唄、魔を魅了す
星が今にも降り注がんばかりに瞬く。夜風はまだ冬の冷たさを僅かに孕み、気付けば睡魔はどこかに掻き消えた。溜飲の音さえ響くような静寂の中でコトリは物陰から対岸のクリハに目配せをする。それを受けて、クリハは二人の間に立つ丸腰の少年ー葉月ーに小声で声を掛けた。
「いけ!葉月!お前のことは僕が保証する!」
「なんの保証だよ!嫌だよ!帰らせろよ!あーもう、なんで俺みたいな奴を影なんかに選ぶかなぁ。最悪、ほんとに一番の不幸だわ」
「なにぶつぶつ言ってるんだ!ここで男見せないでいつ見せるんだよ!」
「クリハも黙れよ!あんたが一番疫病神だよ!」
「疫病神は僕じゃない!」
勢いよく立ち上がって棍を葉月に向けたクリハに、コトリは頭を抱えた。あなたが大声だしてどうする。
「この世の中には、どれだけの災厄があると思ってるんだ!こんなの序の口だって葉月も知ってるだろう。なんのための力だ。なんであんたに力があるんだ。あるなら使えよ!力さえあれば、変えられるものもあるんだ!」
クリハの力説に、葉月が顔を上げる。その痛々しく苦しげな表情に、ふと違和感を抱く。二人にしか分からない何かがその場にはあった。
(そういえば、二人は幼馴染だけど、会うのは久しぶりって言ってたわよね)
まだなにやらやりとりをしている二人を尻目に、コトリは魔のいるであろうほうを覗き見見る。
(クリハが葉月くんをここまで買う理由って、何かしら)
「……分かった。やるよ」
葉月の観念したような声に、再び二人へ視線を戻した。
「あんたは、俺が今までどれだけ傷付いてきたか分かった上で、言ってるんだな」
「当たり前だろう。ぼくだって、傷付いて傷付いてボロボロになってここに戻ってくることに決めたんだ」
溜息ひとつ、春の夜に零れ落ちる。吐いた分と同じだけ葉月が息を吸った途端、空気が変わった。ぴりりとその場に張り巡らされた魔の気配の上に、それを覆い隠すような覆いを感じた瞬間、コトリは己の耳を疑った。
葉の擦れる音だけが響いていた夜空に、この世のものとは思えない美声が響き渡ったのだ。妙な声色は抑揚をつけながらも、高く高く澄んだ清らかな旋律を紡ぎ上げる。それは生まれてこの方、耳にしたこともないほど美しく身動きひとつ封じてしまうような甘い唄声。そしてその声の主が、目の前の少年、葉月であることが全く信じられなかった。神聖さすら感じる唄は邪気を払うように建物全体に響き渡る。
はっと我に反ったコトリは、慌てて中庭のほうへ小走りで駆けた。魔の気配が薄れているのだ。呪符を握りしめて庭へ滑り込めば、弱魔は残らず地へ沈み込みながらその存在を消されようとしていた。
「どういうこと……」
「これが、葉月の力。唄が上手くてね、ちょくちょく魔に襲われることもあったけど、唄さえあれば弱い魔は封じ込めてきた。術式も得物もいらない。あいつは自分一人だけで影になれるんだ」
後を追ってきたクリハかま淡々と言葉を紡ぐ。美声とは裏腹な怒気すら孕む静かな声。特別な者に対する憧憬でもない感情が見え隠れする様子がクリハらしくなかった。
「でも強い魔は動きを止めることくらいしか出来なくてね。そうすると、僕たちの出番さ」
にやりと笑って見せたクリハに、コトリも頷き返す。
自然と中庭の真ん中で背中合わせになって立つ。闇の中に紅い目がふたつ、みっつ。堂々と表れた二人の少女に気付いてか、聴覚から支配する束縛を振り払ってじわりじわりと距離を縮めてきた。
緊張の糸がぴんと張られ静寂の一瞬。風が凪いで頬を汗が一筋伝う。
先に動いたのはどちらだったか。静寂は破られ、少女たちの背が離れた。くしゃくしゃになっていた呪符に力を込めれば、淡い光と共にぴんと札が再び立ち上がる。射程距離に入ったところで大地に札を打ち付ける。術式が刻まれた一瞬後、大地が魔に向かって抉られる。光がほとばしると同時に魔が霧散するのを確認して、懐からもう一枚の呪符を取り出して新たな魔へ一直線に投げた。不思議と何の感情も湧かなかった。葉月の唄さえ、クリハのことさえ頭には浮かばない。無音の世界で、魔の存在だけが鮮明に見えてくる。
真横に跳躍してきた三匹目の魔に呪符で迎え撃った瞬間、不意にコトリの耳にわずかな"声"が聞こえてきた。
ー ……ヲ、……チヲ、フタタ……、……ヲ
激しい閃光が、中庭を埋め尽くした。




