの検地道具が雑然と並んでおりました。伝八郎は道具の一つ一つを丁寧に見ながら、梵天竹は梵天竹で、間竿は間竿でという具合に、整理を始めたのでございます。


 父はあたかも、合戦前の武者が槍の刃こぼれや具足の緩みを逃さぬのと同じ眼でひとつひとつを確認しては、様々な検地用具を、その声を聴いたかのように相応しい場所へ並べ替えておりました。御屋形様はもちろん青山様もおられぬ、誰の目を憚ることもない密室で、けして手を抜くことのない父の姿勢に、私は、これぞ忠義の体現と感動いたしました。主君の目に触れぬ戦場の一隅で戦国の士が命を掛けるのと同様に、現今の士はこうして忠義を実践するのだと、父は私に教授してくれたのでございます。


 大方半刻ほどもそういたしておりましたでしょう。案内した小者が欠伸を噛み殺しておりましたから、私がじっと見つめますと、恐懼した体で納屋から逃げ出していきました。所詮、雇者の忠義など、給金を使い果たせば霧散するごときものなのでございましょう。


「御手伝いいたしましょう」


 私が申しますと、父は我に返ったような顔をこちらに向けました。


「これを持っておいてくれ。もう済む」


 小脇に抱えていた桐箱を、私は預かりました。御屋形様からの拝領物でございましたので、当然、中身が気になるところでございました。


「これはなんでございましょう」


 蓋を開けたい好奇心に耐えつつ尋ねますと、父は顔を少し困らせて、


「うむ」


 とだけ答えました。私もそれ以上問い重ねて父の邪魔となるのもいけませぬので、いろいろと想像を巡らせながら両手に抱いておりました。


「うまい具合になっておったろう」


 唐突に父が振り返りましたので、私は戸惑いました。桐箱に絡繰りでもあるのかとしげしげ眺めましたが、父は襖のことだと申しました。


「吾も初めは吹き出しかけた。鶯を開けたら、もう一羽鶯がおるのだからな」


 私は咄嗟に合点が参りました。真面目に申す父の様もおかしく、私は笑い声を懸命にこらえました。すると、父は謀を囁くような顔で私の耳に口を寄せ、


「吾は鶯様と密かに呼んでおる」


 と申して、目元だけで笑いました。私は、もう笑い声を堪えることはできませんでした。


 私共が納屋を出ますと、御陣屋の築地塀はすっかり赤く焼けておりました。大手門を出ますと、尾白山からの眺めは、蘇武岳の夕霞から出でた山陰街道が春来峠の夕霞に消え、町屋の甍の返照はずいぶんと賑やかで、棚田の水は赤く染まり、行き交う人の姿は却って黒々と、刹那刹那に新しく描かれる錦絵の走馬を見るごとく、私はしばし陶然としておったのでございます。


「天は幾本の絵筆を持っておられるものなのでしょうか」


 幼稚な言葉がつい口から零れてしまいましたが、父は赤い笑顔でそれを拾って、


「江戸は忙しい町だが、少し離れて眺めておると、黄昏はゆったりと夜になる。広い平野が海にまで続いておるからだ。七美の黄昏はせっかち者だな。ここから見れば田畑は指でなぞれるほど狭いが、歩くと広いぞ」


 と申しました。私は、生まれ育った七美の天地が急に朧になったような、それでいて親しみを増すような奇妙な感覚にくるまれ、父と共に、私の知らぬ天地を見拓いていくその日々を楽しみに想ったものでございます。私はもうしばし七美の夕景色に空想を広げてから、大手門への坂道を夕やみへと下っていく父の背を追いました。


 実際に郷に出てみますと、郷方廻りの御役目は推し量っておりました以上にきついものでございました。物見遊山と心得違いした未熟者の浅はかさでございましょう、御天道様は燦々としておりますし、どこで油を売っておるのか、一片の雲もございませんでした。


 されども武士は、木陰を拾って九十九折りに歩くような小癪をせぬものでございます。とは申しましても、肩に担いだ梵天竹で、何とか御天道様を遠くへ押しやれぬものかと愚考するぐらいの不埒はしでかしておりました。


 腑に落ちませぬのは、やはり私が御手伝役として選ばれたことでございました。無論、御役目に臆したわけではございません。されど、例えば御雇い者の小者もおりますし、郷方には同役の方もおられます。そういった方々を差し置いて、何故未熟者などがと、童子は童子なりに腹に納まらぬものを抱いておりました。その不可解を言葉といたしましても、父は、


「御役目、御役目」


 と、取り合わぬのでございました。自惚れではございましょうが、父はむしろ、私と二人だけの時間を愉快に思っている様子と見えたのでございます。


 さて、その日、父と私は、御陣屋から二里ばかりの兎塚郷作山村の田を廻りました。村役人と村人数名を供に加え、十ばかりの田を検地いたしました。村役人も村人も渋い顔をしておりました。百姓の中には取高をごまかす者もおるそうですので、あるいは発覚を恐れている者がいるのやも知れませんでした。


 昼時まで村内の田を見ていた父は、村役人らを労ってから帰しました。村人は幾度かこちらを盗み見しながら帰っていきました。私は胸襟に何やら尖ったものを覚えましたが、父は気にも止めぬ様子でございました。治める者と治められる者との掛け合いは、時にこのようになるのだろうと私は学んだ気でおりました。


「飯を食おう」


 父が申しましたので、私は眉をぱっと開きました。御役目料を加えて三十石取りの生活は質素なものでございますが、昼飯ばかりは父に精を付けて貰おうと、母が白米の握り飯を竹篭に入れておるのを、浅ましいことながら、私は知っておったのでございます。


 父と私は、作山川の細い流れを前にして、飯を食いました。漬物を菜にして、赤子の頭程もある握り飯を、私は平らげました。ふと父を見ますと、日陰となった父の顔の、細めた目が私を見ておりました。


「お尋ねいたしとうございます」


「申してみよ」


「我らはただ領内の田を見て廻るのが御役目でございましょうか」


「田の善し悪しを見極め、取高を正確に調べねばならぬ」


「つまり検地を行なうということでございましょうか」


「まぁ、そうだな」


「しかし検地などはもうこれまでに済んでおることではありませぬか」


「我が領内では、年貢は定免法、つまり過去の取高の実績を基に率を定めておる。これはこれで便宜ある方法ではあるが、過去に基づいておるゆえ、今と合わぬことがある。これでは不便になろう」


「時に応じて検地の見直しが必要なことはわかりますが、それで助かる者もおれば、困る者もおるのではないでしょうか」


 私の見立てでは、作山村の村人は、困る方の部類ではないかと思えました。父は空に向かって笑いますと、侮れぬな、と申して私の頭に手を置きました。


「それに、そのような大事な御役目になぜ私ごときが御手伝いさせていただけるのでしょうか。誠に無礼なことながら、青山様も同僚の方々もこの御役目を避けておられるように拝察いたしました」


 私は差し出口を利いてしまったらしく、父は、私をじっと見据えました。流石に直心影流の奥義に達した人物の直視は重く、腹の底が痺れてまいりました。しかし、父は腹を立てたわけではございませんでした。


「我は江戸に勤めておったおり、御屋形様によく御声掛けいただいた」


 父は竹篭をしまうと、背をすっと伸ばし、河原に義済公が佇んでおられるかのように姿勢を正しました。


「気宇の大きな御方だ。誇り高くもあらせられる。小さすぎるのだ、旗本交代寄合六千七百石では。藩を立てる。それが御屋形様の念願なのだ。とは申せ、今は元亀天正の世の中ではない。まさか近隣切取放題というわけにはいかぬ。石直ししかないのだ、今の世で藩を立てるには。しかし、石が増えれば役廻りも増えるのが道理、家中には石直しに反対する声も多い。故に万石の取れ高を有しながら、代々、旗本に甘んじてきたのだ。御屋形様はそれが我慢ならなかった。ある日吾を御側に呼ばれ、何年かかってもよい、藩を立てよ、と命じられたのだ」


 そこまで申して、父はしばし物思いにふけりました。その間、私は、父が語った主従の情景を七美の空に思い描いておりました。作山川の小さな流れの音と、鳶の声が聞こえておりました。


「まぁ、そういう次第だ」


 父は袴を払って立ちました。


「参ろうか。我らはただ忠義を尽くすのみ」


 斟酌いたしますに、父は御屋形様の御人柄に惹かれ、御屋形様もまた、父を頼みとされたのでございましょう。父と御屋形様のような主従の間柄が、私には何とも羨ましく思われたのでございます。


 昼からはてっきり別村を廻るものと思っておりましたが、父は作山村の奥手の山にどんどんと入っていきました。当然私も続いたのでございますが、獣道とてない山の斜面を、担いでいた梵天竹を杖代わりとし、あるいは木の根を掴み、あるいは草の葉を掴みして半刻ばかりよじ登っておりますと、木に邪魔され、決して村からは見えぬところに、僅かばかりの開けた地がございました。懐から手拭いを取り出し、額の汗を拭う父の目が険しくなりました。


 ひっそりと、一枚の田がありました。山肌から染み出る水を盈々と湛えた田でございました。


 隠し田でございます。私は、あっと声を上げました。隠し田は死罪でございます。私は、私が見ている光景が、これからどんな事態を引き起こすのか空恐ろしく、呆然としておりました。


 父は無言で田の四方に細見竹を立て、田の広さを測り始めました。ようやく我に返った私が水縄を張る父を手伝おうといたしますと、父の視線が、木立の一点に向けられました。そちらを見やりますと、作山村の者でございましょう、一人の百姓が盗み見をしておりました。


 私は頭に血が上り、百姓を大声で罵ってやろうと大息を吸いました。その時、父の叱責が私に飛んで参りました。


「言うな、陽平」


 私は吸った大息を何とか腹の中に飲み込みました。代わりに父が大声で話し始めたのでございます。


「吾はこの田を知っておった。ここだけではない。この村の全ての田を知っておる。我の知らぬ田など、この村にはない」


 何のことだろうかと私は目を丸くいたしましたが、父は私に話したのではございませんでした。作山村の百姓に向かって話したのでございます。百姓は、父の話を聞いて暫時考える様子でございましたが、すぐに姿を消しました。推測いたしますに、村役人に伝えに行ったのでございましょう。


「そういうことだ」


 一言そう申しますと、父はまた黙々と作業にかかりました。私は消化しきれぬ黒い感情を抱きながら、父の仕事を手伝っておりました。


 作業を終えて、父は帳面にこの隠し田の広さ、取高の見込み値を書き込みました。私の顔が憮然としたおったからでしょうか。父は青い稲穂が風に細波立つ様を見ながら、私を諭したのでございます。


「生きねばならん。士も、百姓も。天保の飢饉の折は、この辺りも悲惨な有り様であった。容赦のない年貢の取り立てが、被害を大きくしたのだと吾は思う。百姓が田を隠したくなるのも道理ではないか」


 際どいことを話す父に、私は驚きました。御政道批判とも受け取れる内容でございました。驚きますと同時に、父は大事なことを私に話しているのだろうと思いました。


 父は斜面を降りて行きました。私は、百姓が生きるために耕した田をじっと眺めました。赤がうっすらと滲み始めた空へ向かって、懸命に背を伸ばす稲穂が、その風に揺れる姿が、何とも美しく見えたのでございます。


 作山村に戻って参りました頃には、竹藪や家屋の陰から夕やみが立つ時刻となっており、村役場である庄屋の屋敷の前には、数名の人影が集っておりました。村人共が見送りに出ておるのだろうと呑気に構えていた私は、父の横顔を見て息を飲みました。


「吾から離れるな」


 短く、鋭く父は命じました。庄屋とおぼしき老人が、私共の行く手を遮るように出て参りました。


「御苦労さまでございました」


 辞は低いものの、何か黒いものが感じられる面構えをしておりました。


「そなたたちにも苦労をかけた」


父は何気無い動作で、左手を刀の柄に置きました。ひりついた空気が目に映るように広がったのでございます。


「この村の全ての田を御存知だそうで」


「一日で全ては見られぬ。また見させてもらおう」


「今年、この村が納めさせていただく米は増えましょうか」


「いずれは増えるやもしれぬ。おぬしたちが懸命に働き、良い田を作っておるからだ。御屋形様もこの村の働きを御褒めになられるであろう」


 これは立ち合いなのだ、と私は直感いたしました。剣も木刀もございません。しかし確かに、父も庄屋も、立ち合いの気を放っておるのでございました。呼吸を十ばかりも数えましたでしょうか、ようやく庄屋はおもむろに頭を下げました。


「勿体ないことでございます」


 立ち合いは終わりました。どちらの勝利であったかは、私には判じかねました。治める者と治められる者との関係は、時に真剣で向かい合うような緊迫を伴うものだということを学んだだけでございました。されど、それすらも未熟者の甘さなのでございました。


 父は、作山村が夕闇に沈み込むところへ至るまで、左手を剣把にかけたままでございました。私はどこで子泣き爺を拾ったものか、一歩進む毎に重くなる背に耐えかねておりました。


 父の横顔。記憶のある横顔でございます。まぎれもなく、あの夜、月光に浮かんだ父の悽愴な横顔と同じものでございました。


 父の左手が剣把を離れたとき、私は耐えかねていた重みを吐き出すように、大息をはき出しました。ついた息のまにまに、私は父に問いかけました。


「まるで百姓らを斬るように思えました」


 父と私との間の空気を少しでも軽くしようと、私は無理な笑顔を作りましたが、父は笑いませんでした。


「その気概でおらねば、百姓どもは我らを殺し、新たな隠し田の肥やしとしておっただろう」


 まさか、と笑い飛ばせぬ凄味を、たしかにあの庄屋は放っておりました。父の練り込まれた剣士としての胆力が私を守っていなければ、私はおそらく庄屋の前で頽れておったに相違ございません。


 隠し田は死罪。その掟は、物事を裏から見る者には殺人を動機づける際どいものであることに、私は身の震えを覚えました。不覚にも、臆したのでございます。


「案ずるな。今日は吾も油断しておった。今後は、先に村役人と充分に折衝しておき、それでもの時は青山様に願って、加勢を付けて貰うようにする」


 ようやく父は、平素の柔和な表情に戻りました。私共が御陣屋に戻りましたときは、星と蛍が相争うように瞬いて、もうすっかり夜も更けておりました。


 夕餉を終えてもまだ作山村での身の震えを芯に残しておりました私は、恥ずかしながら怯えと申すべき感情に耐えられず、父の部屋に罷り越したのでございます。父は文机に向かって、何やら珍妙な顔を作っておりました。よほど没頭しておったようでございまして、私が訪いを入れましたのも耳に入らぬ様子でございました。


 文机には、数冊の書物が積まれ、筆と算木、何枚かの懐紙が所在なさげに散らばっておりました。そっと近づいて文机を覗いてみますと、開かれた書物には難解な算法の図式が描かれておりました。それは誠に描かれていたとしか申し様のない奇怪さでございまして、その道の方なればこそその玄妙さを味わうものでございましょうが、私にとっては、明倫館の算術講義中によく目にする奇異なる浮世絵と同じものでございました。


 私は、ふと笑いがこみ上げて参りました。父の珍妙な顔は、おそらく私が明倫館で作っている顔と同じであったに相違ございません。堪えきれず吹き出しますと、父はようやく私に気がついたようでございます。狼狽しながら、文机で無聊をかこっていた算木などを片付け、書物を閉じました。それから居住まいを取り繕って、


「そのような無礼はするものではない」


 と、些か威厳の足らぬ声で私を叱りました。


「御屋形様から頂戴した書物でございますか」


 鶯様から渡された御屋形様からの拝領物がこの書籍であろうと、私は見当を付けました。


「うむ」


 父が言い淀みましたのは、それが算法の書物であったからでございましょう。私には父の心が痛いほど分かるのでございました。勘定方を勤める家系でないことが、御家中にとって誠に幸いでございました。


「鉤股弦の法とやら申す術法を用いれば、検地の作業も捗るであろうとの御屋形様の思し召しであるが」


 途方に暮れた父が、誠に気の毒でございました。


「足じゃ足じゃ。足さえあれば検地はできる」


 父は文机に積まれた書物を桐箱にしまいました。なかったことにしておこうという父の魂胆が丸見えではございましたが、私は敢えて咎めませんでした。あの奇異なる浮世絵が顔を利かせているかと思えば、おいそれと父の部屋に近づけぬからでございます。


「人には得手不得手があるものだ」


「まったくでございます。私も明倫館の算術の講義は、坊主の読経よりも分かりませぬ」


 父と私は笑い合いましたが、


「いや、そなたはしっかりと学ばねばならぬ」


 予想外の叱責を受けてしまいましたが、私の芯に残っていた作山村での怯えは、いつの間にか消えておったのでございます。


 翌日は日影村、翌々日は宿村と廻った私は、その翌日には明倫館に通いました。草鞋から草履に履き替え、検地道具を教本と硯箱に替えた私は、新鮮な心地で家を出ました。他の子弟から一歩長じた優越感を鼻先に引っかけながら歩く通い路は、何とも清々しいものでございました。されども、その日の漢詩の講義の後には鼻が萎れ、算学の後にはすっかり現実に戻り、己の未熟を痛感するのでございました。


 例の八木浅右衛門殿が斬殺された一件につきましては、もちろん御目付の吟味が続けられておったのでございますが、なにぶん深夜の事件であったため、稲を荒らした悪鹿を夜の山中に探すような塩梅にて、下手人の尻の形も掴めぬ有様でございました。吟味が捗らぬ御目付以上に、八木家の親類縁者は焦れておったことでございましょう。その有り様を哀れと思った者が言い始めたのか、御陣屋町に噂が一つ立ったのでございます。


 御陣屋の大手門のかがり火を微かに見る湯舟川の河原に、夜な夜な七人同心が彷徨い歩き、夜道を行く人を取り囲んではあの世に連れ去るというのでございます。七人同心は、無念の切腹に果てた士の怨念とも申しますし、七本手に大刀を持った鬼とも申します。


 誠に馬鹿馬鹿しいことではございますが、領内に人斬りが潜む薄気味悪さから逃れるため、人々はまことしやかに囁くのでございました。御陣屋町に立った噂は、すぐに明倫館にも流れ込んで参りました。


 市右衛門でございますが、父の横死という事実は、その理不尽に対する怒りから容易に抜け出せぬものでございましょうから、講義の最中も道場の最中も、群から離れた雁のように黙々と過ごしているのでございました。元々人付き合いのうまい性格ではございませんでしたが、流石に哀れであろうと、誰からともなく囁いておりました。


 そんなある一日に、提案する者がおりました。明倫館の有志で討伐隊を編成し、夜の湯舟川河原に踏み込んで、七人同心を討とうというものでございました。噂が誠であれば七人同心を退治し、虚報であれば、人心を惑わす噂の根を断とうというのでございます。どちらの結果になろうとも市右衛門の慰みになるのではないかと、その提案者は申すのでございました。


 立案いたしましたのは小原千次郎で、勘定方三十石小原庄兵衛殿の嫡男でございます。勘定方の家系に相応しからぬ粗忽を見せることが多く、日々大言壮語することも珍しくない男でございまして、私とはあまり付き合いのない間柄ではございましたが、悲運に遭った市右衛門のために奮う男気の有りや無しやを問われたならば、応と答えぬわけには参りません。


 小原と私、他に三人ばかりで討伐隊を編成し、夜四つの鐘に合わせて町屋番所前で集おうぞ、となったのでございます。本山甚平なぞは小胆な性格なものですから、


「七人同心に我ら五人ではかなわぬのではないか」


 などと、早くも小心を披露するのでございました。小原は虚勢を張って、


「両手に大小を持てば十本になる計算じゃ。七人斬って余りがあろう」


 と嘯くのでございました。相手も大小を持てば数が合わぬ、とは思いましたが、あえて皆の士気を下げることもないことゆえ、私は黙っておりました。


 夜四つとなりまして、私は父母に見咎められぬよう、木刀の大小を着物の裾に隠し持ち、厠へ立つふりをして裏口から家をでました。虫の音がやかましく、庭の草を踏む音もかき消されて都合が良うございました。


 町屋の番所には、既に他の者は集まっておりました。何の挿絵を見たものか、小原は襷掛けに白鉢巻きで、うっかり開いた口の閉め方を忘れてしまいそうな出で立ちをしておりました。


「おぬし、悪のりが過ぎるのではないか」


「何の悪のりか。ぬしこそ、心構えができておらぬのではないか」


 などと問答しておりますと、番所のかがり火の火影から、不意に人影が出て参りました。


 小原なぞ、明らかに虚勢を張っておりましたものですから、気の毒なほどの狼狽ぶりでございましたが、人影は市右衛門でございました。


「おう、陣中見舞いか」


 小原が申しましたが、市右衛門は首を振って、


「いや、加えてもらおうと思う」


 と、伏し目に申しました。まさか、市右衛門までが七人同心などという噂を真に受けているわけではあるまいと思いましたが、ともかくも心強くなるのは皆一致の思いにて、我ら六人で、湯舟川に向かったのでございます。


 見えていた御陣屋大手門のかがり火が、星か蛍かという弱々しさとなりました。ここらでよかろうと、我らは土手から河原に下りたのでございます。


 噂と許嫁の顔はよく分からぬと世の人が申しますとおり、湯舟川の河原のどこで待てば七人同心が現れるのか、見当がつかぬのでございました。噂では、大手門の篝火がわずかに望める場所ということですから、この辺りでよかろうという話になったのでございます。


 七人同心の出没場所はもちろん、市右衛門の父が横死した場所も正確にはわかりませんでした。あるいは市右衛門は存じていたのかもしれませんが、我らが下りた場所は、三男坊の肩身ほどのわずかな砂地があるばかりで、後は葦原が広がっておりました。


 小原共は、当所こそ意気軒昂と大言を吐いておりましたが、飽いたものか、心細くなったものか、半刻ほどで誰も話さぬようになりました。


 市右衛門は川の水が触れている一抱えほどの石に腰を下ろし、葦原の一点をじっと見ておりました。


「七人同心が現れるとよいな。我らが退治してやる」


 私がそう申しますと、


「頼む」


 と、市右衛門は返しました。


 それから一刻ほど待ちましたが、七人同心どころか化け狸も出てこぬ有様でございましたので、


「栃餅は升田屋のやつを茶漬けにするのが旨い」


 などと、飽き様のただならぬ小原が、とうとう欠伸を始めたのでございます。こうなると小原の白鉢巻きが、まったく何の悪ふざけかと腹立たしくなって参りました。


「恐れをなしたに相違ない」


 誰からともなくそう申し始めて、今夜はとうとう解散となりました。


「残念であったが、仕方がないな」


 市右衛門に声を掛けますと、市右衛門はまんざら無駄骨でもなかったような清々とした顔をしておりました。市右衛門なりに、今夜の児戯を契機に、立ち直ろうと決心しておったのやもしれません。


「父と、よく星の話をした」


 市右衛門が星空を見上げて申しました。


「七美の星は格別だからな」


 私も市右衛門と同じ星空を見上げました。彦星と織女がお互いの名を呼び合うように、ひときわ明るく輝いておりました。


 私と市右衛門は並んで帰りました。会話が弾んだわけではございませんが、明倫館での講義のことや道場のことやらをぽつぽつと話しているうちに、一途で、正直で、誠実で、潔い市右衛門の心根が垣間見えてまいりました。


 組屋敷町に戻ってまいりますと、我が屋敷が先にありますもので、


「また明日」


「おう」


 短く挨拶を交わして、私共は別れたのでございます。


 市右衛門と友になれたら良い。そんな気持ちが胸裏を温める快さに顔を綻ばせながら、玄関に入りますと、般若も逃げ出すであろう母の顔が待っておったのでございます。


 夜遊びと寝小便は親に知られるなと世の人が申しますのももっともなことであると、私はその夜、思い知ったのでございます。


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