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「父上」
昼過ぎに王城へと戻ってきたライナルトは、真っ直ぐ父のいる執務室へと向かった。軽いノックの後、中からの返答を待たずにライナルトは扉を開けた。
父・ヴェスアード国王は机の上に積まれた書類にサインをしながら、隣に立つ宰相ハドリー・レンフェストと何か話していたところだった。
「おや、ライナルト殿下。もうお戻りになられたのですか」
事情を知っているらしいハドリーは笑顔でライナルトを出迎えてくれた。その隣で、父は複雑そうな表情を浮かべ、ライナルトからの返答を待っていた。
「父上、ただいま戻しました」
「…ご苦労だった」
自分の前で頭を下げたライナルトに、ヴェスアードは労いの言葉を投げかけるものの…その後に言葉は続かなかった。
暫く重苦しい沈黙が続いた後、ハドリーが手を叩きながら口を開いた。
「陛下、殿下の功績をお聞きしないのですか?あなた様が尋ねなければ、ライナルト殿下も答えにくいでしょう」
「…それは分かっているのだが」
「大丈夫です。陛下の申し入れを拒否されていようとも、もう20年も前の話。仕方ないじゃないですか」
笑い声交じりでハドリーが言い放つ。
この宰相は言いたいことを言ってくるので、逆に父の緊張を和らげている気がする。悪い場合を想定して、笑いながらずけずけと言い放つ様は、ちょっと恐ろしいと思っていたライナルトだったが…今となっては、父とハドリーとはよくバランスが取れているのではないかと思う。
「…ライナルト、どうだったか?」
覚悟を決めたかのように父が顔を引き締め、ライナルトを見据える。ライナルトは微笑みを浮かべ、父の前へ歩み出た。
「二人はとても幸せそうでしたよ。爵位と屋敷の返還もありがたく受ける、とのことです。陛下のお心遣いに感謝する、と」
筒に入った紙を取り出し、ライナルトは父の机の上にそれを広げて見せた。爵位・屋敷の返還を受けるとのサインがそこには記されていた。
「…これで、肩の荷も降りたよ」
「良かったですね。陛下」
「ああ。ハドリー、手続きを進めてくれ」
「分かりました」
安堵した表情で、父はサインの記された紙をハドリーへと手渡した。これから後の手続きは、ハドリーの手で行われるのだろう。ハドリーのことだ、その手配のほとんどはもう済ませているだろう。
「レンフェスト卿、これは父の初めての頼みごとでありました。私も最後まで、お手伝いしましょう」
明日からすぐに屋敷の返還への手続きと作業が始まるだろう。それを自分も手伝うのだとライナルトは静かに訴えかけた。
嬉しそうに頷く父と、顎に手をあて、一瞬何かを考え込む仕草を見せたハドリーと。ライナルトは貼り付けた笑顔を崩すことなく、二人の反応を待った。
「是非、手伝ってくれ。そうしてくれると私も有り難い」
自分の罪、とも呼ぶべき過去の出来事。それを自分の息子がその手で償うのを手伝ってくれるというなら、これほど嬉しいことはない。ヴェスアードは満面の笑みで頷いた。
「…そうですね。あなた様にも手伝ってもらいましょうか」
ヴェスアードの返答を聞き、ハドリーもその意見に賛成の意を唱えた。
「分かりました。早速ですが、明日から私も引越しの手伝いに向かいましょう」
「いえ、殿下にはもっと…城内で出来る作業をですね…」
ハドリーが手伝って貰おうと思っていたのは、もっと事務的で、城の中で出来る簡単な仕事だった。人員の手配や、進行具合の報告を確認する程度のことを考えていた。
「王太子となれば、簡単に外にも出れなくなるでしょう。今のフェイル家のある田舎町はとても穏やかで良い場所でした。最後の息抜きとしても、私の我がままを許して下さい」
最もな理由を述べ、ライナルトはハドリーに微笑みかけた。柔らかな笑みを浮かべているようで、反論は許さないと言わんばかりの目でハドリーを見据えている。
「…まあ、仕方ありませんね。殿下にも、少し引越しの手伝いをして頂きましょうか」
「ありがとうございます。父上も、賛成して頂けますか?」
ハドリーを説得し終えたライナルトは、その様子を黙って聞いているだけだった父に視線を移した。
「ああ、もちろん」
ヴェスアードは異論を唱えること無く、息子の意思に賛成した。
「父上、レンフェスト卿、明日からのことも任せて下さい。それでは、失礼します」
二人からの賛成を得らえた。
もう十分と、ライナルトは一歩下がり、一礼した。
「任せる」
父の言葉に恭しく頭を下げ、ライナルトは部屋の扉に手をかけた。
パタン、と扉が閉まった音が聞こえたと同時に、ハドリーが小さく溜息を漏らした。
「殿下は何を企んでいるのでしょうね」
「…人聞きの悪いことを。善意だろう、ライナルトなりの」
「殿下の家庭教師はこの私ですよ」
「…なら、何か企んでいるのかもしれない」
ライナルトに幼い頃から様々なことを教えてきたのは、ハドリーだ。思い描いた通りに、言葉巧みに人を動かすことが得意なこの宰相に、ライナルトは教育を受けたのだ。
ヴェスアードが、わざわざライナルトをフェイル夫妻の元へ向かわせたのは、それなりに理由があった。王太子になるにあたって、という条件をつけてまで頼み込んだのは…ライナルトであれば、必ず説得して返還を受けるように事を運んでくれると思ったからだ。
その頼みを口にした時のライナルトは、正直面倒そうだ、というのが顔に表れていた。なのに、帰ってきたら、更に引越しの手伝いをすると言い出したのだ。
何かあるのだろうか。
ヴェスアードは考え込んだ後、ぽつりと呟いた。
「…まさか、シャレル嬢に心を奪われた、とか」
「それは無いでしょう。親子程離れているんですよ。殿下は陛下と違って、相応の女性関係を持ってましたよ。面倒でない女性が好みのようですし、一人の女性に対して、それほどのぼせ上がることも無いでしょう」
ずけずけと言いたいことを言う腹心に、ヴェスアードは溜息を漏らした。
「まあ、そのうち分かるでしょう。殿下の真意というものも」
ヴェスアードの溜息などまるで無視、ハドリーは勝手に自己完結し、机に積まれていた書類の束を手に取った。
そして、その束をそのままヴェスアードの目の前に突きつけた。
話は終わり、仕事をしろ、と言わんばかりの腹心の行動に、ヴェスアードはこめかみを押さえながら、再び溜息をついた。




