00 緋色の記憶
序文のため、主人公はまだ出てきません。
とりあえず03までは連日投稿します。
幸福な時は終わるのだと、幸せな時は続かないのだと、彼女は身をもって知っていた。
炎の中を走る。
熱が彼女の長い髪を焼く。倒壊した建物に火の粉が舞い上がり、煤が肌を穢す。
喉は枯れ、焼け、息苦しさに思わず咳き込みそうになる。煤が目に入り涙が溢れそうになる。
それでも走るのを止めるわけには行かない。
逃げなければいけない。
生きるために。
彼女の手を繋ぎ、先導するのは一人。
それは、彼女が父と慕う者だった。
「おとーさんっ」
「………」
彼女の声に彼は応えない。僅かに振り返り、その緑の瞳で彼女を一瞥する。
その瞳の奥に、気遣わしげなものを感じる。
それだけで十分。まだ頑張れる。
ほんの僅かな気持ちの余裕が出来、彼女は足を止めることなく辺りを見回す。
ここには森に囲まれた小さな集落があった。
名前もない小さな村だ。
森との境界には簡単な野生動物避けの柵が設けられ、木と土で出来た簡素な家がまばらに存在する。
質素ではあったが、彼女はその村に暖かさを感じ愛着を持っていた。
第二の故郷と呼べるその村は紅蓮の炎に包まれ、変わり果てた姿となっていた。
通り過ぎる建物の側。地面に倒れ、動くことのない隣人たち。
この間、山菜をくれたエクリュ。まだお返しできてなかった。
グリンとは明日一緒に散歩に行く約束をしていた。
シアン、パルマ……二人は、子どもが出来たと喜んでいたのに……。
感情が抑えきれず自然と、涙が溢れ出した。
後ろ髪引かれる思いを堪え、涙を拭い、父の背を見る。
今は、逃げなければならない。
村の外に。火の届かない場所に。
何より、襲撃者の手の届かない所に。
無限にも思える数分を走り抜き、村の外に続く道を走る。
ようやく村の門にたどり着いた。
そこには獣よけのため、木製の扉があるはずだったが、破壊されたのか片側は真ん中から上が無く、もう片側は地面に転がっていた。
「待て、何処に向かう。」
無機質な声が前方よりかけられ、二人は足を止める。
門の間には見慣れないモノが立っていた。ボロボロの外套に身を包んだ小さな…一見子供のようにも見える人影。
外套の裾からは奇妙に細く、長い手足が見て取れた。異形といってもいい姿に、彼女は父の手を強く握る。
人影の横には2メルト近い長さの筒状の物体。槍のように見えるが、彼女の知る槍よりも遥かに太い。
二人の逃走を阻むようなその人影に、父は咄嗟に彼女を庇うように足を一歩踏み出した。
「お前か、コレをやったのは」
父の問に異形の人影は顔の中央にある大きな緋い眼を輝かせる。
比喩ではない。無機質な瞳が警告するように、緩やかに明滅を繰り返す
「本作戦に於いて作戦領域外への離脱は認められて居ない」
「…マスターログの確認を要請する。作戦の中止を具申し、承諾を得ていたはずだ。この事態の説明を要求する。」
炎に包まれた村の中で一層冷たく響くその声に、父もまた冷たい響きをでもって問いかけた。
「要求を承認する。……ログを確認。発言の内容を肯定する。」
「であれば、これは何だ」
感情を抑えた父の声。冷たくとも、その声には怒りが内包されている。
「承認後に再度審議を行い、本村落は当該地域において原住生物と接触し、何らかの異常を来たしたものと断定。事前通告を不要とし、地域一帯の住民に対し初期化することが決定された。」
「なんだと……。それで……。」
対して人影の回答には何の感情も感じる事ができなかった。
彼女は、言葉の内容よりもその事に恐怖を覚える。
「貴公は本作戦に於ける回収対象と設定されている。速やかに投降し、その権限を委譲せよ」
「断る」
即答した父の言葉に、外套の人物は沈黙で返す。
瞳の明滅が激しさを増し、彼女は身を強張らせた。
「小屋に。合図をしたら走るんだ」
小さく、殊更ゆっくりと父が語りかける。その言葉に彼女は門の側にある小屋に目を向けた。
そこは獣車庫として使用されている小屋だった。今はまだ火の手が上がっていない。
父の意図に気付き、彼女は頷いた。
早鐘を打つ心臓を落ち着かせるため意識して大きく深呼吸。
「回収対象とはどういうことだ。」
「今後の調査、対策のため、異常の程度を検査する必要がある。その為、なるべく損傷のない状態で回収せねばならない。」
「その対象が私だと……。」
「そうだ。そのため即時の投降を要求する」
父の手を離す。両手を握る。
「……私がその求めに応じるとして、回収対象外の者はどうなる。」
「初期化の予定。現住生物による影響を防止するため、その消去も本作戦に含まれる。」
じりじりと、気付かれない程度に中腰に。すぐ走れるように。
「それは容認出来ない」
父は手に武器を構え、人影もまた側にあった筒を手に取った。
「走れ!」
父の声に、弾かれるように彼女は足を踏み出した。
獣車庫に向かって一直線に走る。
走り出した彼女を追う様に人影の視線が動き、それを阻む様に父が間に入った。
そこまで確認した所で、脇芽も振らずに走る。
後方より断続的に聞こえてくる金属音。父の声。人影の声。
大丈夫。父なら大丈夫だ。
父は強い。村の外で魔モノに襲われたときも簡単に倒していた。
あの人影がどれだけ強いかはわからない。それでもきっと大丈夫。
大きく開いた入り口から転がり込むように小屋の中に入る。
村を燃やす炎に照らし出され、いつもの所に”それ”はあった。
いつもと変わらないその姿に安心した所で背後からかけられた声に彼女は身を凍らせた。
「逃走は許可されない」
無機質な声。父のものではない声。
彼女の視界に、吹き飛ばされる父の姿が映った。
「おとーさんっ!」
彼女の横を通り過ぎ、小屋の奥の方に転がっていった。
「……ッ!」
派手に地面から煙を上げながら転がるが、途中でなんとか体制を立て直したのか、すぐに立ち上がる。
突然の自体に驚き、思わず父の元へと駆け出そうとした所で再び声がかかった。
「対象を排除する。」
その言葉に慌てて振り返る。
父との争いで外套を失ったのか、人影の姿が露わになっていた。
全身を黒銀色の金属に包まれた体。節くれだった関節。頭骨に似た緋い一つ目を持つ顔。
全身金属鎧などではない。人ではない。魔モノでも無い。そもそも、生物としてはありえない。
金属で出来た体を持つ存在だ。
その目に見つめられ、力が抜けてへたり込んでしまった。
異形は手に持つ筒の先端を彼女に向ける。
緋い光が異形の全身を這い回り、やがてその筒へと集まる。
何が起こっているのかは分からないが、その筒より死が齎されることは、なんとなく理解した。理解してしまった。
彼女は動けない。
足が動かない。手が動かない。魅入られたのか、視線を逸らすことも出来ない。
ただ、その目から一筋の涙が溢れ落ちた。
緋い、太い、死をもたらす光が筒の先端より迸り、動けない彼女を撃つ寸前。
「阻め! クリサリス!」
父が吼えた。
緋色の光が視界を埋め尽くし、死を覚悟した瞬間、巨大な左腕が彼女の目の前に打ち下ろされた。
彼女を貫くはずであった光は腕によって阻まれ、拡散した光は獣車庫を破壊した。
甲高い音と、閃光、熱、そして衝撃。
巨人に守られながらも、その破壊は彼女にまで及ぶ。
熱に焼かれ、飛ばされた破片に切られ、小さな傷と火傷が無数に出来る。
だが、致命傷になるようなものは一つもない。
光が収まる。
見回すと、辺りの景色は一変していた。
獣車庫は残っていない。僅かに真っ黒に染まった柱の燃えカスがその残滓と言えた。
「ッ!!」
「大丈夫か?」
駆けつけた父に抱き上げられた彼女は父に抱きつき、小さく頷く。
嘘だ。怖い。今も手と足が震えて止まらない。それを誤魔化すため全力で父にしがみ付く。
父の後ろには巨大な人が居た。
彼女を守った腕の持ち主はその巨人であった。
全身鋼で出来た全長10メルトほどの巨人。
今は彼女を守るために立膝でその左腕を地面に叩きつけた姿勢のまま固まっている。その巨人の腕は基部を残して融解していた。
もう少し長く光が続いていたら、或いはもう少し早くその腕が焼けきっていたら、彼女は間違いなく死んでいた。
「停止せよ。30秒以内に停止の意思が確認できない場合は貴公の全権限を凍結する」
一際明るく緋い瞳を輝かせ、警告を発する異形に対し、父は静かに言葉を放った。
「RB-2543-5に命じる。即刻武装解除せよ。」
発言が終わらぬうちに発された父の言葉により、緋目の異形はその手より筒を取り落とした。続けて大小様々な物体が脱落する。
「何をした。」
緋目の異形は起こった出来事を信じられないのか、自分の手を見てその目を明滅させる。
「権限者と連絡出来なくさせて貰った。」
そう言って父はその手に握った何をか投げ捨てる。恐らく、先程の交戦時に緋目の異形より奪っていたのだろう。
「私の権限はまだ残っていたようなのでな。上位権限者としての指示はまだ有効だったようだ。」
「なるほど。理解した。」
緋目の異形はその瞳の明滅を止め、僅かばかりその灯りを減じさせた。
「立てるか?」
「……ごめんなさい、無理みたい。」
手足の震えは止まらない。
おそらく、今手を離されたらその場から一歩も動くことが出来ない。父はそんな彼女のことを解ってか、優しくその肩を抱きしめた。
父が巨人に触れると、巨人は姿勢を正してその胸部が大きく開かれた。
その中には人一人が丁度座れる程度の空間がある。
「我々はここから去る。」
そう呟き、父は彼女を抱きかかえたまま巨人の胸部へと乗り込んだ。座り、その体が固定されるや否や巨人は立ち上がった。
視点の高さが変わり、村の惨状が明らかになる。全ての建物が壊され、燃やされ、動くのは焔だけだ。
思わず出る涙に目を強く閉じた。
「逃げるか、GR-0239-8。」
巨人の足元から見上げながら緋目の異形は言う。
「今は追わない。追えない。しかし、我々から逃げ切ることは出来ない。この場で投降せよ。」
最終通告であったのだろう。それに対して父はハッキリと拒絶の言葉を述べた。
「何度も言わせて貰うが断る。私はこの娘を守らなくてはならない。」
「目的の理由が不明。我等の使命を喪失したか。」
「使命は忘れたわけではない。だが、私は与えられた使命ではなく、自分の心に従う。」
使命。その詳細を彼女は知らない。だが、父は彼女の為にそれを捨てる事を決めたのだ。
「おとーさん……」
自分のせいで、父がその決断を強いられたのだとしたら、それはとても悲しく辛い事だ。
「心配するな。私が決めた事だ。」
気遣わしげな優しい言葉。父の瞳からは強い意志と優しい笑みを感じ取れた。それでも、自分の存在が父を変え、決別に至ったのだとすれば…。
彼女は強く決意する。ただ守られるだけではなく、自分も強くならねばならないと。
「一つ、言い忘れていたことがある。」
「聞こう。」
「GR-0239-8の名は返上する。私の名は、ベリルだ。」
そう、かつて彼女が父に付けた名を述べた。
「承知した。」
緋目の人影に無言を返し、村を背に二人を乗せて巨人は歩き始める。
行く当てなどない。だが、今は足を進めねばならない。
「生きよう」
「うん」
この日、一つの村が滅んだ。
地図に無かったその村が消えた事を知るものは当事者の他には居なかった。
そして、二人の放浪者と、後に緋目と呼ばれる追跡者が生まれた。