アブストラクト・ファクトリー
(0.プロローグ)
人は誰しも精神が安定している時も不安定な時もあるものだが、マヒルにおいては精神
状態が安定でも不安定でもない状態で、その状態が常に不変である。
好きでもない男に抱かれるという事は、極めて不自然であり、生理的・本能的に拒絶され
る体験である。
本能に反する行為を彼女達が受け入れられるのは、それより上位の本能、つまり生存する
という本能が上位にある為である。
生存する為には、お金が必要であると一般的には思われている。(本当はそんな事はない
のだが)
ともあれ、生きる為に彼女達ソープ嬢は、やりたくない「仕事」をしている。
いや、これは何もソープ嬢に限った事ではない。生きる為にやりたくない、人間の本能に
反する「仕事」をしている人達はかなりいるのではないだろうか?
彼らは、諦観の境地にいる。あるいは、対価に満足し割りきって考えていないのかもしれ
ない。お昼時に、マヒルは客にサービスしながら考えていた。
今日は線量計が鳴らないわね、と。
マヒルは過去に精神を患った経験があり、そのせいか精神状態の管理には人一倍気を遣っ
ている。彼女が身に着けているネックレスは、実は単なるアクセサリーではなく、不快指
数を計る線量計の機能を併せ持っている。
人間はある程度の不快には耐えられる強さを持っているが、一定以上の不快は精神に悪影
響を与える。よって一定以上の不快は生理的拒絶という本能によって避けられるのが常だ
が、ソープで働いていると、生理的拒絶という防御反応が麻痺してきて、不快を受け入れ
続けた結果、精神を病んでしまう者も多い。
お客の要求を断ると次から指名してもらえないし、そうなると店からの評価も下がり、給
与減少に直結する。
しかし、マヒルは知っている。お金よりも精神の安寧の方に高い価値がある事。
精神不安は、時に自殺という人間存在の消滅に繋がる。
生きる為に働いているのに、働いた為に死ぬのは論理的に矛盾する。
マヒルは賢いので、自分の身を守る為に、不快指数を計測する
線量計が反応すると、その嫌なサービスを即座に止める。マヒルの精神状態が抽象的なの
は、このネックレスのおかげなのである。
(1.死者製造工場)
フリージアの花が咲く頃、ドーシャは、新宿のとある企業に入社した印度人プログラマー
である。印度では、カースト制度によって選択できる職業が生まれながらに制限される。
しかし、「プログラマー」という比較的最近出来た職種については、カースト制度制定時
に存在しなかった為、誰もが自由に選択できる数少ない職業の内の一つである。
そういう事情もあって、「プログラマー」という職業は印度においては人気と就業に際し
ての競争率が共に高く、これが印度人プログラマーの能力の底上げと国際競争力の向上と
いう結果に繋がっている。
ドーシャは、水色のサリーを着用し額に朱色の印をつけて勤務している。
痩身で黒い髪は肩下迄伸び黒い瞳は透き通った深い湖の色を想わせる。ドーシャは、日本
のホラー映画が好きな為、目覚まし時計は貞子式のものを使用している。設定時刻になる
と、パソコンが起動し、禍々しい音楽に合わせてパソコンの画面から3D化された貞子が這
いつくばりながら近寄って起こしてくれる目覚まし時計であるが、これはドーシャが会社
で暇な時に作成したソフトウェアである。
出勤する為に起床するという行為を保証する為の仕掛けを作るのであるからそれは就業時
間内に作成して然るべきであり、上司も開発中のドーシャの画面から貞子が飛び出してく
る事を苦々しく思いながらも容認せざるを得なかった。
その時、貞子が冷たいその手でドーシャの頬をそっとなでたが、今日のドーシャは動かな
い。死神によって、ドーシャの生命(霊性)は停止していた。
つまり、死神がCreateExistanceA(存在製造メソッドA)を唱えた事によって、ドーシャは
腐敗開始前肉体保持死者となっていた。
死神は、死者製造工場に勤務している。この工場には、死神の様な超人間的存在だけでは
なく、彼らに勤務している自覚はないのだが、具象殺人者や具象自殺者も勤務している。
ドーシャに関しては、死神によってその儚い生命の炎が消されたのだった。
(2.患者製造工場)
患者製造工場には、病神と病製造人間が勤務している。
昨日、会社帰りにドーシャは会社付近の精神科で診察を受けていた。
ドーシャは、慣れない日本の気候に体の気が弱体化し睡眠不足が続いている事を流暢な
日本語で訴えかけると、精神科医アルファ氏に、睡眠薬に加えて三環形抗うつ薬や
抗不安薬等の麻薬物質を多剤多量処方された。
眠る前に、それらの「薬」を飲むと、ドーシャはしばらくして、意識障害という入眠過程
を経て深い眠りに落ちたのだった。そして、ドーシャは病製造人間のCreateExistanceA
(存在製造メソッドA)によって、(薬害性急性)精神的病羅患生者となったのであった。
その後死亡したのは、前述の通りである。
(3.抽象精神状態保持者)
マヒルは、いつも無表情である。黒髪ロングストレートで前髪ぱっつんの、カラーコンタ
クトは白を入れている。胸は小さくタバコは銀ギセルで粋に吸う。
愛想のかけらもないが、サービスは濃厚である。マヒルの人間離れした風貌と
ミステリアスな振る舞いで、彼女は吉原でも伝説的な超人気高級ソープ嬢である。
しかしマヒルは生活がギリギリである。1日100万円稼ぐのだが、その内99万円はその日の
内に遣ってしまうからである。何をそんなに遣うのか…彼女はコンビニで一番高価な
おにぎりを吉原中で買い占めてしまう。年貢を納めなければならないからである。
年貢は本来、米俵で納めなければならないのであるが、マヒルは農業を行なっていない為、
コンビニのおにぎりで納めて良い事になっている。それにしても、おにぎりだけで99万円
も遣えるのだろうか?
1つ300円としても3000個以上である。これは、マヒル需要の為、コンビニが毎日用意して
いるから為せる芸当である。そして消費税は免除されている。なぜならばおにぎりは年貢
―つまり税金であるからである。
マヒルだけになぜそんなに課税されるかというと、それは前述の線量計の使用税である。
線量計は、防衛省が自衛官の精神状態を計測する為に開発されたものであるので、
国家機密であり民間人がおいそれと利用できるものではなかった。
ところが、消費税増税でいよいよ民間の消費が冷え込み国家財政が厳しくなってしまった
ので、防衛省は虎の子の線量計を富裕層向けにレンタルという形で払い下げる事にしたの
である。使用に際しては、毎日相当の年貢を納めなければならない。
富裕層は、田舎の休耕田等を買い占めてロボットを使用して米を作っている為、年貢を収
めるのは余裕だが、アッパーミドル階級の者はコンビニのおにぎりを納める事も許容され
ている。
ただしこれでコンビニが儲かるという事はない。
徴税の手数料が僅かにもらえるだけで、儲かっているのは米農家である。高価なおにぎり
なので中国産は使えない為、日本の食料自給率を上げる事にも役だっている。
それでは、国は膨大なコンビニおにぎりを納付されて嬉しいのだろうか?もちろん嬉しい
からこの様な制度になったのである。政府の高級官僚は、おにぎりが好きなのである。
0.1%程度のおにぎりは、実際その日の残業時間等の内に食べてしまう。
税を懐に入れてしまって、さぞ国民は憤っているかと思いきや、残業で腹が減っているの
だから仕方がないかという寛容な国民が大半なのである。
その他のおにぎりは社会保障に充てられる。日本は超先進国であるが、信じられない事に
その日の食料に困る層も存在している。
それらの人達におにぎりは、無償で配布されている。無償というか、おにぎり自体が貨幣
価値を持つので、配給されたおにぎりと欲しい物を交換する者もいる。
マヒルは、サービスに対するチップとしておにぎりを貰う事もしばしばである。
コンビニおにぎりではなく米俵を貰う事もあるのだが、これは重くて持ち帰るのが大変な
ので、米俵をくれる客はNG客にしてしまう。やはり、コンビニの最高級おにぎりを戴く事
が何より嬉しい。又、このおにぎりは本当に美味しいのである。
1つ300円もするのは、無農薬・全ての原材料が国産で保存料等は一切入っておらず、
ドライアイスの入った容器に入って売られている。海苔も天然物で、塩もさらさらした
科学的な物ではなく、茶色がかった天然の塩である。米は魚沼産のコシヒカリを使用して
おり、1粒1粒がふっくらと結合しており、握るのは超一流の職人が手作業で行なっている。
製造に関しては、日本銀行が統括し需給バランスを保っている。
このおにぎりは、1おにぎり=300円の固定レートである。
ジャパニーズおにぎり(△JPO:オニギ)といえば、対外貿易の決算でも使用できる。
この様に通貨:オニギの価値が世界的に評価されるまでには苦難の道のりがあった。
貿易決算にはドルを使用するのが通例であり、ドル基軸体制が崩れると、米帝国資本主義
が崩壊してしまうので、米国からオニギの貿易決済時使用に関して、強い反発があったが、
ロシアのフーシキン大統領が日本との石油取引の際に、オニギの使用を認めたのがきっか
けで、この食べられる通貨は食料危機に瀕するアフリカ諸国等からも絶大な支持を得て、
世界的に使用される事になった。
人口が爆発的に増えている現代、食料問題が最重要課題となっているが、ここでもオニギ
は貢献しているのである。もちろん日本だけが、自国食料通貨を持っている訳ではなく、
米国はハンバーガー、ロシアはピロシキ、中国はフカヒレスープ、印度はカレー、英国は
フィッシュアンドチップス、EUは統一食料通貨EUフルコース等、G20に属する国はそれぞれ
が独自の食料通貨を発行している。
マヒルは、貞操帯を付けている。
初めて当たった客は大変驚くのだが、マヒルはソープ嬢でありながらなかなかヤラせてく
れないのだ。それは、江戸時代の花魁を意識しての事だ。花魁は今で言う会いにいけるア
イドル的存在であり女性比率が絶対的に少なかった江戸の男社会においては、お金を払っ
ても野暮な客は目も合わせてもらえなかったという。
マヒルはお金に苦労した為、あまりお金が好きではない。お金の為に何でもやるというの
が気に食わないのだ。なので、マヒルは粋で金っぱらいが良く浮気をしない客にだけ身体
を許すのだ。そういう訳で、マヒルには良客しかいないし、例え日に99万円換算のオニギ
を納税しようとも、チップとしてオニギや円・ドル・人民元が貰えるので、生活はしてい
ける。マヒルはひどい出来事があって精神を病んだ経験はあるが、元来精神的に強靭であ
る。
その上線量計で精神管理を万全に行なっているので、いつしかマヒルの精神状態は不変に
なった。精神状態という観念を超越して、抽象精神状態保持者となったのである。
精神状態が抽象的になれば、社会生活も抽象的に送る事になる。
つまり、精神状態の安定度によって社会生活への適応度は変わってくるのだが、
マヒルの場合は、その能面の様な面で社会生活を抽象的に送っているのである。
マヒルは生きていく為には、身体を売り続けなければならない。身体を売るというと悲壮
な感じが伴うが、マヒルにとってはそれが使命なのである。江戸の花魁を先祖に持つ
マヒルは、幼い頃から徹底的に男心や当代一流の教養、歴史等を叩きこまれ、吉原に
デビューしたのが数えで19歳の頃である。
しかし自分が今までに学んだ花魁と今の吉原があまりに違っている事に、驚愕し自分の
境遇を悲観しまもなく精神を病んでしまった。
一時は店も辞め実家の自室に引きこもってしまい、夜な夜なインターネットの匿名掲示板
で荒らしをしたり、暇を持て余して身につけたプログラミングで政府のコンピュータに侵
入してみたりした。
ある夜、マヒルは死を決意して、なんとなく火曜サスペンスの様な海の断崖絶壁から身投
げするのも悪くないな等と思い、あてもなく上野から東北新幹線に乗って北を目指した。
目的地も特に決めていなかったので、ウォークマンで擦り切れかかったパフュームの
カセットテープを聴いていると、いつしか眠りについてしまった。
何時間眠っただろうか?
眼が覚めると、人身事故で列車はまだ上野駅から1cmも動いていなかった!
マヒルはむかついて、車両内に持ち込んだスコッチをちびりちびりと飲み始めた。
マヒルは自由席に乗っていた。すると隣に割腹の良い禿げ上がった紳士が腰を降ろした。
血色の良い顔でマヒルを好奇の眼で見てきたが、マヒルは死にたいとしか考えていないの
で、完全に無視した。
「お嬢さんはどちら迄いかれるのかね?わしは出張で青森まで行くのじゃが…」
「…」
紳士は無視されても笑顔でマヒルを見つめ、そしてそれも飽きると、ノートパソコンを取
り出して、西部劇をDVDで観だした。マヒルは西部劇を横目でチラ見し始めた。
ぶっちゃけ面白そうなのだ。
青森―そうね、本州の果て迄行ってみようかしら。
本州の果てといえば、アメリカの西部も東海岸の入植者から見れば最果ての地だったし…。
マヒルは銀ギセルの先にKENTのナノテクメンソールを差してふかしていた。列車は仙台を
通過し、マヒルは、ウォークマンにも飽きてきたので、隣の親父に話しかけてみた。
「…ちょっと…、この若いわたくしがウォークマンなのになんで中年のあんたがDVDな訳?」
「!えっ?なんでと言われてもな。わっはっは、こりゃ傑作なお嬢さんだ。」
「いや、意味わかんない。笑うとこじゃないと思うけど。」
この紳士は、人生の酸いも甘いも噛み分けた精神概ね安定者だった。
不愉快な事でも許容できる広い心を持っている。
時には怒ったり恐れたり悲しんだりする事もあるが、それは誰だってそう。
概ねというのはそういう意味である。
紳士は、名前を与左衛門という。生まれは、昭和一桁だが実際には数えで50歳位にしか
見えない。精神概ね安定者というものは概して若くみえるものである。
マヒルはパスモで乗っていた。
途中乗車券拝見に車掌が来たが、マヒルはパスモを見せただけである。
車掌は、パスモに切符切りで切込を入れてしまった。
「ちょっと!パスモ切っちゃ使えなくなるじゃん?」
「ふふふ、乗車券もみせずにパスモを見せる客にはいつもそうやってやるんだよ。」
マヒルは、精神的に病んでいたので、切られたパスモを手に泣き出してしまった。
あまりに泣くので車掌も悪いことをしたと思い、フリーパスの切符をくれた。
「お嬢さん、これでどこまでも行けるから、ね!ごめんなさいね。」
と言いながら通りすぎて行った。
ウォークマンは、カシャっと音を立ててB面に反転した。A面は全部パフュームだったが、
B面はセックスピストルズだった。マヒルの家は由緒正しい旧家なので、家には古い機械
がたくさん納屋にあった。マヒルはウォークマンがまだ使えるのだから、別に新式の音楽
プレイヤー等欲しいとも思わなかった。
このウォークマンは、今では還暦になる叔父が使用していたものだが、叔父も就職し
ウォークマンを聞かなくなり納屋にしまっておいたのを、マヒルが見つけ出して使い始め
たのは、数えで12歳になる中1の頃だった。カセットテープも叔父の物だったので、古い曲
しかなかったが、マヒルも流石にパフューム等を聞きたいと思い、
叔父のカセットテープに、上書きダビングしたのだった。
しかし、カセットテープに録音する時に外の音も拾ってしまう為、パフュームの曲の途中
で、近所のラーメンのチャルメラの音や、幽霊の声の様なノイズが入っていたりした。
与左衛門は、ウォークマンから音漏れするセックスピストルズを耳にすると、
身体を揺らし全身でグルーヴを感じ始めた。
「いいねぇ、わしが若い頃の曲じゃ。わしは当時パンクバンドのヴォーカルだったんじゃ
よ。」
マヒルは眉一つ動かさずに、ピストルズを聴きながら、自分の働いていた店や引きこもっ
ていた自室の事等は忘れて、大分心が晴れてきた。JR青森駅に着くと、フクロウがホーホ
ーと鳴く深夜だった。
与左衛門と少し仲良くなったマヒルは、与左衛門の申し出を断れなかった。
駅前の電柱にとまるフクロウをバックに記念に写真を撮ろうという申し出を。
通行人に写真を撮ってもらうと、マヒルは与左衛門と別れ、駅前のコンビニでおにぎりを
買って食べた。
その当時、おにぎりは貨幣オニギではなかったが、腹が減っていたので買ったのだった。
腹も満たされると、はて、どこへ向かおうかと考えた。夜も遅かったので、寝ようと思い
マンガ喫茶に泊まった。マンガ喫茶で飼われていた鶏が鳴いたのは、朝の4時だった。
「!ちょっと…4時って、鶏起きんの早過ぎでしょ!」
マヒルは、わざと店員に聞こえる様に悪態をついたが、これはそのマンガ喫茶の経営戦略
だった。青森でもネットカフェ難民のだが、泊り客が早寝早起きできる様に鶏を飼ってい
るのだった。
マヒルは、鶏がいる事自体に気分が悪くなったので、さっさと会計を済まして店を出よう
とすると、1枚のポスターが目に入った。
「恐山―イタコがご先祖様を呼びだします。連絡先:xx-xxxx-xxxx」
恐山という名前は聞いた事があったが、それがどういう所なのか、マヒルは全く知識がな
かった。しかし、何故か行ってみたいと思い、マヒルは恐山を目指した。ヒッチハイクで
恐山に着くと、そこは正にこの世とは一線を画した、あの世ともいうべき光景が拡がって
おり、マヒルは圧倒されてしまった。
切り立った山肌はごつごつした岩ばかりで、温泉から湧き出る硫黄臭と、大量の墓石に
お供え物、そこは怖いというより何か懐かしい様な、およそ現代社会の喧騒とは全く
違ったレイヤーの、マヒルが今まで見てきた世界にはない、日本の奥そこに流れる別境が
あった。
朝も早かったので人影はまばらだったが、イタコらしき老婆が座っていたので、マヒルは
何となくイタコにご先祖様を呼び出してもらおうと考えた。マヒルが話しかけると、
老婆はぎょっとしてマヒルを見た。
マヒルはその頃から、黒髪ロングの白いコンタクトを入れていたので、イタコは幽霊かと
思ったのだった。しかし、幽霊の割には足があるし何と言っても幽霊がウォークマン等聞
く訳がないと思い、イタコはマヒルの依頼を聞き、マヒルのご先祖様を呼び出し始めた。
イタコが何やら唱えだすと、イタコは一瞬意識を失ったかの様になり、暫くすると、振り
絞る様な声で語りはじめた。
「わたくしは、そなたから見て6代前の江戸時代の吉原遊郭で働いていたそなたの先祖で
ありんす。そなたのような末裔が吉原で働いているのは複雑な想いもあり嬉しい想いもあ
るざあます。そなたの素養があれば殿方を喜ばすのは何とないこと。己のおかれた境遇で
最善を尽くす、しからば道は開かれるなり…」
マヒルは最初は物見遊山だったが、突然のご先祖様の言葉に泣き出してしまった。
今の時代、職業は何でも選べるけれど、私の家系は遊女の家系であって、仕事は自分がや
りたいやりたくないに関わらず、与えられた天命を全うしよう、その中で最善を尽くす
責任がある。逃げる事、まして自死を選択するのは愚かな事。マヒルはこの時の体験
を通して、高級ソープ嬢として、線量計を身につけた抽象精神状態保持者として生きる
一人の大人に成長したのだった。
(4.死者蘇生工場)
都心から数時間程離れたとある無人駅から、馬で2時間程駆けた処にある深い森の中に、
そのツリーハウスはあった。親子3人が仲睦まじく暮らすその家では、夫が昼間狩りに出
ている間、妻は医師として働いていた。
妻の名前はマヒルといった。辺りに誰もいない事を確認すると、マヒルは指笛を吹いた。
すると、その川に棲むビーバー達は、木々や落ち葉で作った即席のダムをこしらえ、
その事によって川の水位はみるみる内に下がっていった。
川底が見える様になると、棺桶の様なものが姿を現す。マヒルは、野生動物の様な身の
こなしで風の様に棺桶の中に入った。棺桶の中で、目的階のボタンを押すと、
ゆっくりとその棺桶型のエレベータは下降し、地中深くへ吸い込まれていく。
「地下3階、婦人服と知性相対主義的病院のフロアでございます。」
鼻にかかった様な独特の声を煩わしく思いながらも、マヒルは棺桶の蓋を開けた。
マヒルは、今年流行のアニマル型プリントの施された洋服等を横目でチェックしながら、
フロアの中でも一際目につかない処にある、「知性相対主義的病院」と書かれた部屋の中
に入っていく。
「知性相対主義的病院」という名前はマヒルの命名である。
それは、「知性至上主義的病院」との対比という意味が込められており、近代的に合理化
された病院が、「肉体」や「生命(霊性)」を診る際に、「知性」による判断にのみ依存
する愚行を犯している事に対して皮肉を込めた、マヒルらしいネーミングである。
マヒルは伝統的な日本人の考え方を継承しているから、近代合理的人間構成要素認識に
対して嫌悪感をもよおしている。
フランスの哲学者、ベルグソンも考えていた様に、人間は「知性」だけでなく「肉体」や
「生命(霊性)」を通して思考・記憶し生きているという考え方である。
では、マヒルはこの部屋でどの様な医療行為を行なっているのであろうか?
この地下にある百貨店を訪れる者はいない。マヒルは依頼を受けてこの病院に勤務して
いるのだが、その依頼主は超人間的存在である生神である。生神は
死者蘇生工場に勤務する神であるが、マヒルはその能力を買われて、この地中深い病院の
中で、死者蘇生を司る神の仕事の一部を手伝っている。
若い頃、マヒルはネックレス(線量計)を身につけた抽象人間として、吉原の超高級ソープ
ランドで働いていたが、具象人間となった今でも人間を構成する要素に対する全的理解が、
マヒルの「生命(霊性)」の中に「記憶」として強烈に残っていた。
数百台のコンピュータが稼働する中、マヒルは試験管の中の水溶液を真剣に見つめている
―その白い瞳で。
陽の光が差し込まないこの部屋では、時間間隔が捉えられないので、適当に疲れたら休憩
を取る事にしていた。マヒルは、エレベータで下の階に降りると、乾き物コーナーのスル
メを噛み切りながら、銀ギセルでKENTのナノテクメンソールをふかしていた。
この百貨店は、禁煙ではなかった。マヒルは休憩が終わると、スルメを口に咥えたまま又
コンピュータスクリーンに向かい合い、今度はプログラムを修正し始める。
マヒルが修正しているプログラムは、地上では「DNAコンピュータ」と呼ばれているもので
ある。
人間の設計図であるDNAの内、極一部は解明されてきており、特定の病気が引き起こすDNA
の異常を、DNAコンピュータによって作成された抗病気プログラム水溶液を人体の中に取
り入れ、人体の中で反応させ病気を治療する研究が、主にイスラエルの科学者達によって
進められている。
イスラエルの様な軍事国家は、国家プロジェクトとして莫大な予算と人員を調達して、
この様な超先端的テクノロジーの開発によって他国に対する軍事的、翻っては
政治的優位性を獲得しようする。
マヒルは、ソープランドの待ち時間に暇だったので、個人的にこのDNAコンピュータの
開発を始めたのだった。その後結婚し家庭に入り、子育てが一段落するといよいよ暇に
なり、当初は韓流ドラマ等にはまって時を過ごしていたのだが、昔はまっていた
DNAコンピュータの開発が何故か自分の使命であるかのように感じ、寝食を忘れ没頭
していく。
マヒルの真理への気づきとプログラムの完成度が飽和点に達すると、ある時、
夢枕に十二単姿の幽霊の様な者が現れたのだった。その幽霊は、雅やかにして気位の高く
そして何かを恥じらっている様な高貴な女性―源氏物語の六条御息所の様な佇まいであっ
た。
「そなたのつくりたるものいとあはれなり」
「われわれかみがみのやくにたたれよ」
(5.ドーシャの死後)
貞子は、ドーシャが目を覚まさないので、諦めてパソコンの画面の中に帰っていた。
印度風に装飾されたその部屋では、黒髪の美しい女性―ドーシャ―が永遠の眠りについて
いた。
ドーシャの全身の諸関節には死後硬直が発現し、角膜は濁り始めていた。その頃、マヒル
は、スルメを咥えたまま猛烈な勢いでプログラムを修正と厳密な動作検証を繰り返してい
た。プログラムが完成すると、それは穴の空いたパンチカードというものとして具象化
される。
マヒルは、パンチカードを畳の上に置き白衣を着たまま正座すると、筆に墨を染み込ませ、
美しい筆跡で漢字を記した。異国人の戒名らしきものが記されていた。マヒルは、
知性相対主義的病院から出ると、婦人服コーナーを横切って、階段で下のフロアへと降り
ていった。
その階は、「映画館と生神を祀る神社のフロア」である。マヒルは、神社に行き、パンチ
カードをお供えしてから、ポップコーンを囓りながら映画を観た。映画が終わると、
マヒルはラヴ・ロマンスにうっとりしながら帰っていった、夫と子供の待つ地上のツリー
ハウスへと。
ドーシャは死後12時間が経過し、その角膜はいよいよ濁り出している。
その時―パソコンの中からそっと様子を伺っていた貞子が、驚きのあまり腰を抜かし失禁
してしまった。(その液体によって、パソコンが壊れた事はここでは問題にしない。)
ドーシャの肉体は動き、その眼には光が戻っていた。十二単を身に纏った高貴な女性的
風貌をした生神は、マヒルがお供えしたパンチカードを手にすると、妖しい声で、Cre
ateExistanceA(存在製造メソッドA)を唱えた。
「くりゑいと…えぐぢすたんす…ゑゐ………」
生神は、ドーシャという腐敗開始前肉体保持死者の「肉体」とマヒルの手作りの
「生命(霊性)」開始プログラムを媒介にして、CreateExistanceAによって、「知性(精神)」
「肉体」「生命(霊性)」が有機的に繋がって躍動する生者を―ドーシャをこの世に蘇らせた
のであった!
(6.アブストラクト・ファクトリー)
アブストラクト・ファクトリー(抽象工場)は、3つの具象工場「患者製造工場」「死者製造
工場」「死者蘇生工場」を抽象化した実体を伴わない概念上の工場である。具象工場には
、神々や生物が勤務し、彼らはCreateExistanceAを唱える事によって、様々な様相の具象
生物を製造する。それは時として、精神的[肉体的]病羅患生者であり、肉体(非)保持死者
であり、蘇生者である。具象工場に共通して存在するものを抽出して抽象化したものが抽
象工場なので、抽象工場自体もCreateExistanceA/B/C…メソッドを所有している。つまり
抽象工場のCreateExistanceA/B/C…メソッドの動作は、その下位クラスである具象工場タ
イプに依存する事になる。メソッド名が同一であっても、その動作は異るという事であり
この事によって、具象工場の切り替えが容易になり(拡張に対してOPEN)、プログラムの修
正範囲が最小化される(修正に対してCLOSED)事が保証される。
(7.エピローグ)
「あっ、もうこんな時間!大変、大遅刻だわ。」ドーシャは、自分の遅刻癖を恨めしく思
いながら、目に映るパソコンが煙を出して爆発している様子に呆然とした。
「…パソコンが壊れたから、貞子が起こしてくれなかったのね。
(不良品つかまされたのかしら…)」
「そうであれば、起きられなかった事の責任は毛頭私にはないし、もうこんな時間だから
カレーを食べてからもう一眠りしましょう。」
その食料通貨印度カレーは、いつになく辛い味がした。口にこそは出さなかったが、『カ
レーは辛れー』という日本人であれば誰もが知っている高級な駄洒落を、ドーシャは印度
人にして思いつき、思慮深そうな額にある朱色の印を指でなぞりながら、又深い眠りにつ
くのであった。
抽象工場
(CreateExistenceA)
△ △ △
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患者製造工場 死者製造工場 死者蘇生工場
(CreateExistenceA)(CreateExistenceA)(CreateExistenceA)