04
「君のお父様に、爵位と屋敷を返還するために」
「…どうして?」
「俺が王太子に就く代わりに、父が出してきた頼みごとだからだよ」
「変なの」
貴族の爵位と、今の家より大きい屋敷を返すと言ったところで、彼女の反応はいまいち良くなかった。さも興味が無いといった風にあしらわれ、ライナルトは拍子抜けした。思っていた反応と違う、と。
王子であるライナルトに、周囲はいつも予想通りの反応を返してくる。
どうせこう言うだろう、こうするだろう、ということをそのまま。彼女の反応は全てそれらに当てはまらなかった。
今、ライナルトは目の前の女性との会話が楽しくて仕方が無い。
「…俺は答えたよ。君の名前は?」
「アイリーン・フェイルよ、王子様」
「アイリーン。可愛い名前だね」
たいていの女性はその言葉で頬を染める。
だが、アイリーンはまたしても異なった。眉を顰め、怪訝そうな顔でライナルトを見てきた。
「…王子様の戯れに付き合ってる暇は無いの。朝ごはん食べないといけないから」
「そ、そう」
王都の女性はこぞってライナルトに近づこうとする。
ライナルトを見る為に、会う為にと、他を犠牲にすることを惜しまない。それは食事の時間であったり、睡眠の時間であったり…自分を美しく着飾る為にお金だって惜しまない。
アイリーンの中では、朝食の方がライナルトよりも上位らしい。
それが可笑しくて、ライナルトは益々、アイリーンと話してみたいと思った。
「ご飯が終わったら、また話してくれる?」
「どうして?父と母に用があるんでしょう?さっさと会えば良いじゃない」
「君と話したい」
「無理よ。ご飯が終わったら、洗濯するの」
洗濯にすら負けるのか、とライナルトは更に可笑しくなった。
「…じゃあ、洗濯を手伝うから。その間は?」
ライナルトの申し入れに、アイリーンは小首を傾げた。全くライナルトが自分なんかと話をしたいと言ってくる理由が分からないようだ。
「手伝ってくれるなら隣で好き勝手話してくれてもいいけど」
「一人で話すなんて寂しいからね。ちゃんと会話してくれる?」
「…あなた、面倒な人ね」
アイリーンは呆れた顔でライナルトにそう言った。
素敵な人と言われても、面倒だと言われたのは人生で初めてだ。ライナルトは笑顔を浮かべて、目の前の女性の頬に触れた。
「可愛いね、アイリーンは」
「…触らないで」
ぺし、と手を跳ね除け、アイリーンは不快感を露にした。
父は初恋の、そのシャレルという女性を口説く時に、「手ごわい」と思ったらしい。ああ、この娘はきっとその母のように手ごわいのだろう、とライナルトは思った。
何だか無性に手に入れたくなる。
気がついた時には、ライナルトはアイリーンを抱き寄せてその唇を奪っていた。
アイリーンに「最低!」と頬を思いっきり叩かれた後、初めて自分の行動を知ったぐらい。
無意識だった。
「娘の無礼をお詫び致します」
勢い良く引っ叩かれ、あたりに響いた「最低!!」という叫びにも似た声。それに驚いたのか、家の中から慌てて人が出て来た。
その人たちが、ライナルトが探していたシャレルとエルフィードだった。
そして今、アイリーンは腹を立てて部屋に閉じこもってしまい…自分の素性を明かしたライナルトにただ、アイリーンの両親、シャレルとエルフィードは深く頭を下げるだけだった。
「いえ、お嬢さんをからかって怒らせたのはこちらですから」
赤く腫れた頬を擦りながら、ライナルトは苦笑いを浮かべる。
何をして、叩かれたか。
それはアイリーンも言わなかった。
だったら、自分が言う必要も無いかな、とライナルトはキスしたことを黙っていた。
「あの子ね、少し自由奔放な子で」
「素直な女性ですよ」
「え、ええ…馬鹿みたいに正直なもので」
誰に似たのかしらね、とシャレルは微笑みながら隣に立つ夫・エルフィードを見た。いい年して二人の間には割って入れないような甘ったるい空気が流れている。
父に報告しよう。
この年になっても駆け落ちしただけあって、二人は仲睦まじく楽しそうに暮らしていた、と。
ライナルトはそう思いながら、一つ咳払いをして二人だけの世界に割って入った。
「それで、私がここに来た理由は…こちらです。この書面をご覧下さい」
筒の中から、一枚の紙を取り出し、ライナルトは二人の前にそれを広げて見せた。
紙に書かれているのは、爵位の返還・屋敷の返還を受けることを承諾して欲しいという内容だ。
それを読み終えた二人は、少し困った顔でお互いを見合っていた。
「どうしましょう…」
「…別に今の生活に、何も困って無いからな」
どちらでもいいんだけど、と言う二人にライナルトはすかさずペンを取り出した。
「じゃあ承諾のサインをして下さい。これは長年の父の悩みだったそうで。あなた方が承諾してくれなければ、私は王太子の地位に就くことが出来ません。それほど、父の悩みは深いものなのです」
ライナルトはどっちでも良いなら、是非とも承諾して欲しいと続けた。
それで父の気が晴れるなら本望だ。と、いうのはちょっとした建前で…
アイリーンを男爵家の娘にすれば、今後も会うことが出来ると思ったからだ。あのつまらない夜会に誘って手取り足取りダンスを教えてあげるのも楽しいだろう。マナーを学ぶ為、と言って侍女として城に住まわせることも出来るかもしれない。
そうしたら、毎日アイリーンに起こして貰いたい。
考えれば考えるほど、ライナルトにとって楽しいことが待ち受けている。
だからこそ、ライナルトは強く承諾して欲しいと二人に迫った。
「じゃあ…国王陛下の心遣いを、承諾させて頂くよ」
エルフィードがペンを受け取り、紙にサインする様をライナルトは黙って眺めた。サインし終えたのを見た時、ライナルトは何だか無性に嬉しい気持ちになった。
「父も喜びます。長年、思い悩んできたことだそうですから。あなた方を不幸にしたかもしれない、と」
綺麗な建前を述べ、ライナルトは再び紙を筒に戻した。
色々と楽しいことが待っている。
ライナルトは柔らかな笑みを浮かべ、二人に一つ礼をした。