第1話 後悔というか相殺というか
男がズボンを履きながら出ていった扉が、ゆっくり閉まった。
残された空気は、体温よりもぬるく、独特の匂いを絡って湿っていた。
シーツの上に落ちる油灯の光が、どこか汚れて見える。
香の煙が胸を刺すたび、吐く息が灰のように重い。誰がどんな魔法をかけたのか、もう覚えていない。
記憶を濁らせる呪文、感情を鈍らせ快楽だけを高める薬。
使う男も、使われる女も、似たような顔をしていた。
望まない魔法を浴びすぎて、心の奥の線が焼き切れている気がする。
最初の頃の記憶なんて霞んで見えない。
それでも客を取らなきゃ、股を開かなきゃ、食べていけない。
――そんな理屈が、いつの間にか正義になっていた。
鏡を見る。
目の下のくすみと、塗り重ねた粉の隙間。
そこに映るのは、もう誰でもない“誰か”だった。
私が私であることを、いつ置いてきたんだろう。
シーツの皺に指を滑らせると、なぜか涙が零れた。
ああ、まだ出るんだ、と思う。
泣き方なんて、とうに忘れたつもりだったのに。
その瞬間、頭の奥に焼き付いたような映像が走った。
駅の構内。夜の街。
スマホの画面を覗き込む男の顔。
前世――そうだ、あれは、私の前の人生。
パパ活で出会ったおっさんが、ストーカーになって、
最後は押し倒されて……。
そのあとの記憶は、血とガラスの音で途切れている。
そうか。私、あのとき死んだんだ。
そして転がるように、この世界に落ちてきた。
笑える。転生しても結局、似たような場所か。
口が勝手に動いた。
声は擦れ、ほとんど息だけのような音。
それでも、言葉は形になる。
「なぁんだ…アタシ前世でも売女だったんだぁ…」
つぶやいたあと、また涙が一筋、頬を伝った。
自分でも驚くほど、しょっぱい。
どうして泣いてるのかも、もうわからない。
ただ、涙の中に、何かがゆっくりほどけていくのを感じていた。
涙が落ちるたびに、床の木目が滲んでいく。
それが血にも見えて、息をするのが少し怖くなる。
脳裏で、あの夜の残響がよみがえる。
ビルの非常階段を上がる靴音。
背後から呼ぶ、あの脂っぽい声。
「どうしてわかってくれないんだ」とか、「愛してる」とか、
そんな言葉を何度も聞いた。
でもあの人の目の奥には、ただ所有欲しかなかった。
私は逃げて、転んで、冷たい鉄の匂いを嗅いで、
そのまま終わった。
ここで目を開けたとき、知らない空と、知らない匂いの風があった。
誰かに拾われて、娼館で育った。
そして生きるために体を使うことを、もう特別とも思わなくなっていた。
でも――たまに思う。
どうしてこの世界は、言葉を紡ぐだけで
光や炎や風を呼べるのだろう。
“韻を踏めば魔法が生まれる”
そう言われているけど、理由は誰も知らない。
私も使ったことなんて一度もない。
歌うでもなく、祈るでもなく、そんな綺麗な言葉、もう持ってないと思っていた。
でも。
今夜だけは。
今夜だけは。
なんでもいいから、どこかに届いてほしかった。
掠れた声で、息を継ぐように呟く。
「私を救ってどこぞのあなた」
少し笑って、
「私の狂ってるココロとカラダ」
そして、諦めるように最後を締めた。
「…なんてね」
♢
その瞬間、部屋の空気が変わった。
足元で、何かが音もなく蠢く。
光の線が床を走り、文字のように並んでいく。
魔法陣。――ほんとに?
喉の奥で、乾いた笑いがこぼれた。
光はじんわりと広がり、床に刻まれた線が脈打っている。
熱でも冷気でもない。
ただ、空気そのものが震えていた。
肌の上を風が撫でるたび、鳥肌が立つ。
「……嘘、でしょ」
口に出しても、声は掠れていた。
けれど、その掠れが合図のように部屋のあちこちで風鈴みたいな音が鳴る。
魔法陣の中心から、淡い青の光が湧いた。
それは液体のようにゆらめいて、天井へと伸びていく。
まるで夜空の星を逆さにしたような輝き。
空気が細かくはぜ、息が止まった。
詠唱がこんなにも、世界を揺らすものだなんて。
韻を踏む。
それだけのことで、この現実がたやすく軋んでしまう。
たしかに、言葉には力がある。
でも、私が知っていたのは「お金のための言葉」か、「男のための言葉」だけだった。
それ以外の言葉なんて、生きていく上では必要なかったのに。
光が渦を巻く。
髪が舞い上がる。
それが眩しすぎて、思わず目を細めた。
光の中心に、輪郭が浮かび上がる。
誰か――いや、“何か”が形をとっている。
靴の先が床に触れる音。
人のような、でも人ではない気配。
見上げると、そこに“彼”がいた。
♢
長い前髪の奥で、緋色の瞳が笑っていた。
見たこともない服。
それなのに、どこか懐かしい香りがした。
「今の詠唱はキミかな?」
声は驚くほどやわらかかった。
その音のひとつひとつが、まだ震えている私の鼓膜を優しく撫でていく。
「そうよ王子…サマ?」
思わず口をついて出た言葉に、彼は片眉を上げた。
「ほう…わかるのか?」
「いや…」
「謙遜するでない。この語らずとも身から溢れるオーラでわかってしまうものだ」
「テキトーいっただけで…」
思わず笑ってしまう。
笑うなんて、いつぶりだろう。
彼は軽く肩をすくめて、いたずらっぽく言った。
「私の名前はレフ。キミの名前を聞いても?」
「アタシはルメイラよ」
「しかしキミの詠唱。美しかったぞ。十五文字、全踏みだなんて、今でもありえないと思ってしまう」
「…あ、わかるんだその辺」
そう言ったとき、自分でもわからない涙が滲んだ。
なぜだろう。
褒められただけなのに。
たったそれだけで、何かが報われた気がした。
光の渦がゆるやかにほどけていく。
部屋の中に漂う香が、一瞬で別の匂いに変わった。
潮と森のあいだみたいな、懐かしくて知らない風の匂い。
立っている男――いや、少年とも言える年頃――は、
まるで舞台から抜け出した登場人物のようだった。
白銀の髪が光を散らして、どこを見ても彼だけが“現実じゃない”感じがした。
それでも、そこに立っているのは確かに“生きた存在”だ。
「キミの願い…この私が救い出そう! その前に…」
そう言った瞬間、空気の粒が弾けた。
光が広がり、胸の奥がひやりとする。
なに? と思ったときには、身体にまとわりついていた何かが、剥がれ落ちていく感覚がした。
魔力の糸、怨念、男たちの残り香――
そんなものが煙のように抜けていく。
「一瞬で綺麗に…」
呟いた私の声が、まるで別人みたいに澄んでいた。
「浄化魔法は初めてか? ほら」
彼――レフは手を差し出してきた。
指先が触れた瞬間、あまりの温かさに息が止まる。
引き上げられた身体が、軽く宙に浮いた。
そのまま、抱き上げられる。
お姫様抱っこなんて、もう少し笑えるものだと思ってた。
なのに今は、笑えなかった。
抱かれているのに、不思議と怖くない。
「軽いな…ちゃんと食べてるのか?」
「スタイルがいいって言ってくれる?」
思わず口にした冗談に、レフが少しだけ目を細めた。
その微笑は、どこか懐かしいものを感じさせた。
けれど同時に、底が見えなかった。
何者なんだろう。
どうして、私なんかを“救う”なんて言うんだろう。
問いかけたいのに、声が出ない。
魔法陣の輝きが強くなる。
壁が歪む。天井が溶ける。
音も匂いも、すべてが白に呑まれていく。
「どこに連れていくの?」
「とりあえず城の私の部屋だな」
「し、城!?」
思わず身をよじったけど、もう遅い。
光が一気に弾けて、視界が反転した。
♢
世界が、別の場所へと書き換えられていく――
身体が浮いたまま、音が消えた。
風も息もないのに、世界そのものが動いている。
夢みたいだ。いや、たぶん夢よりも整っている。
これが“魔法”ってやつなんだろう。
抱かれたまま、レフの鼓動が伝わってくる。
思わず彼の胸元を掴んだ。
その布の手触りが、信じられないくらい滑らかだった。
娼館のシーツなんかとは、まるで別物。
値段のことを考えるのもバカらしいほどに。
光の中で、彼が小さく笑った気がした。
♢
光が途切れた。
まぶたの裏に残っていた残光が、ゆっくりと薄れていく。
重力が戻り、足先が柔らかい何かを踏んだ。
絨毯だった。
ふかふかで、深い海みたいな青。
香りが違う。鉄と煙じゃない、花のような香。
抱き上げられていた腕の力がほどけ、私はそっと床に降ろされた。
目を開けると、そこは――別の世界だった。
壁は金箔のように輝き、天井からは透明な蔦が垂れている。
窓の外に見えるのは夜でも昼でもない空。
星と太陽が同時に浮かぶ、現実味のない景色。
「本当に…一瞬で…すごー」
思わず口から漏れた言葉に、レフが微笑んだ。
「フフ、気に入ってもらえるといいのだね」
部屋の隅に置かれた鏡が目に入った。
覗き込むと、そこには知らない自分がいた。
肌は透き通るように白く、傷も汚れも、どこにもなかった。
まるで、別の人間みたいだった。
あの娼館の部屋で、私はたしかに“汚れたもの”として生きていた。
それが今、目の前に立っているのは、汚れを知らない女。
同じ名前でも、もう同じ存在じゃない。
「妖精界に来た人間なんて、滅多にいないのだからね」
レフが窓辺に立ち、外の光を受けていた。
肩越しに振り返るその姿は、どこか儀式のようだった。
軽口を叩く癖に、背中だけはとても遠い。
私は息を吸い、新しい空気を肺に入れる。
少し冷たい。でも嫌いじゃない。
こんな空気を吸うのは、いつ以来だろう。
――この人は、何者なんだろう。
どうして、私を選んだの?
あの詠唱のせい? それとも、
ただ、偶然の響きだったの?
問いは口に出せなかった。
喉の奥で絡まり、熱になって戻っていく。
代わりに、胸の中で韻のリズムが鳴っていた。
「十五文字、全踏み」
彼が言ったあの言葉が、頭の中で繰り返される。
詩のような、呪いのような音。
この世界で、
私の声はどんな意味を持つのだろう。
そう思ったとき、レフがこちらを振り向いた。
金色の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「ルメイラ――ようこそ」
その名を呼ばれただけで、
胸の奥が、光の残り火みたいに震えた。




