影、道を行く
コトリはふと顔を上げた。晴れ渡った空を、鷲かなにかが旋回している。かたかたと揺れる視界にも慣れてしまうほど充分な時間、コトリは王都に向かって進んでいた。彼女らを乗せた荷車は王都に近付くにつれて舗装された道を進み始めていた。1日、1日と進む度、自ら春に近付いていく感覚を覚える。空は澄み、鳥が鳴く。花が蕾を膨らませ、川の水は尚一層煌めきを増した。
「カモ、王都まではどれくらいかな」
コトリの斜向かいに座るユウ老人が、カモに向かって呼び掛ける。気だるそうに目をつむっていた少年は、小さくため息をつくと、ゆっくりと瞼を押し開けた。現れるのは焦点の合わない瞳。そのまま顔を上げると、遠くを見つめるように目を細めた。
その光景に慣れるまで、コトリはしばらく嫌な汗を覚えていた。ここではない、どこか遠くを見ようとする目。普段のカモが持つ黒々とした瞳ではなく、濁りを感じさせるそれは、ただ異様な気配を感じさせた。
……そしてその予感はある意味で外れてはいなかった。
「……城門まで、あと2日くらいだろう。最後の宿場町がもうすぐだ」
ー彼には、人ならざる力、千里眼と呼ばれる通力が備わっているのだという。
ユウ老人曰く、まだ未熟な故に千里を見透す力はないそうだが、カモは左右の手を使い分けるように普通の目と千里眼を使いこなす。それが、彼を「影」の道へと導いたのだろうか。
瞼を閉じようとしたカモは、ぴくりと体を震わせた。
「……魔がいる」
今度こそ、コトリの背を冷や汗が伝った。
村を出てから、既に10日以上が過ぎていた。季節を追いかけたこの時間は、村から出たことのなかったコトリに「世界」の一部を教えるのにも充分すぎる時間だった。
城下町まで点在する宿場町。
行き交う人の変化。
そして、魔の存在と「影」の力……。否応なく、魔と呼ばれるものはコトリたちの行く手を阻んできた。常人ならば煙か靄のように見えるというそれの姿は、コトリの目には肢体をもつ闇のように映る。それこそが、影の性質をもつ証だという。初めて見た時は、夕餉が喉を通らなくなるほどコトリの世界観を変えた。
それと同時に「影」の力もまた、間近でみる羽目になったのである。
「こうした街道まで出てくるとは……やれやれ、千里眼を連れていると、どうにも魔に好かれてしまうようですね」
「あいつらにとっては、力在るものはいい餌だから」
カモは馭者に車を止めさせると、ふわりとそこから飛び降りた。それにつづいてユウ老人も静かに車を降りる。恐る恐るユウ老人の跡を追ったコトリを見て、にこりと微笑を向けた。
「さて、魔をあの森へおびき寄せますよ。影の力は魔を呼びますから」
「……街道では、被害が出る可能性があるということですね」
「ご名答」
こうしてユウ老人は、少しずつコトリに「影」としての知識を与え、実践で学ばせていた。既にカモは黒衣を靡かせて森へと走り去っている。その姿に、ひそひそと指を指す声が背後から聞こえてきた。
「影」と共に行動することで、「影」の置かれている立場もなんとなくであるが分かってきていた。宿場町につくたび、王家の鈴をあしらった「影」の紋を見て、表向きは誰もが歓迎する。だが、心から喜ぶのは子供たちばかりで、大人や老人はこうして後ろから遠巻きに見まもるだけだった。
(そりゃそうよね)
コトリ自身、一般人として影に遭遇していたら、あちら側に立つだろう。唇を噛み締めた時、ちりりとうなじのあたりがざわついた。
「ユウ様……!」
硬いコトリの声に振り返ったユウ老人は、はっとその柔和な顔を強ばらせた。見落としそうなほど小さい、だがたしかに悪意をもった魔が木の影にいた。懐から一枚の札のようなものをとり出し、足元に押し付ける。どん、と大地が揺れると同時に亀裂が走り、魔へと一直線に伸びた。その札は弾けるように光を生むと、まるで生きているかのように魔を包み込む。老人がその枝のような腕を一閃させるのと、魔が霧散するのとは、同時であった。
「……お手柄でしたね、コトリ殿。よくぞ気付かれた」
「え、ええ……」
上下する胸を抑え、冷静さを取り戻そうとする娘をみて、ユウ老人はもとから線のような目をさらに細めた。カモの千里眼は遠くを見渡す。だがこの娘の感覚はユウ老人をはるかに凌いで、魔の動向をつかんでいる。そしてそれは日増しに鋭くなっているように思えた。まだ本人もよく分かっていないようだが、制御し、あるいはさらに研げば、この力は「影」に新たな希望の光を落とすかも知れぬ……。
「ごめんなさい。ユウ様。……もう大丈夫です」
微笑みを取り戻した娘に、ユウ老人は小さく頷いた。足元がわずかに揺れる。カモもどうやら上手くいったようだ。
「私やカモは呪符を使いますが、大方の影が得物……太刀や剣や…そういった類いのものに力を込めて魔をうちます。あなたには…呪符のほうが扱いやすいかもしれませんね」
「そうであることを願います」
剣なんて持ったら、うっかり自分を刺しかねない。そんな物騒なものを持って自分が無事でいられる気がしなかった。
歩き始めたユウ老人を追って数歩駆け出すと、胸の上で小さな袋が揺れた。首飾りのようなそれを握りしめて魔を滅した場所をみる。
たかが魔一匹。
それだけのために大地を抉り、歪める力。
恐れぬわけがない。影の英雄伝は、裏を返せばそのただならぬ力を恐れる民の声だ。
(母さま。母さまは知っていたの?)
袋を握りしめた手を開く。出立の前夜。なかなか寝付けなかったコトリに母が手渡してくれたものだった。
『コトリ。あなたはこれからただ一人、寂しく暗い影の道を歩みます。背を押したのはわたくしだけれど、きっと恐ろしい目にもあいましょう。いいですか。これをお守りと思いなさい。そして、己の身を守れないと思ったときだけ、開くんですよ』
そういって手渡してくれたこれの中身を、コトリはまだ知らない。だが、正体不明のこの袋が、今やコトリの心の支えになりつつあった。
不意にコトリは、張りつめていた空気がはじけるように軽くなるのを感じた。魔の気配がしない。知らず詰めていた息を吐き出すと、ユウ老人の足が止まった。
「カモ。怪我はしていないかい」
抉れた大地と折れた木々の中、ぽつりと立つ少年の姿があった。黒衣がところどころ裂けているのを見ただけでも、相当な戦いであったことが伺える。ぽかんと開いた空間に立つカモは、切り離された影ぼうしのように静かで、僅かに上がった息以外、その激しさを感じさせなかった。
コトリよりひとつ年上だという痩せっぽっちの少年は、どうして影を選んだのだろう。
その姿をみるたび、コトリは首を傾げる。だが、硬化したままのカモの様子になかなか打ち解けられず、結局聞く機会が得られぬままだ。
「ちょっと手こずった」
そういって右手を掲げるまで、コトリは彼の足元に滴る紅い血に気付かなかった。
「ちょ、大変じゃない!」
慌てて駆け寄ってその手を取る。背負っていた荷をほどいて水筒の水をかけてみると、思ったよりも傷は大きくないが、ひどい出血だった。
「痕がのこるかも…」
「これが、魔の力だよ。コトリさん」
蒼い顔で包帯を巻くコトリの顔をまっすぐにみつめて、少年は淡々と述べた。
「僅かに傷つくだけで、魔は人の生気を吸いとって最後には取りつく。民が魔を恐れるのは、荒々しく家畑を荒らすからだけじゃない。人を、人ならざる者に変えてしまう、この力だよ」
「それを教えるために怪我したなんて言ったら、ひっぱたくわよ」
「そこまでお人好しじゃない」
むっとしたカモの声に、コトリはすこしだけ安心した。無愛想なだけで、感情はきちんとあるらしい。
カモに包帯をすっかり巻き終えると、ユウ老人はカモの背をぽんと叩いた。
「早く道を進みましょう。カモ、行けるね」
「もちろんです」
気丈に振る舞おうとするカモにコトリは手を伸ばしかけて……やめた。気休めの言葉ならかけるだけ無駄だ。これが彼の仕事で、他人が口を出せることではない。代わりにその手で胸元の袋を握りしめた。




