第三章
Ⅲ
順一は守に自分の過去を語って聞かせた。その間に、順一は焼酎の水割りを二回おかわりした。その割に順一の顔色や、口調は全く変化を見せなかった。所々つっかえたり、思い出す時間を取ったりすることはあっても、終始冷静に、淡々とした様子で話していた。
「なんていうか、信じられないですね。ジュンさんが、その、女の人を、殴りまくってたなんて」
話を聞いた守が、言葉を選びながら言った。
「でも、全部本当なんだ。事実なんだ。逃げられ、ないんだよ」
順一は息を吐くようにそう言った。だが守には全く信じられなかった。これまで数年来の付き合いから、守は順一が理性的で、穏やかで、明るい人物だということを知っていて、また、守は順一のそういった部分に、憧れと尊敬の念すら抱いていた。その順一が女性に対して暴力を振るうだなんて話は、守には質の悪い冗談にしか聞こえなかった。特に、空手部の出身で、人の拳は凶器であり、うかつに使つことは許されないという不文律を持つ守には、その掟を破り、一方的に暴力を振るう順一の姿は、どれ程詳細に説明されても想像し難いものであった。
「まぁ、ジュンさんがそう言うなら、きっとそうなんでしょう」
守はしぶしぶ認めた。
「うん。だからね、あ、マモルくん、何か頼む? 飲み物」
順一が守に聞いた。守は、水を下さいと言った。順一は店員を呼び、水を二つ頼んだ。そして守に向き直り、話を続けた。
「だからね、俺が彼……、佐々木か、彼を妬ましいと言ったのは、まぁ、もう大体分かるだろう? 彼は昔の俺と同じような状況にいるのに、俺が失くしてしまった物をまだ持っていてさ、それが如何に大事なものであるかも気付かずに、今現在も彼自身の手で壊し続けている。馬鹿だね。馬鹿な奴だよ。失くしてからじゃ遅いというのに。俺はそれが勿体無くてね。余りにも勿体無くて、彼が羨ましくて羨ましくて、仕方が無かった。それで、腹が立ったというわけなんだ。妬んだんだね、要するに。でも……」
そこまで言うと、順一はグラスの底の方に残った焼酎を飲み切り、大きく息を吐き、そして空になったグラスを手でもてあそびながら、馬鹿だよ、本当に馬鹿だと独り言のように呟いた。そんな順一を前に、守は否定も肯定も恐ろしい応えのような気がして、そうだとも、そうではないとも、言うことがきなかった。他に何を言ったらいいのかも、守には分からなかった。
二人で少し黙った後、店員が水を運んできた。受取った水を一口飲んだ後、順一は何か思い出したように、ああ、そうだと言って、財布から一枚の写真を取り出し、守に見せた。
女の子の写真だった。左後方から撮られたものらしく、女の子の肩甲骨から上部が写されている。中学か、高校に通うくらいの幼さの残る女の子で、少しぶかぶかな印象を受ける紺色の制服を着ている。友達とでも話しているのか、横を向き、耳に掛けたショートヘアから柔らかい表情を覗かせている。耳の下辺りにホクロがある。目を瞑り、横顔ではあるものの、目鼻立ちの整った容姿であることは十分に伺える。白い頬としっかりとした黒色の髪のコントラストもまた、彼女の容姿を引き立てている。
「可愛い子ですね」
守は素直な感想を言った。まだまだあどけなさは残るが、将来きっと美人になるだろうと守は思った。
「娘なんだ」
順一は苦笑を浮かべながら言った。
「奥さん……、いえ、綾子さんから連絡が来たんですか?」
美咲と会うためには美咲自身が順一との接触を望まなければならない、そしてその際には綾子から順一に連絡が行く、という取決めを守は思い出していた。
「いや、来ていない。これからも、多分来ないだろうと思う。一生」
順一は言った。それから、全く酷い奴らさと、悪戯っぽく言って笑った。
「じゃあ、これはどうして?」
守が聞く。
「興信所にお願いしたんだよ」
順一は言った。
離婚後の順一は年に一回、興信所にお願いして美咲の写真をこっそり撮ってもらっていた。また、興信所の調査で彼女らの間に起こったことも順一は大まかに知っていた。
綾子は再婚していた。順一との離婚後、彼女は美咲を連れて実家に戻り、そこで半年程休養を取ってから、派遣社員として働きだした。勤め先は彼女の実家近くに立地する、ある企業の研究所であり、そこで事務に携わった。男女のことだ、どんないきさつがあったのかは、順一には分からない。興味もなかった。ただ、一つの結果として彼女が働き出してから三年になろうというときに、彼女はその会社の社員と結婚した。それから地方都市の外れに住居を構え、三人で生活を始めた。綾子の結婚相手は彼女より二つ年下だと興信所の人は言っていた。また、皆さん幸せそうに暮らしていましたよとも、その人は言っていた。実際、順一が見た動画には(それも、興信所の人にお願いしてこっそり撮ってきてもらっていた)、綾子と、それにその結婚相手、そして美咲の三人が、休日にこれから出かけようという所なのか、各自が車に乗り込むシーンで、ごく自然な一つの家族が、ごく自然な姿で映っていた。その動画では、美咲は運転席に座る男性のことをパパと呼んでいた。順一は美咲が自分以外の誰かをパパと呼ぶことに、そしてその自然な口調と陽気な笑顔に、寂しさと同時に、また安心も感じていた。綾子も最後に順一に見せた痛ましい影はすっかり消え、幾分年を取ってはいたものの、以前のように美しい女性に戻っていた。そして、かつては順一に向けていた笑顔を、安らぎを、その男性に向けていた。確かに幸福そうだった。いや、幸福なのだ、彼女達は。順一はそう思った。順一はその男性に目を閉じ、深く深く頭を下げたい気持ちだった。
それから、綾子には息子が、美咲には弟ができた事以外には、彼らの間に特に何も起きなかった。平和に暮らし、平和が続いていると順一は言った。
「この写真は美咲が高校に入ってからのものなんだ。可愛いだろう? 俺の宝物の一つさ」
順一は恥ずかしそうに言った。守にはそれがとても嬉しそうに映った。
「すっかり話し込んでしまったな」
写真を仕舞った後、順一は周囲を見渡しながら言った。既に午前四時半を回り、他の客達の中には、席にうつ伏せになり、眠っているものもちらほらと見える。
「帰ろうか」
順一がそう言うと、守はそうですねと言って立ち上がった。順一は伝票を持ってレジまで行き、会計を一人で全て支払った。自分もお金を出しますという守に、順一は、迷惑を掛けた詫びと、遅くまで付き合ってくれた礼に、自分に奢らせて欲しいと言い張った。守は、ご馳走様ですといい、順一と一緒に店を出た。二人はそこで別れた。
夏祭り、夜店の立ち並ぶ喧騒の中、浮かない顔して祭りの会場にいる者など、そうそういはしない。客に限らず、屋台に立つ者に限らず、皆が皆、陽気に立ち振る舞うのが自然なのである。
祭りは活況である。夜にその県域では最も有名な花火大会が開催されるからだろう、露店の前を行き交う人の多さも、その興奮も、実に見事である。ただ、順一のたい焼き屋は、時代遅れになりつつあるのか、相変わらずの客の入りで、無関心に目の前を通り過ぎる人々の多さに、順一も苦笑を漏らさずにはいられない。
夕方になり、太陽は商店街の陰にそっと隠れ、その緩やかな光で一日の終わりを皆に知らせる。気温が幾分か下がり、時折頬を撫でていく風に人々は一時の涼を取る。ざわめきがあちこちで湧き上がり、しかしそれが不快ではなく、遠くからごく偶に聞こえてくる風鈴の音も心地よく、また、耳に涼しい。部活にバイトに汗を流していた少年少女達が、集団で祭りに駆け出して来る。自分の体臭を気にしながらも、その夜の特別な思い出を、特別な何かを期待し、心はやらせているところも、また可愛い。大人も大人で、日中は眉間にしわ寄せ、厳めしく仕事をしていても、終業時間になればデスクを片付け、大人の仮面を脱ぎ去り、興奮と熱狂の渦の中に自ら勇み加わっていく。
祭りはそんな何もかもを受け入れ、人々のドラマを大きくしていく。祭りとは元来そうゆうものである。もちろん、その中にいる順一と守も例外ではない。
「ジュンさん、すいません、俺ちょっと油買ってきますんで、店見ててもらえませんか?」
守が順一に言う。順一は焼き上がったたい焼きをパックに詰めながら了承する。守は「申し訳ありませんが席をはずしております」の立て札を屋台の前面に置き、順一にじゃあ、お願いしますと言って、裏の天幕から出ていく。
守がサラダ油を買い、自分の屋台に戻ってくると、順一は通りの向かいにある射的屋の方を呆然と見つめていた。向かいの射的屋には女の子二人が射撃をしている。二人とも浴衣を着ていて、一人は背が高く、一人は普通の背丈である。両者とも背中を向けてはいるが、細めの体系であることが見て取れる。彼女らをじっと見つめている順一には構わず、守は立て札を仕舞い、いそいそと買ってきた油を自分の容器に移し変えていく。そうしている守の耳に、彼女達の無邪気な声が届く。
「射撃って、難しいね。全然当たらない」
「無理だよ、あんな小さいの。一円玉くらいよ、あの的。当たる訳ないじゃんか」
「だって、当たったらプレステ3だよ。欲しいよ、プレステ3」
「普通に買った方が安上がりだと思うんだけど……。ねね、それより、たい焼き食べない?」
「えー、たい焼き? たい焼き、嫌い。あの人を思い出すから」
「あの人? えっ、あの人って何? だれだれ、どんな人?」
「やだっ、そんなんじゃないって。昔のパパよ、昔の」
「なーんだ。でも、酷くない? お父さんのことを『あの人』だなんて呼ぶなんて」
「そんなことないよ。『あんな奴』でも十分なくらい」
「えー、酷いと思うけどなぁ」
「あの人のしたこと、知らないからそんなこと言えるんだよ。私がちっちゃい頃のことだけど、あの人、ママを殴る蹴るしてたんだよ。私の目の前で。ママの奥歯が二本無いのだって、全部あの人のせいなんだから」
「えっ、うそっ。怖い」
「でしょう。ホンット、最低よ。今この場にいたら、これで銃殺にしちゃうところよ」
「ひどーい。あっ、でも、倒しちゃったら、景品として持って帰らないといけないよ?」
「いらないよ、あんなの。ポイよ、ポイ」
「鬼だわ、この人。……全部終わった? じゃ、そろそろ行こ。花火、始まるよ」
「だね。これ見るために遠出してきたんだし。走る?」
「走らない」
女の子達はそんな会話を楽しそうに続けながら歩き去っていく。守は酷い話でしたねと順一に話しかけようとしたが、次の瞬間、身を凍らせた。見えた。見えたのだ。背の高い女の子にある、左耳の下のホクロ。そしてその顔。
守は順一を見た。順一は遠ざかっていく女の子達の背中を目で追いかけている。お客が店の前に立っても、順一は前を振り向きもせず、彼女達を見続けている。だが、お客に怒られ、ようやく順一が正気に戻る。お客の対応をしている順一の表情を、守は盗み見た。笑っていた。本当に微かにではあるが、確かに口元に笑みを浮かべている。守にはそう見えた。順一のその表情に、守は少し安心する。とはいえ、順一になんと声を掛けてよいのか分からず、守は黙ってしまい、順一もまた、一言も話そうとはしない。二人は目前の作業と、お客の対応を淡々とこなしていく。
しばらくして、花火が始まる時間になった。
「トイレに行って来るよ。少し、店を見ていてくれないか」
順一が守に言う。守がいいですよと返事すると、順一は立て札を置き、裏の天幕から出て行った。
ふと、何かが聞こえたような気がして、守は裏の天幕をそっと空けてみた。
薄闇の中、順一がしゃがみ込み、一人で泣いていた。
花火大会の開始を告げる最初のスターマインが打ち上がり始める。人々の歓声が上がった。
本文とは関係ありませんが、良い絵を見つけたので紹介しておきます。
ハルキ文庫さんより出版されている太宰治「走れメロス」、その表紙が秀逸です。
機会があれば、是非ご覧下さい。
名画ですよ。




