リアルなんて、この程度 1
「残念ですが、手遅れです」
白衣を着た、白髪の男性が淡々と告げる。
薄汚れた天上を見上げながら、俺はぼやけた左目だけで男性の瞳を見据えた。
「ウソでしょ!? おにぃは絶対……絶対っ」
「桜……っ」
泣き崩れる妹と、おもむろに俯いたあやなさん。
その様子を分析しようとするだけでも億劫だ。全身の倦怠感に加え、激しい頭痛。右目の光はほぼ失われ、左目の光もまもなく消えようとしている。
全く思考が働かない。男性や桜たちの声でさえ、機械音声に聞こえるほど曖昧だ。
ああ、死ぬってこういうことを言うんだな──。
俺の脳内には、寄生虫が棲んでいるらしい。
その寄生虫は俺の脳細胞を食い荒らし、一部は血管を伝って臓器にまで繁殖しているようだ。
入院してから何か月が経過したのだろう。
もう、先は長くない。
とてつもなく鼻がかゆい。
自然と涙がでてくる。
ははっ、涙って瀕死の状態でも出るんだな……。
†
「ああああっ、ああああっ! ンアアーーーーーーッ!」
暗闇から解放されたその瞬間、鼻から咽喉の奥にかけて凄まじい刺激が走り、その苦しみから逃れようとベッドの上を何往復も転がった。
けれども苦しみからは解放されず、なぜだか涙が出てくる。
ってか、この感覚は……っ。
「きゃはははははははははははっ! あーっ、おっかしい! ぷっ、んふふっ、くすっ」
残酷な涙と共に、残酷な笑い声をあげる少女がベッドの脇にいやがる。
彼女の右手に握られた緑色のケースを見て、俺は確信した。
「あかね! てめっ、わさび塗りやがったな!?」
鼻と口を左手で覆いながら、涙ながらに叫んだ。
「いやぁ、ごめんごめん。だってあんた、前日がバイトだと何しても起きないじゃない」
悪びれもなく、お腹を抱えて笑っているこの残酷女は野宮あかね。隣の家に住んでいる女の子で、世間一般で言う幼なじみだ。
ライトブラウンのセミロングヘアを黒いヘアゴムで二つ結びにしていて、瞳は紅く、やや目尻が吊り上っている。あどけなさ全開なら小顔で、唇も薄いピンク。小尻だが、一応制服の上からでもくっきり分かる体のラインをしている。ただし、胸以外は。
学校指定の濃紺ジャケットを着用していて、中にはセーターを着込んでいるせいか、全然胸があるように見えない。
でも確かBはあったような、なかったような……。
「……キモっ、なに朝からジロジロ見てんの?」
俺の視線に気づいたあかねが、ジト目で睨んできた。
「いやー、相変わらずお前ってぺったんこだなと思って」
「はあ!? 一応これでもCあるんだから!! 服の厚みで目立たないだけだから!」
両腕で胸のあたりを隠しながら、ヤツは憤慨した様子で大声を出している。
どうでもいいけど、お前Cカップもあったっけ?
「朝からセクハラとか、マジさいてー。せっかく起こしにきてあげたのに」
「……そういえば、なんで今日に限って起こしにきたの?」
俺の幼なじみ様には、アニメやエロゲーに出てくる幼なじみ属性のキャラクターとは違って、毎朝健気、あるいはツンツンしながら起こしに来てくれるような甲斐性はない。そもそも、俺は前日がバイトだった日以外はちゃんと起きてるし、毎朝目覚ましが必要な男では断じてない。
そんなことを考えながら質問をすると、あかねはため息を吐いてから口を開けた。
「あやなさんから聞いた。あんた、バイトの次の日はいつもギリギリまで寝てるらしいじゃない」
「おう、しかも昨日はバイトと空手が重なったからな」
「そういう日は絶対あんた起きないでしょ。だから、あやなさんに頼まれて起こしてやったわけ」
なるほど、あやなさんの差し金か。
まあ確かにあやなさんの起こし方は俺の体を優しく揺さぶるだけだし、正直言って何の目覚ましにもならない。今日のあかねのやり方なら、たとえ某いねむりポケモンでも目を覚ますだろう。
でもねえ、やっぱり納得がいかない。
「だからって、なんでわさびなんだよ?」
「だってあんた空手やってるでしょ。変に殺気立てたら反撃されるかと思って」
「そこまで達人じゃねーよ。初段允許されたの去年だぞ? そんな真似、できるわけねーだろ」
「どうだか。いつも巻き藁突いてるバカの言うことなんて信じられないわ」
確かに巻き藁突きによる拳足の鍛練は日課だが、それバイト終わってから学校行くまでの時間だけだし。
あっ、ちなみに俺がやっているバイトは早朝の新聞配達です。
「ちょっとー、もうすぐ時間だよ?」
コンコン、という突然のノック音の後、あやなさんが部屋のドアを開けて入ってきた。
何故か左手にはお玉杓子が持たれ、それを器用にくるくる回しながら俺たちに近づいてくる。
「あら、もしかして夫婦漫才の途中だった?」
「違えよ!」
「違うわよ!」
右手で口元を抑えながら笑うあやなさんに、俺達は揃ってツッコミを入れた。