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08



 長い沈黙の後、外が俄かに騒がしくなってきた。

 馬の蹄の音、バタバタと騒がしい足音。


「…離して」

「どうして」

「お母さんが、帰ってきたから」


 勢い良く手を引っ込めようとしたアイリーンだったが、ライナルトはまだその手を離そうとはしない。


「お母様に見られると困る?」

「困るに決まっているわ。だから離して」

「アイリーン、俺は本気だから」


 名残惜しいと言わんばかりに、指先まで、その柔らかく小さな手の形を確かめるかのようにそっと包み込むように最後にもう一度握り締め、ライナルトはアイリーンの手を離した。


 アイリーンはあからさまに安堵した表情を浮かべ、薬を持ち、すぐに立ち上がり、その場から一歩離れた。

 ライナルトが今まで出会った女性たちは、ダンスの終わり際、手を離す時…皆、寂しそうな表情を浮かべるものだ。また踊って下さいませ、という言葉に微笑み返せば、一様に嬉しそうに頬を赤らめる。

 こんな風に、離れることに安堵した表情を浮かべた女性なんて、今まで一人もいない。


 最初は新鮮だった。

 今までの女性と何もかもが違う。その反応が面白い、と。


 だが、今のアイリーンの表情も行動も…ライナルトは面白いと思えなかった。ただ、ちくりと胸が痛むような感覚を覚えた。


「……アイリーン」


 いつもと逆だ。

 離れていく相手を寂しいと思うのは、いつだって女性側だった。自分は思ったことなどない。

 再び手を伸ばそうとするが、アイリーンはライナルトに背を向け、扉の方へと駆けて行ってしまった。








 医師の診断は表面の皮膚が少し赤くなる程度の、大した火傷では無い、とのことだった。

 見た限り大した火傷では無かったし、そりゃそうだろうと思いつつ、ライナルトはわざわざ医師まで呼んでくれたシャレルに礼を述べた。


「いえ、本当に…娘が無礼ばかりで」

「そんなことはありません。驚かせてしまった私にも非はあります。ところで……」


 居間の隅で何か話しているシャレルとライナルトを、アイリーンは台所から眺めていた。

 この位置からでは何を話しているかなんて分からない。


 はあ、と溜息をつき、アイリーンは洗い終えた皿を拭き始めた。


 生まれてからずっとこの田舎街の湖畔の家で暮らしてきた。

 父が昔は王城の騎士で、広いお屋敷に住む男爵だったことも、母がラベルトによって滅ぼされたベリアルの王族だったことも知っている。だが、それも昔の話で、自分が育ってきた環境は庶民そのもの。


 貴族の煌びやかな世界や、王子様や貴族という存在に憧れることなんて無かった。別の世界のお話だ、と思っていたから。


 それでも、目の前に現れた王子様という存在、ライナルトは鮮烈な印象を与えた。


 服装こそ一般的なものだったが、纏っている雰囲気が全く普通のものでは無かった。

 ブロンズ色の髪はとてもキラキラと輝いていたし、深い緑色の瞳は宝石のようだ。歩き方一つを取っても、優雅で堂々としていた。

微笑みかけたれた時、きっと街の娘たちなら黄色い声を上げるだろう、と思った。

 だからこそ、違和感の塊でしかなかったのだ。


 ライナルトという存在は、こんな田舎の、湖畔の家を訪ねてくるような人物じゃない。


 そして、自分のような田舎娘を相手にするような人物でも、無い。

 面白いから…珍しいから、だからからかってくるのだろう。


 本気にしては駄目。

 あれはただの遊びなんだわ。


 そう考えるしかない。いや、それが事実なのだ。


 その「事実」は、アイリーンの胸を少しだけ締め付けた。



 はあ、と溜息をつき、洗った皿を全て拭き終えたアイリーンは、一枚一枚、棚へと皿を戻していく。



「アイリーン」


 黙々と棚へ皿を戻していたアイリーンの元へ、シャレルが駆け寄ってきた。


「お母さん…どうかしたの?」

「あのね、ライナルト殿下が…あなたに行儀見習いとして、王城で働かないかって提案して下さったの」

「王城で…?」

「爵位の返還を受けたのだから、今後、あなたにも男爵令嬢として色々と学ぶ機会も必要じゃないかって」


 困惑の表情でシャレルがそう告げた。先ほど何か話していたのは、このことだったのだろう。


 アイリーンがちらりとライナルトの方に目を遣ると、ライナルトもそれに気付いたようで、にっこりと微笑みで返してきた。それを見たアイリーンの表情が再び曇った。


「……私は、今までの暮らしでいい。男爵令嬢なんて肩書きはいらない」


 これ以上、ライナルトのお遊びに付き合うことは出来ない。

 きっと、苦しむのは自分だけだと、アイリーンは理解していたからだ。


「そうね。いきなりだものね。アイリーンが嫌なら、無理しなくてもいいわ」

「ごめんね、お母さん」

「謝ることなんて何も無いのよ。ライナルト殿下には伝えておくわ」


 再びライナルトの元へと戻ったシャレルは、娘の意向を伝える。

 先ほどまで微笑を湛えていたライナルトだったが……それを聞いた瞬間、微笑は消えてしまっていた。自分の方を向いたライナルトの視線から逃れるように、アイリーンは慌てて棚の影にその身を隠す。


 何だか気まずくて、アイリーンはライナルトの顔を見ることが出来なかった。



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