05 二日目
結局、遊が目覚めるまでオレは横でじっとしていて、ほとんど眠れなかった。
「おはよ……ヴォル・テッラ」
六時前には遊が起き上がり、オレの上を乗り越えてベッドから降りる。
消えてしまいそうなか細い声は眠そう。
俯いていて黒髪に隠されているから顔は見えなかったが、大欠伸をしたようだ。
ふらふらした足取りでバスルームに向かった。
「おはよう、遊。オレはっ、部屋に戻る」
バスルームの遊に声をかけてから、逃げるように部屋をあとにする。
自分の部屋のバスルームに入り、冷水で顔を洗う。それでも眠気は酷い。
だが、朝食に向かうために、最低限の身だしなみを整えてスーツに着替えた。
やはり、眠気が酷くて遊の部屋の前で、壁に手をついて額を押さえる。
「おはようございます! アニキ! 今日もおともします!」
「おう……」
そこで駆け寄ってきたのは、朝から元気なリキだ。遊の支度が終わるまで、部屋の前でリキと今日は遊を案内する場所を話し合った。
「ふぁあ」
欠伸を押さえながら、遊が部屋から出てきた。
黒い短パンとガーターで留めたハイソと、白いブラウスと昨日と似たファッションだ。だけれどポケットが太ももまで垂れたような変わっているデザインの黒いベストを着ていて、そのポケットに遊は両手を入れた。
そんな遊は、黒いサングラスをかけている。
思わず、オレとリキよりもマフィアっぽい! と思った。
「怒るわよ」
オレとリキの表情で考えがわかった遊が、低い声を放つ。サングラスをかけていると、より怒っていると感じる。
オレもスーツを着ていても、マフィアには見られない。リキもよく軽く見られてしまう。
まぁ、気にしていないが。
「生活リズムが変わったから、片頭痛が起きて、痛いのよ……」
サングラスを押さえて、俯く。瞳が見えないほどの黒いサングラスだから、表情があまり見えない。
だが片頭痛は低血圧の女性に多い頭痛の一種。頭の痛みの他、吐き気などの症状があって、辛いものだと聞く。
「大丈夫か? ドクターを呼ぶっ」
「いい。薬を飲めば、そのうち治まるから。静かにして」
「だが、安静にした方がいい。カミソリが中で蠢くような酷い痛みなんだろ? サングラスをかけるってことは光が痛いんだな?」
薬を飲んだからと言って、すぐには治らない。
光や音に敏感になり、痛みが悪化する症状も片頭痛の特徴の一つ。暗い部屋で横になっているべきだ。
きっと痛みも酷いはず。
「……やけに、片頭痛に詳しいわね」
「ああ、以前頭痛を起こした時、あるドクターから聞いたんだ」
首を傾げる遊に答えた。
片頭痛ではないかと、診てくれたドクターが教えてくれた。オレはただの肩凝りによる頭痛だったが、女性は気遣いなさいと助言された。
女性は大切にするように教えられたオレは、やはり遊をこのまま歩かせられない。
「いいから。朝食を口に入れて薬飲んだら、今日は銀行に寄ってからショッピングモールに連れてって」
「わかった、じゃあ銀行が開くまで安静にしてくれ」
「……過保護すぎよ、ヴォル・テッラ」
うんざりしたような声を出されるが、仕方なさそうに肩を竦めた。
あまり負担にならないように、ショッピングに付き添おう。
ハッとする。
廊下の向こうから、カルロが静かに歩み寄ってきた。
彼の手には、銃。
「good morning――…shot!」
背を向けている遊に向かって、殺意なき弾丸が放たれた。
咄嗟に左腕で遊を抱き締め、右手で壁を突き飛ばすように叩いてその反動で避ける。
「二発目クリア」
カルロは笑った。
完全に油断していたが、遊を守れた。安堵して息を吐く。
「ヴォル・テッラ」
やけに近くから、遊の声がオレの耳に届く。
「いつまで抱いているの。苦しいのだけど」
いつの間にか、遊の背中に回した左腕で抱き寄せていて、右手は彼女の腕を押さえていた。
ド、ド、ドッ。
柔らかな感触で密着状態だと頭が理解した途端、カウントダウンのように心音が鳴り響く。
「あぅわぁああっ!!」
勢いよく離れたら、真後ろにあった窓ガラスに当りガシャンと割ってしまう。
「なに、どうした」
「ピュアなんですよ」
ビクッと遊が驚き、カルロは笑う。
し、しまった。
大声を出して煩い音を出してしまった。遊の痛みが増してしまう。
音を聞き付けて、番犬が駆け付けてきた。大丈夫だとオレは手を振り追い払う。早く片付けなくては。
「その銃、本物みたいですね」
「あー、本物に似せたものなんですよ。とある手品師と武器職人に作ってもらいました。弾丸にそっくりですが、中にペイントをギュッと詰め込んで当たれば血のように弾き飛ぶんです」
「へぇー」
遊が興味を示したから、カルロは撃った銃を渡す。
その銃は、殺害を偽造するために使ったもの。他にもライフルがある。きっと、今回の試練に使われるのだろう。
カルロがマフィアの仕事に関して話さないか、ひやひやしながらもリキと一緒にガラスを片付けた。
それから、ファミリーと揃って朝食。
その間、彼女の片頭痛について知ることにした。
力なく食事をしながら、遊はそのまま答える。
片頭痛の前兆として、酷い眠気に襲われるらしい。今回は疲れと勘違いして気付かなかったようだ。
生活リズムや環境が変わると、ストレスで頻繁に起こってしまう。
「遊。今日は安静にしたら、どうだい?」
「……結構。ご馳走さま」
心配してボスが気にかけるも、不機嫌そうに遊は返す。
ボスは苦笑だけを漏らした。
ペーパーナイフを向けた一件は、ボスが咎めなかったため流した。遊が一方的に嫌っているようにも見える。
ボスが遊を怒らせるようなことを言うとも思えないから、何らかの問題があるのだろう。
「(大丈夫と言い張っても、目を離さないでくれ。ヴォル)」
「(勿論です、ボス)」
釘をさされたから、オレはしっかり頷く。
護衛としてそばにいる以上、目を離すつもりはない。
「あと、今夜は仕事で帰れない。遊をよろしく頼む」
「はい、ボス」
食事も終えて、銀行が開くまで遊の部屋で時間を潰した。
リキが色々と聞きたがったが、遊の体調を気遣い大人しくしている。
遊は大丈夫と言い張っていたが、結局部屋でもずっとサングラスをかけていた。
ショッピングモールの近くにある銀行まで、車で向かう。
開いたばかりでも、銀行には客が結構入っていて、ATMも並んでいる。
オレは遊と一緒に並び、リキは車に待たせた。
遊の順番が来て、オレは少しは離れて待つ。
その時に――危険を直感した。
振り返れば入り口から、目だし帽を被った男が銃と鞄を持って入ってきた。
「(全員伏せろ!!)」
銀行強盗だ。
客が悲鳴を上げて床に跪く中、オレはあまりのことに驚愕した。
マフィアの仕事をして色んな経験をしてきたが、銀行強盗と鉢合わせたのはこれが初めてだ。
とにかく遊の安全を確保して、取り押さえるべきだと考えが行き着き、オレは遊を振り返る。
遊はATMでお金を引き出している最中だ。
また英語をシャフトアウトしていて銀行強盗に気付いていない!
「(そこ! 伏せろって言ってるだろ!!)」
「(ま、待て! 彼女は英語がわからない! 今伝えるから落ち着いてくれ!)」
気付いた銀行強盗が遊に銃口を向けたため、遊の盾になり宥める。
強盗犯は手を震わせていた。初犯なのだろう。いくらでも取り押さえる隙はある。
先ずは遊に伏せてもらわなくてはっ。
「遊!」
「さっきから煩い。痛いんだけど」
「す、すまない、だが、先ずは頼むから」
「行こう」
「ゆ、遊っ」
すぐに腕を掴むが、遊は銀行を出ようと歩き出してしまう。
「(伏せろと言ってんだ!! 聞こえないのかこのアマ!!)」
強盗犯は怒鳴り付けながら歩み寄り、遊に銃を突き付けようとした。
オレは隠し持つナイフで対処しようと、遊の前に立とうとしたが。
ゴッ!
庇ったオレの腕をすり抜けて、遊は飛び上がり強盗犯の顔に華麗な飛び蹴りを決めた。
「煩い。喚くな。騒音が鳴るとイッライラして痛くなる。全く。ひったくりに強盗なんて、治安の悪い街ね」
のした強盗犯から銃をヒールで取り、遊は頭を押さえながら呆れて言う。心底苛立った声だ。
「……おやおや」
唖然としていれば、遊はヒールで目だし帽を剥ぐ。見覚えがあるらしい。
「コイツ、ギャングの一人よ」
「……ギャング?」
昨日喧嘩したギャングの一人だと聞き、オレは顔を見る。見覚えはない。
ギャングの一人が銀行強盗。悪さをしにこの街に流れ着いたのかもしれない。
昨日の引ったくりもギャングの一味の可能性もある。調べてみなくては……流れ者が今後もシマで悪さをしかねない。
「ねぇ、ヴォル・テッラ。警察来るでしょ。どうするの? 事情聴取とか、嫌なんだけど」
しゃがんで犯人の顔を覗いていたら、遊に頭を小突かれた。
「(支配人! 警察が来たらありのままを話せ。あとでオレの元に来るように伝えてくれ)」
客にもう大丈夫だと伝える支配人に伝言を頼んで、遊の腕を掴みこの場をあとにする。
「なに……警察も取り込み済みなの?」
「……ショッピングモールに行こう」
その話は避けたい。
リキに運転を任せて、近くのショッピングモールへ向かった。
「(麻薬の次はギャングすか!? なんなんですか! 次から次へと!)」
「(ああ、オレも頭にくる。麻薬も関係していたかもしれないが、ギャングを追い出すことに専念しよう。トニー達に調べさせてくれ。オレも極力調べる。把握できたらオレに報告するように)」
人々が行き交うショッピングモールに遊を案内する合間に、リキに話す。
「(捕まったひったくり犯と強盗犯から有力な情報を得られるはずだ)」
「(そうすね。買い物が済んだら、行きますよ)」
「……ねぇ」
婦人服で服を選んでいた遊が口を開く。
「仕事なら行けば?」
ギクリと震え上がる。
「ギャングを片付ける話でしょ」
オレとリキの会話は理解できなくとも、予想ができている。焦った。
ボスにはマフィアの面を見せるなと言われている。
「問題ない。遊はショッピングを楽しんでくれ」
「……」
笑って見せるが、サングラスをずらして遊は鋭い眼差しを向けてきた。
睨まれた。遊が不機嫌になったと感じる。
彼女は何も言わず、店内に並ぶ服を選び続けた。
まだ不機嫌だと感じて、オレは原因はなにかと遊を見つめながら考える。
今の何が気に入らなかったのだろうか。わからない。
「あの、遊」
「ねぇ、ヴォル・テッラ」
直接聞こうとすれば、遊から口を開いた。
「服。選んで」
「えっ……オレが?」
「早く」
「あ、う、うん……」
ふっと不機嫌な雰囲気が消えた遊に、服を選ぶように頼まれたため、すぐに引き受けることにした。
とは言っても、女性の服を選ぶなど初めてのことだ。少し迷う。
落ち着きある洒落た婦人服の店だが、この中から遊が好みそうなものがわからない。
昨夜のYシャツ姿を思い出してしまい、慌てて頭の中から追い出して、ハンガーにかけられて並んだ服を探した。
「あ……これは?」
一つ、手にした服を隣に立っていた遊に見せた。
アイボリーのワンピース。少しパーティー向けのように、レースとフリルのスカートだ。腰にはウエストを締めるリボンがある。
美しい遊なら、なんでも着こなせて、似合いそうだ。
「……ふん、ロリコン」
遊は昨夜のように、鼻で嘲笑った。
言われて気付く。写真の中の幼いロームが着ていたワンピースと少し似ている。
ぐさりと胸に突き刺さり、大ダメージ。
「アニキ! し、しっかり!」
踞りたくなったが、リキに支えられて励まされた。
「まぁ、いいけど。とりあえず試着してみる」
遊は結局服を受け取ると、店の奥の試着室に向かう。
「な、なんて、毒舌……遊さん、恐ろしい人ですね」
「……まぁ、オレの知る人よりは……ましだ」
遊の毒舌には傷付くが、遊よりも毒舌な人物を知っているからまだましだと思える。
それに、遊の言葉にオレが勝手に傷付いているだけだ。……嘲笑は怖いが。
「遊はただ……」
なんだろう。
遊は傍若無人で横暴な振る舞いをするが、普段は落ち着いていている。
猫のようだ。
寛いでいて機嫌がよければ気品に尻尾を振る。機嫌を損ねる要素があると、爪を出し牙を向けて暴れ出す。
オレが師匠と呼ぶ人は黒猫の異名を持っているだけあって、猫のように気まぐれで、しかし美しく気品で、でも爪を出せば恐ろしい人だ。
機嫌がよければ美しく微笑んでいる人だった。
だからきっと。
遊の不機嫌な原因を取り除けば、邸宅に滞在する間は快適に機嫌よく過ごしてもらえるはずだ。
「どう?」
シャー、と目の前のカーテンが開かれ、着替えた遊が姿を現した。
肩と首の肌を露出した半袖のアイボリーのワンピース。黒いハイソはそのまま履いていて、ウルフヘアーの黒髪が肩から垂れていた。
シックな服装から、可憐な服装に変わった遊がオレを見上げる。
「……綺麗だ……」
似合っていて、綺麗だ。
ここはもっと言葉を並べて褒めるべきだったが、それしか出なくてただ遊を見つめてしまう。
「……あ、そう」
遊は両手で自分の髪を撫でながら、そっぽを向いた。それが照れた反応に見えてしまい、ドキッとする。
そっぽを向かれて本当に照れたかどうかはわからない。でもワンピース姿とその仕草が、少女らしくて、胸が高鳴ってしまう。
「んー……」
遊はカーテンを半分閉めて隠れると、少し考える素振りをした。
「ちょっと子どもっぽくない?」
「いや、そんなことはない。愛らしくて素敵だ」
「……ふーん」
カーテンから顔を出す遊は首を傾げて、オレを見上げる。
「そう。じゃあ買う」
シャーとカーテンを閉めて遊は買うことを決めて着替え始めたらしい。
顔が熱い。落ち着こうと、胸を擦る。
「あー、リキ。すまないが、ジェラートを買ってきてくれないか」
「あ、はい!」
入り口の目の前のホールにジェラートを売っている店がある。頭を冷やそうとリキに頼んだ。
「わたしも買ってくれないかしら、リキ。ラズベリーがいい」
カーテンの向こうから、遊も頼む。
初めて遊に呼ばれて、リキは笑顔になって喜び元気よく「はい!」と頷いた。
だが、すぐに買いに行こうとしたリキの襟を掴んで止める。
「だめだ、遊。君は今片頭痛だろ? 砂糖の入ったものは避けるべきだ」
「薬飲んだから、もう平気だってば」
「安静にしていないし、また痛くなってしまうかもしれない」
「大丈夫だって」
「しかし」
「ヴォル・テッラ」
片頭痛の原因に砂糖がある。反対したが遊が苛立った声を出して譲らなかった。
仕方なく、オレはリキを放して買いに行かせる。
「イタリア系マフィアのシマのジェラートだから、本場のもの?」
試着室から出てきた遊は、黒い短パンとブラウスとベスト姿に戻ってきた。
「ああ、店員もイタリア人の店なんだ」
ブーツを履いた遊に伝えると、オレが選んだワンピースの他に何着かを選ぶと現金で購入する。
店のロゴが入った袋はオレが持ち、ジェラートの店へと案内した。
ヒールでかつかつ歩いて並んでいる店を眺めている遊は、またサングラスをかけている。やはりまだ頭痛がするのではないのか。
「ねぇ、次はあの店行きたい」
「あ、ああ……覚えておく」
疑ったが、遊は声を弾ませて気になった店を指差した。本当に大丈夫そうだ。
一安心して待たせていたリキの元へ向かう。
遊のはラズベリー。オレはレモンだ。リキも自分用にチョコを買っていた。
ホールに置いてあるテーブルについて、食べることにした。
「んー、美味しい」
スプーンですくって堪能する遊は、気に入ってくれたようだ。本当に大丈夫そうだし、なにより楽しんでくれているようで嬉しい。
「ヴォル・テッラはなに味?」
「レモンだ。食べるか?」
少しして、遊がオレのジェラートに興味を示した。スプーンで一口すくい自分の口に運びながら、遊にカップを差し出す。
すると遊は身を乗り出した。差し出したカップなんて見向きもせず、オレに顔を近付けたかと思いきや――――。
れろ。
オレが口に運ぼうとしたレモンのジェラートを、舌で舐めとった。
触れた気がする。いや、ジェラートを挟んでいて、厳密には触れていない。
触れてはいないが、だが、顔に火がついたように強烈に熱くなった。
「ふっ。耳まで真っ赤。このウブ」
その距離で遊はにやりと笑う。あまりにも綺麗な微笑で、オレは卒倒しかけたが動けもしなかった。
椅子に戻ったロームは隣で真っ赤になって固まっていたリキのカップにスプーンを突き刺す。
「ちょーだい」と言って奪う。遅れてリキはコクコクと頷いた。
「……あっ、遊! チョコはだめだ!」
ハッと我に返り止めようとしたが、遊はパクリと口に入れてしまう。
「チョコにアイスなんて、また頭痛が起きてしまうぞ」
「ヴォル・テッラ、過保護すぎ」
「苦しむのは君なんだぞ、遊」
遊にうんざりした顔をされるが、遊のためだからオレは言い続ける。
頬杖をついてオレを不機嫌そうに見上げたが、遊は了承したように肩を竦めた。
そのまま椅子に座って店を眺めていれば「んー」と悩む素振りを見せる。
「どうした?」
「……楽しめって言われて父親に口座ごとお金を渡されたの。使いきって困らせてやろうと思ったのだけれど……はぁ」
疲れたように遊は溜め息をつく。口座から引き出したのは、父親からもらったお金だったのか。
「(やっぱりお嬢様だっ)」とリキが漏らす。
母親を避けてここに来たのかと思ったが、どうやら遊は、父親とも問題がありそうだ。
有力者の娘にも、悩みや問題はあるのだろう。
「使いきっても空しいだけなんだろうって思って……」
遊は椅子に置いた購入したばかりの紙袋を見つめた。
「返品しようかな」と呟く。
親の金を我が物顔で使い果たす絵に描いたようなお金持ちのお嬢様とは違う。
自立心はあるが、父親に何らかの反抗を示したいようだ。
「……君の両親を知らないが、父親は本当に君に楽しんでもらいたいのでは? 君も楽しむことに使えばいいと思う」
お金を使い果たすような娘ではないとわかっているから、遊を信頼しているはず。
言葉の通り、滞在中に楽しむために渡したのだろう。
「……そうね。そうする」
静かに遊は微笑みを浮かべて頷いた。
「じゃあ、楽しんでショッピングするわ」
ひょい、と立ち上がると遊は歩き出す。慌ててオレもリキも追い掛けた。
さっき指差した店に行くのかと思えば、その手前にあった紳士服の店で足を止める。
オレとリキも見ると、遊はその店に足を踏み入れた。
マネキンが着たスーツを気にしたように撫でたが、すぐにYシャツが並んだ棚に向かう。
「遊?」
「二人は若いんだから、もっと若い感じのYシャツを着てみたら? ヴォル・テッラはブルー。リキは……オレンジとか?」
オレにブルーのシャツを渡し、リキにはオレンジのシャツを渡した。二人そろって目を丸める。
「ゆ、遊? 自分の買い物は?」
「なに。してるわよ」
「いや、これは……オレ達のシャツだよな?」
「楽しんでるわ」
オレとリキのYシャツを選ぶことが楽しいのか?
首を傾げてしまう。
「早く」と言って遊は両手の指先で俺達を指差すと、それを試着室に向けた。
「着なさい」
「お、おう……」
「あ、は、はいっ」
微笑む遊に言われて、オレもリキも思わず返事をする。
……何故だろう。つい、従ってしまう。
リキも真っ先に試着室に入っていった。遊を一人に出来ないため、オレはリキが出てくるのを待つ。
遊は店内を回って商品を見ている。
店員が伺うが、オレがついているため話し掛けようとしない。必要な時は呼ぶ。
「ど、どうですか!」
試着室からリキが出てきた。白いYシャツからオレンジのYシャツに着替え、背広を着直している。
「な、なんか、チンピラっぽくないですかね?」
「白いYシャツだと、若くてだらしないサラリーマンにしか見えないわよ。ジャラジャラとアクセサリーをつけなきゃ、かっこよくみえるわ」
「そ、そうですかっ!」
遊はリキの襟を整え、背広を開いた。
リキは照れて、頬を赤らめる。それからオレの感想を求めて見上げてきた。
「なかなか似合っているぞ」
「そ、そすかっ!!」
リキは大喜び。
オレが笑っていれば、遊も微笑んだ。
「ヴォル・テッラ、あなたもよ」と遊はオレを急かした。
遊をリキに任せて、試着室の中に着替える。
「遊は……弟か妹がいるのか?」
「長女かってこと? わたしは一人っ子よ」
白いYシャツを脱ぎながら、訊いてみた。
「着なさい」とか、年下の扱いに慣れているように思えたが、違うようだ。長女か末っ子に思えたが……。
「でも近所に子どもがたくさんいて遊んであげてたわ。一人っ子でも面倒見がいいのは環境が影響したのでしょ。貴方と一緒よ」
カーテンの向こうから、遊は言う。
一人っ子のオレも、弟達がいるような環境で育ったから面倒見がいいと言ってくれた。
遊が近所の子どもと遊ぶ姿を想像すると微笑ましい。恐ろしい人だと言っていたリキも笑顔になった。
親しくなれば、好かれる質なのだろう。
色鮮やかなブルーのYシャツのボタンを閉めて、背広を着る。パーティーなどでは黒のストライプを着たことはあるが、こんな色のシャツは初めてだ。
カーテンを開いて、遊とリキに感想を求めようとした。
「おお! アニキ! かっこいいす!!」
リキは見開いためを輝かせて褒めてくれたが、遊は何も言わずにオレの襟を整える。
ポンポンと胸を撫でると、手にしていた黒いネクタイを結び始めた。
ドキドキしながら、そんな遊を見ていれば結び終わって遊はオレを眺める。
気に入らなかったのか、無表情のままネクタイを掴んでスルリとほどいた。何故か、それにドキッとしてしまう。
そのまま遊がボタンを外し始めたから、思わず仰け反った。
「ふっ。……脱がすわけじゃないんだから、びくつかないでよ。ウブ」
遊はにやりと笑うと、ボタンを二つ外しただけで手を離す。
「うん。いいんじゃない。じゃあ、隣の店に行きましょ」
「え、待ってくれ、会計が」
「済ました」
「えっ?」
遊の手にはいつの間にか、オレとリキのシャツの値札がある。オレが着替えている間に済ませてしまったようだ。
オレが払うと言おうとしたが、遊は人差し指を立てて止めた。
「楽しんでる」
これも遊が楽しんでいること。女性に払わせるなんて気が重いが、遊が満足しているなら素直に貰っておこう。
「ありがとう、遊」
「あ、ありがとうございます! 遊さん」
お礼を言うと遊は軽く手を振るだけで応えて隣の店へ。
遊の服を買い、アクセサリーや香水の店にも行き、選んだ。
楽しそうだったが、徐々に遊の顔色が悪くなった。笑みもなくし頭を押さえるようになって、また頭痛が起きたとわかり帰ることにした。
遊は抵抗せず、車に乗った。
ぐったりした遊を部屋に連れていき、リキにはギャングの件を行かせた。
カーテンを締め切り、部屋を暗くする。
遊がベッドに横たわっている間、買った服はクローゼットにしまっておいた。
クローゼットには数着しか服がかけられていない。キャリーバックが一つだけおいてある。
どうやら、遊の荷物はこれだけのようだ。だからお金を渡されたのかと納得する。
だが、何故遊の父親はマフィアに預けたのだろうか。
問題から遠ざける処置だろう。ここで解決するような問題は思い付かない。
どちらにせよ、オレが気軽に聞いていい問題ではなさそうだ。
先ずはこれを対処しよう。
今朝遊が飲んだのは市販の薬らしく、それが効かなかった場合に飲むように処方された薬は持ってきていないらしい。
昼はもう一度市販の薬を試し、大人しく安静にしてもらった。
眠っていても痛みがするらしく、ずっと辛そうだった。
顔をしかめ、荒い呼吸の合間に、時折呻く。吐き気も辛そうだ。
もっと強く言って安静にしてもらうべきだったと後悔する。
遊のそばにずっといて、看病をした。
「……シリウスは……」
「シリウス?」
陽が暮れる頃に遊が口にしたのは、ボスの名前だった。
「……いるの……?」
「いや、今日は帰らないと今朝話していただろう?」
仕事で帰れないと遊の目の前で話したが、遊は覚えていないらしい。
「連絡するか?」
「……いい」
「両親に連絡するなら」
「いい。……しなくていい」
ボスか両親に連絡したいのかと思った。慣れない場所で体調が崩れれば家族が恋しくなるとは思ったが、遊は「絶対にするな」とか細い声で拒んだ。
睡眠薬の方が楽に眠れると言うため、部下に用意された。
あまり食べなかったが、夕食後に睡眠薬を飲ませる。
昨夜と同じくYシャツ一枚と短パン姿で丸まって横たわる遊は、辛そうに息を吐いた。
「ねぇ」
「なんだ?」
遊が口を開いたから、聞き取るために顔を近付ける。遊はずっと目を閉じていた。
「……自分のせいだなんて、思わないで」
図星をつかれる。
「でも……」
「あたしの、せいだから……アンタは悪くない」
オレがもっと強く言えばよかったと罪悪感を抱いていることを、遊は見抜いていた。
深く息を吐いて、遊はそれっきり口を開かない。薬が効いて眠ったらしい。
「……!」
離れようとしたが、出来なかった。
いつの間にか、ブルーのYシャツの袖を遊が握り締めている。袖部分の隙間に指を差し込み絡ませて握っていた。無理に引っ張れば買って貰ったばかりなのにボタンがちぎれかねない。
指を外そうとしようにも、拳を作るように握ってしまい出来なかった。
掌に遊の寝息がかかり、くすぐったい。というか、むずむずする。
えっ。まさか、今夜も遊のベッドから抜け出せないのか!?
ガクリと力が抜けて、遊の隣で突っ伏した。
まぁいいと言い聞かせた。睡眠薬で眠れるようになっても、こんな遊を一人にするなんてできない。
ソファーで眠りたかったが、仕方ないからまた隣にいよう。
隣を見ればオレの袖を握って眠る遊。少し汗をかいていて、前髪が額についている。指先でそっと退かしてから、頭を撫でた。
目が覚めた時、痛みがなくなっていることを願う。
「……」
痛みで余裕がないはずなのに、オレを気遣ってくれた。オレのことなら気にしなくていいのに……。
オレの袖を握って放さないくらい弱っているなら、やはりボスに連絡しておこう。オレは一応メールを送っておいた。
送信後、一息ついて遊の寝顔を横目で見つめていたら、眠気に誘われオレはそのまま眠りに落ちた。
20140627