05
家の中の騒がしさが無くなったのを見計らって、アイリーンはこっそりと部屋を出てきた。
「あら、アイリーン。もう、ライナルト王子を引っ叩くなんて。本当なら、不敬罪で牢獄に入ることになるようなことなのよ。ライナルト王子が許してくれたから良かったようなもので…後でちゃんと謝るのよ?」
困った顔で母がそう言ったのを、アイリーンは複雑な表情で頷いた。
「それでね…ライナルト王子の申し入れを受けることにしたのよ。爵位の返還と、屋敷の返還」
「…そう」
「別に何も変わらないけどね。でも…あの思い出が詰まった屋敷にまた入れるかと思うと…少し嬉しいわ」
「…良かったね。お母さん」
にこり、と微笑む母を見て、アイリーンはどうでも良かったことがちょっとした幸せにも思えた。
「それより、あなたの為にってライナルト王子が…」
その言葉が終わる前に、アイリーンは家を飛び出していた。
向かう先は、家の前の湖。
そこに座り込むライナルトの姿を見て、アイリーンは青ざめた。
「あ、アイリーン」
「私の下着!!!」
「そうそう。さっきのお詫びに洗濯をと思ってね」
「変態っ!」
自分の下着を洗うライナルトを、アイリーンは力いっぱい突き飛ばした。
ライナルトはそのまま、湖の中にまっさかさまに落ちた。
「娘の無礼をお詫び致します」
同じことを数刻前に言われた。
ライナルトは、濡れた体をタオルで包みながら、目の前で頭を下げるシャレルに微笑みかけた。
「勝手なことをしたのは私ですから」
「いえ…本当に二度も無礼を働いてしまって…うちの娘は…」
「構いませんよ」
生まれて初めて洗濯というものをした。可愛らしい下着があって、アイリーンのかな?なんて思いながら洗っていたら怒られた。
しかも湖に突き落とされた。それも生まれて初めてだ。
アイリーンと出会ってから、新鮮なことが多々起こる。
それが今は楽しくて仕方が無い。
アイリーンといると、予想出来ないことが起こるのだ。
「…はい」
ぶすっとした顔でアイリーンが湯気が立つカップを差し出してきた。その姿にライナルトは自然と顔が綻んだが、母・シャレルは溜息を漏らした。
「アイリーン、あなたね…」
「分かってる。私が悪いの」
「…分かって無いわ」
母に怒られ、アイリーンの顔は今まで見た中で一番、傷ついている。可哀相に、とライナルトはまた無意識にアイリーンに手を伸ばしていた。
その頬を優しく包み込み、そっと髪に口付けをした…
ところで、アイリーンが勢い良くライナルトを突き飛ばした。
その勢いのまま…机の角で背中を強打し、床に倒れ込んだライナルトの腹の上には、机から転がり落ちたカップに入った熱湯が降り注いだ。
「あ、っつ…!!」
その様にシャレルは悲鳴を上げ、アイリーンは口を押さえて立ち尽くした。
シャレルは叱るよりも先に、ライナルトが火傷した場所を冷やし、薬を塗るようにアイリーンに指示をした。
「お医者様を呼んでくるわ」
大した火傷じゃない、幾らライナルトが言っても、シャレルはダメだと首を振った。
万が一のことがあってはいけないから…と先ほどシャレルは慌てて、外へと駆け出してしまい…
家に残されたアイリーンは気まずい雰囲気の中、ライナルトの腹部をそっと濡れたタオルで冷やしていた。
「…アイリーン、ごめんね」
頭を撫でてやると、アイリーンは気まずそうにライナルトを見た。
「痛い?」
「そんなに痛くない」
「…ごめんなさい」
「謝らなくていい。俺が…悪いんだよ」
本当に無意識に手を出している。
それがそもそもの原因だ。
アイリーンは悪くない、そう言いながら頭を撫でてやると、アイリーンは少し困った顔で俯いてしまった。
「…ライナルト、王子様なのに…傷跡があるのね」
火傷の部分を冷やしていたタオルを裏返しながら、アイリーンが呟いた。
湖に落ちて、着る物も無くずぶ濡れになった挙句、熱湯を浴びたライナルトは、今、上半身に何も纏っていなかった。この国の王子なのに、ライナルトの体には小さな傷がいくつかあった。
それが不思議だった。
「王子だからね。去年まで騎兵隊に所属していて…その時は結構怪我もした。これぐらい、ちっとも痛く無いよ」
「王子様なのに、そんな怪我して大丈夫なの?今日だって、一人でここまで来たんでしょ?」
最初、王家の紋章が入った剣を見ても、信じられなかったぐらい。
王族がこんな田舎に一人で来るなんて嘘に決まっているとアイリーンは訝しんでいた。
ライナルトが本物の王子と分かり、それと同時に不思議でたまらなかった。
一人でこんな田舎まで来たのかということ、
自分のような田舎娘をからかうこと、
随分な非礼を重ねたにも関わらず、ちっとも怒らないこと。
体の傷だって、そして、騎兵隊に所属していたということも不思議でたまらない。
アイリーンの思っている「王子」というものと、ライナルトはかけ離れていた。だからこそ、本物の王子様だと分かっても…こうやって普通に話せる。ラベルトの王子様なんてものは、遠い雲の上のような存在である筈なのに、目の前のライナルトには親近感が湧いた。
「俺は弟も二人いるし、自由気ままに振舞っても特に咎められないんだよ。騎兵隊に入っていたのも、王族は強くなければならないって祖父の教育方針でね。父も騎兵隊に所属していたんだ」
ライナルトの父は一人息子で、唯一の王位継承者だったから、騎兵隊に所属していたのも数ヶ月だ。
自分のように五年もの間、騎兵隊で過ごすことを許されなかった。祖父の周囲も、父にもしものことがあったら、とかなり神経質になっていたようだ。まだベリアルとの戦で不安定だった時期でもある。
それに比べて、自分は…弟が二人もいる、気ままに行動してもあまり咎められない…むしろ、外を知るのは良いことだ、と言われることもある。
平和な時代だからこそだろうか、随分と好き勝手している気もするが、それでも行動を制限されることもほとんど無い。
逆にこれで大丈夫なのかと思うほどだ。
アイリーンが不思議に思うのも、頷ける、とライナルトは思っていた。