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第二章

 Ⅱ


 順一には家庭があった。妻に、娘が一人。だが、今はもう完全に決別してしまい、彼女達から何の連絡も無い。順一からも連絡を取ったことは一度もない。自分には彼女達の人生に関わる資格がないのだと、順一は言った。

 順一の結婚相手は綾子と言った。綾子は容姿の整った女性で、百七十センチ近い高身長に、細身の体型を兼ねていた。目鼻立ちもはっきりとしていて、美貌という言葉が良く似合う女性だった。綾子が通れば男女を問わず幾人もの視線と好意が集まった。彼女と話せば、幾人もの人間が彼女の容姿を褒め称えた。彼女は美の女神に愛されたような存在だった。また、彼女自身、自分の存在が周囲の人の目を引くものだということを良く知っていた。そして、それが大多数の人に対して好意的に受け止められることも。しかし、綾子にとって、自分の容姿は嫌悪すべき対象だった。尽きぬ苦悩の種だった。確かに彼女は自分の魅力を知っていて、利用する術も知っていた。実際、彼女はあらゆる人生の局面において、彼女に有利に物事が運ぶようにその秀でた容姿を上手に使ってきた。大抵の場合、それは彼女の思惑通りになった。それで彼女も周囲の人間も満足なら、それで良かったはずである。だが、彼女にはそれで不満だった。彼女は極度に疲労していた。大きすぎる自分の美点に振り回されていたのだ。中学高校と、彼女は女子高だった。だから、普通では考えれない真剣な羨望や、途方も無い憧れを受けることもあったが、それ以上に、陰湿な嫉妬やいわれの無い中傷を受けることの方が多かった。彼女は孤立を恐れた。ただ、彼女が孤立するような立場に追い詰められるようなことは無かった。彼女は身の振り方が上手だった。どの集団においても自分をヒエラルキーの丁度中間に位置するように振舞った。人々の中に隠れる。そうすることが彼女の危機回避の定理だった。そう信じていた。そして、自分の迷彩が暴かれそうになるのを見て取ると、すかさずフォローに回った。結果的に、彼女の完全中立の立場は成功していた。

 しかし、そうした行動原理は彼女を疲れさせた。常に友人達の表情の中、あるいは、言葉や、距離感の中に埋もれた期待や感情を汲み上げ、それに応え続けるのは、非常に精神をすり減らす作業だった。そうやって生活することに自分は喜びを感じていないが、では、一体、自分は何のために生活しているのか、そう考え、彼女は悩み苦しんだ。自分は永遠に追いかけてくる人々の妬みや誹謗から逃れ続ける、ただそれだけのために生きているのだ、きっとこの先も。そうも考えてみて、その悲嘆の稚拙さに笑ったこともあった。

 自分の悩みについて、親しくしている友人には言えなかった。贅沢な悩みだと言われるのが落ちだと考えた。共働きで、毎日忙しそうにしている両親に相談することも無かった。彼女はずっと優等生であり、そうであることを彼女の両親は期待していた。彼女は裏切れなかった。

 結局のところ、彼女は、仕方がないという言葉で割り切ってしまうより他無かった。

 だから、綾子が大学に入り、まず最も願ったのが静寂、それも生活としての静寂だった。そしてその静寂は、信頼できる人間の中にあった。

 順一と綾子が出会ったのは共に大学一年の春、美術鑑賞サークルの活動でのことだった。そのサークルは他大学、社会人からも会員を募っていて、いつでも入退会可能であり、活動頻度も月に一、二度で、また、内容についても会員の中で参加希望の人だけが当日現地集合し、一緒に美術館を見て回るといった気軽なものだった。順一については絵画に興味があるからという理由で、綾子についてはサークル活動そのものに興味があるという理由で参加した。当日集まったのはサークルの旗振りの男子学生と、順一に綾子、それから四十台くらいの身奇麗な女性だけだった。幹事の人と、四十台女性は旧知の仲らしく、集合場所にいたときから会話に花を咲かしていたが、どちらかというと女性の方が男子学生を一方的に気に入っているようで、美術館に行き、絵の前に立っても相変わらず男子学生との会話を続けていた。それが順一と綾子の間に会話の機会を与えた。二人は一緒に絵を見て回った。順一はかなり真剣に鑑賞していたから、ポツリポツリとしか綾子とは話さなかったが、それでも二人の間に漂う緊張と警戒心を解くにはそれで十分だった。美術館を回り終える頃、互いに友達だ、とは思えないにしろ、他人では無くなっていた。携帯電話番号やメールアドレスを交換して、その日二人は別れた。

 それから二人の間には幾度かのメールのやり取りがあり、通話があり、デートがあった。三ヶ月後、ほとんど綾子に言わされたようなものだが、一応、順一から告白し、綾子は、遅いよ、と文句を言いながらも笑って了承し、二人は付き合い始めた。

 しかし、順一には疑問が残った。順一は綾子を綺麗な人だと思っていた。恐ろしいほどに完璧に整えられた容姿を持つ人だと。だから、過去にも未来にも、自分のような者とは全く関係ない人だと判断していた。綾子はおそらくこれから多くの男に注目され、誘惑され、告白され、そしてその中の幸運な者に愛情を注ぎ、いつか結婚し、幸せな家庭を築く。順一と綾子は、今は友人として関係しているが、それもいずれは解消し、お互いがお互いを去っていった人々の一人として数えるようになり、やがて忘れていく。だから、自分と彼女とは無関係なのだと考えていた。それが最も自然な有りようだとも思っていた。正しいのだと。だから、綾子が順一に対してあからさまに好意を匂わせた時には、順一の混乱は凄まじいものだった。順一の思考は綾子の順一に対する好意を否定した。一方で、順一の感性は綾子の順一に対する好意を肯定した。順一はその間を何度も右往左往した。そのせいで、順一と綾子の交際の始まりは少し遅れたのだが、順一が綾子にその経緯を話して聞かせるに及び、順一は綾子が自分を選んだ理由が何なのか聞いたことがある。綾子の答えはこうだった。

「一緒にいて落ち着くことができるし、それに安心できるからかな」

 順一には納得できなかった。順一がそのことを言うと、

「でもね、私にとっては、とっても重要なことなんだよ。それっぽっちのことでも」

 綾子はそう言った。そして自分の中学高校の頃の話をした。順一は納得した。そして、順一が大変だったんだねと言うと、綾子は、うんと言って、はにかむように笑った。涙は見せなかった。順一は綾子を強い人だと思った。

 だが、順一の中では、疑問は解消されたものの、別の疑問が沸いていた。約束された幸福は存在するのかということだった。綾子は強い忍耐力と秀でた美貌を持ち、人との共存の術を知る賢い者だった。そうした人間は特別であり、特別な人間は特別な幸福を受けるはずだ。しかし、その幸福は本当に永続するのだろうか? 将来ある時、急に幸が不幸へと転じ、彼女の胸の内を後悔が焼くということはないのだろうか? 幸福は腐らないのだろうか? 順一は知りたかった。綾子には言えなかったが、例え綾子がこの先自分と別れ、他の男と付き合うことになっても、それだけは知りたいと、そう思っていた。


 結局のところ、順一と綾子が別れることは無かった。大学の一年から卒業するまで交際は続いた。大学四年のときには、お互いの就職先が決まった後に同棲も始めた。社会人になり、一年が過ぎるくらいの時、二人は結婚した。その一年後には長女が生まれ、美咲と名づけた。小さな喧嘩はあるにはあったが、互いに傷つけ合うことはなく、二人の仲に禍根を残すような確執にはならなかった。平和で、多忙で、慎ましい日々が続いた。


 順一の家庭に綻びが見え始めたのは、順一が二十八才の時だった。始まりは就職して六年目となる春に順一が受けた人事異動の辞令だ。順一の会社では前年度、前々年度の経営不振により、組織変革と人員整理が行わており、その煽りを受けて順一は他部署に異動になったのだった。順一の異動した現場は多忙を極めた。以前に順一がいた現場より、こなさなければならない作業が格段に多かった。しかし、順一にとって、仕事に忙殺されることは余り苦では無かった。業務に追われ、昼も夜も無く働き、家族との時間がほとんど持てないことは、それまで携わった仕事でも数度経験していた。そんな時もある。順一はそう割り切っていた。むしろ、まだ体力のある若い時に集中して仕事をすることで、より多くの経験が積めることに喜びさえ感じていた。そしてそれは、将来必ず家族にも良い結果をもたらすはずだとの確信が順一にはあった。

 そんなわけで、多忙さは確かに順一の精神をすり減らしはしたが、瓦解させるまでには至らなかった。順一を真に追い詰め、決定的に蝕んだのは彼の新しい上司だったのである。

 順一の上司は最初から順一のことを快く思っていなかった。少なくとも順一にはそう感じられた。そしてその感覚は次第に強くなり、一ヶ月もする頃には順一は上司が内に燃やす感情を言葉に出来るようになっていた。それは対抗心と呼ぶべきものだった。可笑しな話だと、順一は思った。順一と上司は年が十以上離れていて、当然その実力や経験においては順一よりも上司の方が圧倒的に優位であり、また、それは誰の目にも明らかであるのに、どうして彼は順一に対抗心を燃やす必要があるのか。順一には全く理解できないことだった。それでも、自身の認識に誤りがあるのかと思い、省みることも行ってみた。だが、結果は変わらなかった。やはり彼の順一に対する所作や口調には、拮抗するライバルに向ける敵意と対抗心が感じられるのだった。格下の自分に敵外心を持つなどと、それが如何に下らんことか、気付かんとはな。順一は彼を笑い、同時に見限った。それ以来、順一の彼に対する認識は、感情があり、思慮があり、奥深い過去の積み重ねがある、そうした複合的な立体としての個人ではなく、幼稚な敵対心と、自分の上司という立場のみを所有する平面的な一個の存在になった。

 そうやって時間が過ぎるに合わせて、二人の間に開いた溝は大きく深く開いていった。

 二人の間の対立が明らかになったのは、些細な出来事が原因だった。ある書類についての承認手順について順一の改善案を上司が却下した。その書類は、順一の部署と他に二つの部署の間で受け渡しがなされるのだが、必要もないのに度々順一の部署に戻ってきては、結局順一の部署は他の部署に輸送するだけのものだった。それを必要のある時だけ順一の部署が受取るように手順を変えてはどうかというのが順一の提案だった。上司はそれを良く分からない理由で突っぱねた。順一は珍しく食い下がったが、それでも彼の意見は変わらなかった。だが、その二、三時間後、他の部署から順一の提案と全く同じ内容の提案を上司は持ちかけられた。特に差し障り無いと思いますが、という相手を前にして、上司は断ることが出来なかった。順一は下らん茶番だと思った。

 しかし、上司はそのことで順一を責め立てた。自分が恥を書いたのは、順一の説明の仕方が悪かったせいなのだという。そして、そんな人間に大事な仕事は任せられないのだという。それが始まりだった。その日から順一に割り振られる仕事は、新人がやるような雑務ばかりになった。それに合わせて帰宅時間も二十時前には帰路に着けなかったのが、毎日定時きっかりに帰れるようになった。

 しかし、順一に焦りは無かった。この状況は限定的であり、いずれまた元に戻ると考えていたからだ。職場の他の人達は各自担当していた仕事の上に、順一が任されていた仕事も割り振られていて、現場はさらに過酷さを増していた。そうした中で、自分だけに仕事が与えられず、定時で帰っても良い状況に周囲の人間が不満に思わないはずがない。例え、上司の指示だったとしても、ストレスを抱え、時間に追われて働く他の人達がそんな愚かな采配は許さないだろう。順一はそう考えたのだった。仲間が忙しそうに作業している側で、一人抜け出すように帰る時には、さすがに罪悪感を感じたが、これは忙しさが染み付いた自身への休憩期間なのだと思えば、仲間への罪悪感も直ぐに消え、家族の待つ団欒に思いが行った。早い時間に帰宅する順一を不思議に思う綾子には、会社の勧告で早帰り強化週間なのだと言っておけば問題はなかった。

 だが、順一の予想とは違い、その状態が二週間続いた。順一はさすがに居心地の悪さを感じて、自分はいつまでこのような仕事ばかりを続けるのかと、上司に何度か聞いてみた。上司はその都度、お前が仲間の信頼を得るまでだと答えた。順一は職場の仲間にも自分にできることは無いかと聞いて回ったが、誰も彼もが一貫して上司の許可が無ければ任せることはできないとの答えを返してきた。ああそうかと、順一は思った。自分は生贄なのだと、この時点になって順一はようやく理解した。そしてそれが、もう手遅れで、取り返しがつかないことも順一には分かっていた。

 この上司には玩具が必要なのだった。彼の意思によって、対象者の行動を制限し、強制し、否定し、そのことによって対象者に苦しみを与え、その苦しみに磨り減っていく様子を観賞できるような玩具が。消耗品が。消耗品は順一だった。

 そうしたことは過去にも繰り返されてきたのだろう、職場の人達の態度は順一に冷たかった。無知な兎を肉食獣の檻に放り込む小さな罪悪感と、少々の仕事を引き換えに、人間関係の調和と現状維持を得る。彼らの本音が順一には透けて見えるようだった。

 そうしたことを経て、順一の心は激しく傷ついた。しかし、誰にも傷つけられてはいなかった。そう実感していた。確かに上司の下劣さは度し難い不快感を順一に抱かせてはいたものの、順一の心を傷つけるまでには至らなかった。順一を傷つけたもの、それは善性の否定に直面したことなのだと、後になって順一は理解した。

 順一は無意識にではあるが、人々の善意、特に理性を介在させた善意というものを信じ、前提としていた。順一が考えるに、職場での根本原因は上司のような人間が意思決定の役割を担っていることであり、それを改善すれば部署内の多くの人間に有益となるに違いないのに、誰も彼を糾弾しようとしないばかりか、上司の悪徳を不動の前提にし、その前提を元に職場の中にルールを敷き、これを是とし、黙々と従っている。順一には理解できなかった。おそらく過去に、順一と同じ立場で参画し、職場の問題点を見抜き、そして改善のために戦おうとする者もいただろう。また、共に戦ってくれる同士を求めた者もいただろう。だが、きっと彼らは誰も手を貸さなかった。利己性の中に閉じこもった。会社に訴える者もいたのだろうが、よくある苦情の一つとして「適切に処理」されたはずだ。戦う者は次々と敗者になり、腐敗は是正されない。順一が理解できず、順一を最も傷つけ苦しめたのは、こうした善性への無関心だった。


 上司との対立、業務の退屈さ、仲間への不信、自分の無力さ、これら全てが視界を狭くし、順一を閉ざしていった。そうして、順一の生活は崩れ始めた。定時後、順一はパチンコ店に入り浸るようになった。綾子に心配を掛けたくなく、また、自分が迫害されているという事実が情けなくもあり、順一は自分が現在社内で置かれている立場について、綾子に何も教えてはいなかった。かといって、綾子に不信に思われないために、業後直ぐに帰宅することも、またできなかった。それで以前と変わらぬ時間に帰宅するために業後の時間を潰さなければならず、初めは喫茶店で本を読んだりしていたのだが、いつしか足の向く先は本屋の隣に建つパチンコ店になっていた。

 順一の打つパチンコは、勝つ時も偶にはあったが、負けることの方が断然多かった。しかし、順一には勝敗が気にならなかった。順一はパチンコを楽しまなかった。また、勝って金銭を受取ることに喜びを見出すことも無かった。順一にとって、パチンコは生活の中に空いた単なる隙間、空白に過ぎなかった。だが、順一はその空白をこそ求めていた。パチンコ店での空白は順一を休ませた。店内の止むことの無い音の洪水、断続的に明滅する激しい光、誰一人知人のいない一人の時間、そういった環境は、順一の意識を薄め、理性を弱め、現実を忘れさせた。仕事帰りに機会の台に向かって座り、目の前で色とりどりに明滅する画面を追いかけている時、順一はようやく落ち着いた気分になることができた。そうして、いつしかパチンコ店だけが順一にとっての心安らげる場所になっていった。そして、そうなるに連れ、順一は綾子と美咲をも面倒に思うようになり、家庭から逃げたいと願うようにもなった。当然、順一のパチンコ店で過ごす時間は増えていった。平日はパチンコ店が閉店になるまで粘り、休日も家庭を放棄して朝から店に向かった。もちろん、順一には外出するための口実を用意する必要があったが、その度に大学時代の友人と会うのだとか、会社に仕事を残してあるのだとか、上司にゴルフに誘われているのだとか、とにかく様々な理由を言い残して家を出た。余りにも下手な嘘に自分でも苦笑を漏らすことはあったが、意外なことに、順一が帰宅しても綾子は何も聞いてはこなかった。ただ、それが二ヶ月程続いた頃の休日に、玄関に座って靴を履いている順一の背中に綾子が声を掛けて来た。どこに行くの、と聞く綾子に対し、順一は散歩に行くのだと答えた。そして玄関から出ようとしたところで、初めて綾子が順一を呼び止めた。

「ねぇ、信じていいんだよね?」

 一瞬の間を置いて、散歩に行くだけだ、と順一は言って出かけた。玄関を出たものの、順一の足は二、三歩歩き出しただけで止まることになった。順一を引き止めたのは、綾子の表情であった。綾子の目には悲痛な哀願が込められていた。順一にもそれは良く分かっていた。また、それがどういう意味なのかも理解していた。順一は行くのを止そうか迷った。逡巡がしばらくあった。止めようと思えば、いつでも止められる。そう考え、順一はいつものパチンコ店に歩き出した。途中、何度も綾子の表情が順一の頭に浮かんだが、全て黙殺した。

結局その日、順一は綾子の事が気がかりでならず、午前だけをビクビクしながらパチンコ店で過ごし、正午過ぎには帰宅した。綾子は無表情で、長い散歩だったね、と言い食器洗いを続けた。他には何も聞いてこなかった。順一は、キッチンに立つ綾子の後ろ姿を見つめながら、止めようと思えば、いつでも止められるのだと、もう一度心の中で強く念じていた。

 しかし、その頃から、順一にはもう一つの重大な問題が持ち上がっていた。パチンコの資金が底を尽いてしまったことだった。

 順一は焦った。確かにこれまでも順一の一ヶ月分の小遣いでは、毎日パチンコに通い詰めるには資金としては完全に不足していた。だから、不足分は順一が何とか注ぎ足さねばならなかったが、それすら限界に来ていた。当初、順一は不足金にそれまでに余った小遣いで貯めた金を充てていた。しかし、それもあっという間に使い果たしてしまった。次に、一家の財布を握っていた順一は、将来のための預金を割り当てた。しかし、それでもやはり資金を完全に満たすには足りなかった。あとは、順一個人が借金をするか、今までに貯めた預金を引き下ろすかのどちらかしか方法は残されていなかった。順一は預金の方を選んだ。もちろん綾子には黙っていた。恐ろしいことをしているという自覚が、順一にはまだ少しだけ残っていた。だが、それも何度か繰り返す内に平気になった。

 金銭的に苦しくなると共に、順一はパチンコの勝負の世界にのめり込むようになっていった。何をしててもどこにいても、パチンコのことばかりを考えるようになった。常に勝つ方法を模索し、何かしらいい案を思いつくと夢中で空想を膨らませた。コンビニで、あるいは、職場の昼休みの自席で、パチンコの雑誌を食い入るように読み、それが周囲の人間にどう映るかなど気にもしなかった。そうした時が順一にとって最も充実していると思える時間になった。仕事は手に着かなくなり、つまらないミスを犯して上司から激怒されることもあった。家族にも興味が失せ、綾子も美咲も鬱陶しいだけの存在に見えるようになった。パチンコに関わること以外の全てが自分を拘束し、抑圧し、邪魔をするもののように思われた。絶えず苛々として落ち着かず、職場でも家庭でも、人を遠ざけ、人から遠ざけられた。順一は、しかし、それで何の疑問も持たず、幸せだった。

 別の変化もあった。パチンコの勝敗に拘るようになった順一は、負けた日、それも深く負けこんだ日には必ず酒を飲んで帰宅するようになった。深酒し、泥酔すれば、その日の負けの悔しさを和らげることができた。そうした日の順一は酷く酔って帰り、綾子の質問にも答えず、不機嫌にフラフラ歩きながら服を脱ぎ散らかし、そのまま眠ってしまうのがいつものことだった。そして次の朝には綾子の追及から逃げるように急いで会社に向かうのだった。


そんなある日、大敗が三日続いた金曜の夜のことだ。順一は負けた憂さを晴らすために、安い小料理屋で焼酎だけを何杯も煽って帰宅した。キッチンテーブルには、テレビを前にして綾子が座り、順一の帰りを待っていた。夜の静寂の中に、テレビはほとんど聞き取れないくらいの音量で点いていて、テレビ画面の光彩を綾子の瞳と白い頬に薄く写していた。順一の帰宅に気付いた綾子がおかえりと言うと、順一は綾子の方を見もせず、ただいまと言って寝室に足を向けた。その順一を綾子が呼び止めた。順一は構わなかった。綾子はもう一度順一を呼び止めた。順一は顔をしかめただけで、やはり、構おうとしなかった。綾子が順一の背中に怒鳴った。驚いて振り返った順一の目には、立ち上がり、真剣な怒りを表す綾子の表情が写った。順一は醜いな、と思った。この女も、こんな醜い顔をするんだな、と内心笑った。そして綾子がこんな風に怒りに任せて怒鳴るのは、おそらくこれが初めてだと考えた。対して綾子は、その場で二回、ゆっくりと肩で息をしてから、自分の目の前の席に座るように強い口調で順一に言った。順一が席に着くと、綾子はテレビを消し、ポケットの中から通帳を取り出して順一の前に広げた。それから、どうゆうことなのか説明して、と迫った。差し出された通帳は、もちろん、順一が着服した預金通帳だった。通帳に書き込まれた数字はずっと増加していたが、最近になって急激に目減りし、今では最大値の三分の二まで減少していた。順一には何の釈明の言葉も思いつかなかった。身じろぎもせず、ただ黙って座ることを続けた。謝罪も反省も沸いてはこなかった。酔いの中で思考はただ虚ろだった。仕方が無いという印象だけが順一の脳裏をかすめていた。

 綾子はもう一度、順一に対し説明を求める言葉を繰り返した。順一は席を立ち、飲み物を取ってくると言って冷蔵庫に向かった。順一はグラスに氷を入れ、焼酎の瓶と共にテーブルまで運んだ。お酒なんて、という綾子を無視して、順一はグラスに焼酎を注いだ。綾子の根気強い質問が繰り返された。しかし、いつまで経っても順一の口から何らかの言葉が発せられることはなかった。後にしてくれ、と順一は思っていた。沈黙の中、グラスの焼酎だけが淡々と減っていった。

 順一が何度目かの焼酎を口に含んだとき、綾子の怒りが頂点に達した。

「お酒なんて飲んでないで、私の質問に答えてよ!」

 綾子はそう言ってグラスを取り上げ、順一に投げつけてきた。グラスは鈍い音を立てて順一の額に当たり、床に落ち、砕け散った。順一は額の痛みを感じるよりも先に怒りが込み上げてきて、反射的にテーブルに身を乗り出し、綾子の横面を引っ叩いた。綾子は椅子からずり落ち、床の上に両手をつき、俯いたまま呆然としていたが、すぐに肩を震わし、すすり泣きの声を漏らし始めた。順一は苦い思いが心に広がっていくのを感じ、しかし、どうすればいいか分からず、その場を立ち去りたい一心で急ぎ家を出た。途中、玄関で靴を履いているとき、割れたグラスの破片を踏んでいたのか、右足小指辺りの靴下が裂け、血が出ているのが目に入ったが、構わずにそのまま靴を履き、玄関から飛び出た。

 家から出たとはいえ、順一には行く当てが無かった。かといって、酒を飲む気にもならなかった。だから、消灯が済み、静まり返った家々が並ぶ薄暗い細道をひたすらに歩いた。次第に足の切り傷が痛み始めたが、足を引きずりながらも、とにかく歩いた。歩くうちに小さな公園を見つけ、そこにあるベンチに腰を降ろし、体を休めた。酔いはすっかり醒めていた。気持ちは暗く淀み、沈んでいた。足の傷は熱く脈打ち、順一の沈んだ気分をいっそう暗澹たるものにした。暗澹としながらも、何より、順一は混乱していた。順一は、自分が人を、それも女性を殴ったという事態に驚いていた。怒りに任せ、暴力を振るうことだけは絶対に自分にはないだろうと、順一は思っていた。また、絶対にあっては成らないと自ら戒めてもいた。時にニュースで流れる事件の中で「ついカッとなってやった」という理由を聞く度に、順一はよく思ったものだ。感情に任せて人を殴るなど、自分は理性も覚悟も、意思さえ持たぬ獣同然の存在だと公言しているに等しいと。そして加害者に情状酌量が認められると、獣に人間的な温情など無用だと考え、冷笑を浮かべるのが常だった。だが、今回ばかりは完全に順一が悪かった。順一は暴力振るった。順一の右手には、綾子を叩いた時の痺れがまだ微かに残っていて、それが順一の暴力を現実に証明していた。人々の寝静まった暗闇の中、順一は一人ベンチでうな垂れながら、自分は許されるべきではないという重く圧し掛かるような罪悪感が広がり、自身を満たしていくのを感じた。順一は無様で情けない自分を激しく恥じた。しかし、それ以上に、綾子には本当に申し訳ないことをしたと、心からそう思っていた。どうすれば贖えるかなど、その時の順一には見当も付かなかったが、とにかく綾子に謝り、全て告白し、許しを請う以外他に道はないと順一は思った。そうすべきであり、また、そうするのだと決心した。

 順一が足を引きずりながら家に帰ると、綾子は既に寝ていた。照明は全て落とされ、家中が真っ暗だった。美咲のことを考えてだろう、グラスの破片はきれいに片付けられていた。順一は血を吸って重くなった靴下を、真ん中で二分するようにハサミで切って取り、足を軽く止血した後、足を上げる体勢でソファーに横になった。綾子と同じ寝室に入ることは気まずくて出来なかった。

 翌日、冷やかな態度の綾子を前に、順一は全てを打ち明けた。綾子は事情は分かったと言いはしたが、許すとは言わなかった。実際許してはいなかった。順一が話している間、ただの一度も順一と視線を合わせようとしない綾子の態度がそれを如実に物語っていた。それでも順一は構わなかった。嬉しく、満足だった。

「もうパチンコは止めるよ」

 順一は言った。同時に心にも誓った。家庭も仕事も、自分と関係する人々の心に貯めた負債は相当なものではあるが、少しずつでも返し、元の自分を、元の信頼を取り戻すのだと、順一はそう心に決めていた。

 しかし、その誓いは果たされなかった。


 順一がパチンコを止めることができたのは、たったの一週間だった。それで限界だった。

 順一は土日の休日こそ燃えるような情熱で自省していたこともあり、パチンコへの欲求は時折チラと影を覗かすだけで、欲求を押さえ込むのに特別の労力を必要とはしなかった。本当の戦いは、仕事の始まる月曜日からだった。

 仕事は順一を苦しめた。順一は職場で完全に孤立していた。パチンコを始める前までは上司と順一の間の深刻な不仲は別として、仕事仲間とはまだ本当の意味で信頼関係を失っていたわけではなかった。彼らは、上司からの被災を免れるために無理に順一と距離を置くように演技をしていただけで、内心では順一に同情的で、その信頼はまだ失われてはいなかった。順一もそのことは察していた。味方とは呼べない、だが敵ではない、ただお互いに歩み寄ることはできない。それが順一と彼らの暗黙の立場だった。それが順一がパチンコを始め、他人に無関心になり、彼らの尊厳を損なうような言動を繰り返すようになると、彼らは完全に順一を拒絶するようになった。彼らと順一の間の信頼は、もうとっくに消えて無くなっていた。

 そうした彼らの取る順一への態度は、再起を目指す順一には酷く堪えた。仕事の内容も相変わらず単調で、作業に没頭することもなかったから、気を紛らわすこともできなかった。順一は気がくじけそうになるのを堪えるので精一杯だった。

 家庭も家庭で、順一には苦痛だった。綾子は特に用の無い限り、ほとんど順一を無視していた上に、偶に交わす会話の時でさえ、綾子の口調は平坦で冷然としていて、それが順一を苛んだ。唯一の話相手は美咲だったが、ママはなんで怒ってるの? と聞いてくる美咲に対し、パパが悪いことをしたからママは怒ってるんだというと、美咲は早く謝ってきてと言い、それからは事あるごとに、ママに早く謝ってと、なんで謝らないの? と繰り返すようになった。しかし、それもごく最初のうちだけで、順一と綾子の間に流れる緊張を察したのか、テレビを点けたリビングで一人静かに遊ぶようになった。美咲のそうした姿に順一は心を痛め、その原因を作ってしまった自分自身を激しく責めた。悔やんでも悔やみきれなぬ思いだった。

 順一は生活の中に一時の安らぎを望み、安らぎはパチンコだった。パチンコ店の音と光の騒乱の中に自分が消えていく感覚が恋しかった。順一は焦がれた。四六時中、パチンコに行きたいという思いだけが募った。


 結局、順一は誘惑に勝てなかった。週末を迎え、苦痛でしかない仕事が一段落すると、順一は吸い寄せられるようにパチンコ店に向かった。途中、何度も足を止め、このまま振り返って家族の待つ家路に着こうとしても体は動いてくれず、心の中では底知れぬ後悔の予感に怯え、胸がドキドキし、嫌だ嫌だと叫んでいても、それでも抗うことはできなかった。パチンコをしている時でさえ、綾子を裏切っている感覚に絶えず良心が痛み、全く楽しめず、安らぎもせず、それでも夢中になって球筋を追っている自分を順一は嫌悪した。手持ちの現金が尽き、店を出なければならなくなっても、そのことに名残り惜しさを感じている自分が自覚され、それが益々順一を苦しめた。そして、パチンコ店を出た後には、やはり周辺で一番安いチェーンの居酒屋に一人で行き、一番安い焼酎のボトルと串焼きを二本頼み、せわしなく飲み、食い、それでも全く酔いもせず、浮かれもせず、心は塞ぎ、惨めさを増しただけで順一は帰路に着いた。代金はカードで払った。

 飲みすぎで吐き気を催しながら、順一は帰宅した。順一がリビングに入ると、綾子はソファーに背を預けてテレビを見ていた。美咲はテーブルで一人で絵を描いていた。順一が黙って寝室に着替えに行こうすると、綾子は今までどこに行っていたのかと聞いてきた。順一には答えられなかった。俯いてその場に立ち尽くした。張り詰めた沈黙が続いた。テレビからタレントの愉快そうな笑い声が漏れた。その笑い声が収まると、綾子はテレビを見たまま呟いた。

「最低の男ね」

 それからテレビのリモコンを取り、チャンネルを回した。そして吐き捨てるように言った。

「ホントに最低。なんで、こんな男と……」

 その先の言葉を順一は瞬間的に理解した。閃光のような怒りが順一の中を照らした。順一は走り出しそうな勢いで綾子の背後から近づき、綾子の後頭部を力いっぱい叩いた。順一の手に熱く突き刺すような痺れが広がったが、順一は構わずに続けて二度三度と、ソファーに前のめりに倒れている綾子を叩いた。頭を庇うようにしてうずくまる綾子を順一は見開かれた目で見下ろしながら、興奮を排出するかのように肩で大きく呼吸を繰り返した。美咲はママをいじめないでと言って駆け寄ってきたが、順一に視線を向けられると、ヒッ、と息を飲んで立ち止まり、泣き出しそうな顔になった。

 順一は喉に込み上げてくるものを感じ、口を手で覆いながら急いでトイレに駆け込んだ。大量の焼酎を吐いた。嘔吐の苦しさに涙を滲ませながら、綾子が、美咲が、不憫でならず、順一は泣いた。ただひたすらに申し訳なかった。だが何よりも自分が不甲斐無くて、情けなくて仕方が無かった。

 リビングから美咲の泣き声が聞こえてきた。順一は便器にしがみつきながら涙を流し、その場に座り込んだまま、ちくしょう、ちくしょうと、それだけをいつまでも繰り返していた。

 それから本当の地獄が始まった。


 誰にとっても苦しいだけの毎日が始まった。綾子や美咲は言うに及ばず、順一にとってさえ。

 二度目の暴力の後、順一は再び綾子の前に座り、許しを請うた。

「信じられない」

 それが綾子の応えだった。綾子は順一と向かい合って座り、頬杖付きながら、しかし、順一と目を合わせようとはせず、静かにそう呟いた。綾子が席を立った。一度だけ冷やかな視線を順一に浴びせかけると、綾子はそのまま別室に行ってしまった。取り残された順一は俯き、しばらく何も無いテーブルの上を見つめていた。言葉は出なかった。行動も。順一は、ただただ、悔しくてならなかった。

 それから前週と同様に、土日の休日と、仕事のある平日五日間を反省の中で過ごし、順一は三度綾子を裏切り、パチンコを打った。いつだって止められると思っていたパチンコは、その時の順一には、自分ではもう止めることが出来なくなっていた。だが、そのことに順一自らが気付いた時には、もう手遅れだった。完全な中毒だった。家族の中にいるときも、仕事の合間でも、順一はパチンコのことが意識の端に付いて離れず、恋しくて恋しくてならなかった。つま先から、手指の先から、焦燥感がにじり寄り、体を震わせ、理性の叫びを封じ込め、順一をパチンコへと駆り立てた。決して落ち着くことなく、安心することなく、興奮と抑制を繰り返し、苦痛とも言える一秒一秒の中で、追いかけ迫り来る巨大な誘惑の波に恐怖の悲鳴を上げながら逃げ回り、何とか逃げ切り、順一は、一日一々をそんなふうにやり過ごしていた。しかし、順一の衝動は、難なく順一を捕らえた。順一の抵抗の最後には、必ず中毒者の発作が待っていた。

 そして、そんな夜、順一は罪悪感と後悔と悲しみで息が詰まり、胸が苦しくなり、罪悪感を少しでも和らげるために安酒を煽り、不機嫌に酔い、家に帰っては暴れて、綾子を殴った。美咲の目も気にしなかった。訳も分からず、どこから来るのかも分からない感情を解消するために、順一は綾子を怒鳴り散らし、そして殴り続けた。ある時には、ただ綾子の目つきが気に食わないという理由で殴ったこともあった。またある時には、深夜遅くに酔って帰宅し、部屋が散らかっているからという理由で、美咲と一緒の布団に寝ている綾子を叩き起こし、髪を掴み、リビングまで引きずり出してから、息が切れるまで暴力を振るったこともあった。悲惨だった。家族の中には、もはや団欒はなくなり、順一の罵声と綾子の悲鳴、そして美咲の泣き声が全てになった。

 だが、そうした夜のあとには、必ず激しい反省と苦い後悔が順一を襲った。順一は酒を飲んでいない時には、パチンコに染まる以前の順一と変わらず、理性的で、真面目だった。責任感も機能していた。だから、もうパチンコは止めるんだ、今度こそ本当に最後にするんだと、いつも真剣に決意していた。だが、駄目だった。順一はその度に同じ失敗を繰り返した。助けて欲しかった。この地獄のような繰り返しから、誰でもいい、助け出して欲しかった。順一はそう思った。そして、死にたい、いっそ死んで楽になりたいとも思った。だが、それもやはり無理だった。死ぬことは順一にも依然として恐ろしかった。綾子に殺されたいと願うのは、だから、順一にとっては自然な願望の成行きだった。

 ある夜のことだ。順一が微かな物音に目を覚まし、不信に思って音のする方に向かうと、真っ暗なリビングの中で、キッチンの電灯だけが小さく灯っていた。そこに綾子がいた。順一に背を向け、座り込み、必死に嗚咽を押し殺していた。順一はその背中に向かって、今ここで、綾子の前で死にたいと本気で思った。いや、殺して欲しいのだと。それがきっかけだった。それからの順一は、毎夜毎夜寝る前に、綾子に殺される自分を想像するようになった。自分が寝ている間に、綾子が静かに部屋に入ってきて、そっと馬乗りになり、布団の上から包丁で自分をメッタ刺しにする空想の中に、順一は狂ったように入り込んだ。甘美だった。綾子の憎しみに見開かれた眼も、闇の中で振り下ろされる青白い刃物の輝きも、全身を悶えさせる激痛も、そのどれもが順一を興奮させた。理想の死に方だと順一は信じ、そうなることを待っていた。

 そうした日々は順一の精神を急速に蝕んでいった。度重なる挫折が順一を疲れさせ、改善に向かう努力を諦めさせ、自暴自棄にした。そしてついには今の関係を破壊する行動の中に悦びを浮かび上がらせるようになった。綾子の悲鳴を聞き、綾子を殴りながらも、順一の心では綾子を傷つける悲しみと喜びが同時に湧き上がっていた。その倒錯した悦びに、自分の中でただ膨れ上がっていく狂気に、順一は怯えた。順一にはもう自分が何を望んでいるのか分からなくなった。何を考えればよいのかも、何が正しいのかも分からなくなった。順一は基盤を失った。自分を失い、思考を失い、理想も現実も失った。それでも綾子を殴る手は止まらなかった。


 しかし、精神の異常は順一だけを見舞ったわけではなかった。綾子も美咲も、序々に蝕まれていき、それが彼女らの現実をも暗転させていった。

 順一が綾子を殴るとき、美咲はいつも泣いていた。それが、ある時順一からうるさいと怒鳴られると、それからは部屋の隅で一人静かに順一と綾子を見守り、涙を流すようになった。時にはソファーの陰に隠れ、泣きもせず、ただ目を閉じ耳を塞ぎ、じっと座っていることもあった。だが、そのうちに普段の美咲の態度にも変化が表れ出した。口数は減り、笑うことも怒ることも少なくなった。一日中テレビの前に釘付けになり、無表情に画面を眺め、時間を過ごすことが増えた。そしてその頃から何かが欲しいという言葉を、美咲の口から聞くことは無くなった。また、美咲は順一を恐れ、避けるようになった。美咲から順一に話しかけてくることはなくなり、順一が目を向ければ、美咲は綾子の足にしがみつくように順一から身を隠した。それでも順一が無理に美咲に近づこうとすれば、嫌だ、怖い、怖いと言って泣くようになった。

 綾子にも変化はあった。綾子は最初こそ順一の暴力に対し、反撃に出ることもあったが、ある時から何の反撃もしなくなった。その代わり、順一が暴力を振るっている間、綾子は必死に耐えた。涙を滲ませることはあったが、泣き崩れたことは一度としてなかった。強い意志があった。綾子は耐え続けた。おそらく自分が耐えている間は、美咲に危害が及ぶことはないと計算していたからだろう。また同様に、自分までもが見境なく反撃に出れば、何かの拍子に美咲を傷つけるかもしれないとの計算も働いていたのだろう。綾子は、自分を守らなかった。綾子は自分よりも美咲を守ることを選んだ。強い母だった。全てが終わった後に、順一はそれが良く分かった。実際、綾子が順一の暴力を避ける時には、順一の背面に美咲が位置するように綾子は移動していた。そうした記憶も、理解も、後に順一を苦しめた。

 しかし、そんなことが続けば、綾子も平気で居られるわけは無かった。綾子は家事全般を怠るようになった。料理はおろか、掃除も洗濯もしなくなり、あっという間に家は荒れた。ゴミは溜まり、床は散らかり、キッチンは異臭を放った。それだけでなく、綾子は美咲の世話も億劫がるようになった。必要最低限のことだけはこなせてはいたものの、それ以外では常に寝室に籠もり、眠ってばかりいて、美咲に話しかけられても邪険に扱い、眠いからと言って追い払った。美咲が泣いていても構おうともしなかった。また、外出を嫌い、傷が痛むという理由で風呂も食事も避けるようになった。

 そんな状況だから、綾子がしない分の家事は、順一が取り持った。順一は沈黙を守った。何も言えなかった。自分にはその資格がないということは、順一自身が一番良く分かっていた。自嘲の笑いすら湧いては来なかった。ただ自分が憎かった。


 順一は無意識に終わりを望んでいた。終わりは二ヶ月後、唐突に訪れた。

 いつもの金曜日と変わらず、順一がパチンコと飲酒に陰鬱になって帰宅すると、深夜というわけでもないのに、家全体が暗かった。ほとんど物音もせず、人の気配も感じられなかった。冷蔵庫の唸りが断続的に聞こえるだけだった。おかしいと、順一は酔った頭に思った。順一は綾子を探した。綾子は見つからなかった。順一は美咲を探した。だが、美咲も、やはり、見つからなかった。出て行ったのか。良かったと、順一は思った。そして順一はパチンコを打ち、酔って帰るようになってからその日初めて、暴力を振るわずに夜を眠ることができた。安らかだった。悲しかった。

 次の日も綾子は戻らなかった。何の連絡も無かった。昼過ぎ、二日酔いの症状が治まると、順一は家の掃除をするついでに、綾子が何か自分宛にメッセージを残していないか探してみた。しかし、それらしいものは見つからなかった。綾子の携帯電話にも掛けてみた。だが、やはり、電波の届かない所にいるという機械的な言葉が繰り返されるだけで、綾子の携帯電話に繋がることはなかった。失踪、という言葉が順一の脳裏を掠めた。だがそれだけだった。原因は分かっていた。だから、順一は綾子を探さなかった。心中、という恐ろしい可能性も考えてみたが、綾子のことだ、自暴自棄になっていたとしても、自分だけならともかく、美咲に対してまで極端な行動をとることはないだろうと、順一はその可能性を否定した。結局のところ、待つ、というのが、順一がとった選択だった。

 五日後、順一の家のポストに綾子の筆跡で書かれた封筒が届いた。封筒の裏には「加藤綾子」の文字があった。封筒の中身は離婚届だった。離婚届には、綾子が記述すべき内容が全て書かれ、判子も押してあり、あとは順一が離婚の条件に同意し、手続きを済ませるだけで良い状態になっていた。順一は笑った。そして、ああ、そうかと思った。終わったんだと。自分が求めていたものはこれだったんだと。

 疲れたと一言、静まり返ったリビングに立ち、順一は呟いた。


 離婚の手続きで綾子と揉めることは無かった。封筒が届いた次の日に、綾子の携帯電話から順一の所に連絡が入り、一ヶ月後の日曜に離婚の条件について話し合いを持ちかけられた。順一は了承した。

 当日、順一の住むマンションの近くにあるファミリーレストランで順一と綾子は一ヶ月ぶりに再会した。美咲の姿は見えなかった。

 一月ぶりに見る綾子は、顔の傷も随分癒えていて、薄化粧も映え、元の美しさを取り戻しつつあったものの、極度にやせ細ってしまっていて、その尖った輪郭と、体の各所に浮き出た骨格や青白い血管は、綾子が負った心の傷の深刻さを順一に教えていた。順一に向ける冷たい眼差しもまた、綾子が口にしない順一への感情を物語っていた。

 綾子は席に着くなり、離婚についての条件を話し出した。余計な会話は無かった。綾子の要望は大体以下のようなものだった。

 積み立てた預金の残額分を慰謝料として全て綾子に譲ること。養育費は毎月月末日までに定額を支払うこと。美咲の親権は全て綾子に譲ること。そして、美咲本人の口から順一と会いたいとの要望が出ない限り、今後永久に、順一は美咲と面会してはならないこと。また、順一から美咲への連絡も一切してはいけないこと。

 分かった、それでいいと順一は答えた。異論はあった。もちろんあった。美咲に会いたかった。年に一度でいい、美咲と会いたい、会って、彼女の成長を彼女自身の口から、表情から、自分の耳で、肌で、直接感じたいと順一は思った。そして、そのくらいはいいのではないか? 慈悲が許されてもいいのではないか? と思った。だが、一方でそうした主張はするべきでないと順一には思われた。それに、元々綾子の要望をそっくり受け入れるつもりで、順一はこの日、綾子の前に出向いていた。だから、どんな理不尽な条件でも構わなかった。きっとこの先、今日ここで下した判断に後悔する時も来るだろうが、それでも良いと思えた。今はただ罰が欲しかった。目に見える形での罰が、救いが、順一には必要だった。

 順一は綾子が差し出してきた誓約書にサインし、離婚届けと共に綾子に渡した。それを受取った綾子は、そそくさと書類と鞄に仕舞い、それじゃと言って、すぐに席を立とうとした。だが、腰の浮きかけた綾子を順一が呼び止めた。呼び止め、一つ聞いていいか? と順一は言った。

「憎んでいるか? 俺のことを」

 綾子は少し考えてから答えた。

「わからない。そうでなければ、いいと思うけど」

 綾子は去っていった。順一は綾子の痩せた背中に、心の中で別れと謝罪の言葉を言った。

 日曜の空は晴れていた。秋で、心地よく、休日の午前中らしい眠たげな空気が流れていた。その中で、順一は頬杖を付きながら、ぼんやりと、いつかの昔に心に抱いた疑問を思い出していた。約束された幸福というものについてだった。一人取り残されたファミリーレストランで、家族連れの客達の喧騒に囲まれながら、無かったんだなと、順一は小さく呟いた。皮肉なものだと思った。


 順一は会社を辞め、マンションを引き払い、東京の郊外に移り住んだ。パチンコは止めていた。順一のパチンコへの執着は、順一が会社を辞めると同時にいつの間にか霧散していた。あれ程自分を駆り立てた焦燥感がこうもあっさりと静まり、ついには消えて無くなってしまったことに順一は驚いた。悪夢だった。悪夢だったのだ。確かにそう思うことはできた。しかし、順一には、その一言で全てを割り切ることはできなかった。また、絶対にしてはならないとも思った。それだけのことを自分はしたのだと順一は既に知っていた。許されないのだと。

 それ以来、順一はパチンコに行っていない。

 酒も止した。食事すら控えるようになった。

 仕事は色々と考えてみたものの、今の職を選ぶことにした。昔、綾子と美咲と三人で夜店に行ったとき、美咲がたい焼きを一番好きだと言い、美味しそうにほうばっていた、その時の笑顔が、順一を強く捕らえて離さなかった。最高の栄光だった。忘れられなかった。

 順一は仕事を始めた。時の流れは速かった。どの年もあっという間に過ぎていった。

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