影、来訪す
リンヤのいう「客人」は、遠目からでもすぐに見当がついた。村人たちが遠巻きに見守る中、村長たる婆と話す黒い上衣の二人組は、雪の残るこの村では見たことのない光景だった。二人とも背丈は変わらないように見えたが、一人は初老の男、一人はコトリと変わらぬ年頃の少年で、少年のほうはこげ茶がかった不思議な色合いの髪をうなじのあたりで軽く結わいている。黒ずくめの衣装のせいか、寡黙な印象をうける若者だ。
駆けつけたコトリたちに気付いた婆は、節くれ立った手で小さく手招きをした。
「ありがとう、リンヤ。早かったね」
「いえ。ほら、コトリ。行ってこい」
リンヤに背中を押され、たたらを踏みながら婆の横に立つ。婆って、こんなに小さかったっけ。年々縮んでいく婆の姿に、不意に胸が苦しくなった。
「コトリ。こちらは影のお二人だよ。ご挨拶を」
「ようこそ……おいでくださいました。コトリと申します」
おずおずと頭を下げたコトリに初老の男は穏やかな笑みを向けた。
「ユウと申します。朝早くからお呼び立てして申し訳ありません。こちらの無愛想なのがカモ。孫でございます」
「……どうも」
小さく会釈したカモという少年にも、一礼を返す。コトリと大差ない身長で、男の子にしては線の細さがうかがえる。ちゃんと食べてるのかしら……と、コトリは変なところで心配になった。
「コトリ。家までお二人を案内なさい。長旅でお疲れでしょうから、何かご用意してさしあげたほうがよいでしょう」
「いえいえ。お話できる場所さえあれば、充分ですよ、村長様」
ユウ老人がやんわりと断りをいれても、婆はがんとして譲らなかった。リンヤにまであれを用意しろ、粗相はするなと申し伝える始末で、コトリとリンヤは慌てて客人二人を連れてその場を去った。……婆はああなると、疲れ果て熱を出すまで話し続けてしまう。それを介抱する女衆がどれだけ苦労をしているか……子どもだってよく聞き知っていた。
客人を居間に通し、母の寝室へ朝餉を置いて、コトリはようやく一息ついた。まだ客人の用件も分からないままだが、どっと疲れた……まだ朝なのに。リンヤはといえば、何故か居間で客人の相手をしてくれている。談笑が聞こえてくる辺り、王都のことや影のことでも聞いているに違いない。
お茶と茶菓子を手に居間へ戻り席につくと、老人は柔和な顔でコトリの肩を叩いた。
「朝から申し訳ありません。お疲れでしょうに」
その労いひとつで、疲れも忘れて首を振ってしまった。
「いえ、お二人こそこんな僻地までお疲れでしょうから」
「とんでもない。それが私たちの役目です。さて……本題に入りましょうか」
ユウ老人の目の色が変わる。コトリはどきりと姿勢を正した。
「あなたは、影語りをご存じですか?」
リンヤの鋭い視線を感じてあやふやに首肯く。その様子に、カモという少年は眉を寄せた。
「あまり知らないみたいだね。仕方ないよ、お祖父様。ここは綺麗すぎる」
「そうですね。訪れるまで知りませんでしたよ。ここが……いえ、すみません。こちらの話です。私は影語りに唄われる最初の「影」でございますが……王権が安定しても魔は依然として平穏を揺るがす存在に変わりはありませんでした。私たちもやがて老い、死ぬ。魔との戦いは命懸けのもので、死する者もこれまた多い。そこで私たちのように、その目で魔を見定め、討つ力を備えた若者を求め、旅をして参りました」
そう言って、ユウ老人は懐からひとつの珠のようなものを取り出した。チリリと鳴るそれが宝石のような鈴であることに気づいて、僅かに身を引く。ただの鈴ではない……コトリの直感がそう告げた。
「これは王族がその証として持つ鈴と同じ職人が作り、術家の神官がその力を宿した特別な鈴です。見鬼の才…魔と対峙する力を持った若者の場所を、この老いぼれに教えてくれるものといいましょうか。コトリ殿。あなたはこの鈴に選ばれました」
コトリは深く息を吸って、脳内でユウ老人の言葉を 反芻した。
ーコトリ殿。あなたはこの鈴に選ばれました……
「つまり、私、影になれというんですか」
顔色を変えないように、必死に言葉を紡ぐ。その傍らで、リンヤのほうが真っ青な顔で立ち上がった。
「だめです……」
カモが、リンヤを見上げて睨み付けた。
「なんで君が反対するんだ」
「だめなもんはだめだろ……コトリ、……だって、母君はどうする。それにコトリ、あんたは…」
「行きなさい、コトリ」
不意に凛とした声が部屋に響いた。振り返れば、蒼い顔をした母が戸口にたっている。母さま、と呟いた声は、どうしてか掠れていた。
「行きなさい、コトリ。そろそろ世界を知らなくてはね」
そう微笑むのと、ユウ老人がため息をつくのとは、ほとんど同時だった。
「これは……これは……まさかこんなところでお会いするとは」
母がユウ老人に対して流れるように略礼をとる。ぴんと伸びた背もその優雅な所作も、コトリが今まで見たことのない母の姿だった。
「……知りあいなの?」
「むかーし、お会いしましたね。ユウ様」
「……ええ。あなたがまだずっと幼い時に。母上によく似てきましたね」
コトリの胸が、また苦しくなった。この人は、私の知らない全てを知っている。その予感が身体中を走り抜けた。
「そうか。あなたは……この方の娘さんか。道理で鈴が呼んだわけですね」
「母と、その鈴に、何か関係が?」
「知りたいですか?」
ずるい。コトリはユウ老人を睨み付けた。こんな手は卑怯だ。知りたいと願う思いでコトリを捕まえようとしている。
「母さま、行ってこいと、言いましたね」
「ええ」
母の変わらない微笑みに、泣きそうになった。
春の予感が好きだった。
春の始まりを告げる声が好きだった。
だが16のいま、新たな声が扉を開けようとしている。
ひとつ、深呼吸をする。結び上げた髪をぎゅっと引き締めれば、生まれてはじめて自分で染め上げた藍色の布が甲を撫でた。
「影は、命を賭ける職だ」
沈黙に、カモの淡々とした声がすべる。
「訓練もするけれど、どこに配属されるかすらわからない。生半可な気持ちなら、来ないほうがいい」
またひとつ、胸が跳ねた。これはなんなのか。恐怖?緊張?……ちがう。春の訪れを感じるときと同じ、これは期待に満ちた喜びかもしれない。唐突に開かれた未知が、コトリの胸をときめかせている。
「……どうしてかしら。それを聞いたら、なんだかわくわくしてきたみたい」
カモはきょとんと目を丸くした。
「きみ、変わってるみたいだね」
「そうみたい」
カモに笑いかけて、急に頭のなかの霞がとれた。さっと、絡まった思考がほどけていく。
行きたい。
その思いが、胸を締め付けた。
「母さま、行きたいわ。この人たちとともに」
母の笑みは、変わらなかった。
「行きなさい。世界は、ここだけじゃないのよ」
2日がたって、村の出入り口は人でごったがえしていた。コトリの出立の日だ。婆も、村の女衆も、男たちも子どもも、皆が英雄の道行きを一目見ようと駆けつけたのだ。
次第に彼らを乗せた荷車は山間に消え、賑やかな村人たちもまばらに去っていく。その中、母とリンヤだけが、空を滑る雲を見つめて立ち尽くしていた。
「行ってしまいましたね。鈴夜様」
「様なんて、あなたにつけられる立場じゃないですよ」
リンヤ……鈴夜は傍らに立つ女性に背を向けるようにして去ろうとした。その手を逃すまいと取って、掲げるように礼をとる。
「ありがとう。あの子が行くことを反対してくれて」
「……当たり前でしょう。新しい影は、まず王都に集められる。ユウ様だけでなく、いずれ多くの人がコトリに気づく……ずっとここで暮らしてきたあの子には、酷だと思ったのに……あなたはいかせるんですね」
「……わたくしは、母の跡を継ぐだけの力がありませんでした。だから、ずっと決めていたのですよ。あの子が見鬼の才を見せて、この土地へやってきた時に」
鈴夜はゆっくりとその人に向き合った。背後には山々、その先にはコトリが向かった王都がある。
春を告げる小鳥の声が遮るもののない空に響き渡った。




