09
その後、ライナルトはすぐに出立することとなった。
昼食でも、と言うシャレルの誘いも断り、ライナルトは愛馬に跨った。
随分とゆっくり過ごしてしまった。アイリーンといると何だか楽しくてつい、時間を忘れてしまう。だが、そろそろ帰らなくては父や城の者たちも心配するだろう。
「では、屋敷の返還につきましては後日、何人か人を派遣します。爵位の返還についても手続きを進めておきます」
エルフィードが仕事に出てしまった為、見送りに出ているのはアイリーンとシャレルだけだ。ライナルトは今後の予定を淡々と見送りに出てくれていたシャレルに向かって述べた。
シャレルは了承の意を伝える代わりに頭を下げるだけだった。それを見、ライナルトは一つ微笑んでから手綱を引く。
馬の向きを変え、シャレルたちに背を向ける。
その瞬間、目の端にアイリーンを捉えた。
シャレルの後ろに隠れるようにして静かに佇み、少し沈んだ顔でライナルトを見ようともしないアイリーンだったが…ライナルトが背を向ける一瞬、アイリーンは顔を上げてライナルトを見ていた。
一瞬だけ視線が絡まったような気がする。
アイリーンが別れの挨拶を、と思っても…ライナルトは背を向けて馬を歩かせ始めていた。
遅すぎた。
せめて一言ぐらい…声をかけるべきだった。後悔の念を抱きつつ、アイリーンはその場で項垂れるしかなかった。
もう、二度と会うことは無いだろう。気まぐれでからかわれただけだ。
二度と、会いたくは無い。またこんな風にからかわれ、遊ばれるなんて御免だ。
そう思いながらも、胸には一抹の寂しさが残る。会いたくない、そう思うのは…今度会ってしまえば、もっと離れがたくなるからだ。
随分な無礼を働いたし、酷いことをしたのに、ライナルトは怒りもせず、楽しそうに微笑んでいた。
からかわれているだけだ、そう分かっていながらも、彼の言葉にひどく心が揺れた。
本当なら。私が初めてキスしたいと思える女性だという言葉が本当なら…
どれほど嬉しいだろうか。
はあ、と溜息をつき、アイリーンがゆっくりと踵を返そうとした時だった。
「アイリーン!」
遠ざかっていた馬の蹄が再び近くなり…振り向けば、そこには先ほどからずっと思っていた人物が佇んでいた。
後悔が驚きと喜びに変わる。
「…ライ、ナルト」
「アイリーン、これを受け取って」
あと数歩のその距離を、ライナルトはそれ以上縮めることは無かった。
変わりに持っていた何かをアイリーンに向かって投げてきた。
「え、な、なに…?!」
キラリと光る何かを、アイリーンは慌てて手で追いかける。
そっと手の平の中に閉じ込めたそれは、小さな銀色のボタンだった。
「……ボタン?」
「覚えておいて。また、会う日まで」
ライナルトが微笑み、再び手綱を握った。アイリーンが声をかける前に、ライナルトは馬を走らせた。
アイリーンは去っていくその背中を何も声を掛けることが出来ないまま、見送った。見えなくなっていくライナルトの姿に、ほんの少しの切なさを感じながら。
「…また会う日って、ばかみたい」
もう、会うことは無いだろう。王子なんて立場の人物が、こんな田舎をうろうろして良い筈が無い。
そう思いながら、アイリーンはそっと手の中にあるボタンを見つめた。
銀色に輝くボタンには、美しい文様が刻まれている。
「お母さん、これ…何だと思う?」
少し後ろで黙って佇んでいたシャレルに、アイリーンがボタンを見せた。それを見たシャレルは薄っすらと笑みを浮かべた。
「ラベルト王家は、そうやってボタンを渡すのが慣わしなのかしらね」
かつて、シャレルも同じようにライナルトの父からボタンを手渡されたことがあった。ラベルト王族が着る服の袖には、各々、個人の紋章が刻まれているボタンがついている。
ライナルトの格好は庶民のもので、銀のボタンなど、袖にはついていなかった。ポケットにでも入れていたのか、ローブにでもついていたのか。そこまで分からなかったが、そのボタンに込められた意味を思い、シャレルは懐かしむような微笑を浮かべた。
「昔、ライナルト殿下のお父様…国王陛下に、ボタンを貰ったことがあるの。ラベルト王族は、そのボタンを約束の証として贈るのかしらね」
「お母さんが…陛下に貰ったの?約束、って何を約束したの?」
「昔の話よ。また会いたいと言われただけで、ね。それよりも、アイリーンはどうなの?」
「どうって…?」
「ライナルト殿下のことよ」
ふふ、と楽しそうにシャレルが微笑んだ。アイリーンは複雑そうな表情で黙って手の中のボタンを見つめた。
「…王子様の考えてることは分からないわ」
振り回されてばかりで。
今日一日でどれほど感情を左右されたことか分からない。怒ったり、落ち込んだり、切なくなったり、悲しくなったり。
「…良い感情なんて、一つも持てなかった」
どれも苦しい気持ちばかりだ。ライナルトが与えてくれたのは、良い感情なんかじゃなかった。
ただ、最後にボタンを渡してくれた時だけは、少しだけ嬉しいという感情を持てたのかもしれない。
「恋ね」
そんなアイリーンの様子を見て、満面の笑みでシャレルが呟く。
「…違うと思うけど」
「あら、そうかしら」
「恋って、お父さんとお母さんみたいなことを言うんでしょ?」
幸せそうに互いを見て微笑みあうような、それが恋ではないのか。ずっと仲が良い父と母を見てきたアイリーンにとって、恋というものは、父や母のような関係で生まれるものだと思っていた。
そして、それはとても心が躍るような楽しいものなのだと、そう思っていた。
「そうね。でも、お母さんもお父さんのことで随分苦しんだし、泣いたのよ。お父さんもね」
「…私、ライナルトのことで泣いたり苦しんだりはしたくない」
父も、母も悩んで苦しんだことがあったのかもしれない。それは互いを思っているからだろう。
きっと、ライナルトと自分では、悩むのも苦しむのも…自分ひとりだけだ。
だからこそ、アイリーンはライナルトのことで苦しんだりしたくは無いと思った。
ライナルトは何も思っていないのだろうから。
「素直なのね」
楽しそうにシャレルが笑う。
その隣で、アイリーンは相変わらず複雑そうな表情を浮かべていた。