第2話 おやすみとおはようのあいだ
朝が来ても、まだ現実って感じがしなかった。
あれから、どれくらい眠っていたんだろう。
夢の続きみたいに、柔らかい天井が目に入る。
ベッドはふかふかで、体を沈めても沈めても底がない。
こんな場所が、同じ世界にあったなんて信じられない。
昨日までの部屋――灰色の壁、酒と交尾の匂い――。
それが今では、窓から金色の光が差し込んでいる。
薄く透けたカーテンが風に揺れ、外から鳥の声が聞こえる。
妖精界って、本当にあったんだ。
そう思っても、どこかまだ他人事みたいに感じていた。
「朝食美味しかったなー…」
思わず独り言が出た。
テーブルの上には食べきれないほどのパンと果物。
どれも温かくて、甘い匂いがして、この世界で“朝から食べられる幸せ”を噛み締めたのは初めてだった。
スープの器を撫でながら、ぽつりと呟く。
「こういうの、ずっと忘れてたな……」
誰かがアタシのために作ってくれたものを、ちゃんと“味わって”食べるという感覚。
それが、こんなにも胸に沁みるなんて思わなかった。
窓の外に目をやる。
光が緑の庭に跳ねて、遠くで噴水が歌っている。
どこを見ても、穏やかすぎて嘘みたいだ。
でも、レフが“ここでいい”と言ってくれた。
だったら、今は信じてもいいのかもしれない。
アタシは深呼吸をした。
胸の奥が温かくなる。
空気の味まで、昨日とは違う気がした。
――こんな朝を、いつぶりに迎えたんだろう。
誰かに起こされるわけでもなく、誰かの顔色を伺う必要もなく、ただ“生きてる”と感じる朝。
それが、今のアタシにはいちばん現実味のある奇跡だった。
♢
昼に近い時間、扉が二度、軽くノックされた。
まだ食器を片づけてもいなかったアタシは、少し慌てて返事をした。
「はい?」
扉のすき間から、ぱっと光が射し込むように顔が覗いた。
「あなたがルメイラ?」
……眩しい。
なんかめっちゃキレイな娘が現れた。
思わずそんなことを心の中で呟いてしまう。
「そうだけど?」
返すと同時に、その女の子は駆け寄ってきた。
スカートの裾を翻しながら、風みたいに距離を詰めてくる。
「私はエミルナ! よろしくね!」
勢いに押され、思わず背筋が伸びた。
「よ、よろしく」
名乗る間もなく、彼女は楽しそうに手を取ってきた。
「レフがイジワルしてない? 何かあったらすぐ言ってね!」
「い、イジワルって…」
彼女はまるで小鳥のように話を止めない。
「私のお部屋は城の反対側! 今度遊びに来てくれる?」
「レフとはね、双子の兄妹なの! 遠慮しなくていいからね!」
そのテンションに、思わず言葉が漏れた。
「いやテンションたけーな」
「はっ! ごめんなさい! 私、人間の女の子とお喋りするの初めてなの!」
「だから嬉しくってつい…」
その時、扉がもう一度開いた。
レフが立っていた。
少し困ったような顔で、昨日と同じ芝居がかった調子で言う。
「こらこらエミルナ。ルメイラが引いてるぞ」
「なによ! ねえ聞いて! レフったらね、顔が老けてるからって喋り方変えてるのよ」
「老けてなどない! どう見ても好青年・次期公爵って顔だろう」
思わず笑ってしまった。
この兄妹、テンポが似てる。
それにしても、こんな掛け合いを間近で見るのはいつ以来だろう。
「多分…そのままのレフでも、いいと思うよ?」
自分でも不思議だった。自然に言葉が出た。
レフが、少しだけ視線を泳がせる。
「…この喋り方が板について戻せないのだ…」
その言い方が妙に真面目で、また笑いそうになった。
「レフのことはいいわ!」
エミルナがぱんと手を叩く。
「今度レフの婚約者も城に来るから、一緒にお話ししましょ!」
「そうね、仲良くしましょ」
会話のテンポが心地いい。
こんな風に笑って話せるなんて、本当に久しぶりだった。
エミルナが首をかしげる。
「ルメイラ? ゆっくり静養してもいいんだぞ?」とレフが言う。
「大丈夫よ。女子会なんて久し振りだから楽しみ」
「ジョシカイ?」
「あ、いや、ナンデモアリマセン」
その瞬間、部屋に笑い声が満ちた。
エミルナの声は鈴みたいに弾み、レフの微笑が柔らかく光った。
その音を聞きながら、私はようやく気づく。
――ああ、これが“生きている時間”なんだ。
♢
夜が来るのが、こんなに早いとは思わなかった。
昼間はあんなに明るかったのに、今は蝋燭の灯が部屋の隅を柔らかく照らしている。
窓の外には、妖精界特有の光る花が風に揺れていた。
静かで、穏やかで、何も起きない夜。
――そんな時間、いつぶりだろう。
ベッドに腰を下ろして、毛布を指で撫でる。
「こーやってゆっくり夜を過ごすなんて久し振り」
口に出してみたら、少しだけ胸が温かくなった。
けれどその温かさの奥に、ぽつんと穴が開いているようにも思えた。
あの部屋では、夜になるたびに客が来た。
眠ることなんて許されなかった。
媚びるのも、泣くのも、腰を振るのも、誰かの許しが必要だった。
それが今では、自由に息をして、自由に眠れる。
けれど――自由って、こんなに静かなものだったっけ?
アタシは不安になる。
「んんっ…」
言葉が唇の奥で震えた。
身体の奥が、じんわりと熱を持っている。
喉が渇くように、下腹部が疼いていた。
懐かしい感覚だった。
それは自身の内から湧き出る“欲”だった。
ルメイラは両手でソコを押さえた。
「元気になったからって欲しくなるなんて…」
かすかな笑いが、ため息に変わる。
「アタシってやっぱサイテーだな…」
蝋燭の火が小さく揺れた。
その光が、鏡に映る自分の目を照らす。
綺麗になったと言われたけれど、その奥にはまだ、消えないものが残っている。
アタシは目を閉じた。
何かがほどけていくような気もして、それでも、空虚が残るような気もした。
今夜の静けさは、やさしいけれど、少し寂しかった。
♢
その瞬間、コンコンと扉が叩かれた。
心臓が跳ねる。
「えっ……誰?」
声が裏返る。
「ルメイラ? 大丈夫かい?」
レフの声だ。
このタイミングで? なんで?
「れ、レフ!? ど、どうしたの!?」
声が一オクターブ上がっていた。
「おやすみの挨拶と思ったんだが」
穏やかな声。何の悪気もないのが余計に困る。
「え、あ、ありがとうレフ! で、でもアタシ今寝巻きだから! 気持ちだけいただくね!?」
舌がうまく回らない。
頭の中で鐘が鳴ってるみたい。
(今入って来られたらガマンできなくなっちゃう…!)
沈黙が一拍。
扉の向こうから柔らかい笑い声。
「そうか…ではまた明日」
「ぅおおおやすみっ!」
返事をしてから、布団に顔を埋めた。
レフの足音が遠ざかっていく。
静寂が戻ったはずなのに、耳がやけに敏感になっている。
「はぁー…」
息を吐くと、胸が少し軽くなった。
つい言葉が口を突いて出た。
「やっぱアタシってサイテーだな…」
でも、涙は出なかった。
♢
フッと蝋燭の灯が消える。
窓の外では、妖精の花が静かに光を落としていた。
私は毛布をかぶりながら、鏡の方へ視線をやった。
そこには、泣き腫らしてもいない、媚びてもいない顔。
でもほんの少しだけ、昨日の自分より穏やかな表情をしていた。
――救われたのか、それともまだ試されてるのか。
そんなことを考えても、答えは出ない。
ただひとつ確かなのは、
「明日が来るのが、少しだけ怖くない」
ということ。
娼館で生きていた頃は、朝が来るのが怖かった。
今日は誰を相手にするんだろう。
どんな魔法をかけられるんだろう。
そんなことばかり考えていた。
でも今は違う。
明日になったら、きっと誰かが声をかけてくれる。エミルナの笑い声、レフの、あの不器用な言葉。
月の光が頬に触れる。
(おやすみなさい)
私は小さく微笑んで、目を閉じた。




