12 怪物
原因はなんであれ、椿さんより先に帰らなくてはいけない。
危険な黒猫が狼の群れに飛び込んで暴れるその前に。
「車でっ……ああダメだ! この時間は混むっ!」
車では椿さんよりも遅くなる。だからと言って走ったところで追い越せるわけがない。
家が幹部vs椿さんの戦場になる光景が頭に浮かんで卒倒しそうだ。
「ねぇ、ヴォル・テッラ」
パニックになりかけていると、遊がオレの腕を引っ張った。
「真っ直ぐ行けば間に合うかもしれないじゃん」
「え? 真っ直ぐ?」
「方角はあっちでしょ?」
邸宅のある方を、遊が指差した。確かに方角はそこだ。
するとオレの腕を引っ張って遊は歩き出した。病院の駐車場を真っ直ぐに進み、フェンスを軽々と飛び越える。オレもフェンスを越えてから、ようやく遊が言ったことを理解した。
最短の道を通る、という意味だ。
壁があろうとも建物があろうとも、それを越えて真っ直ぐに邸宅に帰る。
「本気なのか? 遊」
「本気で走んないと、アンタのボスどうなるかわかんないよ?」
遊は脅すようにニヤリと笑うと、走り出した。無茶すぎるのに、遊は二車線の道路を渡って行ってしまう。慌てて追い掛ける。
「ちょっと待て、遊っ! その路地は行き止まりだ!」
路地に入った遊だが、そこは高い塀で塞がれている行き止まり。先程のフェンスの三倍近くある。これを越えるのは無理だ。
しかし遊は止まらなかった。鉄製のゴミ箱の上に飛び乗ったかと思えば、建物の壁を走るように登った。そのまま、遊は高い塀に着地する。まるで猫が、塀に飛び乗るように華麗だった。
「パルクール。知ってるでょ、何年も前から流行ってるやつ。サツに捕まったら楽しくないから、仲間と一緒に逃げるために覚えたの」
塀の上から、遊はニヤリと笑う。
パルクール。映画でもよく取り入れられる街にあるあらゆる障害物を走る飛ぶ登るなどの移動動作で進むアクロバットなスポーツ。略してPK。
喧嘩ばかりするギャングだった遊は、警察に捕まらないように日本の街をパルクールで逃げ切ったようだ。
どこまでも、オレを驚かせる人だ。こんなことまでして見せるなんて。
得意気に笑って見下ろす遊に、つい見上げて呆けてしまった。
「っ……!」
呆けている場合ではない。
オレも遊を真似て、ゴミ箱を踏み台にして、壁を蹴り塀に飛び移る。慣れないオレは、足をぶつけてしまったが痛みを堪えた。オレは鍛えているし丈夫だが、遊が心配だ。
心配した矢先に遊が左の建物の非常階段に捕まって、飛び降りた。
「遊っ! 頼むから無茶するな! 怪我したらっ」
「ぶぁーか。そんなへましない。さっさと降りなさいよ、ボスが元殺し屋の美女に殺されちゃうぞー」
オレをからかいながらも、遊は走り出す。ボスも心配だが、遊も心配だ。オレはその塀から飛び降りて、すぐに遊を追い掛けた。
路地を抜ければまた道路。渋滞していたそこを迷わずに横切る遊のあとに続く。ウォーキングコースが設けられた大きな公園を真っ直ぐに突っ切り、茂みを飛び越えた。その先はフード店が並ぶ広間。客達を避けて走ると、空いているベンチを踏み台にして遊は花壇を飛び越えた。本気で最短ルートで突き進むつもりらしい。遊が怪我しないか、ひやひやしながらあとに続いた。
ホテルの敷地内に侵入すると、遊はプールサイドを突き進む。
一つの方角だけを目指して、灼熱の街の道なき道を一心不乱に走った。
「ふー、いい運動だった」
ヴォルフ家の邸宅の門に手をついて、遊は一息つく。車よりも早く着いた気がする。
オレは遊より息が上がってしまい、喋ることはできない。門の柱に手をつきながらも、椿さんの姿を捜す。いくら椿さんでも、まだ来ていないはずだ。安堵して一息つく。息を整えて、椿さんを止めなくては……。
ナイフを出して、備えた。まだ明るい夕暮れの空の下の道を見張って彼女を待つ。
数分して、彼女を見付けた。
艶やかな黒髪を靡かせ紅い色を纏う椿さんが、ヒールをカツカツと鳴らしながら歩み寄る。
「あら……早かったのね」
椿さんは驚いた様子ではなく、落ち着いた声で言う。彼女が驚くことは少ない。
途中で買ったのか、紅い林檎を手にしていて、かじりついた。
3メートルほどの距離で、椿さんは足を止める。また一口、林檎をかじった。
紅い瞳はオレを真っ直ぐに見据えている。
息を飲み、オレは緊張に堪えた。隙ができたら――――殺られる。
「!!」
紅い林檎を顔目掛けて投げ付けてきた。オレはナイフで真っ二つにする。それは、まずい選択だった。
その一瞬で、距離は縮められ、懐に入られる。
下から白銀色の光を放つ短剣が振り上げられた。ソグリと戦慄が走る。それに突き動かされて、ナイフでその短剣を受け止めた。
すると、椿さんの膝がオレの脇腹に食い込んだ。蹴り飛ばされたオレは、ガシャンッと門にぶつかった。
かなりのダメージに、すぐには起き上がれない。だがこんなもの、序の口だ。
「番犬の名が泣くわ」
オレを見下ろして椿さんは言い捨てると、遊の元へ歩み始める。なにをする気なのかと思っていれば、あろうことか椿さんが短剣を振り上げた。
ドンッ!!
途端に響く銃声に震え上がる。発砲者を捜すと、門の中にいた。
カルロだ。遊に向かって銃を向けていたから、ペイント弾を撃ったんだ。遊にペイント弾が当たれば、オレは失格。ロームの婚約者、失格。一瞬絶望に襲われた。
だが、すぐにペイントは遊に当たっていないことに気付く。ペイントは、椿さんの足元を汚している。
安堵した。椿さんが叩き落とすために、短剣を振り上げたのだ。
厳しくとも、椿さんはオレの恋を応援してくれている。ロームと再会したら、必ず会わせろと言うくらいだ。
「ちょっと、なにするんですかー? ミスキャット」
カルロは苦笑を溢しながらも、門を開けた。
「それ、レネメンの玩具じゃない」
「あ。はい。彼の作品ですよ」
「へぇー?」
会話をしながら椿さんがカルロに近付いたかと思えば、首目掛けて短剣が振り上げられる。間一髪、カルロは仰け反り後退した。
「えっと……何事ですか?」
笑みをひきつりながらも、カルロは椿さんの攻撃の理由を問う。
「おや。遊びに来てくれたのかい? 黒猫さん」
騒ぎを聞き付けたのか、玄関からボスが出てきて歩み寄った。椿さんがボスに対して怒っていることも知らず、いつもの優しい微笑を向ける。
「ボス!! お逃げください!!」
オレは門に手をつきながらも立ち上がり、声を張り上げた。
ダメージに堪えながら、椿さんが行く前に止めようと踏み出す。しかし、椿さんがプッシュダガーを投げてきて、オレの動きを封じた。プッシュダガーはオレの上着を地面に突き刺し磔にする。
ほぼ同時に椿さんは身を屈めて、横から蹴ってカルロの足を崩した。
カルロを突破して、椿さんがボスに向かう。
オレは上着を脱いで、椿さんを追い掛けようとした。
「えっ!?」
驚いたことに膝をついたカルロが、こっちに銃を向けてきた。銃口の先は、遊。
咄嗟にオレは遊の盾になる。
困惑した。ボスを放っておいて、遊に銃口を向けるのは、何故なんだ。
オレにボスか、遊かを、選ばせているのか? これも試練なのか?
「まぁ……見てろって」
カルロは笑って、ウィンクした。見ていろって……ボスと椿さんを?
既にボスと椿さんの戦いが始まっていた。
ボスはカルロが普段持ち歩いている刀を抜いて、短剣を叩き付ける椿さんの攻撃を防いでいる。
オレは後ろをちらっと振り向いた。遊はカルロを全く気にしていない。椿さんに夢中のようだ。
しなやかだが素早く鋭い斬撃を繰り広げる椿さんは、リーチの長い刀の攻撃を避ける。攻撃が多い椿さんの方が押しているように見えたが、ボスは余裕の表情だ。
「私は、君になにかしてしまったのだろうか?」
「アンタがいい父親だと勝手に思い込んでた。4年前、助けるんじゃなかったわ」
「……」
刃が弾き合う音が響き合う中、椿さんが冷たく吐き捨てると、ボスは少し微笑みを薄めた。
一体、何の話だろうか。
遊の手を掴んで、カルロを強行突破しようと考えた。遊か、ボスか。その選択を突き付けられたなら、両方を選ぶ。それがオレの答えだ。
「!」
しかし、椿さんがピタリと動きを止めた。それでもボスを冷たく見据えている。
ボスもまた、刀を構えたまま。椿さんを目の前にして、隙など見せられない。
何故椿さんが止まったか、理由はすぐにわかった。玄関の扉の元に、狙撃銃を構えたダンがいる。椿さんに狙いを定めていた。
ダンは本気だ。ボスに刃を振るう椿さんが動けば撃つ気でいる。
だからこそ、椿さんは動きを止めた。しかし、気が向けば動く。そういう人だ。椿さんにとって、スナイパーの弾丸など脅威ではない。そういう人なんだ。
仕留められない。
そう誰よりも痛感しているダンの顔色が悪くなったのが、オレの目にもよく見えた。椿さんが一瞥して威圧したんだ。
撃てるものなら撃ってみろ。その時は、覚悟できているな?
そんな挑発的な威圧感。
オレなら手元が震える。今も息を呑んでしまう。しかしダンは銃使いのプライドで、堪えていた。
カルロもそれを見ている。絶好の隙。オレは遊の手を引いて、カルロに駆け寄った。そして銃身を真っ二つにする。カルロを突破。
「椿さん! 気は済みましたかっ?」
ボスと遊を背にして間に立つオレは、椿さんに問う。暴れて、苛立ちを晴らしたのか。
「……ええ」
ボスを紅い瞳で一瞥したあと、椿さんはにこりと微笑んだ。鼠を弄んだ上機嫌な猫のようで、ぞくりと悪寒が走る。
ボスを振り返ると、薄い笑みで俯いていた。
「話があるわ、シリウス」
「わかったよ……どうぞ、中へ」
椿さんは何事もなかったかのように、武器をしまって告げる。ボスはダンに武器を下ろすようにと手を上げて見せてから、玄関へと案内した。
武器を下ろしたダンは気に入らなそうに、椿さんをじとりと睨む。椿さんはしれっとした顔で横切って、ボスに続いた。
一先ず、一件落着して、オレは胸を撫で下ろす。
「ぶっちゃけ、お姉さんとアンタのボス。どっち強いの?」
オレが握る手を揺らして、遊がそんなことを訊いてきた。
どっちって、問われても……。基準がわからない。
椿さんはナイフ使い。俊敏で、鋭い刃を振るう。
ボスはファミリーのために刃を振るう人だ。強いとオレは思っているが、椿さんとボスが本気の殺し合いをするとしたのなら。
勝つのは――――椿さんだ。
「はぁ……素敵だなぁ……」
椿さんの強さと美しさに酔いしれた様子の遊は、恍惚とした表情で溜め息をつく。
「何の話かな」
二人の話を聞くために遊が追い掛けるから、まだ手を握るオレも引っ張られるように玄関の階段へ登る。
「(ちっ……怪物め)」
ダンが舌打ちをして吐き捨てた。
それに遊が反応する。
「モンスターとは失礼だな、あんな美女に向かって」
英語を話さなくともなんとなく理解している遊は批難した。
「(裏現実を知れば、誰だってあの女が怪物だと理解する)」
ダンは吐き捨てて、先に中へ入る。
遊は気に入らなそうにしかめっ面をしたが、ボスと椿さんの元へ足を進めた。
遊には悪いが、ダンと同じ意見だ。ダンと同じ嫌悪感を抱いているわけではないが。
椿さんは――――モンスターだ。
オレは止めたが、遊は辿り着いたボスの部屋を開けてしまう。
「つまり君は、四年前の生き残りがいると言うのかい?」
遊が扉を開けるとほぼ同時に、ボスが口にした言葉に、戦慄が走った。
20141217




