第一章
Ⅰ
夏祭り、夜店の立ち並ぶ喧騒の中で、ただ一人浮かぬ顔して屋台通りを通り抜ける、そんな光景を目にするのは珍しいことだろう。夜店の並ぶ通りには子供ならば無邪気さ、好奇心が普通であり、大人ならば物珍しさ、懐かしさ、解放感が大抵に人間の胸に浮かぶ。気分を高揚させる人々の群れも、屋台に立つ売り手の軽快さも、ごく親しい人と時間を共有するということも、人々を安心させ、警戒を緩め、より大きな幸福感を味わおうという衝動に、人々を際限なく駆り立てる。夜空は夜空でその無限ともいえる広がりを背景に群青の奥行きを人々の遥か頭上に作り、それと呼応するかのように、屋台の灯が穏やかな橙色で地上を照らし、夢想的な空間を編み上げて人々に安らぎを促している。人々は皆一様に笑顔を浮かべている。喜びに沸く笑顔であったり、爆ぜるような大笑いであったり、時には苦笑であったりするが、その誰しもが今一時だけは頭を痛ます現実を消し去り、楽しく、ただ楽しくと無数の人々が作り出すユートピアの中に没頭していく。だが、忘れてはならない笑顔の種類がある。微笑である。微笑は、楽しさを表現する表情ではない。逆である。悲しみを表す笑顔なのである。笑顔と笑い声の取り巻く中で、しかし、自分にはどうしても忘れえぬ胸の痛みがあり、心沈み、笑う気分になど到底なり得ない時、それでもなんとか周囲の者に心配を掛けたくなく、それで仕方なく顔に張り巡らす表情が微笑なのである。
隣に並ぶ屋台より、少しだけ照明の光度を抑えた店にたい焼き屋がある。店構えは縁日にはよくあるシート作りのテントで、軒に当たる部分に「たい焼き」と大きく書かれている。左隣にはりんご飴、右隣には焼きそばの露店が立つ。この両隣の露店に比べ、たい焼き屋の客入りはあまり芳しくない。
「ジュンさん、すみません、油ちょっと貸してもらえませんか?」
焼きそばの店主がたい焼き屋の店主に向かって尋ねる。
「おお、いいぞ、そら」
たい焼き屋の店主は快く答え、右手に持ったサラダ油の容器を差し出す。焼きそば屋の店主はすみません、と言いながら容器を受け取り、鉄板にサラダ油を振り撒くと、ありがとうございました、と言ってジュンさんと呼ばれた男に容器を返す。
焼きそば屋が言うジュンさんは、もちろんあだ名であり、本名は岡田順一という。今年で三十九才とは思えない程げっそり痩せていて、わずかではあるが、白髪が交じる短髪の下に、知性と憂悶を滲ませる双眸を持つ男である。しかし、全体としての顔立ちは悪くない。十年前であれば、女性からの熱い視線を一身に受けることもあっただろうが、現在となってはその痩せすぎていて不健康そうに見える外見が女性の中の何か熱いものを冷ましているせいか、総じて残念な人との評価に落ち着くことが多い。
対して、焼きそばの店主は倉敷守といい、順一からは、マモル君と呼ばれている。今年二十八歳で、上背がある上に、小中高校で空手をしていたこともあり、胸板厚く、ティシャツの下に覗く二の腕もずいぶんと太い。性格も快活で、細かいことは気にしないからか、豪快に焼きそばを焼く姿が妙に似あう。
二人が出会ったのは今から五年前のことだ。
当時、順一と守は全国の夜店の催し会場を回る渡り鳥だった。一つの場所で、決して多くはない金額を稼ぎ、祭りが終われば、また次の祭りへと商売先を移し、生計を立てた。祭りの無い時には日雇いなどのアルバイトで日銭を得ていた。そんな二人だから、各地の会場で幾度か姿を見かけることもあり、お互いの顔と姿を覚えてはいた。ただ、気軽に挨拶をしたり、世間話をしたりすることは一度も無かった。単なる他人に過ぎないし、相手に興味はない。関わる必要だって当然ない。二人はそう思っていた。
そんな彼らが友人となったのが五年前の春だった。東北地方で開催された花見の会場に二人は同時に露店を出していた。順一はたい焼きで、守の方はお好み焼きを作っていた。その時には、二人の露店が隣り合ってなく、間には大判焼きの屋台が挟まれるようにして立っていた。大判焼きの店主は、三十をちょっと過ぎたくらいの小太りの男で、金のネックレスをし、色が黒く、腕に深い青色の刺青を巻きつけるようにいれていた。この男は祭りの始まる前、やぁ、と言って、守に話しかけてきた。
「お兄さん、ずいぶんでかいんだな。百九十センチくらいあるの?」
「いえ、八十を少し超えたくらいです」
「そうか。実際よりも大きく見えるね。体格のせいかな? ところで、君は店を出すようになってどのくらい?」
「はぁ。二年になります」
「二年か。じゃあ、まだ不慣れな所もあるだろう。まぁ、困ったことがあったら言ってよ。せっかく隣になったんだからさ、助け合いの精神で。じゃ、今日はよろしく」
男は守を見上げながら手を差し出してきた。守はこの男の鬱陶しさに辟易しながらも握手を交わした。この男の先輩風を吹かして、自分はお前より優位な存在なのだと思わせるような口ぶりが、守には吐き気を催すほどに汚らしかったのである。クソにも劣る、というのが守の軽蔑を込めた感想だった。
一方で、この男は順一に話しかけることは無かった。横目で何度か盗み見した程度であった。順一はこの男が守には話しかけ、自分には話しかけて来ないことに気付いていたが、特に気分を害するようなことはなかった。無礼だとも思われず、むしろ、幸運だと思ったくらいだった。
その日の夕方に差し掛かる頃のことだった。順一と隣の大判焼き屋との間で小さないざこざがあった。二つの無人の屋台の裏側からたい焼き屋と大判焼き屋の争う怒声が発せられたのである。とは言っても、声を荒げてまくし立てているのは大判焼き屋の方だけで、順一の返事は極めて冷静であり、その声音は、普段よりも一層低くて重く、感情の暴走など微塵も感じさせないものだった。いざこざの原因は順一が鉄板に油を塗るための刷毛から高温の油が飛び散り、それが大判焼き屋の腕に当たったと、文句を言ってきたことだった。しかし、大判焼き屋の真の不満はそんなところにあるのではなく、自分の作る大判焼きよりも、順一の作るたい焼きの方が売れている点にあった。順一もそのことには気付いていた。だから、大判焼き屋が言い掛かりを付け、それを順一にぶつけてきたときにも、至極平静でいられた。言い掛かりの内容を聞いて、内心あざ笑ったくらいだ。しかし、大判焼き屋の興奮が高まり、順一の胸倉を掴んできたときには、さすがに順一も焦りと恐怖を感じた。だが、順一が暴力を振るわれることは、結局のところ、無かった。守が制止に入ったのである。守は大判焼き屋を後ろから羽交い絞めにした。それで終いだった。大判焼き屋は羽交い絞めにあって、最初の二、三秒こそ必死で抵抗していたが、圧倒的な体格、体力差で勝る守に敵うはずも無く、次第に自分の無様さから逃れたい理由で守に抵抗するようになった。口に出る言葉も駄々をこねる子供のようになった。守が、もう勝負は決したのだと見て取り、大判焼き屋を解放すると、大判焼き屋はずり上がったシャツを整えながら、ばつが悪いのか、順一に、今後は気をつけて下さいよと言い、直ぐに自分の屋台の中に戻っていった。順一は守に礼を言った。二人も屋台に戻った。
その夜、順一は早めに店をしまい、助けてもらった礼を兼ねて守を飲みに誘った。守は一度は断ったが、それじゃあと言って順一が一万円札を差し出すと、守はお札を受取らず、飲みに行く事にした。いくらお礼だからといって、裸でお金を受取るのは守にはさすがに気が引けたのである。それならば、一緒に飲みに行く方がいい。守はそう思った。
しかし、いざ飲み屋に行ってみると、順一はアルコール類を頼まなかった。
「実は、飲めないんだ」
そう言って、自嘲気味に小さく笑った。守は少し意外に思った。順一が最初にメニューを開いて見ていたのが、アルコールのページ、それも、ウイスキーや、焼酎の銘柄が一面に載っているページだったからである。順一が強い酒でも、とことん煽るような人であったら、今夜は大変なことになると覚悟していた守は、それを聞いて安心した。守も酒はあまり強くないのだ。
午後九時には二人は店を出た。会計は全て順一が払った。二件目に梯子することもなく、二人はそこで手を振って別れた。
帰り道、守は、意外にも順一と飲むのは楽しいものだったと考えていた。相手は自分よりもそれなりに年上であるから、息苦しい気配りや、自己陶酔の説教といった一幕もあるだろうと守は予想していた。だが、そんなことは無かった。順一が酒を飲まず、酔っ払いもしないからかもしれない、と守は考えた。何より、不思議と苦痛でない。守にはそれが新鮮だった。馬が合うとはこういうことなのかもしれないと、守はいささか酔っ払った頭で、ぼんやりと思った。
それから二人は全国の祭りで会う事があれば、挨拶を交わし、世間話をするような間柄になった。そして、そういう日には、客が引き上げ、露店を畳む時間が来ると二人で飲みに行った。大抵の場合、守の方から誘ったが、偶に順一から誘うこともあった。飲みに行けば、会話の大半は守が話をした。話の内容自体は、お互いの近況報告、守がまだ小中高校生だった頃の空手部の思い出話や、過去の恋愛(失恋)に絡んだ話、それから金の話などだったが、そうした中で順一がわずかに話す言葉の端々から、守は順一の過去についても大体のことを知るようになった。
それは、守にとっては意外なものだった。順一は今でこそ、その日暮らしのような生活を送っているが、元は東京の国立大学を卒業した俗に言うエリートであり、また、誰もが知る大企業に勤めてもいた。それが一転して、順一が三十路を迎える年に会社を辞め、次の仕事としてこの商売を選んだ。現在はその延長線上にある。
こうした順一の経歴は、守が興味を抱き、話を掘り下げ、膨らますのが当然の話題であるにも関わらず、実際はそうはならなかった。それは、順一の過去は、順一が一辺に話して聞かせたわけではなく、守の話の相槌や感想の中に意図せず暗に忍ばせ、散りばめたものであったため、守も断片的な順一の過去を受け入れ、再構成することだけで精一杯で、そこに疑問や洞察などを挟み込む余地が無かったからである。守にとって、順一は違う世界を見てきた人間という認識であり、それで十分で、不足は無かった。
そうやって飲み会を繰り返す内、何年かが過ぎた。祭りの中でする商売であるから、時々は揉めることもあるにはあった。しかし、それでも大きな災難もなく、大きな成功もなく、平穏だった。
そんな中、一度だけ警察沙汰に成りかけたことがあった。今から四ヶ月前、四月の飲み会でのことである。
例年に無く冬の寒さを引きずる春だったせいで、三月はおろか四月になってからも桜の開花は訪れず、毎年この時期には桜前線を追いかけて北上し、東北地方で商いを営むのが慣例だった守と順一も、未だ東京に滞留していた。それが、四月も第二週に入り、ようやく桜の枝にも花が咲き、各所で桜祭りが開催された日、二人は冬を明けて久しぶりに出会い、仕事終わりに飲みに出かけた。
順一と守は駐車場に車を止め、そう離れていないチェーンの居酒屋に入った。週末であるためか、店内にはネクタイを緩めたサラリーマンの姿が目立つ。順一と守が通された席も、狭い通路を挟んだ反対側にはサラリーマンと思われる男四人が座していた。彼らは四十台の課長と呼ばれる男が一人と、その部下である三十台の男二人、二十台の男一人とで構成されていて、既にかなり出来上がっているらしく、騒がしさに歯止めが利かない状態になっている。中でも三十台の男の一人は、声が異様に高く、耳障りも甚だしい。順一と守は席に着き、隣から無遠慮な笑い声が届いてくることに直ぐにうんざりした。守は店員に言って席を替えてもらうことを提案したが、順一はそれに賛成しなかった。週末の混雑する時間なのだから、この席に通されたのは自分たちの運が悪かっただけで、それは仕方が無いことだ、という理由だった。こんな時もある。順一は苦笑気味にそう言った。守は順一の言う理由には内心納得いかなかったが、強情を張らず、順一がそういうのならと、大人しく従った。そうして若干の不満を残しながらも二人はいつもの通り気さくに語り、酒の席を楽しんだ。
しかし、しばらくすると二人の間に会話は無くなった。隣の席が原因だと守は思った。少し前から始まった彼らの話の内容が、余りも野卑だったからである。
「それが課長、コイツ、マジに鬼畜なんですよ。なぁ?」
三十台の男の一人が言う。
「うーん、どうですかね」
もう一人の三十台の男が、高音の声音で答える。
「へぇ。どんな風に鬼畜なの?」
課長と呼ばれる男が言う。四人の中にあって、最年長ということもあり、他の三人よりも落ち着いた印象を受ける。
「それが、コイツ、DV夫なんですよ。DV。酷いでしょう?」
声の低い方の三十男がからかうように言う。
「DV? DVって、家庭内暴力のことだろ? 佐々木、お前女房殴ったりするのか?」
課長が少し厳しい口調で言う。
「ええ、まぁ。結構殴りますね」
佐々木と呼ばれた三十男は、高い声で明るく答え、それから煙草を一口吸う。課長は一瞬呆れた表情で佐々木を眺めてから、諭すように言う。
「お前なぁ……。まぁ、お前の家庭の話だから、俺が強いことは言えんが、嫁さん、もっと大事にしてやったらいいんじゃないか?」
「大事にしてますよ」
佐々木が当然のように言う。いや、だってなぁ、と反論しようとする課長を遮って声の低い三十男が割り込む。
「課長、コイツに何言っても無駄ですよ。コイツ、前に力説してましたから。『女の中には男からぶん殴られないと愛情を感じない人間もいるんだ。』って。そんな奴、いるわけねぇって言っても全然聞く耳持たないですし、『殴った後にこっちを睨み付ける嫁さんの目が堪らない。愛情と憎しみは表裏一体だ。』とか言うんですよ。ホント、狂ってますよ。奥さんの代わりに俺が佐々木を殴ってやりたいくらいですよ」
三十男は冗談を装ってはいたが、その口調には隠しきれない軽蔑と怒りが漏れ出している。それでも佐々木の態度に変化は見られない。
「大丈夫ですって。もし仮に嫁が、ですよ、もし仮に僕と離婚したいとか腹の中で考えていても、絶対それはできませんから。僕は二人の子供がいるんですけど、嫁は子供大好きなんですよ。で、離婚するとなると当然僕と嫁で親権の取り合いになるわけですが、嫁には、子供はおろか、自分を養うだけの収入すら得ることはできません。特別な資格も社会人経験もないですから。となると、彼女が二人の親権を得るのは経済的に不可能になります。結局、二人の子供を両方離したくない彼女からすれば、僕と離婚するっていう選択肢はないわけです。あと、家庭の財布も僕が握ってますから、嫁がこっそり資格取ったりとかは無理だと思いますね。ね? 包囲網は完成している。大丈夫でしょう?」
佐々木は声を弾ませながら、得意気に言う。
「はぁー。佐々木、お前は鬼畜。確かに鬼畜だよ」
課長が諦めを滲ませながら言う。
「はい、課長判定をいただきましたので、佐々木は今日からササキチクと呼ぶことにします」
そんな会話がこの後も続けられた。その間、守が話しかけても順一は生返事をするばかりでまともな返事は返ってこない。そればかりか、順一の表情はどんどん険しいものになっていく。守は酔いが醒めた心地だった。自分に失言があったか考えてみても特に思い当たる節はない。守は隣の席の会話が順一の怒りの原因だと直ぐにわかった。確かに守からしてみても、この話は余りにも酷いと思われた。もし、これが自分の友人だったら殴っていたかもしれないと思える程だった。だが、守は所詮他人だ。佐々木の奥さんを哀れに思う。それだけの権利しか持ち合わせていないと思われた。だから守は隣の話を騒音と考え、静かに聞き流すことにしていた。
一方で、順一は恐ろしい形相をしたままである。普段、寛容さと冷静さを忘れることの無い順一である。その順一がここまで怒りを剥き出しにしている。守は躊躇いながらも、順一の怒りの原因が隣の会話にあるのか聞こうとした、その時である。順一は突然立ち上がり、守の飲んでいたビールジョッキを取り上げると、隣の席まで行き、佐々木の頭の上からビールを注ぎかけた。
「お前は最低のクズ野郎だ」
順一は吐き捨てた。その声は低く冷たく、乾いていて、順一の理性による感情の抑制が働いていることを伝えた。だが、その一方で、順一の中に渦巻く激情の荒々しさをも伝えていた。
「何すんだ、テメェ!」
佐々木がテーブルを叩いて立ち上がり、右手で順一の胸倉を掴む。順一の突然の行動にあっけにとられていた守は、混乱しながらも、店内の喧騒が止み、視線が集まるのを感じる。
「お前は最低のクズだ」
順一は胸倉を掴まれ、頭を仰けに反れせながらも、佐々木を睨み付けながら、もう一度同じ台詞を言った。
「何だとテメェ」
佐々木は残されたもう一本の腕で順一の胸倉を掴み、両手で絞り上げる。一触即発の事態だと察した守が急いで立ち上がり、強引に二人の間に体を差し挟みこみ、制止しようとする。ハラハラしながらも呆然と事の成行きを見送るだけだった佐々木の仲間たちも、これは不味いと思ったのか、三人が三人とも立ち上がり、佐々木を左右から止めにかかる。
その後、守と順一、それからサラリーマン四人は店を追い出された。店を出るまでの間も大変だった。佐々木を挑発し続ける順一をなだめ、佐々木に向かって暴走することが無いように監視する必要が守にはあり、また彼らの間でも、何かと順一に詰め寄ろうとする佐々木の扱いについても同様だった。ただ守にとって幸いだったのは、課長の存在が在ったことだ。課長は部下二人に対して、とにかく佐々木を外に連れ出すように指示し、その一方で守達には自分達が会計を済まし、完全に出払った後から店を出るように言いつけた。そして、店の店長には迷惑を掛けた事への謝罪を行い、店を出て行った。しばらくして守と順一が店を出ると、課長は待っていたよと声を掛けて来た。課長は一言言っておきたくてね、と前置きしてから、圧倒的に悪いのは守と順一の方だが、課長個人の心情としては特に怒ってはいないし、貴重な体験に感謝するくらいだ、と言った。
「私としても、彼のあの話には頭に来ていたからね。正直、胸がスッとしたよ」
そう言って晴やかに笑った。そしてもうあんな無礼な真似はしないほうがいい、という忠告を残し、ネオンの繁華街に消えていった。
それからほんのわずかの間、二人は店の入り口付近で黙って立っていた。順一は俯きかげんで、守と目を合わそうともしない。激高した後のことで、順一は疲れを感じ、放心していた。守はそんな沈黙したままの順一に困惑していた。
先に口を開いたのは順一だった。
「飲み直さないか?」
順一の静かな口調に、守は頷いて答えた。
二人は三分程歩き、地下にある居酒屋に入った。向かい合って座り、店員を呼ぶと、守はハイボールを、順一は焼酎をロックで頼んだ。守は驚いた表情で順一を見つめた。
「実は、飲めるんだ」
順一は苦笑しながら言った。
「なんだ、そうだったんですか。じゃあ、今までどうして飲めないなんて嘘付いてたんです?」
守が言う。
「飲むと、暴れるんだよ、俺。まぁ、他にも理由はあるんだけど」
薄く笑いながら、順一が言う。
「ええ? 暴れるぅ? ジュンさんが? うそだぁ~」
順一の口調は冗談とも取れ、守には真偽が分からない。
「本当なんだ。酷いんだ。まぁ、正確には酒を飲むと、じゃなくて、酔っ払うと、なんだけど。でも、今日は大丈夫。どうも、酔えそうも無いからね」
「いやぁ、嘘っぽいですよ、それ。だってなぁ……」
守が言う。そして少しの間一人で自問自答を繰り返していたが、まぁいいかと言って思考を切り替え、言葉を続けた。
「それで、他の理由ってのは、なんです?」
「腎臓が一つ、ないんだ」
順一は平然と言った。
「ええ? どうしてです? 病気か、何かですか?」
守はついそう聞いてしまったが、内心では失敗したと思っていた。聞いてはいけないことだったかもしれないと思ったからだ。
「売ったんだ。こんな商売だからね。つては、いくらでもある。腎臓は二つしかないけど」
順一はやはり冗談交じりの口調で言った。守はとっさに言葉が見つからず、一瞬の間を置いた後、酒を飲んで大丈夫なのかと順一に聞いた。順一は問題ないと答えた。
そこに注文した品が運ばれてきた。二人は小さく乾杯した。
「やっぱり、酒はうまいね。特に、一仕事終えた後の酒ってやつは」
順一はにこやかに言った。
「一仕事って、さっきのアレですか? いえ、まぁ、どちらでもいいんですけど、それにしてもさっきのアイツ、佐々木って呼ばれてましたね、アイツ、最低でしたね」
守が言う。
「だな。最低のクソ野郎だったな」
佐々木のことを思い出したのか、順一の表情が少し曇る。
「ジュンさんが怒るのも無理ないですよ。最低の下衆野郎ですよ、あんなやつ。俺だってムカッ腹きてましたもん」
守が力強く同意する。しかし、順一は焼酎を一口飲み、守の言葉に応えなかった。二人の会話が止まる。守は順一の沈黙を訝しく思った。
「でも、俺は佐々木、だったかな、彼の話に頭に来てたんじゃないよ。俺はね、彼が妬ましかったんだ」
順一が言った。
「妬ましい? 妬ましい、ですか? どうゆうことです?」
守が全く理解できないといった顔で順一に尋ねる。順一はさらにもう一口焼酎を飲んでから言った。
「俺のことを語ろうと思う。少し長い話になってしまうだろうし、おそらく支離滅裂にもなってしまうだろう。いいかな?」
聞いてみたいですね、と守は答えた。




