幕間2/5 復帰までの軌跡
体育館の前に立つだけで、心臓がうるさい。
夏にあのまま引退してから、一度も来なかった場所。中から聞こえるバスケットボールの音は、俺の胸を突き刺すように跳ね返ってきた。
「れー君、顔が“挑むぞモード”になってるよ」
杏奈が横からのぞき込んでくる。水色のシュシュでまとめた黒髪が揺れる。
「ふふ、久々に聞く音だねぇ~」ふわりは穏やかに笑いながらも、目はちゃんと熱を帯びている。
「レージ君、深呼吸してから入りましょう。緊張で固まったら、最初の一歩が重くなります」鈴音が小声で助言してくれる。黄色のポニテが、体育館の光を拾って小さく跳ねた。
三人に背中を押される形で、俺は体育館の扉を開けた。
――ガヤッ。
視線が、一斉にこっちに向いた。
後輩達の手が止まる。ボールが床を転がって、ゴンと壁にぶつかる。
「……土峰先輩?」
誰かの声。
その瞬間、胸が締め付けられる。
ああ、本当に逃げてたんだな、俺。
自分から引退を言い出して、みんなに見送られて、それきり。
勝手に幕を下ろしたのに、こうして迎えてくれる顔がある。
「……すまん」
頭を下げた。土下座する勢いで。
「やっぱり、俺はまだ、ここに立ちたい。もう一度、一緒にバスケがしたい。……わがままだけど、戻らせてくれ」
一瞬の沈黙のあと――
「先輩!!」
後輩の一人が叫んだ。
「戻ってきてください! 俺ら、待ってました!」
声が重なる。
「やっぱり先輩がいないと……!」
「冬、絶対勝ちたいんです!」
目の奥が熱くなる。喉が詰まって言葉にならない。
「れーじくん……」
ふわりの声。振り向くと、杏奈も鈴音も泣きそうな顔で頷いている。
「ほら、“戻る理由”は揃ってるよ」
「チームも、幼馴染みも。……全部味方です」
俺は顔を上げた。
「――よし、今日からまた、頼む!」
拍手と歓声が響く体育館。
俺の胸の中でも、久々に“ドリブルの音”が弾んでいた。
◇◇◇
体育館の空気は、夏とは違う冷たさを帯びているのに――ほんの数分走っただけで、肺の奥が焼けるように熱い。
汗が額から滴り落ちる。脈が速い。体が思ったように動かない。
「ぜぇ、ぜぇ……くそっ、たったこれだけで息が上がるなんて……」
自分の声に情けなさが滲んだ。
ほんの数ヶ月のブランクで、ここまで落ちるのか。俺は唇を噛む。
「れー君!」
杏奈が駆け寄ってきて、タオルを差し出す。
「まだ始まったばっかりなんだよ。すぐに取り戻せるって♡」
息を弾ませながらも、真っ直ぐに目を合わせてくる。その声が胸を支えてくれる。
「れーじくん、水分~」
ふわりが大きな水筒を抱えてやってくる。俺の背中をぽんぽん叩いてくれる手は、妙にリズムがよくて呼吸が落ち着いてくる。
「ほら、一口ずつ。深呼吸もセットねぇ~」
ペースを急かさず、ふわりのテンポで整えると、乱れていた鼓動が少しずつ収まっていった。
「レージ君、フォームを崩してはいけません」
鈴音が横にしゃがみ込んで、俺の腕の角度を矯正する。
「疲れても、形を守れば必ず体が思い出します。……鈴音が隣で見ていますから」
その真剣な目に、俺は頷かざるを得ない。
再びコートに立つ。
ドリブルを始めるが、足が鉛みたいに重い。シュートを放っても、リングに嫌われてボールは外れる。
「チッ……!」
思わず苛立ちが漏れたとき――
「れー君!」
杏奈の声。
「空振りだって、前に進んだ証拠でしょ! 昨日より今日、今日より明日って積み重ねていけばいいんだよ!」
彼女の声に、胸の苦しさよりも悔しさが勝つ。
「れーじくん、ナイスファイトだよぉ~」
ふわりは、まるで試合中みたいに手を叩いてくれる。
「息切れしても、動きが止まらないのがれーじくんだもん。はい、もう一回~♡」
「レージ君」
鈴音は汗で濡れた俺の手首を軽く握った。
「次の一歩は、鈴音の“応援”も一緒に乗せます。だから――行けます」
……なんだよ、それ。泣けるじゃねぇか。
俺は呼吸を整え、もう一度ドリブルを始める。
ギュッ、ギュッと床を打つ音に、ほんの少しずつリズムが戻ってくる。
リングへ跳び込む。まだゴールは遠い。でも――
「ナイス!」「いいよ!」「レージ君、今の完璧でした!」
三人の声が、体育館の壁に響いた。
汗と涙と笑いが混じった空気の中で、俺は心から思った。
――もう逃げない。俺には、この声があるから。
再出発して最初の一週間。
基礎練習だけで、息が上がる。全力で走ると脚が鉛みたいに重い。昔なら余裕で回せていたメニューが、今は拷問に近い。
「……はぁ、はぁ……くそ、全然ダメだ」
吐き出した声は、空気の中でやけに小さく響いた。
そこに杏奈が駆け寄ってくる。
「れー君、情けなくなんかないよっ。休んでた分、取り戻すだけ♡」
汗を拭うタオルを押し付けてくる勢いが元気すぎて、思わず笑いそうになった。
「……ったく、お前は元気すぎだろ」
「元気くらい、分けてあげるってば♪」
ふわりは大きな水筒を抱えてやってくる。
「れーじくん、ほら~。冷たいお茶だよ~。ゴクっといって、深呼吸も一緒に~」
俺の背中をぽん、ぽんと叩くリズムが妙に落ち着く。
呼吸を合わせていくうちに、心臓の暴走が少しずつ静まっていった。
「……ありがとな」
「えへへ~。わたし、こういうときのお世話が得意なんだよ~♡」
鈴音は真剣な顔でフォームを見ていた。
「レージ君、シュートのとき、肘が外に開いています。疲れで軸がぶれています。直すためには……」
丁寧に俺の腕を持って角度を矯正してくれる。
彼女の指先は小さいけれど、支え方がしっかりしている。
「鈴音が毎回確認しますから。安心してください」
真面目で、優しい。だから、頷くだけで勇気が湧く。
その日から、三人は練習に「強制サポート」と称して同行するようになった。
杏奈は俺のモチベーション担当。
「れー君、ナイスプレイ! 全国レベルのれー君、かっこいいっ♡」
どんなに苦しくても、この声援を聞いたら足が止まらなくなる。
ふわりは回復担当。
「れーじくん、はい水分~。ついでに“あ~ん”でチョコも♡」
小さなお菓子を口に入れられるたびに、体よりも心が軽くなる。
鈴音はフォーム矯正と戦術担当。
「この動き、以前より鋭いです。ですが、次は視線をもう少し広げてください。敵が二人来ても対応できます」
俺の足運びに合わせて歩いてくれる姿が、妙に頼もしかった。
ある日の練習終わり。後輩や同級生が俺を囲んだ。
「先輩、戻ってきてくれて嬉しいです!」
「やっぱ土峰がいないと締まんねぇんだよな!」
その声に、不覚にも目頭が熱くなる。
杏奈が「ほら、みんな分かってるんだよ♡」って耳打ちしてくるし、
ふわりは「れーじくん、ちゃんと愛されてるねぇ~」とにこにこ、
鈴音は「数字にできない価値、ですね」と真顔で頷く。
ああ――やっぱり戻ってきてよかった。
練習を続けるうちに、最初は気まずそうにしていた後輩たちとも自然に会話が増えた。
「先輩、また一緒にやれるなんて……最高です!」
「俺、パス練付き合います!」
最初は「抜けた人間が今さら戻ってきていいのか」って迷いもあった。けど、後輩たちが笑顔で受け入れてくれて、俺の中の重石がふっと軽くなった。
「れー君は、戻ってくるべくして戻ったんだよ♡」
杏奈がスタンドから叫ぶ声は、練習中でもしっかり届く。
「れーじくん、フォーム安定してきたよ~」
ふわりの声は、疲れた心をふわっと包んでくれる。
「レージ君、ディフェンス読みが速くなってます」
鈴音は具体的に褒めてくれるから、次への修正点も掴みやすい。
三人三様のサポートが、俺の背中を押していた。
とはいえ簡単じゃない。
3分間全力で走ると、心拍数はすぐ上限。ジャンプも、あと数センチ届かない。
3Pの成功率だって、夏の頃は7割近くあったのに今は5割を切る。
でも――
「れー君、落ち込むなっ。悔しい顔してるれー君も好きだけど、悔しいだけで終わらせるのは嫌だから!」
杏奈が叱咤激励。
「れーじくん、今日は“回復カレー”作ってきたんだよ~。にんじん多めで~、栄養満点~」
ふわりが差し出すタッパーに、疲労が半分飛んでいく。
「レージ君、今は“調整期間”です。数字では劣っても、必ず戻せます」
鈴音の冷静な言葉が、地に足をつけさせてくれる。
だから、何度でも立ち上がれる。
最初の一週間は地獄だった。走り込みの途中で足が止まりそうになったり、腕が重くてシュートが届かなかったり。
でも二週目、三週目と続けるうちに、少しずつ変化が出てきた。
ドリブルのタッチがだんだんと昔の感覚に戻り、リングに向かう時のステップも軽くなった。
練習中、パスを受けてからシュートに移るまでの時間が短くなったのを自分でも実感できた。
「先輩、切り込みのタイミング戻ってきてます!」
「マーク外すの速っ……やっぱ違うわ」
後輩の声に思わず頷いてしまう。夏とは違う、もう一度噛み合い始めた歯車の音が聞こえるようだった。
引退を撤回した時点で、内心「迷惑かけたな」って思ってた。だけど、一緒に汗を流すうちに、その気持ちは自然に消えていった。
「土峰がいると、練習が締まる」
「試合勘、やっぱすげぇ」
そんな言葉をもらうたびに、胸の奥が熱くなる。あの夏の敗北を境に、一度は途切れかけた絆が、また繋がり直していく感覚。
もちろん、杏奈・ふわり・鈴音の存在は大きい。
杏奈は、俺が弱音を吐きそうになると、強引なくらい明るく笑ってみせた。
「れー君、今日のフォームめっちゃキレてたよ♡」
その言葉ひとつで、足の疲労が軽くなる。
ふわりは、毎回違う料理で差し入れを作ってくる。カレー、煮込みハンバーグ、パワーサラダ。
「れーじくん、筋肉にはたんぱく質だよ~♡」
そののんびりした声で言われると、どんなトレーニングメニューも“回復込み”で受け止められる。
鈴音は、分析担当みたいな立ち位置だった。
「レージ君、昨日よりシュートの弾道が低いです。ジャンプの踏み切りが浅いので、膝の角度を5度深くしてください」
数字と具体性をもらえると、俺の頭は冷静さを取り戻す。
三人三様のアプローチが、俺を支えてくれた。
一ヶ月を過ぎた頃、目に見えるほど結果が出始めた。
シュートの成功率は安定し、ドリブルの切れも戻ってきた。何より、仲間との連携がスムーズになった。
「やっぱ先輩がいると違ぇわ!」
「パス回しが一気に楽になる!」
そんな声を浴びるたび、胸の奥で「あの夏の敗北を超える」って決意が強くなる。
「れー君、完全復活だね♡」
杏奈が汗を拭った俺の腕にタオルをかけて、にかっと笑った。
「れーじくん、もう“王宮シール”で“全国優勝”の欄、貼っちゃおうよ~♡」
ふわりはスケジュール帳に勝手にチェック欄を作り、俺に見せつけてくる。
「レージ君。まだ油断は禁物ですが……期待値、大幅上昇です」
鈴音は冷静な口調を崩さないけど、その目がほんのり潤んでいるのが分かった。
三人にこう言われて、ようやく自分でも「戻れた」って実感が湧いてきた。
冬の選抜が近づくにつれて、胸の奥の熱は増していく。
緊張感と、期待感と、責任感。
でも――そのどれもが「三人が見てくれている」という事実で、穏やかに変換されていった。
「次は本番だな」
体育館を出るとき、俺は小さくつぶやいた。
その瞬間、三人が同時に俺の手を握ってきた。
「れー君、絶対大丈夫だよ♡」
「れーじくん、練習の全部が効いてるからねぇ~♡」
「レージ君……勝ちにいきましょう」
――この手の温度ごと、コートに持っていく。




