10 五日目
朝陽で目が覚める。
わざとカーテンが開かれた窓を目を細めて見つめて、ハッとした。
起き上がってみれば、ソファーからベッドに横たわる遊が見える。
昨夜もまた遊の部屋に眠ったが、今日はオレが先に起きた。
オレは使っていた毛布を畳んでから、遊にそっと近付く。
「遊、朝だ」
声をかけたが、背を向けている遊は反応しない。
声をかけるだけで目覚めるはずなのに……。
具合でも悪いのかと心配になり、ベッドに乗って顔を覗こうとした。
すると遊の右手が上がり、危うく平手を食らうところだった。
「う、さい……」
「遊、具合が悪いのか?」
「……んー」
遊は不機嫌そうに呻いて手を振る。オレを追い払いたいらしい。
「じゃあ、眠っていていい。オレは着替えてくる」
低血圧で不調のようだからそのまま横になるように言い、オレは部屋に戻った。
今日も邸宅で過ごした方がいいかもしれない。ビーチに案内する予定だったが、体調が優先だ。
すぐに支度を済ませて、遊の部屋に戻る。支度を手伝おうとしたが、既にベッドの上は整えられていた。
着替えた遊はソファーの隅に座り、頬杖をついてぼんやりとしている。
「遊、具合は?」
「……」
オレの質問に、遊は手を振るだけ。
この数日でわかったが、遊は不機嫌な時は黙り込む癖がある。今は体調不良による苛立ちと怠さが原因だろう。
「朝食は運ばせるよ」
そう言えば、遊はオレに黒い瞳を向けて頷いた。
リキに運んでもらい、オレも一緒にそこで朝食をとる。食べ終えて薬を飲んだ遊はずっと黙ってソファーに身を沈めていた。
他にやることないオレはリキに任せていた仕事の確認をしながら、遊のそばにいた。
カルロも仕掛けてこないく、とても静かな午前だった。
ゆったりと、時間が穏やかに過ぎていくのを感じる。こんな風に静かに過ごすのもいい、と思えた。
十二時になれば、リキがランチを運んできてくれて、三人で食べた。
「具合はどうですか? 遊さん」
「ん、平気」
リキが問うと、遊がまだ気だるそうな声だったがちゃんと答える。
「じゃあビーチに行きますか!?」
今日の予定を知っているリキがビーチの件を話した。この様子なら、遊はビーチで楽しめそうにないだろう。
「ビーチ、ねぇ……?」
少し考えるようにソファーで頬杖をつくと、遊は食器を片付ける俺に目を向けた。
じっと見つめると、やがて言う。
「アンタが泳ぐなら行くけど」
「いや、オレは泳がないぞ」
何故かオレが泳ぐことを求めてきた。護衛が仕事のオレは、泳がないと言うと不満ありげに見上げてきた。
「あ、もしかして、遊さんったら泳げないんでしょー?」
リキが冗談を言う。
ああ、誤魔化すように言ってきたのかと解釈したが。
「ど阿呆、誰にものを言ってるんだ」
「(かっこよすぎる!!)」
頬杖をついたままリキを見下して言い放つ遊が否定。
不機嫌を引き摺った遊のそんな姿を見て、リキは胸を押さえて英語で褒めた。
「二人こそ、泳げないんじゃないの? 犬かきできる?」
「まさかの犬扱い!?」
疑いの眼差しを向けながら、遊は問う。
「いや、泳げるが、護衛の仕事中だから」
「確か、プールあったよな。プールで泳いでみてよ」
「いや、だからオレは……」
遊は泳げることを証明しろと言わんばかりに、オレの腕を掴むと敷地内にあるプールへ向かった。
「ビーチで泳がないか?」
「人ごみ嫌い」
「ヴォルフ家が所有しているビーチだ。他に人はいないし、綺麗だぞ」
天気もいいし、景色だけでも楽しめるビーチに行くことを勧めるが、遊はプールへ向かう足を止めない。
「あんまりギラギラしてたら頭痛がするから、元気な時に案内して」
そう言われては仕方ない。
眩しいプライベートビーチは後日に案内することに決めて、裏にあるプールに出た。
広いプールは澄んでいて、キラキラと穏やかな光を反射させる。このプールはあまり使われていないから、誰もいなかった。
プールに来たが、オレは泳ぐ気はない。オレは遊に目を向けた。
「……脱げ」
「えっ!?」
同じく見ていた遊から、泳ぐために脱ぐように要求される。
ぎょっとしていれば、遊がオレの背広を掴んだ。脱がされまいと後退りするが、遊は迫る。
どんどんと下がれば、プールサイドに置かれた椅子にぶつかり、オレはそこに倒れ込む。遊は躊躇なくオレの上に跨がった。
「ちょ、遊!!?」
火がついたように顔が熱くなる。
「しー」
遊はオレの唇に人差し指を押し付けて黙らせた。オレはもうなすすべがなくなり、固まってしまう。
Yシャツのボタンを外していく遊から、目が放せない。垂れる黒髪の隙間から見える黒い瞳は、オレのYシャツを見つめている。
バクバク、と心臓が暴れていた。こんなにも近くにいる遊に、聞こえている気がしてしまう。
「何やってんだ?」
声がして、遊が振り返った。
プールサイドに出てきたのは、リキが連れてきたらしいトミーとディカがそこにいる。リキは真っ赤な顔を両手で隠して立ち尽くしていた。
呆れたような眼差しにオレは動揺する。
「脱がせて泳がせる」
遊は簡潔にオレの服を脱がしている理由を答えた。
「ゆ、ゆ、遊っ!」
部下の手前でこのままではいけないと、オレは遊の腰を持って下ろしたあと、直ぐ様離れる。
ディカもトミーも、ニヤニヤと口元を緩ませてオレを見た。居心地が悪い。
「遊さんがヴォルの泳ぎをご所望だ。見せてやれよ」
トミーに腕でつつかれた。
「オレは、護衛中だ。泳がない」
オレはYシャツのボタンをかけ直しながら、きっぱりと意思を示す。
すると、トミーがオレの肩に腕を回してきた。なにかとオレより背の高い見上げる。
ニカッと白い歯を見せ付けて、トミーが笑いかけたかと思いきや……。
グイッ!!
トミーがオレに腕を回したままプールに飛び込んだため、必然的にオレは巻き添えで水面を突き破り沈むはめになる。
春の冷たいプールの中をもがいて、顔を出す。
「ぷはっ! なにをする!?」
顔に貼り付く髪を退かして、トミーを探すと。
「ひゃっほー!!」
ディカが雄叫びを上げて、リキを巻き込んで飛び込んできたから、飛沫を被り周りが見えなくなった。
顔を覆う水を振り払い、息を吸い込む。
「あっはっははっ!」
笑い声を耳にする。女性だ。
プールサイドには遊しかいないから、間違いなく遊の笑い声だ。
遊を探そうとしたのだが、トミーかディカがオレの肩を掴んで沈めてきた。すぐに解放されたオレは噎せながら避難する。
トミーとディカがゲラゲラ笑う声と水が弾く音しか聞こえなくなった。
水を吸い込んだ重い服のまま、プールから上がろうと掴んだ。
縁のはずが、掴んだのは柔らかいものだった。
顔を上げて見ると、遊がそこにいる。いつの間にかプール縁に座り、ニーソを脱いだ素足を入れていたらしい。オレが掴んだのは、遊の左の太股。
きょとんとした遊と、目が合って一瞬固まった。
「ぁうわぁあああっ!!」
「失礼な反応ね」
仰け反ったオレは、またプールの中に沈んだ。
もがいて、もう一度水面から顔を出して、呼吸をする。気管に入ってしまい、暫く噎せた。
「遊さん!! 犬かきできますよ!!」
「まじでやるとか、お前は素直だな」
横でリキが犬かきをすると、遊は感心した声を出す。
服は邪魔だからと、リキ達は服を脱ぎ始める。プールで遊ぶつもりだ。
呆れながらも今度は遊に触れないようにプールから出ようとしたが、先にディカが遊の元に向かった。
「遊さんも泳げよ!」
遊もプールに引きずり込もうと手を伸ばす。それはだめだとオレが阻止する前に。
「溺死したいの?」
遊は凍てついた眼差しで見下して言い放つ。
冗談だとは思えないその眼差しを向けられたディカも、見ていたリキも、青ざめて身を引いた。
遊にその手のいたずらが実行されなかったことに安堵する。
遊がプールにダイブすることも、誰かが遊の仕返しをされることも、両方不安だ。
「よっしゃー! じゃあ競争するか!!」
トミーが言い出した。
「わたしが審判する」
遊は乗り気で手を振る。
「いや、オレは……ちょ!?」
「泳ぐぜ!!」
またもや、トミーはオレを掴んだ。
遊から離れている隙に、カルロが仕掛けてきたら守れない。試練失格だ。
トミーの手を避けて、遊の元に泳ぐ。
「逃げんなヴォル! かっこいいところを見せろよ!」
今度はディカに捕まってしまう。プールの中で取っ組み合いをする羽目になった。
「おい、怒るぞっ!!」
いい加減にしろと怒鳴ったが、水をぶっかけられて掻き消される。
水のせいで視界が悪い。ゲラゲラと面白がって笑うディカとトミーの声が水飛沫とともに聞こえる。
「あははっ!」
また遊の笑い声も聞こえてきた。
べったりと貼り付いた髪を退かして遊を見てれば、彼女の笑顔は見えない。お腹を押さえて寝転がってしまったせいだ。
足をバタバタと揺らして飛沫を上げている。
どんな顔で、笑っているのだろうか。
弾んだ声を響かせる遊が気になり、オレは向かおうとした。
しかし、リカメン達が飛び込んできて、また水飛沫を浴びるはめとなる。
何故……みな飛び込むんだ。
「!」
リカメン達と一緒にボスも来たらしい。
寝転がっている遊に、ボスは歩み寄ってなにかを話し掛けていた。
まだ引き留めようとするディカとトミーに、仕返しとして頭を掴んで沈める。
いい加減にしてくれ!
「ボス!」
泳いで遊の隣からプールから這い出る。すると寝転がっている遊が起き上がった。いつの間にか、眼鏡をかけている。
「ちょっと、服が濡れるから離れてよ」とオレが近付くことを嫌がるものだから、ショックを受けた。
「楽しそうだね、ヴォル」
「す、すみません……」
部下の悪ふさげに巻き込まれたとは言えず、ただ笑いかけるボスに謝罪する。
それから遊がぐったりしていることに気付く。
サングラスで表情は読みにくいが、俯いた様子からまた体調が悪くなったみたいだ。
「大丈夫か? 遊」
「ん」
コクリと首を縦に揺らすが、あまりよくないようだ。
「お抱えの医者は今休暇中だから、病院に連れていってあげてくれ、ヴォル。一度診察してもらうべきだ」
ボスから指示されたのならば、遊が嫌がっても連れていくしかない。
「わかりました」と頷いてオレはYシャツのボタンを外す。先ずは着替えないと。
すると遊はサングラスをずらして、オレを見上げてきた。
射抜くその視線に落ち着けなくなり、オレは脱ぐことを中断する。そうしたら、遊に舌打ちされてしまった。
「ふふっ」
それが可笑しかったらしく、ボスが拳で口元を押さえて吹き出す。
ボスの笑顔を見て、オレは遊に目を戻す。遊もボスを見ていた。
彼女はさっき、どんな顔で笑い声を響かせていたのだろうか……。
笑い声を上げる姿も想像が難しく、オレには想像できなかった。
着替えたあと、オレが車を運転して近くの病院に遊を連れていった。
「病院って嫌いなのよね」
遊はボソリと呟く。
力なく診察待ちの椅子に座っていたが、やがて立ち上がった。
「お手洗い行ってくる」
「あ、ああ」
歩き出す遊の後ろをついていって、入り口で待とうとした時だ。
「!?」
寒気が鋭利なナイフのように、背筋を突き刺してきた。
戦慄する気配を、そこに感じる。
周りを見たが、清潔が保たれた廊下は人気はなくなり静寂だ。
その気配の持ち主は見付けられない。
浴びた血がこびりついたような匂いが鼻にツンと来る。
間違いない。
ここに"裏の者"がいる。
それも、身を隠すことが上手い手練れ。殺し屋か?
しかし、何故今いきなり気配がしたのだろう。注意深く周りを見ながら、考えた。
気配も上手く隠せるはずなのに、まるでわざと存在を明かしてきたように思える。
そう、まるで。
オレの注意を引くためのようで――――。
罠だっ!!
オレは咄嗟に先に行ってしまった遊の身を案じた。
オレを足止めして、遊を狙う算段。そう推測した。
「ハァイ」
「!?」
真後ろから聞こえた声は、静かにオレの耳に落ちてくる。
振り返る前に、口を押さえ付けられた。すぐに懐のナイフを取り出そうとしたのだが、それよりも先に首に注射を刺されてしまう。
チクリと痛みが走るなり、身体から力が抜けて、視界が霞んだ。
「坊や」
最後に耳に吹き掛けられたのは、甘い甘い囁き。
意識を手放す前に見えたのは、確かに――――紅だった。
◆◇◇◇◇◆
「あれ?」
遊はお手洗いの入り口にも、診察の待ちの椅子にも、ヴォルの姿を見付けられず首を傾げた。
〔月島遊さん。診察室Bへどうぞ〕
そこでアナウンスを聞く。
日本語のアナウンスに疑問を持ちながら、遊は一人で診察室へ向かった。
中に入ると、丁度医者が診察用のベッドのカーテンを閉めているところだった。
医者は赤いヒールでカツカツと歩くとパイプ椅子に腰を下ろす。
白衣の下は、ワインレッドのブラウスとタイトスカート。足を組んで遊に笑いかける女性の瞳も、紅い。
右手には注射器があり、くるりと長い指の間で回されていた。
「こんにちは」
日本語で挨拶する彼女を見て、遊が思ったことはたった一つ。
絶世の美女の診察だ、ラッキー!
20141013




