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アラサー男の週末異世界キッチンカー出店記 ~聖女を泣かせた炒飯~

作者: 真黒三太

 ――金色(こんじき)の空間。


 商業神ビタ・クエトを祀る大広場に足を踏み入れた人々が抱くのは、そのような感想であろう。

 一万人に及ぶ人間が収まれるというこの広場を囲うのは、他でもなく、ビタ・クエト大聖堂を構成する数々の建物であり……。

 それら建築物に使用されているトラバーチン石材が太陽の輝きを受けて、黄金に近い色合いの輝きを放つのである。

 まさに、商売と交易の神を祀るにふさわしい場所……。


「商業神ビタ・クエトは秤を持ち、両の手で釣り合いを測られます。

 一方に利益を置けば、他方に信義を求められる。

 秤が傾けば、取引は壊れ、やがて富も人も離れてゆきましょう。

 金貨とは、ただの金属……。

 それに価値を与えるのは、約束を守る心と、互いに信じ合う絆です。

 信義なき取引は、いかに大きな利を得ようとも、砂の城のように崩れ去るのです」


 そこへ居並んだ敬虔な信者たちに対し、広場中へ響き渡るほどの朗々とした声を張り上げる人物が存在した。

 僧兵たちが警護する演説台の上に立ち、遠くからでも見えるよう大仰な身振り手振りを加えながら語りかけているのは、意外なほどに年若い――少女である。

 年の頃は、十五か六といったところか……。

 腰まで届く桃色の髪は、後頭部で二房に分けられており、これは身にまとったローブの各所へ飾られている聖貨共々、彼女が言葉を発するたびにゆらゆらと揺れていた。

 右目が青、左目が紫……。

 両の瞳はそれぞれで色合いが異なっており、なんともいえぬ神秘的な気配を感じさせる。

 商業神を祀る神殿において、最高位の聖職者にしか許されないローブをまとう少女を知らぬ者など、この王国には存在すまい。


 ――聖女アルタ。


 生まれながらにして神の声と共にあり、言葉を発するよりも、癒しの奇跡を習得する方が早かったという……。

 まさに、規格外の――聖人。

 すでに、このビタ・クエト教団を引き継ぐことも、聖人の列に名を連ねることも確定している稀代の聖職者が、彼女なのだ。


 だから、人々は手を組んで瞳も閉じ、彼女のありがたい言葉を耳だけでなく、全身で浴びんとする。

 演説台に立つ聖女本人が、完璧な表情、完璧な声量と抑揚、完璧な所作でもってミサを行いつつも、その内心で何を考えているのかなど、知る由もないまま……。


「ゆめゆめ、忘れてはなりません。

 富は神の与え給うた流れであり、正しき手にあれば施しとなり、正しき取引にあれば国と人を養う糧となるのです。

 皆よ、秤を見つめなさい。

 重きを成すは、ただ銭ではなく、あなたの行いそのもの。

 商業神は常に、真実の価値を見極めておられるのですから」


 演説を続けながら、聖女は一体、何を考えているのか?


(ああ、それにしても……)


 それは、他でもない……。


(お腹が……減った)


 このことだったのである。

 こうなってしまうと、世界の全てに自分が置いて行かれたような……。

 この広大なビタ・クエト広場に、ただ一人取り残されてしまったかのような錯覚を感じてしまった。

 空腹のひもじさとは、かくも支配的であるものか。

 これだけ多くの信者にこうべを垂れられ、説法しているというのに、聖女アルタは絶望的ですらある孤独感にむしばまれていたのである。




--




 硬い……硬ーい……だけならばまだしも、長期に渡って保存しているためか、本来は存在したのかもしれない風味も何もかも吹き飛んでしまっており、これは体に必要な滋味を石へと変じさせる錬金術に違いないと信じさせられる黒パン。

 出汁? 旨味? 脂? そのようなもの、聖職者には必要ないという熱い主張が込められたスープ……というか、野菜と肉の端切れが浮かんだお湯。

 あとなんか豆。ひよこ豆や青えんどう豆、赤いんげん豆を茹でたもの。


 以上が、神殿における普段の食事である。

 これに対し、年若く、食べ盛りかつ育ち盛りな年齢である聖女アルタが思うことなど、一つしかないだろう。

 すなわち……。


 ――ジー◯ス!


 なんならば、天に向かって中指を突き立てたいくらいの勢いであった。

 何が清貧じゃい! もっと肉食わせんかい!

 というか、信者の前ではもっともらしい振る舞いをしていても、裏では収められた喜捨で酒池肉林の贅沢三昧させんかい!

 これが聖職者のやることかよおおおおおっ! と、叫び出したい気分である。神はヤベー女に聖女の力を与えていた。


 そんなわけで……。

 本日のアルタは、顔面こそ聖女スマイルをキープしていたものの、裏では圧倒的空腹感へとさいなまれていたのである。

 こうなってしまっては、やることなどただ一つ。

 ……脱走だ。


 トイレでクソ重いローブを脱げば、その下から現れるのは、ふわりと広がるスカートが印象的なワンピース。

 死ぬほど暑いのは聖女ガッツで耐え抜き、下に着込んでおいたのだ。

 畳んだローブは脇に挟み、トイレの窓から聖女ジャンプ! 見事な跳躍でもって、窓のそばへ枝を伸ばす大木の幹へと取り付く。

 そこに隠し持っていた紐でローブをくくりつけ、自分自身は聖女クライミングにより幹を滑り降りる。

 その後は簡単……聖女ステルスをもって、巡回する僧兵たちの目などかいくぐりながら街へと繰り出すのだ。

 なお、懸命なる読者はお気付きであろうが、これら一連の行為に聖女要素は一ミリも関係なく、純粋なメンタルとフィジカルの暴力であった。


 とにもかくにも一般通過町娘と化したアルタは、王都の中をさまよい歩きながら考える。


(どこに……。

 どこに、この空腹を満たしてくれるお店はあるのかしら?)


 今、この胃袋が欲しているのは、ガツンとしたひと口の衝撃であり、油っ気であり、食いでであった。

 それらを満たす食事とは、どこに……!


 サンドを売る屋台は……違う!

 燻製にした肉とオニオンのスライスが挟まっているのは美味そうだが、今の胃にはややあっさりし過ぎている。

 粥の店は……胃には優しかろうが、神殿の食事と大同小異!

 串焼き……かなり惜しいが、せっかくの脂分を炭火で落としてしまってるのはもったいない!


(一体どこに、わたしを満たす店が……!)


 キョロキョロと周囲を見渡しながら、王都の街中を徘徊していく。完全に不審者のムーブであった。

 だが、なんの因果か……理想を叶えてくれる店は見つからず。


(神よ……! 商業神ビタ・クエトよ! 普段、ちゃんとお勤め果たしてるじゃないですか!

 わたしのこと聖女だっつーんなら、今、体が求めてる店と引き合わせて経済回させなさいよおおおおおっ!)


 とうとう、そんなことを天に向けて祈りながら、どこぞの路地裏へ曲がり込んだ。

 そこで、()()を見つけたのである。


「え……これ……何?」


 思わず、口に出してつぶやく。

 路地裏の一角……行き止まりの小さな広場じみた場所に停まっているのは、およそ誰も見たことも聞いたこともない奇怪な存在であったのだ。


 全長は、およそ四メートル半ばかり。

 全幅はアルタの身長を越すほどで、全高もまた、少女の背丈などゆうに越す箱型。

 四つの車輪――ただし見たこともない弾性のある物質に包まれている――を備えており、御者台部と荷台部のいずれもが天井に至るまで装甲で覆われていることから、これは戦車の類ではないかと推測できた。

 ただし、これを引くべき牛馬に繋ぐための引綱は、どこにも見当たらないが……。

 代わりにというべきか、驚くほど透明度が高いガラスで覆われた御者席には、奇妙な輪のようなものが取り付けられている。


 異様なのは、それだけではない。

 荷台に当たるだろう車体の後方部分……その側面が、上下に開け放たれ、内部を明らかなものとしていたのだ。

 これは……これは……。


「……屋台?」


 アルタの持ち得る知識と照らし合わせた場合、符合するのがそれであった。

 開け放たれた装甲下部は、そのままカウンターとしての機能を有しており……。

 カウンター上から伺える荷台内部には、何やら大型の焜炉(こんろ)と思わしきものと、その上に乗せられた半球状の鉄鍋が見えるのである。

 ならば、これは何かスープでも売っている屋台なのかと思えるが……。


「……油の匂い」


 聖女ノーズは地獄鼻。ほのかに漂う植物油の香りを敏感に嗅ぎ取った。

 ならば、揚げ物を出す店である可能性――大なり。


 ここだ。

 ここしかない。

 商業神(ビタ・クエト)よ、感謝します。


「すいませーん!

 どなたかいらっしゃいますか?」


 ここで食事をすると決め、人の姿が見えない荷台に向かって呼びかける。

 すると、外からでは見えぬ荷台の奥で、椅子にでも座っていたのだろうか……。


「……はいよ」


 一人の男が姿を現したのだが、こちらも、この奇怪極まりない屋台と同様、初めて見る類の人物であった。

 身にまとっているのは、まばゆいほどに純白のシャツと、これはどのような生地なのか……柔軟性と耐久力を両立していそうなこしらえのズボンである。

 黒髪は、きちんと洗髪していることこそ伺えるものの、ボサボサに伸ばされていてどうにも見栄えが悪く……。

 その上、髪と同じ色のヒゲをズボラに伸ばしていた。

 身なりこそ清潔であるものの、まるで世捨て人のような雰囲気……。

 そんな人物が、カウンターの向こう側からこちらを見下ろしているのである。


「メニューは炒飯だけ。

 八百円ね」


「は? チャーハン?

 ハッピャクエン?」


 聞き覚えのない言葉を連発され、思わず聞き返してしまう。

 そんな自分に、男は首をかしげてみせた。


「炒飯だよ、炒飯。なんの変哲もないやつ。

 それと、うちは現金しかやってないからね。

 ペイとかクレジットとかはきかないよ」


 なんだ……? この男は何を言っているのだ……?

 分からないなりに、アルタは懐から数枚の銅貨と銀貨を取り出す。

 ちなみに、このお金は以前、ハイデエール枢機卿にお願いして用立ててもらったものの一部だ。三人いる枢機卿の中で、あの爺さんは最もチョロかった。


「ハッピャクとかペイとかは分かりませんが、これでそのチャーハンとかいう料理? を食べることはできますか?」


 言いながら、これらをカウンターの上に置く。


「なんだ、ちゃんとあるじゃないか。

 まいど。先払いでもらっとくよ」


 すると、男はそう言いながら、むんずと貨幣の一部を握り取ったのである。

 その瞬間……。

 銀貨と銅貨のうち、男に握られた数枚のみが見たことのない銀貨――大きなものが一つと小さなものが三つだ――に変じたのを、アルタは確かに見た。

 しかし、それらはすぐ、チャリンと音を立ててカウンター向こうの容器へ入れられてしまったため、詳細は確認できなかったが……。


「それじゃあ、作りますか。

 あんまり顔寄せると、火傷するから気をつけなよ」


 言いながら、男が焜炉(こんろ)の下にある何かをいじる。

 すると、何やら玉ねぎを腐らせたような匂いが漏れ……。

 次いで、男が何か変わった装いの棒を近付けると、焜炉(こんろ)の中で炎が燃え盛った。


「きゃっ……」


「だからさ、気を付けなって」


 相当に熟練した魔術師であっても、ここまで少ない予備動作でこれほどの炎を生み出せるか、どうか……。

 しかも、どう見ても魔術や奇跡の類いであるというのに、これは魔力の匂いが感じられない……!


「じゃ、やろうかな」


 混乱するアルタをよそに、奥からいくつかの材料を引っ張り出した男が、焜炉(こんろ)に乗せられた鉄鍋と向かい合った。

 そのまま、男がおたまで何かをすくい、轟々と燃える炎を受ける鍋に投じる。


 ――ジュワァー!


 何か液体が超高熱で加熱され、瞬く間に火を通されていく小気味良い音……!

 次いで、男が器に入れられた何か……いや、これは白米を投じる。


 ――ジュワワーッ!


 ますます、鍋で食材の熱される音が高まった!

 そして、音を立てるのは食材だけではない。


 ――カカッ!


 ――カカカカンッ!


 なんと、男はおたまを様々な角度から鍋の内部へ突き入れ、かき乱したのだ!

 しかも、それと同時に片手持ちした鉄鍋も細かく動かしているため、おたまと鍋……金属製の両者をぶつけ合わせ、打ち鳴らす音が響き渡る!

 それにしても、金属同士を接触させている音だというのに、なんという心地よさであろうか。

 ボウボウと炎のうねる音が下支えし、信じられぬほど調和の取れた音楽となって、カウンター前に立つアルタの耳を楽しませた。


 ――ジャッ!


 ――ジャッ!


 さらに、これはそういう芸なのか……。

 調味料や追加の具材を加えられ、なんともかぐわしい匂いが発せられている鍋の中身を、男が豪快に空中へ踊らせる。

 そうすることで垣間見えるのは、大聖堂の広場など比べものにもならぬ黄金色と、その中に混ざった茶と緑……。


「ほいよっと。

 ――お待ち」


 最後に、空中へ投じられた中身を見事におたまで受け止めた店主が、脇から取り出した皿へとこれを盛り付けた。


「何の変哲もない炒飯、熱いうちに食べてくんな」


 言いながら、カウンターの上に置かれた料理……。

 これのなんと香り高く、美しいことだろうか。

 純白の容器へ半球状に盛り付けられたこれは、簡潔に表すならば、米と卵……それから、ネギ(リーキ)と何かの肉とを、たった今目にした技法で加熱し、一つに混ぜ合わせた料理。

 料理名はもう聞いている――チャーハンだ。


「この匙で頂くのね」


 それにしても、皿も匙も、これほど見事な料理を食する道具だというのに、信じられぬ頼りなさであった。

 一見すれば金属のように見えなくもないが、実際は薄っぺらく、ひどくチャチな強度しか感じられぬ素材で作られているのである。


「フゥー……フゥー……」


 熱々の料理を、口内が火傷せぬ適温に吐息で冷ます喜び。

 この予備動作で、空となりひしゃげている胃が活発化し出すのを感じながら、鼻腔で香りも楽しんだ。


(なんて濃密な……鶏出汁の香り)


 混ぜ合わせた調味料に仕込んであったか、おそろしく時間をかけて抽出したのだろう鶏出汁の香りが、料理から漂っている。

 しかも、よほど丁寧に炊き込んだのか、そこに雑味となりそうな匂いは一切感じられぬのだ。


 ――ぐうううううっ!


 この芳香……それそのものが、上等なスープをすすったかのごとし。

 唯一伸縮する臓器である胃袋が、この刺激によって完全復活を果たし、本来の姿を取り戻した。


(もうお上品にしてられない……!)


 聖女の威厳よさらば! やけにペラペラとした感触の匙を、チャーハンに突き立てたが……。


 ――スウッ!


 ……意外なほどに、手応えなし!

 密集状態の穀物へ匙を突き入れたというのに、抵抗してまとわりついてくることがなく、パラパラと匙の上にほぐれていくばかりなのだ。

 うかつなすくい方をすれば、このチャーハンなる料理をこぼしてしまいかねない……。

 慎重にひと匙、すくい上げた。

 そして、ついに――食す。


「――っ!?」


 ……瞬間。

 アルタの脳裏を満たしたのは、生物としての根源的な多幸感である。

 米を始めとする各素材の衣となっている油……これが、まずは脳髄を揺さぶったのだ。

 刮目するほどの衝撃を受けたのは、油分など微塵もない普段の食生活が影響していること、疑う余地もなし。

 だが、この使われている油がひどく上質で、香り高いものであることもまた、確かであった。


 かようにして、油の多幸感が脳を酔わせたのは、ほんの一瞬。

 口に入れたチャーハンを、歯で噛み締めるまでの間だけである。

 実際に咀嚼してみれば、この猛烈な美味さたるや……。


 なるほど、匙を突き入れてみた感触から分かる通り、米はひと粒ひと粒が油をまといパラリと独立していて、たかが穀物ひと粒と思えぬほどの存在感を得るに至っていた。

 だが、歯を受けて押し潰されてみれば、これはどうか?

 油という衣をまとい隠されていたもちりとした歯応えと、上質な穀類にしか持ち得ぬやわらかな甘みが顔を出してくるのだ。

 この感動は、まるで、お高く止まっている貴族娘の衣を剥ぎ取り、初心(うぶ)な本性を剥き出しにさせたかのよう……!


 他の具材も、忘れてはならない。

 卵もまた、ひどく上等なものを使っているのだろう。

 濃厚極まりない黄身の甘みがたまらず、しかも、あれだけ激しく熱していたというのに、わずか半熟さを残している部分もあって、味の違いがアルタを陶酔させた。


 あらかじめ煮込んででもいたのか……たっぷりと下味のついた細切れ肉も、これだけ甘じょっぱく濃密な味付けを施されていながら、他の具材と喧嘩することなく……さりとて、自分が奥に引っ込むこともない。

 まさに、王の中の王。

 チャーハンという料理を構成する一団の中にあって、紛れもなく中心核の存在でありながら、他の者たちも引き立てているのだ。


 そして、忘れてはならないのがネギ(リーキ)

 まず、第一の効能として、茶と黄色が交わって生み出された黄金色の中に、鮮やかな緑を散らしているというのは、忘れてはならない。

 目もまた、口ほどにものを食す。

 ただでさえ油を多用している料理なのだから、この鮮やかさは嬉しい。

 しかも、この鮮やかさは決して見てくれだけでなく……。

 いざ、口に入れば、アルタが知る同種の野菜とは明らかに異なる鮮烈な香味と辛さでもって、舌を賦活(ふかつ)させるのであった。


 これらを下支えしているのが、最初に香りとして感じられた鶏出汁……。

 油や他の調味料と交わり合い、全ての具材に吸収されたこの香りと旨味が、口内から喉の奥へと充満してたまらない……!


 こうして細やかに味わってみると、いずれもが舞台の中央を独占しておかしくない凄腕の役者。

 そして、それぞれ美しい音色を奏でる楽器が参集すれば、美しいオーケストラが奏でられるように……。

 かくも美味なる具材を一度に咀嚼し味わうと、他に例えようのない美味なる爆発が口内で巻き起こる。

 いや、アルタはこの喜びがいかなる名であるかを、すでに知っていたはずだ。

 そう……これこそ、チャーハンを食す喜び。

 チャーハンという料理を思うさまに貪る時でしか味わえない抜群の快楽が、今ここに顕現しているのであった。


 食に……。

 食に支配される。


 気がついてみれば、この世界に存在するのは、アルタとチャーハンだけ。

 ただ一心に、これをかきこむ。

 ひと口ひと口……口の中で爆発する美味さは、聖女の目尻に涙さえ浮かべさせた。

 自分は今、生きている……!

 生命の賛歌が、ここにあった。


「はあ……美味しかった」


 だが、何事にも終わりというものは、訪れるもの。

 食べ終わり、あの男――店主に礼を告げようと、顔を上げる。

 しかし、だ。


「……いない?」


 あの男のみならず、奇妙な屋台そのものも、眼前から消え失せており……。

 アルタの手に残されているのは、いつの間にか持ち上げていたペラペラとして頼りない器と、匙のみなのであった。


「一体……」


 明らかに、人知の及ぶところではない出来事……。

 これなる出来事に理由を付けるならば、一つしかない。

 すなわち……。


「商業神様の導き……?」


 これであった。

 商業神ビタ・クエトが、飢えに飢えた哀れな聖女の願いを聞き入れ、あの美味すぎる料理と巡り合わせてくれたのだ。

 ならば、やるべきことなどただ一つ!


「商業神ビタ・クエトよ……!

 聖女アルタが、心より祈り申し上げます。

 またあの屋台で食べさせてください! またあの屋台で食べさせてください! またあの屋台で食べさせてください! またあの屋台で食べさせてください! またあの屋台で食べさせてください!

 ……おなしゃーす!」


 即座に両膝をつき、心からの祈りを天へ捧げるのである。

 感覚の鋭い者ならば、天に向かって放たれるおびただしき魔力の奔流を感じ取れたにちがいない。

 そうして、祈ることしばし……。


 ――かの者へ交渉した。


 ――週イチなら、いいよ。とのことだ。


 常人ならば、感知しただけで魂を押し潰されるほどの神圧を備えた声なき声が、アルタに届けられた。


「――しゃあっ!」


 それを聞いたアルタは、力強く聖女ガッツポーズを決めたのである。




--




 それから、しばらくの時が経ち……。


「今日?

 今日は豚汁とおにぎりだよ。それだけ」


 一週間に一度、王都裏路地の一角へ姿を現す奇妙な屋台が、様々な物語を生み出すことになるのだが……。

 それはまた、別の話……。

 お読み頂きありがとうございます。

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